165 ヘレネクトベント ③
エーテル結晶から現れたヴァシュロンの姿をしたそれに、ルーファス達は戦闘になることを覚悟して警戒しました。ところが結晶体のヴァシュロンはその場に立ち止まったきり動かず、一向に攻撃をしてくる様子がなくて…?
【 第百六十五話 ヘレネクトベント ③ 】
青く透き通った硝子のような全身に、彫像のように動かない瞳なしの目や閉じた口とその表情。
エーテル結晶から這い出てきたヴァシュロンは、地上に降りるとそこに立ち止まり、やがて少し小さくなって俺達の知る彼の大きさに落ち着いた。
俺達は突然現れたそのヴァシュロンに戸惑い、警戒しながら次の反応を待った。なぜなら、それきり彼が全く動かなくなってしまったからだ。
緊張した表情で隣に立つウェンリーは身構える。
「――なんだよ…襲ってくるんじゃねえのかよ?戦闘になるとばっか思ってたのに、なんで動かねえんだ。」
「わからない…良くある警備機構なんかだと、武器を所持した対象のみに攻撃してくるとか、動いた途端に戦闘になるなんて言うのもあるけど…」
「二人とも、先ずはゆっくり後退ってみましょう。動きに反応するのであれば、私達が足を動かした瞬間に相手も動くことでしょう。」
俺達は顔を見合わせて頷き、合図をして三人一緒に後方へ後退った。…だがヴァシュロンに反応はない。
「動かないな…武器に反応するのか?」
「それかこちらが攻撃すると動き出すのかもしれません。」
「んじゃ三人で武器を構えても反応しなけりゃ、攻撃は俺がやってみるわ。」
「…わかった、念のために防護魔法は先にかけるぞ。」
相手からいつ攻撃が飛んで来てもいいように、俺がディフェンド・ウォールを使うと、そこで全員が武器を構えた。…がやはり反応がないので、ウェンリーのエアスピナーでヴァシュロンに攻撃を仕掛けてみる。
「とりあえず腕を狙って…行け!!」
ピシュッという音を立てウェンリーが放ったエアスピナーは、勢いよく弧を描くように飛んで行き、命中してヴァシュロンの腕を掠め傷つけた。
するとその腕は液体が飛び散るように波立ち、さわさわさわっと全身に波紋を描いたが、すぐに何事もなかったように元に戻って静かになった。
「攻撃にも反応しねえぞ?…どうなってんだよ。」
「うん…」
俺達はディフェンド・ウォールの中でさらに戸惑った。
「敵、じゃないのかな…そもそもあれに戦う意思がないのかも?」
「まだ可能性が一つ残っていますよ。私達がエーテル結晶を破壊しようとして近付くと、それを防ごうとして動くのかもしれません。」
確かにその可能性は残っているけど…
俺の地図上では、そこに立つヴァシュロンは無信号だった。表記される点滅信号が赤なら敵、黄緑なら味方、青なら調査対象を表すが、なにもないと言うことはそれは敵でも味方でもなく、そこにあるエーテル結晶と同じ設置物扱いだということになる。
「――ここで警戒していても時間を無駄にするだけだ。試しに俺がヴァシュロンに近づいてみるから、二人はここで待っていてくれ。」
「…大丈夫かよ?」
「ああ。」
俺は一旦防護魔法を解き、ゆっくりヴァシュロンに近付いて行く。だが目の前まで来てもヴァシュロンは動かず、俺がそのまま横を素通りしてエーテル結晶に近付き、試しに攻撃を加えてもみても、やはり最後まで動き出すことはなかった。
それを確認したサイードとウェンリーも慎重に俺の元まで来てみたが、ヴァシュロンに反応はないままだ。
「ルーファスの言う通り敵じゃねえのか…じゃあなんで出て来たんだろ。」
ウェンリーはまだ警戒しつつも、硝子の彫像のようなヴァシュロンを指で突きながら怪訝な顔をする。
「…どう思いますか?ルーファス。」
――このヴァシュロンがエーテル結晶から出て来たのは、俺達がヴァシュロンのものと思われる記憶を見た直後だ。
