164 ヘレネクトベント ②
プロートン達に囮を任せ、正気を失っているというヴァシュロンの目をかいくぐって、ルーファス、ウェンリー、サイードの三人は、ユラナスの塔地下に転移します。目的はエーテル結晶の破壊と、そこから行けるサイードの研究所に眠るクリスを目覚めさせることですが…?
【 第百六十四話 ヘレネクトベント ② 】
――サイードの転移魔法で、俺達とは反対側の『ヴズルイフクライス』からほど近い位置に、プロートン、デウテロン、テルツォの三人が移動した。
彼らはこの後、付近にいるユラナスの塔の警備機構『トゥルム・ガードナー』と派手に戦闘を開始して、ヴァシュロンの気を引きつけてくれる。
『トゥルム・ガードナー』とは『塔の守り手』という意味で、俺達がユラナスの塔で戦った、ブロック製のゴーレムや動物を模した駆動機みたいな敵のことだ。
あの敵は属性色に対応した魔法で攻撃しないと倒せなかったが、プロートン達にはそれぞれの主属性にあった攻撃魔法を、中級くらいまでは使えるようにしてあるから問題はない。
因みに彼らの各属性はプロートンが水と光、空、幻属性、デウテロンは火と地と天属性、テルツォは風と闇、時と冥、暗黒属性となっており、無属性魔法については全員が使える。
念のため非常用に魔法石をあるだけ渡しておいたし、三人が協力することでトゥルム・ガードナーを倒していれば、ヴァシュロンが異変を察知して動き出すことだろう。
そうして上手く誘い出すことに成功したら、三人はヴァシュロンの注意が自分達から逸れないようにしつつ、逃げに徹するのだ。
俺は今、頭の地図を広域型に広げて、プロートン達を表す三つの黄緑色の点滅信号と、敵対存在の赤い点滅信号だけが見える状態にしてある。
こうすることによってこの場にいながら、三人と敵の動きが手に取るようにわかるからだ。
プロートン達が認識範囲に入った敵対存在は、一斉に彼らの方に動いて行く。その中で一際大きな赤い点滅信号が一つ、動かずにじっとしていた。
多分これがヴァシュロンなんだろう。
「…上手くヴァシュロンは誘いに乗ってくれるでしょうか?」
俺の横でじっとその時を待つサイードが、不安げな表情で尋ねてきた。
「サイードの言う通りに正気を失っているのなら誘導されるさ。そもそも自分が塔から離れてもいいように、トゥルム・ガードナーを従えているんだろう。」
「そうですね…でもまさかヴァシュロンが、ユラナスの塔の警備機構までもを乗っ取るとは思いませんでした。」
「ヴァシュロンがと言うより、塔上部が攻撃で失われたせいじゃないかと思う。あくまでも推測だけど、ユラナスの塔のエーテル結晶を利用しているヴァシュロンのことを、警備機構自体が塔の一部として守護対象だと認識したのかもしれない。」
――そんな話をしていると、どこからか吹き荒ぶ風の音に混じり、猛獣の咆哮に似た吠え声が聞こえてきた。俺達はハッとして顔を上げる。
「この声って…!?」
ウェンリーは警戒して、砂煙でなにも見えない周囲をきょろきょろと見回した。それは俺もウェンリーも初めて聞く声だったからだ。
続いて二度、三度と同じような咆哮が聞こえ、耳を傾けていたサイードが緊張した表情で俺達に告げた。
「間違いありません、これは敵対存在に対するケツアルコアトルの威嚇咆哮です。ヴァシュロンが囮の三人に気づいたのでしょう。」
頭の地図で確かめると、俺がヴァシュロンではないかと思っていた大きな赤い点滅信号が、猛烈な速さでプロートン達の黄緑色の信号に向かって近付いて行くのを確認した。
「ヴァシュロンが動いたぞ、今だ!!」
その合図と共に立ち上がり、俺達三人は一直線にヴズルイフクライスの障壁に向かって走り出した。
近くを徘徊していたトゥルム・ガードナーが、俺達に気づくと一斉にこちらに向かってくる。だが俺達は、砂嵐の中から次々に出現するそれらを無視して、ひたすら障壁を目指した。
ここから先は、ヴァシュロンが俺達の侵入に気づいて戻って来るまでの、時間との勝負だ。
「障壁を潜る直前にディフェンド・ウォールは解除する!猛烈な風に襲われるから、飛ばされないように気をつけるんだ!!」
サイードの説明によると、ヴァシュロンの感知結界は、魔法が障壁を通過しようとするのに反応して爆発を起こすと言う。
それが転移魔法に限ってなのかどうかはわからないため、障壁を潜る前にディフェンド・ウォールは解除する必要があった。
当然だが、砂嵐と暴風から俺達を守っている防護障壁が消えれば、その途端に吹き荒ぶ風が襲ってくる。
俺はウェンリーとサイードにそう注意を促し、近付いて来る障壁の青い光に心の中で秒読みを開始した。
後少し…5、4、3…!!
