170 震天動地 後編
ルーファス達が王都に出現した魔物の対応に追われている間、王宮近衛指揮官のライ・ラムサスも外の異変に気づき、なにが起きているのかを周囲に尋ねていました。ところが誰もなにも教えずに、ライの周りから誰もいなくなります。いつまで経っても戻ってこないジャンやティトレイに痺れを切らしたライは、まだ良く見えない目と走ることもできない身体で、自室を抜け出しましたが…?
【 第百七十話 震天動地 後編 】
――王都の城下に、人の恐怖した断末魔の悲鳴が響き渡る。
今はまだ昼に差し掛かった辺りの時間のはずだが、ようやく少し見えるようになって来た目を凝らしても、なんだか周囲は薄暗かった。
あちこちで火災も起きており、鼻を突く物の焼ける臭いがして、流れて来る煙を吸った俺は酷く咳き込んだ。
…苦しい。一頻りゲホゲホやった咳が鎮まってから、目に染みる煙さを擦り、痛む喉を押さえ大きく鼻で息を吸い込むと、それに混じって鉄錆の……ああ、これは…血の匂いだ。
ここは俺にとっての悪夢だった戦地ミレトスラハではなく、平穏なはずの遠く離れた王都なのに…またこの臭いが、俺の周りに充満しているのか。
ぼんやりとしか見えないが、通りのあちこちに、多くの人が血を流して事切れているようだ。
今はこの目がはっきりせずにいて幸いだったのかもしれない。その形からどう見ても…横たわっているのは、五体満足の綺麗な遺体ではない。
戦場で敵や味方の死体を嫌というほど見て来たのに、ここがそれとは無縁な街中だと言うだけで、俺は込み上げてくる吐き気を必死に堪えた。
――普段の俺…『王宮近衛指揮官』としてのライ・ラムサスなら、こんなわけのわからない非常事態には、真っ先に軍を率いてギルドと協力態勢を取り、命懸けで民間人の救出と魔物の討伐に当たっていたことだろう。
目が見えなくてもやれることはある。戦えなくても情報を分析し、どこをどう守ればいいのか指示を与えることもできたはずだ。
だが今の俺は、ただ一つのことしか考えられなかった。
イーヴもトゥレンもヨシュアもジャンもティトレイも…外でなにが起きているのか知りながら、俺に悟られないようにして一切教えてくれなかった。
臨時の救護所が設けられている、王宮の前庭で医師や看護師に混じり、必死に民間人の治療に当たっているらしいペルラ王女でさえも、俺の問いに白を切った。
俺が今王都で起きていることを知れば、部屋を飛び出すだろうとわかっていたからだ。
ただ彼らの予想と大きく異なるのは、俺が部屋を抜け出しても正義感から近衛指揮官として動くのではなく、俺にとって最も大切な…なにもかもを捨てても、彼女さえいてくれれば良いと思う、リーマの元へと向かっていることだろう。
目がよく見えないのだから、まだ長い距離を歩けないのだから、俺が抜け出すとは思わなかったか?そんなもの、気力と運でどうにでもなる。…まあ実際は、手を貸してくれた正体不明の何者かがいたのだが…
それは今から一時間以上も前のことだ。
――窓の外から聞こえてくる異様な音と、尋ねても知らないと言ったペルラ王女が足早に出て行き、終始落ち着かない様子のジャンに、少し出てくると言ったきり戻って来ないティトレイ。
なにか様子がおかしいと俺が気づいた頃、ジャンまでもがティトレイを探しに行くと言って、俺にここから出るなと念を押し、部屋を飛び出して行った。
薄らぼんやりとしか見えない目元に手を当て、イライラしながら二人の帰りを待ったが、いくら経っても誰も戻って来ずに俺は痺れを切らした。
壁伝いに歩いてクローゼットからいつも着ている外套を出して羽織り、ティトレイに教わった方法で把握している室内を、なんとか物にぶつからず扉まで行ってリビングに出た。
俺の自室前には、あの男が護衛につかせた親衛隊士が立っているはずだ。
廊下へ続く扉越しに俺は外の親衛隊士を呼んだ。だがおかしなことに、気配がなく返事もない。
不審に思い扉を開けると、そこには人っ子一人いなかった。
国王の命令で護衛についていた隊士がいないということは、余程の事態が発生していると言うことだ。
胸騒ぎに部屋を抜け出し、誰かいないのかと叫びながら壁伝いに廊下を歩き出すと、突然背後から聞き慣れない男の声がした。
「…ねえ、そんな身体で外に出たら今は危ないよ。」
「!?」
振り返ると灰色か…緑か、とにかく変わった色の腰下まで伸びた長い髪をした、不思議な男が立っていた。
――誰だ?この男、どこから…王宮の人間ではないな。
警戒して身構える俺に、男は続けた。声と身体付きから男だと言うことはわかるが、顔はぼやけて全くわからない。