それが意図して残された物なのかはわからないが、この結晶とヴァシュロンが繋がっていると仮定して、ヴァシュロン自身になにか伝えたいことや心残りがあったとしたら…それは誰に対しての物だろう。
…考えるまでもないな、クリスだ。
「さっき俺達はヴァシュロンの記憶を見ただろう?あれが俺達に宛てて残されたものかはわからないけど、もしかしたらこのヴァシュロンはクリスになにか伝えたいことがあって現れたのかもしれない。」
「クリスに?」
「――なるほど…ええ、確かにそうかもしれませんね。私達がエーテル結晶を破壊した後では手遅れです。だからこのような形状を取って出現した…そう考えると腑に落ちますね。」
サイードは納得したようにうんうんと頷いていた。
そんな会話をしていると不意に俺の中に、どこからか温かいものが連続して三度流れ込んで来た。
この感覚はアテナの帰還時と同じ…つまりは、召喚したプロートン達三人がそれを解いて戻って来た証だった。
「プロートン達が戻って来た。――出でよ異霊体、『アナム・インカーネイト』。」
俺はそれに気づくとすぐさま再び彼らを召喚する。再度俺の右手に虹色の魔法陣が輝くと、そこから飛び散った三つの光が彼ら三人を喚び出した。
「戻りました、ルーファス様。」
そう言って軽く頭を下げたのはプロートンだ。俺はちらりとサイードを横目で見たが、彼女は彼らから視線を逸らすようにして表情を曇らせている。
「三人ともお帰り、遅かったな。怪我はしなかったか?」
たとえ彼らが怪我をしていたとしても、俺の中に戻った瞬間に癒されるので後を引くことはないのだが、異霊体としてはこれが初めての戦闘になるため、俺はあえてそんな質問をした。
「デウテロンが少し調子に乗りましたが問題ありません。」
「…そうか、三人のおかげで俺達も無事に地下へ入れたよ、ありがとう。」
「ルーファス様、報告なんだが…結局オーサ殿はここから一定の距離を離れると、後はトゥルム・ガードナーに俺達を追わせて踵を返し戻って行った。俺達がオーサ殿には攻撃を仕掛けなかったこともあるのだろうが、御仁の反応はかなり鈍く、ヴズルイフクライスが機能していたとしても、きちんとそれを認識しているかどうかは怪しいと思うぜ。」
「……そうか、わかった。」
「それと三人で手分けして『冥界の扉』を探したんだが、どこにもそれらしいものは見当たらなかった。数が増える様子もねえし、不死族がどこから出て来たのかは不明だ。」
「それで帰りが遅かったんだな…だが調べてくれてありがとう。不死族の出所は後でもう一度探すことにする。」
――そんな報告を受けた後、俺は連絡用の共鳴石をプロートンに手渡し、三人にはこの場でピクリとも動く気配のない、エーテル結晶のヴァシュロンを監視して貰うことにした。
「あれのことはプロートン達に見張らせて、俺らはどうすんだよ。」
「俺達はサイードの研究所にクリスを迎えに行く。彼女が目を覚ましたら、少しでも眠っている間になにが起きたのかを話しておかないと…事情を知らずに変わり果てたこのオルファランとヴァシュロンを見たら、きっと酷いショックを受けるだろう。」
「――そっか…そうだよな。」
「相談もなしに決めてしまったけど、俺達も一緒に行って構わないか?」
「もちろんです。クリスも目覚めて目の前にあなた達がいれば、きっと喜ぶでしょうから。」
サイードの了承を得て、俺達は一路三人で研究施設に繋がる『ツァウバー・リーニュ』のある区画へ向かった。
さっきの緊急警報のせいであちこち扉は閉ざされていたが、制御室でそこへの扉を開き、細い通路をサイードの後について行く。
「なあサイード、そのツァウバー・リーニュってのは乗り物かなんかか?」
「ウェンリー、なんかってなんですか…ええ、乗り物ですよ。隧道上下に埋め込まれた直線状の溝…これを『リーニュ』と言いますが、そこに設置された籠に乗り、ここから研究施設までを移動する手段です。ほぼ私しか使わないので、単線で籠は一つしかなく、一人乗り用ですが僅か二分ほどで行くことができます。」