――障壁を通過する寸前で魔法を解除し、俺達は雪崩れ込むようにして感知結界に侵入した。
ドゴオオオッ
直後、俺達の叫び声を掻き消すその豪音と共に、予想を遥かに上回る横風に煽られる。ある程度予想はしていたのだがそれ以上の強風に、しまった、と思った。これでは俺達など、地面を転がる小石程度の重さぐらいしかなかったことだろう。
それでもなんとか地面から浮き上がらないように、咄嗟に身を低くし這うようにして土に爪を立て踏ん張ろうとしたのだが、抵抗も虚しく逆巻く風にあっという間に身体を持ち上げられて、崩れた瓦礫の方に吹き飛ばされてしまった。
「おわああーっ!!!」
耳を劈く轟音の中で、そんなウェンリーの叫び声が遠くなったり近くなったりするように聞こえ、目の前にユラナスの塔の崩れた瓦礫が迫ってくる。
ディフェンド・ウォール…間に合わない、もうだめだ、ぶつかる!!…と思った瞬間、俺達は猛烈な風が吹き荒ぶ地上から、一瞬でどこかに移動した。
ドド、ドドド、ドンッ…ゴロゴロゴロッ
石床の地面を勢い余ってウェンリーが転がって行く。俺とサイードはなんとか受け身を取って着地したが、勢いが止まらないウェンリーは壁に向かって尚も転がって行った。
「ウェンリー!!」
咄嗟に俺は衝撃吸収用の水球『アクエ・ボール』を魔法で出してそれを食い止める。
ドンッ…ぼよよよんっ
ウェンリーは水球に弾かれて引っくり返ると、お尻を上に身体を折り曲げ、逆さになった足の間から顔を出した状態でようやくその場に止まった。
「た、助かった…」
「大丈夫か?」
引っくり返ったウェンリーを起こそうと手を貸す俺の元に、すぐさまサイードが駆け寄って来る。
「怪我はありませんか?二人とも。危ないところでしたが、ギリギリで間に合って良かった…!」
あの飛ばされている最中にサイードは、転移魔法を使って塔の内部に素早く移動してくれたのだ。
「ああ、ありがとう助かったよサイード。あのまま飛ばされていたら、塔の瓦礫に叩き付けられてぺしゃんこだった。」
「俺もあんがと…マジ死ぬかと思ったぜ。」
「いいえ、どういたしまして。」
「サイードの転移魔法が上手く行ったってことは、ここはユラナスの塔の地下ってことだよな?」
立ち上がったウェンリーと一緒に周囲を見回すと、そこは俺達が魔法の檻に閉じ込められていた地下一階よりも狭い、なにもない部屋のような場所だった。
入口には扉がなくここから見える通路には、非常用の明かりだけが灯っていてかなり薄暗かったが、その先は照明魔法を使うほどではなさそうだ。
俺はすぐに広域探査を行うと、頭の中にユラナスの塔下層の地図を表示させる。以前来た時は地下一階から上しか現れなかったが、入れなかった下層に来たことで地図も新たに更新されたようだ。
地図上には『ユラナスの塔機密地区・地下二階』と表記されていた。
「ええ、ここは機密地区地下二階です。塔の制御室は地下五階にあり、エーテル結晶と研究所に続くツァウバー・リーニュもそこにあります。」
「よし、それじゃ先ずは地下五階を目指そう。」
早速俺達は移動を開始する。サイードの識別魔法のおかげで、途中トゥルム・ガードナーに襲われることもなく、真っ直ぐ階下へ向かうことができた。
ユラナスの塔の下層には、地上部と異なり複数箇所に階段代わりの昇降機が設置されていた。サイードの話だとそれらも全て、ここのエーテル結晶によって動かされているらしい。
「エーテル結晶を破壊すると、この昇降機は動かせなくなるな。」
「ええ、ですが代わりに非常用の転移装置が作動するので、それで地上には出られます。」
「わざわざ装置を使うのかよ?サイードの転移魔法で出りゃいいじゃん。」