「せっかく君を見つけたのに、死に急がれても困るなあ…僕はまだ、君に救われた恩をなにも返せていないんだ。」
「……なにを言っている?おまえは誰だ、どうしてここに――」
「ああ、まだ顔が見えないんだね。僕の名前は『ユスティーツ』だ。当分君の傍にいるつもりだから、その内改めて挨拶に来るよ。…それで、君が知りたいのはそんなことかい?僕なら周りが隠していることを教えてあげられるけど。」
恩を返すとか、傍にいるとか、なにを言っているのか理解し難かったが、確かに俺が今知りたいのはそんなことではなかった。
「…窓の外で城下の酷く騒がしい音がする。なにか起きているようなのだが、理由を知らないか?」
「もちろん、知っているよ。…そうだね、君には連中に近付いて欲しくないから、こんなことをした犯人は教えないけど、王都の街に大量の『異形』…つまりは魔物を召喚した愚かな人間共がいるんだ。」
「…なんだと!?」
「既に発生から半時近くが経っていて、人が大勢食い殺されている。ここの軍や魔物を狩るのが生業の者も、突然のことに未だ対処し切れていないね。多分もっと多くの人族が殺されることになるだろう。…可哀想に。」
大量の魔物が街中に!?…リーマ!!!
外でなにが起きているのかを知った俺は愕然とし、ユスティーツと名乗った男に構わず、廊下の壁に手を付いて階段の方に歩き出した。身体が弱っていてどれほど急ぎたくても走れないからだ。
すると男は俺の前にサッと回って立ち開かる。
「だからそんな身体で危ないって言っているんだ!」
「うるさい!!邪魔だ、そこを退け!!」
食事を取れるようになった分、声だけはある程度まで出せるようになっていた。少し前までは、身体を動かす訓練も順調で快方に向かっていたのだが、この通り、どんなに腹を立てても俺の身体は思い通りになってくれやしない。
「待ってよ、ここからどうやって出るつもりなんだい?王宮の前庭は救護所になっていて医者と共に隣国の王女が治療を行っているし、城門前広場は君の部下達が必死に民間人と城を守っているんだよ、誰にも見つからずにそのままで外へ出るのは無理だ!」
「無理でもなんでも、俺はリーマを助けに行く!!この国は有事になると、真っ先に下町の人間を切り捨てるはずだ。どこの国でもあり得ることだが、貧しくても必死に生きている者が、身分や生まれの違いだけで最初に犠牲にされるんだ…!!」
半時…つまりは既に一時間も経っているのなら、助けも間に合わずもう遅いかもしれない…!!
「わかった、君の気持ちはわかったよ、わかったから落ち着いて。ここから出たいのなら、僕が手を貸すよ。」
「……なに?」
「まだ蘇生したばかりで体力が完全には戻っていないから、君を連れてだと中級住宅街の辺りまでしか飛べないけど…城壁の外までなら運んであげる。この先から塔の上に出られるだろう?そこへ行こう。」
てっきり男は俺をここに留めるのだと思ったが、予想に反して俺に肩を貸してまで、協力してくれるつもりらしい。
俺は疑いながらも男の言葉に従って、素直に塔へ向かった。今の俺は見知らぬ男の手でも借りたいところだったからだ。
廊下の突き当たりの扉は、イーヴの妹が亡くなって以来厳重に鍵をかけられているが、男は魔法を使って解錠し、難なく塔に入り込んだ。
「屋上まで上がるよ、頑張って。」
ここは既に三階で、階層にすれば僅か二階分ほどだが、今の俺にはこの塔の細く急な螺旋階段が、果てしなく長く感じる。
――身体が重い…こんな階段さえまともに上がって行けないとは…せっかく身体を動かせるようになりつつあったのに、あの『魔吸珠』…ドレインオーブ、と言ったか、一昨日あれで魔力を吸い上げられてからだ。
イーヴの話では大した苦痛もなく、魔力を吸われた後は身体が懈くなる程度だと言っていたのに、あの魔吸珠に俺は、命までも吸い取られて殺されるかと思ったほどの酷い苦痛を味わわされた。
あれが民間でも配布されているとしたのなら、中には嫌がって逃げ出す者も現れることだろう。殺されるのを防ぐ為の対策にしては少し疑問だ。
「――で、塔の屋上まで来たが、ここからどうやって俺を外に連れ出してくれるんだ?…ユスティーツ。」
「ありがとう、きちんと名前で呼んでくれたね。言っただろう?僕がここから君を抱えて、飛ぶんだ。」
そう言うと男…ユスティーツは、俺の前でいきなり風を巻き起こした。
「うぷっ…なにを…!」
薄ぼんやりとした視界に、ユスティーツの後ろでなにか大きな物が広げられたように見えた。
それがバサッ、バサッ、と音を立て羽ばたきをしたことで、俺はそれが彼の背中に生えた大きな翼であることに気が付いた。
有翼人――!!