「単線で一人乗りか…ということは、三人別々に行くしかないんだな。」
『ツァウバー・リーニュ』とは『魔法の線』という意味で、動力にはエーテルが流れるリーニュと籠に設置された小さなエーテル結晶を用いており、スイッチを押すだけで誰にでも操作が可能なんだそうだ。
――サイードの研究施設はお館様も知らないと言っていたよな。だとすると、そんな移動手段をサイードはどうやってここに確保したんだ?…まさかとは思うけど、こんな地下に隧道を掘ってサイード自ら作った…とか?…いや、それはさすがにまさかだよな。
やがてサイードは、暫く進んだ所で通路の突き当たりになる、なにもない壁の前で立ち止まった。
「ここの壁に私の魔力でしか現れない入口があります。」
俺達の方を向き、そう言いながらサイードが触れると、そこにあった壁が消え失せて、乗り場らしき停留所と一直線にどこまでも伸びる隧道に、リーニュという青く光る上下線が現れた。
「うわ、すげえ…こんなところにあったのか。」
数段の階段を降りて乗り場に行くと、そこには制御装置らしき二つの釦が付いた長方形の機器があった。
「……?」
その装置の前に立ったサイードが酷く怪訝な顔をする。その表情が気になった俺は彼女に尋ねた。
「サイード、どうかしたのか?」
「ええ、いえ……なんでもありません。籠を呼ぶので少し待って下さいね。」
俺の問いかけにそう答えたサイードだったが、なにか気になることでもあるのか籠が到着するまでの間もずっと黙ったままだった。
二分ほどが経って六角柱の籠がコオオオ、という音を立てながら到着すると、サイードがその操作方法を俺達に教えてくれる。
その籠は、上下に付いた六角錐の先端がリーニュの溝に嵌め込まれて外れないようになっており、溝に沿って進んで行く形式になっているみたいだ。
「このスイッチを押せば籠が動き出し、後はなにもしなくても運んでくれます。研究所側に籠が到着すると、そこの制御装置に緑の明かりが灯りますから、そうしたら籠を呼び戻す釦を押して下さい。」
「わかった、サイードの次はウェンリーを先に向かわせるよ。」
「ええ、研究所の扉は鍵を開けておきますから入って来て下さい。私はあちらでクリスを起こす準備をしておきますね。」
特に難しくはないその説明が終わると、サイードは籠に乗り込み、俺達に教えてくれたスイッチを押して出発し、青く光るリーニュだけが浮かび上がる暗闇の中に消えて行った。
「なんか変な顔してたよな、サイード。なんでだろ?」
サイードの乗った籠が見えなくなると、ウェンリーが頭の後ろで腕を組み、いつもの調子でそんなことを言ってくる。
女性の顔を見てその表現はないだろうに…口が裂けても言わないが、サイードに聞かれたらまた怒られるぞ。俺は内心そう思いながら苦笑した。
「ああ…気になったから聞いてみたけど、教えてくれなかったな。」
直前まで普通だったのに、この乗り場に降りてから急にサイードの表情が変わった。…ここになにかおかしな点でもあったのかな…。
それがどんなことなのかは、俺達にはわからなかった。
――その頃、ツァウバー・リーニュで移動中のサイードは、まだ険しい顔をしていた。
エーテルを混ぜて作られた、隧道のリーニュだけが暗闇の中青く光り、風を切りながら一直線に籠に乗った自分を運んで行く。
これに乗るのは随分と久しぶりだったが、ルーファスになんでもないと言ったものの、彼女は胸騒ぎがして胸に拳を当て俯いた。
おかしい。最後にここを出た時には籠がユラナスの塔にあったのを覚えている。そもそもこの籠は制御装置で呼び戻すことしかできないのだから、誰かが籠のスイッチを押さない限り、独りでに研究所側へ移動するはずがないのだ。
サイードはもう大分以前のことではあったが、最後に自分の研究施設を後にした日を思い出しながら、そう不審に思っていた。