「あのなウェンリー…考えてみろ、それができるんだったら、サイードは初めから地下五階に直接転移してたんじゃないか?辿り着いたのが二階だったのは、そこから下には直接飛べない理由があるんだろう。」
「ふふ…その通りです。地下三階、四階を転移魔法で通り抜けるには、別の識別魔法が必要なのですよ。残念ながら私はそれを知りません。ですが一度地下二階に入り、この昇降機で五階に向かう分には問題ないと言うわけです。」
「へえ…もしかして見られちゃまずいもんとか、すっげえお宝なんかがしまってあるとか?」
「そうですね…」
――元々地下三階、四階には門外不出の貴重品や魔法書などが保管されていたらしい。サイードでさえも子供の頃、お館様に連れられて入った一度きりだけなのだとか。そこに入るにはお館様だけが知る識別魔法が必要で、それら宝とも言える物品は全てお館様が城と一緒に消えた時に持って行ったのだそうだ。
時空神の宝物か…一体どんなものが置いてあったのやら。興味本位で見てみたい気はするが、きっととんでもないものとかありそうだよな。
そうこうしているうちに、昇降機は地下五階に着いた。途中で思ったのだが、地下四階から五階までの移動時間がやけに長かったような気がする。
つまりは地下五階だけ、床から天井までの高さがかなりあるんじゃないだろうか。
そんなことを思いながら開いた昇降機の扉から通路に出ると、少し歩いたところで左側の一面硝子張りになった壁面から、青く輝く巨大な塊が見えた。
「あれは…」
広大な地面に備え付けられた台座に、高さが十メートル以上、幅が三メートル以上はある、クリスタルのようなものが鎮座している。
立ち止まってさらに中を覗き込むと、塊の上部からは青い霧状のなにかが、天井に吸い上げられるようにして立ち昇っていた。
それは海の底から空を見上げた時のような、ゆらゆら揺らめく青い光で周囲を煌々と照らしていた。
「うおっ、でっけえ…あれがエーテル結晶って奴か?想定外のデカさだな、おい。」
「ああ、あんなに大きいとは思わなかった。」
「いえ…あれでもかなり小さくなっています。驚きました…元の大きさはあれの倍以上ありましたから、ヴァシュロンの神力で大分エネルギーを使われてしまったのでしょう。」
「あれで縮んだのかよ!?どんだけだっつうの。」
「とにかく近くまで行って調べないとな。入口は…」
――その時だ。突然どこからか、けたたましいビーッ、ビーッ、という耳障りな警報が鳴り始めた。
「なんだこの音!?」
「警備機構の緊急警報!?識別魔法で許可を得ているのに、突然どうして――」
「なんでもいいから走るぞ!!緊急警報と言うことは、中に入る扉をロックされてしまうかもしれない!!」
その可能性に気付いた俺は、ウェンリーとサイードを促してすぐさま走り出した。
実はこの時、俺の頭の地図に突如として五分間のカウントダウンが表示されたのだ。それがなにを示しているのか考えている暇はなかったが、この緊急警報と合わせると扉がロックされるまでの制限時間だと考えるのが自然だった。おまけに――
ガゴッガゴゴッ
ここから見えるエーテル結晶の室内に対し、昇降機前の通路の天井がやけに低いな、と思っていたら、そこには開閉式の扉があり、上からあのトゥルム・ガードナー達が現れたのだ。
「トゥルム・ガードナー!!」
俺は腰に装備したシルバーソードを抜き、ウェンリーとサイードも走りながら各々得物を構えた。
「相手をしている時間はない、蹴散らすぞ!!」
この場合の〝蹴散らす〟は、可能な限り戦闘を避けるため、襲い来る敵を躱しつつ、道を塞ぐ敵の体勢を崩して間を擦り抜けることを言う。