「おまえは、有翼人なのか…!?」
有翼人がどうして紅翼の宮殿に…?
「ああ、そうだよ。さあ、ぐずぐずしていると人に見られるかもしれない、行こう。」
――そうして俺はユスティーツに抱えられ、塔の屋上から滑空するようにして、王宮の敷地を囲む城壁の外に連れ出して貰ったのだった。
「ハアハア、この辺りなら、直前に魔物を狩ってくれた人がいるから、大丈夫だ。でも気をつけるんだよ。」
「ああ、感謝する。」
俺を地面に降ろすと、彼は荒い息をし少し具合が悪そうな声で「また今度ゆっくり会おうね。」とだけ言うと、なにか魔法か道具を使ってその場から消え去った。
――ユスティーツ…羽根の生えた人種…俺が救ったと言うのはどういう意味だろう。有翼人に会ったのはこれが初めてだと思うんだが…。
まあいい、そんなのは後で考えれば良いことだ。
――そうして俺は、誰にも知られずに城から街中へ出ることに成功したのだ。
城壁のすぐ外に降ろしてくれたおかげで、壁伝いに下町の方向へ歩き出す。すぐ傍に魔物が彷徨いているかもしれない恐怖も、襲われてなんの抵抗も出来ずに死ぬかもしれないと言うことも、リーマを案じる気持ちの前にはさして気にもならなかった。
そんなことよりも、リーマを失うことの方が遥かに恐ろしかったからだ。
「リーマ…頼む、無事でいてくれ…!!おまえを失ったら、俺は…俺は…っ」
――ユスティーツは魔物を召喚した人間がいると言っていた。そいつらがどうしてこんなことをするのか知らないが、こう言った状況になると真っ先に犠牲になるのは下町の人間だ。
表立って住人を差別しないイーヴやトゥレンでさえ、民間人の救出には優先順位をつけることだろう。人手が足りなければ、救出先の選択を迫られるのは常識だ。
近衛の上官という立場にある以上、恐らくヨシュアも勝手な行動は許されず、婚約者を助けに行きたくても動けないはずだ。
「軍が差別するのなら、下町の人間は誰が助けてくれるんだ…!!」
同じ人間の命なのに、こう言う時ほど『平等』はあり得ない。俺はこの国がそうであることを良く知っていた。
そうして焦る気持ちとは裏腹に、思い通りにならない身体を引き摺りながら必死に手探りで進んでいると、きちんと避けたつもりだったのだが、足元に倒れていた軍兵の遺体に足を取られて均衡を崩した。
「くっ!!」
前のめりになって遺体の上に覆い被さる。まだ死後硬直も始まっていない遺体の血の匂いに、俺はゾッとして眩暈を起こした。
すぐに立ち上がろうと試みるが、一度倒れると中々立ち上がれない。仕方なく事切れた軍兵が手に握っていた剣を奪い、それを支えになんとか立ち上がった時だ。
――低く、猛獣のような唸り声が聞こえた。
すぐ傍に魔物がいるのだ。全身からザアッと音を立てて血の気が引く。今の俺にはその敵がどこにいるのか、全くわからないからだ。
まずい…魔物が近くにいる。奇跡的に剣は手にあるが、身体が動かなければ走って逃げることも、攻撃を躱すこともできない。
せっかく立ち上がったのに俺は足の力がガクンと抜け、城壁に背を預けるようにして再びその場に崩れた。
万事休すか――
「――させぬ!!我が槍を喰らえ、雷撃這貫死槍!!」
どこからかその声が聞こえ、辺りに閃光が輝いた。魔物のギャアンッという絶命する声がして、ドサンと鈍い音が地面に響くと、離れたところから石畳を蹴る誰かの足音が近付いて来た。
「まだ生存者がいたか、おい、大丈夫か!?」