≪――まさか…私しか入れないはずの研究所に、侵入者が?…でもそれなら、入口の壁が閉ざされていたのは妙ですね…他に出入口はありませんし、研究所からはどこにも行けません。おまけにどの扉も私以外に開けることはできないのですから、そんなはずは…≫
オルファランの環境は大きく変わり、研究所は外部の影響を一切受けないとは言え、そこに繋がるユラナスの塔は上部が破壊されてしまった。
地下に設置されているツァウバー・リーニュに、絶対になんの影響もなかったかと言われれば断言し難いが、誤作動を起こしでもしたのだろうか。
僅か二分ほどの移動中にそんな一抹の不安に駆られていたサイードは、やがて剥き出しの岩盤の中にある研究所側の停留所に辿り着き、籠から降りてユラナスの塔に戻って行くそれを見送った。
研究所の入口は、あちら側と同じく数段の階段を上った先にある。サイードの魔力でしか開かない鍵を解除し、一つ目の扉を開け放つと、彼女はその先の通路を足早に歩いて行った。
≪…鍵はきちんとかかっていましたね。やはり籠は誤作動だったのでしょう。≫
外からこじ開けようとしても開けられるような扉ではないが、さして傷つけられたような痕跡もなく、しっかりと鍵がかかっていたことでサイードはホッと安堵する。
なによりも心配だったのは、自分の研究所が荒らされるとかそう言うことではなく、クリスの冷凍睡眠装置が壊されたり、装置そのものが止められたりすることだった。
もちろんそんなことにはならないように、初めから何重もの防護対策と破壊対策は施してあった。だがそれでも、徹底した侵入者対策を取っている自分の研究所に万が一誰かが忍び込んだとすれば、そんな対策さえも簡単に無効化されてしまう恐れがあったのだ。
それが杞憂だったことに安心したサイードは、通路の先にある扉を解錠して研究施設の中に入ると、自動点灯の明かりが点くのを待ってから、ソファやテーブルなどが置かれた居住スペースを素通りして奥にある階段を降り、真っ先に下層にある巨大な装置へ向かった。
「クリス…!」
サイードはすぐさま全ての機器が問題なく動いていることを確認すると、透明な蓋がついた楕円形の機械を覗き込んだ。
そこには当時と寸分違わぬ姿で、なにも知らずに昏々と眠り続けるクリスが横たわっている。
「――無事で良かった…クリス、目覚めの時です。ルーファスとウェンリーがあなたを迎えに来てくれましたよ。」
蓋越しに眠っているクリスを見て優しく微笑むと、サイードは心から嬉しそうにして機械の上からクリスを撫でた。
「ヴァシュロンのことをあなたに告げるのは辛いですが…それも先ずは起きてからですね。」
そうしてすぐにクリスの覚醒準備に入ろうと、サイードがそこから振り返って顔を上げた時だ。
「え…っ」
ギクリとして彼女は、大きくその身体を揺らした。
いつ、どこから現れたのか、知らぬ間に目の前に、黒灰色のローブを着てフードを目深に被った、顔の見えない何者かが立っていたからだ。
「な…だ、誰です!?」
突然のことに驚愕したサイードは後退り、クリスが眠る装置に足を取られて蹌踉めいた。
床に倒れ込んだサイードに、そのローブの人物はゆっくりと近付いて行く…
――その僅か数分後…
「おっ、来た来た。」
研究所側の停留所に先に着いてしゃがんで待っていたウェンリーが、籠に乗った俺を見て立ち上がり手を振っている。
「なんだ、わざわざ俺を待っていたのか?先に行っていれば良かったのに。」
籠から降りた俺がウェンリーに歩み寄ると、俺達は並んで開け放たれた扉の向こうに歩き出した。
「待ってたって、たかが数分じゃん。それにサイードが準備するとか言ってただろ?下手に邪魔になるとまずいかなと思ってさ。」
「おまえな…サイードの邪魔をするつもりだったのか?」
「んなわけねえだろ!…けどもし珍しいもんとか置いてあって、勝手に弄ったりしたら怒られるかな〜なんて…」