「ルーファス、敵は私に任せて下さい、動きを止めます!!仇なすものの時を奪え『クロノスティール』!!」
サイードのその掛け声と共に、聖杖カドゥケウスの先端に灰色の魔法陣が輝いた。それと同じものが敵の真下に光ると、トゥルム・ガードナー達の動きがピタリと停止する。
それらは全てその時の態勢のまま動かなくなり、中には常識的にはあり得ない、空中に浮かんだ状態のままそこで止まっていた敵もいた。
「時間を止めたのか…!!」
停止した敵の間を走り抜けながら、サイードに話しかける。
「止めたのではなく盗んだのです。五秒ほどですぐに動き出します、急いで!!」
時間を盗んだ、と言うのはどういう意味なのかわからなかったが、サイードは時魔法を自由自在に使い熟しているようだ。
「ルーファス、また敵だ!!」
進行方向に再び天井の開閉口から次々と敵が現れた。偶々飛行型の敵が全て赤色に光っていたため、俺は火属性魔法『ドラゴニック・フレイム』で一掃する。
その先に現れた敵はまたサイードが動きを止め、俺達はそんなことを繰り返しながら三分ほどで室内へ続く扉まで辿り着いた。
両開きの大きな扉の上に、変わった掲示板が設置されており、そこに俺の地図と同じカウントダウンを示す時計があった。
俺の予想通りこれは、扉がロックされるまでの制限時間を表していた。
「取っ手はねえし押しても重くて開かねえ!!この扉、どうやって開けんだ!?」
「開閉端末に識別コードを入力するのです!退いて下さい、ウェンリー!!」
俺は後方から追って来るトゥルム・ガードナーの方を剣を構えて向き、ウェンリーと入れ替わったサイードが扉を開けてくれるのを待った。
「開きました!!ルーファス、早く!!」
識別コードを入力すると、その大扉は横に滑るようにガーッと大きな音を立て開いて行く。
ウェンリーとサイードが駆け込み、続いて最後に俺も中へ入った。すると大扉はすぐに閉じて行き、トゥルム・ガードナー達は手前で立ち止まると、扉に体当たりすることもなく俺達を追うのは諦めた様子だ。
一先ずなんとかなったかと、俺はホッと一息を吐く。
「緊急警報が鳴ったのに、識別コードの入力は拒否されなかったんだな。」
「ええ…警報が鳴り出したタイミングも中途半端でしたし、少し妙ですね。」
普通は俺達が警報対象であれば、直前に許可された識別コード(サイードが使用した識別魔法に含まれていたもの)は拒否されるはずだ。それに緊急警報も、昇降機を降りて地下五階に入ったタイミングで鳴り出したのならともかく、暫く経ってから鳴るなんておかしい。
「誤作動じゃねえの?それかヴァシュロンが意図的に鳴らしたとか。」
「この警報は機密地区への侵入に対してのものですよ。私達の他に侵入者がいるとでも言うのならわかりますが、誤作動というのは考え難いでしょう。」
こんなところであれこれ議論しても仕方がないので、俺達はまず制御室へ行ってこの警報を止めることから始めた。
サイードはその場で警報対象の記録を調べていたがなにもわからず、結局ユラナスの塔は破壊されているのだし、損傷による誤作動だったんじゃないかという結論に落ち着いたのだった。
それから俺達はエーテル結晶が設置されている台座に向かった。サイードによると結晶を破壊するにも、先ずはユラナスの塔の駆動機構と切り離してからでないと、塔自体が爆発してしまう恐れがあると言うので、サイードにその作業を頼んだ。
「――これで切り離しは成功です。昇降機も使えなくなりました。」
「ありがとうサイード。ところでエーテル結晶自体は破壊しても大丈夫なのか?」
「フェリューテラにある魔石を砕くのと一緒で、物理的な衝撃を加えても左程大きな問題はありません。ただこれほどの大きさの物を一気に砕くのは、さすがに危ないですよ。」