その声の主は俺の前に屈んだが、かなり大柄な身体をしている。手にした武器を石畳にガチャンと置く音がして、伸ばした手が俺の腕を掴んだ。
「む…怪我はないようだが、そなた随分身体が弱っているな。そんな身体で無茶をする。」
「いや…すまない、俺は目が――」
「目?魔物にやられたか、どれ、すぐに治してやろう。じっとしていよ。――彼の者の傷と体力を癒せ『ミドルヒール』。」
俺が魔物にやられたわけではないと説明する間もなく、急いた相手は俺に手の平を向けて魔法を放った。
淡い緑色の光が俺の全身を包み、瞬く間に体力が回復し、身体の奥底から力が戻って来るような感覚があった。
そうして次の瞬間、俺は歓喜に震えた。
「目が…俺の目が、見える…!!」
薄ぼんやりとしか見えなかった視界が、急速に全ての色を取り戻し、なにもかもが以前と同じように、くっきり、はっきりと見えるようになった。
だがその反面、男の背後に見えた悲惨な光景に声を失う。目を逸らして見えた俺の両手は、さっき倒れ込んでしまった軍兵の血に塗れていた。
「そうか、良かったな。」
その優しい声に顔を上げると、身を屈めて俺を覗き込んでいたのは、茶や黒い毛が混じった銀髪の、民族衣装のような衣服を着た屈強な男だった。
エメラルドグリーンの瞳に、特徴的な木彫りの耳飾りをつけ、腕には色のついた入れ墨をしている。
男は俺にそう言うと、慣れた様子で平然と笑み、地面に置いた斧槍を手にスッと立ち上がった。
「立てるようであらば一刻も早く手頃な場所に身を隠すのだ。徘徊している魔物は狩り続けているが、また再度出現する可能性が高い。助かったことに感謝し、今は己の命を守ることだけを考えよ。…ではな。」
「待ってくれ、まだ俺は礼も――!!」
目が見えるようになった歓喜とあまりにも悲惨な光景に、俺は助けて貰った礼を言うことすら忘れており、引き止めた俺の声にも構わず去って行ったその男の後ろ姿を見送った。
「あの男も守護者だろうか…助けて貰ったのに名を聞く暇もなかったな。」
今の男が俺にかけてくれた魔法は、俺の目を治してくれただけでなく、弱り切って歩くのもやっとだった身体を一瞬で元に戻してくれた。
俺はその有り難みを噛み締める。
「支えを使わずに立ち上がれる…剣を手にしても重さに震えや違和感がない…!身体が動く…動くぞ!これなら戦えるかもしれん!!――リーマ!!」
完全に以前と同じようにとは行かないようだが、それでも俺は、足が地面を蹴るだけの力を取り戻し、そこかしこに横たわる魔物と人の遺体が見えるようになった目でその光景を目の当たりにしながら、急いで下町へと通りを駆け出した。
――一方、ライの目が見えないのは魔物にやられたのだと勘違いしたのは…
屈強な男は首に提げた共鳴石に話しかける。
「ルーファスか?我だ。中級住宅地の通りに出ている生存者は、もうおらぬ。粗方魔物も狩り尽くしたが、リヴは下町から戻って…なに?まだか。では我は彼奴を迎えに行った方が良い…ぬ?…わかった、我も合流する。大通りだな、すぐに向かおう。」
…そう、シルヴァンティスだった。
「リヴの奴め…惚れた女子を守りたいのはわかるが、守護七聖の本分を忘れておらぬだろうな。…まったく。」
ブツブツと独り言を呟いたあと、シルヴァンティスはふと足を止めた。
「――そう言えば今の男…フードを被っておったが、黒髪に左右色違いの変わった瞳をしておったな。……?……いや、まさかな…あれは違うであろう。軍服も着ておらなんだし…人違いだな。」