「…それをやりかねないから自粛したのか。」
どうやらウェンリーには、俺やシルヴァン、リヴ達の間でならともかく、サイードにそれをやったら大変なことになりそうだという自覚があったらしい。
「俺と一緒に入っても、勝手にそこら辺の物に触るなよ?サイードに限らず、女性は怒らせると怖いからな。」
「うえーい。」
サイードが扉の鍵を開けておくと言っていた通り、通路の先の入口は既に開いており、そこから俺達が中に入ると目の前がリビングルームのようになっていて驚いた。
「研究施設だと言っていたよな?てっきりユラナスの塔みたいなところだと思ったのに、簡易キッチンに家具まで置いてある…」
「あれじゃね?研究に没頭すると家に帰るのが面倒臭くなるから、住めるようにしてあったとか。」
「ああ…」
――良くあるワーカホリック型の人間がやる生活様式か。…サイードって研究とかに没頭するタイプなのかな。
「サイードはどこにいるんだろう?」
「おーい、サイードどこだよ!!」
姿の見当たらないサイードに、俺がきょろきょろしていると、横でウェンリーが大声を上げた。
「下です、ルーファス、ウェンリー!奥の階段から降りて来て下さい!」
すぐにサイードからその声が返って来た。
言われた通り奥に歩いて行くと上下階に繋がる階段があり、そこから俺達は下の階に降りて行った。
扉のないその階には壁際に幾つもの大きな駆動機器が並んでいて、そのどれもにエーテルと同じ青い光が灯っている。
そのフロアの中心にある、一際大きな楕円形の機械の蓋が開いていて、俺達が入った入口からは中に横たわるクリスの姿が見えた。
「クリス!」
俺達は室内灯に照らされたそこを走ってクリスに駆け寄る。確かに別れた時そのままのクリスだ。まだ目覚めないのか、静かに寝息を立てるその顔を見てホッとした俺達に、装置の影からすぐサイードが顔を出した。
「覚醒解凍と健康状態の確認は済みました。どこにも異常はありませんから、もう間もなく目を覚ますと思いますよ。」
「そうか…ありがとうサイード、俺の願いを聞いてくれて…これでクリスを俺達のフェリューテラに連れて行ってあげられる。」
「ええ…私も嬉しいです。これであなたとの約束をきちんと果たせましたから。」
研究施設とクリスが無事だったことで安心したせいなのか、サイードはその言葉通り、本当に心から嬉しそうな顔をして俺に微笑んだ。
「ルーファス、少しいいですか?」
「ああ、うん。」
サイードはクリスを覗き込むウェンリーから離れるようにして、俺を呼んだ。
「――ヴァシュロンのことなのですが、クリスに話す役目は私に任せて貰えませんか?」
「え…いいのか?俺はあなたから事情を聞いただけだから、詳しいことはわからないし助かるけど…」
「こう言った役目は女性の方が良いでしょう。ラナがいれば彼女に頼んだところですが…私が得意かどうかはともかく、誰の口から聞いてもクリスがショックを受けることに変わりはありません。でしたら少しでも心の痛みが和らぐように、ヴァシュロンとクリスを長く見ていた私の方が、適切な言葉をかけられるのではないかと思うのです。」
「サイード…うん、そうだな、俺もそう思う。ありがとう、それじゃクリスが目を覚ましたら頃合いを見てお願いするよ。」
「ええ。」
――心からクリスを心配している様子だったサイードを見て、俺は俺の魔力回路を治してくれた時のサイードを思い出していた。
あの時のサイードも(ギリアムの姿だったが)今のように真剣な表情をして、魔法なんか使えなくていいと思っていた俺を心配してくれていた。…やっぱりサイードは優しいんだな。
目覚めてすぐに外の状態を知らされるクリスは可哀想だけれど、彼女はもう子供じゃない。それにここから連れ出すのなら、混乱を防ぐ為にも滅びたオルファランのことを黙っているわけには行かないだろう。