シルヴァンティスはライ・ラムサスの正確な容姿を知らず、『黒髪』だけを見てルーファスが探していた『王宮近衛指揮官』を当たり前に思い出したものの、おかしなことに、まるで認識を阻害されたかのように、彼がそうだとはなぜか判断出来なかった。
そしてその頃、王都の地下に張り巡らされた地下水路では、黒いローブに身を包み、フードを目深に被った十人ほどの人間が、各々黒紫色に輝く球体を手に集まっていた。
その内の一人――口調と態度からどうやらリーダーらしき人物は、各自が手にしたものよりも一際強く輝くそれを手に、上機嫌で不気味な笑い声を上げている。
「くっくっく…くははは!!さすがは彼の国の血を引く御方だ…まさかこれほどの力をお持ちとは。他の魔吸聚珠とは比べものにならぬ、これさえあれば今後いくらでも魔物を喚び出せるわ。」
「――では魔吸珠の情報を齎し、我らに多大な貢献をした新参教団員はお取立てに?幸いなことに幹部の席が一つ空いております。」
「うむ。かねてよりのあの者の願い、アクリュース様の加護を以て確と叶えよう。これからも我らケルベロスへの献身を期待すると伝えよ。」
「かしこまりました、直ちに。」
フードで顔は見えないが、胸元に手を当てて頭を下げた男は、足早にそこから離れて行った。
「魔吸珠とすり替えた彼の御方の物には、『疑心の芽』と『身隠し』の呪を施しておきました。これで当分の間は奴らの目を逸らすことができましょう。」
「良くやった。くくく…最初の種は撒いた、後はそれが育つのを待てば良い。」
「教祖様にはご報告を?」
「ならぬ。御方に報せればこの聚珠を献上せよと仰るだろう。さすれば我らの手にではなく、カオスの者に渡される可能性が高かろう。他の物は構わぬが、これだけは我が手に残す。」
「御意。」
従者らしき男が了承の旨返事をした直後だ。黒ローブ達の元へ、慌てた様子で別の黒装束を着た男が走ってくる。
「カルワリア司祭!今すぐ王都より転移下さい!!守護七聖主がフェリューテラに戻りました!!」
「なに?…アクリュース様が二度と帰って来られぬよう異世界に放り出したはずだが…チィッ、さすがは時空神の加護をも受けし者…そう簡単には排せぬか。メルキュール、後は任せたぞ。」
「御意。後始末をして戻ります、お任せを。」
『カルワリア司祭』と呼ばれた黒ローブの男は、五十センチほどの長さに金色の宝玉が付いたミスリル製のロッドを手に、その宝玉に仕込まれた魔法を使用してその場から消え失せた。
残された『メルキュール』という名の男は、黒装束の男と他の黒ローブを着た者達に指示を出す。
「守護七聖主に見つかる前に、各所に拘束してある『柱』を殺せ!!魔物に食い殺されたように見せかけ、生き証人を一人も残すな!!」
「は!!」
♦
「はあ、はあ、はあ、はあ…くっ…!」
――いくら魔法で体力を回復して貰ったと言っても、さすがにまだ全力で走り続けるのは無理か…!
激しく上下に肩が揺れるほど口から呼吸を繰り返し、絶え間なく額から流れる汗を手で拭いながら、まだ距離のある通りの先に教会の鐘楼を見上げた。
もう既に正午は過ぎたようだが、普段なら鳴り響く鐘も今日は鳴らす余裕はないようだ。
下町の教会の鐘が見える、リーマの家まであと少しだ。
毒を盛られる前までは、この程度走り続けたぐらいでここまで苦しくなったりはしなかった。忌々しい…!!
それでも急がなければ…休んでいる暇はない、リーマを守ってやれるのは俺しかいないんだ。
俺はまだ息の上がっている身体に鞭を打って、再び走り出す。そうして何度も息苦しさに足を止めながら、ようやく下町への境界線(石畳の色がそこから違う)を越えた時だ。
中型の背中に棘の生えた狼系魔物が二体、倒れた人間の肉を喰い漁っているところに出会した。
連中は食うのに夢中な上に、こちらが丁度風下でまだ俺に気づいておらず、俺は背後からそっと近付くと、一体を先制攻撃で一突きにした。
すぐに二体目が俺に気づき飛び退いたが、俺は透かさず間合いを詰めて、魔物が口を開けたところに剣を突き立てた。
相手がこちらに気づいていなかったことで、有利に倒すことができたのだ。
「はあはあ、なんとか…戦えるか。」
――だがその直後、二体の魔物が喰い漁っていた遺体の顔を見て、俺の心臓が激しく波打った。
「こ…この女性は…」
見知った顔だったのだ。直接話をしたことはなかったが、この女性はアフローネの踊り子で、リーマの口から名前を何度も聞いた覚えがある。恐らく彼女と仲の良かった…ポリーという名の友人だ。
「はあ、はあ、はあ…っ」
その女性の姿が一瞬リーマと重なったことで、ただでさえ苦しかった息と動悸がさらに激しくなる。
「落ち着け…っこれはリーマじゃない、リーマはきっと生きている…っ!!」
女性の遺体から顔を背けてそこから離れると、教会前の公園に続く裏通りを抜け、ようやく下町の大通りに出られた。
だがそこには、中級住宅地よりも、もっと多くの住人の遺体が横たわっていた。
――いつも教会前の公園で日向ぼっこをしていた老夫婦に、父親を戦争で失った母娘…店の近くを通る度に、寄って行けと声をかけて来た娼館の就女達に、アフローネの常連客だった酔っ払いの中年…どれも話をしたことはなかったが、俺がリーマのところへ通う内に、会釈を交わすぐらいには知っていた人間ばかりだ。
俺はその彼らを見ない振りをして、なにも考えずにただリーマの自宅を目指した。仕事が休みの日でなければ、家にいて彼女は無事なはずだ。
リーマの自宅がある裏通りに入り、アパルトメントの階段を駆け上がってリーマの部屋の扉を叩いた。
「リーマ!!リーマ、俺だ!!中にいるんだろう!?開けてくれ!!」
何度も拳で激しく扉を叩いたが、リーマの声が中から返ってくることはなかった。その上に――
手をかけたドアノブを回すと、なんの抵抗もなく扉が開く。急いで中に入るも、やはりそこに彼女の姿はなかった。
すぐに目に付いたのは、壁際に置いてあるチェストの引き出しが、全て開いていたことだ。乱雑にタオルやシーツを引っ張り出した痕跡があり、いつも棚の上に置いてあった薬箱がなくなっている。
――つまり普段は用心深い彼女だが、外の騒ぎに鍵もかけず部屋を飛び出し、仕舞ってあった清潔なタオルやシーツと薬箱を持って、魔物に襲われた人々を助けに向かったのだ。
誰に聞かずとも、まるでこの場で見ていたように俺にはわかる。リーマは怪我をした人間を前に、自分の身の安全だけを考えて、大人しく部屋に閉じ籠もってくれているような女ではないのだ。
そう理解した俺はすぐにリーマの部屋を後にし、下町で避難場所や救護所になりそうな場所を考えた。
多くの住人が逃げ込めそうなのは、下町の教会と無認可の低料金宿泊施設に娼館だ。だが薬を持って行ったことを考えると、リーマが向かったのはそちらではなく救護所の方だろう。下町に大きな診療所はない。だとすると臨時に使われるのは、飲食店や大衆酒場が殆どでその中にはアフローネも含まれる…!
アパルトメントの階段を駆け降り、裏通りから大通りに出ると、その足でアフローネに向かう。
ここからあの酒場までは、歩いて十五分ほどの距離だ。
――するとそこに辿り着いた俺は、予想外の光景を見ることになった。
大通りの一角、丁度アフローネのある手前辺りに、青く透き通った五メートルほどの高さの氷壁ができていたのだ。
それは魔物から住人を守るように広範囲を囲んでおり、その壁向こうに見えた景色の中で、リーマが見知らぬ男に肩を抱かれていた。
背の高い紺碧の髪の美丈夫…知らない、その男は誰だ?なぜ親しげにリーマの肩を抱き、リーマも嬉しそうに微笑んでいる?