まだエーテル結晶に手はつけていないから、恐らくヴァシュロンは落ち着いていると思うが…最悪の場合、ユラナスの塔から出た直後に彼と戦うこともあり得る。
そう言った事情を鑑みても、サイードならきっとクリスを優しく慰めてくれるはずだ。…俺はそう思いながら彼女を見て目を細めた。
「ルーファス!クリスが目を覚ました!!」
「!」
ウェンリーのその声に、俺とサイードは急いでクリスの元へ駆け寄った。
「クリス、目が覚めましたか。私の声はきちんと聞こえますか?」
装置に横たわるクリスは少しぼんやりしながらも、群青色の前髪の間から見えるその青い瞳を確かに開いている。
「う…ん、サイード様…えっとボク…?」
「手を貸します、ゆっくり起き上がってみましょうね。」
記憶がはっきりしないのか、目元をこすりこすりゆっくりと、クリスはサイードに支えられながら上体を起こした。
「……あれ…?ルーファスお兄さんとウェンリーお兄さんがいる…お兄さん達はフェリューテラに帰ったんじゃ…?」
「ああ、ちょっと予定が変わってクリスを先に迎えに来たんだ。」
「え…」
「クリス、あなたがあの日眠りについてから、既にフェリューテラの時間で言い表せば二千年ほどが経っています。あなたは無事に永い時を乗り越えたのですよ。」
「…!!」
クリスの青い瞳が大きく見開かれた。
「思い出した…っ二千年…それじゃ、今は1996年のフェリューテラと同じくらいの時間ってこと?ボク、ルーファスお兄さん達と一緒に、本当にフェリューテラに帰れるんだね!!やったあ!!」
成人した女性なのに、そう言って嬉しそうに破顔したクリスは、薄い寝間着で勢いよく冷凍睡眠装置から飛び出した。
「待ちなさいクリス、そんなにいきなり身体を動かしてはいけません!」
「えー?…でも全然大丈夫だよ、どこもおかしくないもん。ボクとしては昨日寝て今日起きたって感じなのに?」
「はは、クリスにとっちゃ二千年も一晩かよ。さっきサイードも健康状態は確認したって言ってたじゃん、本人がこう言ってんだから平気じゃね?」
「笑い事ではありませんよ、ウェンリー。」
――俺もサイードの意見には賛成だったので、念のために解析魔法でクリスの身体とアストラルソーマ、そして魂の霊力まで調べてみた。
「いや…サイード、クリスの身体は問題なさそうだ。俺が保証する。」
「そうですか…わかりました、あなたがそう言うのでしたら安心ですね。」
意外なことに、俺がそう言うとサイードは俺の意見をそのまま受け入れた。
あれ…?信用、されているのかな…てっきりまだ心配だとか、暫くは安静にするべきだとか言われると思ったんだけど…
サイードから出たその言葉が、俺には少し予想外だった。
「ねえ、ルーファスお兄さん、ヴァシュロンはどこ?ボクが目を覚ます時には会いに来てくれるって言ってたのに…どうしていないの?」
唐突に振られたその問いに、俺達は一瞬、全員が押し黙ってしまった。
「クリス…ヴァシュロンとそんな約束をしていたのですか?」
「ううん、約束っていうほどじゃないけど…ヴァシュロンならきっと傍にいてくれるって思ってたんだ。」
「………」
「ねえ、ヴァシュロンになにかあったの?教えて、サイード様。」
不安気にそう尋ねるクリスを見て、俺達三人は顔を見合わせると、クリスがもう子供ではないことを考慮した上で、このままサイードからオルファランのこととヴァシュロンのことを話して貰うことにした。
「サイード、俺とウェンリーは上で待っているよ。」
「…ええ、わかりました。」
「行こうウェンリー。」
「…ん。」
二人を残し、俺達は階段を上がって、リビングルームのようにソファが置かれていた一階へ戻った。
「――サイード、なんて言うつもりかな。」
後ろ髪を引かれたように、ウェンリーは階段の方を気にしている。
「わからないけど…任せておけばきっと大丈夫だ。」
「…なあ、俺さ…口にすんの避けてたけど、こんな状態でヴァシュロンってまだ生きてんのか…?」