そうして氷壁越しに、リーマがこちらに気づいて困惑する俺を見た。
彼女の、いつもの、アクアマリンのような薄い水色の瞳と、確かに今、俺の目が合ったのだ。
それなのに彼女はじっと俺の方を見て怪訝な顔をすると、次の瞬間、ふいっと俺から顔を背けた。
「…リーマ?」
驚いた俺は、フードを被っているせいで俺がわからないのかと思い、それを脱いで黒髪を顕わにしてから彼女の名を呼んだ。
「リーマ!!俺だ、わからないのか!?」
――だがリーマはそれでも俺を一瞥すると、肩を抱いている紺碧髪の美丈夫に話しかけられ、その男に笑顔を向けてアフローネの中に入って行ってしまった。
……信じられん。リーマが…俺に気づいていながら、無視しただと?おまけに身持ちの堅い彼女が、気安く他の男に肩を抱かせるなど…あり得んだろう。
あの男は、誰なんだ。まさか俺以外にも他に男が…?
――この時俺は、生まれて初めて深い愛情が引き起こす、強い『嫉妬』という感情を抱いた。彼女が無事であったことにホッと安堵する間もなく、リーマの隣でリーマと親しげに接する男を初めて見たことに、怒りと脅威を感じたのだ。
それと言うのも、これまでリーマは、いつ、どんな時でも、俺のことしか見ていないと思い込んでいたからだ。
「くそっ、ようやくここまで来たのに…どうすればこの中に入れるんだ!?リーマ!!」
リーマの名を呼び、俺の侵入を拒むように聳える氷壁を、拳でガンガン叩き始めた時だ。
背後から、聞き慣れた男の声がする。
「――ライ様…」
その声に、俺はギクリとして氷壁を叩く手が止まった。
嘘だろう。どうしてここに…?おまえは今、イーヴと協力して近衛の任に就いているはずだろう。…冗談じゃない、なぜだ…!!
ゆっくり、ゆっくり後ろを振り返ると、間違いない。そこには俺の表現では言い表せないような、酷く戸惑った顔をしたトゥレンが立っていた。
「トゥレン…おまえ、どうしてこんなところにいる…!?」
「……それは俺の台詞です。目が見えないはずのあなたの姿を見て、俺がどれほど驚いたとお思いです。…ライ様、『リーマ』とはどなたのことですか…?」
トゥレンの口から出されたその名前に、誤魔化すことも白を切ることもできず、その場で俺はただ立ち尽くしたのだった。
♢
「ルーファス!」
――落ち着いて話ができるように、大通りに魔物除けの結界を張って、一時的な安全地帯を作ると、俺はそこに王都にいるハンター達の代表者を集めた。
その結界を通って、中級住宅地の通りにいる生存者(自宅に籠もっている生存者は危険がないと判断する)の救出と、魔物の討伐を任せていたシルヴァンが俺の元に戻ってきた。
「結局リヴは戻らぬのか。」
そうして戻るなり彼は、不満げな顔で言う。リヴを迎えに行くと言ったシルヴァンに、リヴには構わずこちらに来いと言ったのは俺だ。
「ああ、まあそれは良いんだ。おかげで被害を少しは抑えられそうだしな。近衛隊の救助の手は下町まで全く回っていないみたいで、多数の生存者と負傷者を仮の救護所に集めて、魔物除けに魔法で強固な氷壁を作ったんだそうだ。」
「なにぃ?また勝手なことを…!彼奴の氷壁は頑強だが、主の結界と違って彼奴が一定の距離を離れれば消えてしまうではないか。さては安全になるまで、下町から戻って来ぬつもりだぞ…!」
「…そうだな。だからリヴには下町の守護を任せたよ。リヴなら一人でも大丈夫だろう?軍の方は人手が足りず、救助に優先順位をつけたらしいし、東の端にある下町は最後の最後なんだと、ここにいた近衛隊士から聞いた。こういう状況ではある程度仕方がないとは言え、人命救助に身分や生活状況で差をつけたがるのは、昔から変わらないんだな。…反吐が出る。」
普段はあまり汚い言葉を使わないようにしている俺だが、今日ばかりはそう言い表さずにいられない。
特にこのことを教えてくれた近衛隊士は貴族出身で、まだ高級住宅地の住人が多数自宅に取り残されているのに、下町の人間をなぜ先に助けたのかと俺に言って退けたからだ。
その一言で頗る腹が立ち、大いに機嫌を損ねた俺は、近衛隊士と王国軍にはウェルゼン副指揮官の指示に従うよう、ここから離れて頂いたのだった。
「ルーファス、一通りハンターは集まったようです、急ぎましょう。」
「わかった、今行くよ。」
サイードに呼ばれて俺はシルヴァンを連れ、円形に集まっているハンター達の真ん中へと進み出た。