「………」
俺はウェンリーの問いに答えなかった。
サイードは最初の時点で、今のヴァシュロンの状態については想像に難くないと言っていた。そして覚悟しておいてくれとも…
――だがまだ俺達は、本当のヴァシュロンには会っていない。だから俺は、自分のこの目で確かめるまでは諦めたくなかった。
それから俺達は、無限収納から取り出した食材を調理して、四人分の食事を作った。クリスがサイードと一緒に上がって来たら、みんなで遅い昼食を取ろう。そう思ったからだ。
「そう言やプロートン達は飯食わなくて平気なのかよ?」
「ああ、今はな。でもフェリューテラに帰ったら、彼らには召喚体じゃなく俺の魔力できちんとした身体を与えるつもりだ。」
「…アテナの時と同じように、か?」
「…そうだな。」
俺が壁に寄りかかり、ウェンリーは手持ち無沙汰な様子でソファに座っていると、サイードとクリスが階段を上がってきた。
「!」
「わあ…なんだか美味しそうなご飯の匂いがする!」
泣き腫らした目をして、クリスが明るくそう言った。
「私達の分も食事を用意してくれたのですか?」
「ああ、俺とウェンリーで作ったんだ。みんなで食べよう。」
「ルーファスお兄さんとウェンリーお兄さんが作ってくれたの?ありがとう!!ボク、お兄さん達の料理、大好きなんだ。前にヴァシュロンと一緒に食べ…」
――そこまで言って、クリスはポロポロと涙の粒を零した。
「ふう…うっ…ぐす、ヴァシュロン…ボクのために…ぐすっ…」
必死に悲しみを堪えながら、俺達にそれだけを言ったクリスを見て、俺はサイードが最悪の事態をクリスに教えたのだと言うことを理解した。
「クリス。泣いていてはせっかくルーファス達が作ってくれたご飯も、喉を通りませんよ。」
「うん…ボクがいつまでも泣いてたら、ヴァシュロンは悲しむよね。ボクを守ってくれたヴァシュロンのためにも、ボクは絶対に幸せにならなくちゃいけないんだ。」
涙に濡れた青い瞳を輝かせ、それでも顔を上げてクリスは言った。
――さすがは竜人族だな…身体的にも精神的にも、並外れて彼らの種族はとても強いと言う。それにやっぱりサイードに話を任せたのは正解だった。これならもう悲しくても、クリスはきっと大丈夫だろう。
四人で食事を済ませると、サイードが物質作成魔法『クリエイション』で用意した、動きやすい衣服にクリスを着替えさせた。
サイードが着ているフェリューテラの冒険者のような衣服とは異なり、上等な布地で作られた、女性らしい可愛らしい衣装だ。
「わあ…ありがとう、サイード様!とっても可愛い!!」
短丈のフード付きローブに、薄い桃色のロングチュニックと膝下までのショートレギンス。足にレッグウォーマーとショートブーツを履いて、クリスはくるりとその場で回って見せた。
「へえ、クリスの髪色によく似合ってるじゃん。てっきりサイードが今着ている感じの冒険者服みたいになるのかと思ったけど…イメージ違ってびっくりしたぜ。」
「おまえはどうしてまたそう言うことを…」
「ウェンリー?余計なことは言わない方が身のためですよ。私は元々、柔らかい色合いの衣装が好きなのです。今のこの服は好みではありませんが、仕方なく着ているのですよ。」
「…そうなのか。」
「ええ、そうです。」
ウェンリーの言葉に、サイードが少し拗ねたように言い切った。
どうしてわざわざそんな服を?サイードならクリエイションでいくらでも好きに作れるんだから、なにも仕方なしに着なくてもいいだろうに。
下手に口を出すと俺もウェンリーの二の舞になりそうで黙っていたが、女心はよくわからないなと俺は思った。
「よし、これでクリスの準備も整ったな。そろそろ出発しよう。」
こうして俺達は順々にツァウバー・リーニュに乗ると、クリスを含めた四人で再びユラナスの塔へ戻ったのだった。
次回、仕上がり次第アップします。