「聞いてくれ、これから重要なことを話す。この魔物が出現した原因と対策、この後の注意事項についてだ。」
――現在、エヴァンニュ王国の魔物駆除協会には、Sランク級守護者が数えるほどしかいないことは周知されている。
その内、俺のパーティー『太陽の希望』には、リーダーの俺を含めて、俺のいない間に昇格したシルヴァンとリヴの合計三人がいる。
その時点で注目を浴びるのは当然だったが、元々魔物駆除協会には様々な規則があり、こう言った魔物の集団が関わる特殊な危機的状況下では、Sランク級守護者の指示に従うようにという項目もあった。
それはただ強制的に、絶対従わなければならないという意味ではないが、Sランク級守護者というのは、かなり厳しい条件をクリアしないと決してなれないことから、生き残る為に自ら協力すると言うのが当たり前になっている。
俺はこの場で王都の魔物出現には、何者かによる召喚魔法が関わっているらしいことと、大分数を減らしたが、再度魔物が召喚される可能性のあることを告げる。
それに対し一部のハンターはいい加減にしてくれとざわついたが、その犯人と思われる者達には目星がついており、これから複数のグループに分かれて、それぞれ犯人捜索や人命救助の担当を決めると続けて話した。
「先ず犯人を地上で捜索する3グループと、犯人が潜伏していると思われる浄水場や地下水路の調査に向かう1グループ、民間人の救助に当たる複数グループと、魔物の殲滅のみに当たる他グループなどの選別を行う。そのことは既に聞いていると思うから、各自自分達の能力に合わせた申し出をして欲しい。」
時間がないので簡潔に話すと、すぐにその作業に入る。魔物の殲滅のみに当たるグループは、Aランク級守護者に限られ、民間人の救助に当たるグループはBランク級守護者に任せる。それぞれが密に連携を取りながら救助に当たるのだ。
犯人捜索のグループは三班で、シルヴァンとサイード、Aランク級守護者の一人をリーダーに、王都を隈なく回って手がかりを探す。
残りのCランク級以下のハンターは、討伐グループと救出グループの補助に回り、怪我人の手当や避難する民間人の誘導などを担う。
その他に俺への緊急連絡役として、共鳴石を渡したAランク級守護者を一人、公共地区にある臨時避難所で、元はルクサールの住人だった人々の避難先に待機して貰うこととした。
そして俺はと言うと――
「改めまして、ファロ・ピオネールです。」
「Aランク級守護者のブンテスだ。」
「同じくラント。」
「私も同じく、タルテよ。」
「ああ、俺はルーファスだ、よろしく頼む。一応指揮を執ることになったが、気は使わなくていい。ファロ、あなたも俺に敬語は要らない。俺達は浄水場に向かいそこを調べてから王都の地下水路にも入るが、なにが起きるかわからない、みんな十分注意してくれ。」
「「「「了解。」」」」
――と言うわけで、四人のAランク級守護者を連れて、黒ローブの人物が見かけられたという東部浄水場と、地下水路の調査に向かうことになった。
これは俺がウェルゼン副指揮官に、王国が管理している浄水場や地下水路に入る許可を得ているのと、ケルベロスの隠された痕跡や、なにか異常な設置魔法などを逸早く発見することが可能だからだ。
王都の大通りから中級住宅地を通り、襲ってくる魔物にはできるだけ構わずに東部浄水場まで辿り着いた。
鉄柵の扉にかかっていた鍵を『アンロック』の魔法で解錠すると、先ずは散って浄水場を隅々まで調べる。だがここには特になにもないようだ。
「なにかあるとすれば、やはり地下水路か。下に魔物はいないはずだが、犯人が召喚しているかもしれない。死角には注意しよう。」
四人が頷いたことを確かめると、今度は地下水路への扉の鍵を同じように魔法で開けて階段を降りた。
すると地下の扉も鍵がかかっているはずだが、それは開いており、きちんと閉められておらず僅かに開いている。
――やはり侵入した形跡がある。ここで黒ローブを着た誰かがなにかをしていたのは間違いなさそうだ。
後ろに続く四人に、音を立てないように口元に人差し指を当てて合図をすると、俺は静かに扉を開けた。
その直後――
真っ白い閃光と共に爆発が起き、俺と四人のAランク守護者達は、その衝撃に巻き込まれてしまったのだった。
次回、仕上がり次第アップします。