「いや、それは気にしなくていい。ディフェンド・ウォールを反転させてエーテル結晶を包み込み、外部に損害が行かないようにして、魔法で楔を打ち込んでから破壊するから大丈夫だ。」
「なるほど…ルーファスの防護障壁は、物質の保護にも使えるのですね。」
「ああ。エーテル結晶は俺が手で直接触れても問題ないか?」
「大丈夫ですよ。現にウェンリーはもう話も聞かずに触っていますし。」
「え…」
元々好奇心が旺盛なウェンリーは、俺がサイードからエーテル結晶の話を聞いているというのに、そんなこともお構いなしに台座に登ってエーテル結晶をコンコン叩いていた。
「ウェンリー!!」
俺は慌てて台座に駆け上がると、後ろからウェンリーの頭をポカッと殴った。
「あいてっ!!なんで叩くんだよ!?」
「おまえは…話も聞かずに勝手に触るんじゃない!身体に害があったらどうするんだ!!」
「話ならここで聞いてたって。大体にして触っちゃ駄目なら、真っ先にサイードがそう言うだろ?」
「その通りですね。」
「ぐ…」
サイードはウェンリーを過剰に心配した俺を見て、クスクス笑う。
「ルーファスも触ってみろよ、なんともねえから。」
「ああ、うん…まあそれはわかってるけど――」
言われるまま俺は、ぺたりと結晶に手で触れてみた。冷たくも温かくもなく、青く透き通っていてガラスの表面みたくつるっとしている。
これがエーテル結晶か…魔石と同じくなんらかの力は感じるのに、それの正体がなんなのか良くわからないな…。
そんなことを考えた瞬間、俺の中に突然、誰かの記憶が流れ込んで来た。
――無限界インフィニティアに、時間というものは存在しない。
そこに生きる者は己に定められた理に従って生き、やがて老いて死ぬ。我が輩もそうやって生き、いつか死ぬのだろうと思っていた。
我が輩の名はヴァシュロン・オーサ。かつて有翼蛇竜ケツアルコアトルの長だった者である。
我が輩の一族ケツアルコアトルには二つの故郷があった。一つは一族が生まれ増え過ぎたために、その狭さから残留する者と新天地に旅立つ者の二集団に分かれ、後者が無限界に去ることになった、隔絶界『アブエロノンナ』。
そしてもう一つは、我が輩が永きに渡り長を務めていた『イソボゾルグ』だ。
イソボゾルグはアブエロノンナから安住の地を求めて、宇宙に逃れた祖先が作り上げた隔絶界ではない集落だ。
それは遠い遠い遥かな昔のことで、当時のことを覚えているものは最早疾うに誰もいないが、地の神『アリグナク』様と光の神『レクシュティエル』様、時の神『ダン・ダイラム・オルファラン』様方のお力添えにより成せたのだという。
以降一族はその時より至尊の命を受け、インフィニティアの番人を任されてきた。それは本来『マナセルの門』を許可なく通り抜ける者を捕らえて処刑する、という役目であったが光の神と時の神はこれを良しとしなかった。
二神は至尊の命に逆らい、異世界から門を潜ってやって来た者を、殺すのではなく保護するようお命じになったのだ。
そうして我が輩らの一族は、時折異世界からやって来る者を捕らえると、保護の名目でオルファランに送り続けて来たのだった。
――そんなある日、インフィニティアに激震が走る。
果てのない無限界の最果て(そう言い表すしかないほど彼方にあると言われている)にあるという『永遠の牢獄』から、永久囚人(※至尊の命により死ぬこともないまま、永遠にそこから出られない罪人のこと)が脱走したというのだ。
前代未聞の事態に、直ちに全てのマナセルの門を閉じよという命が下された。門を閉じるのは番人『ウムルアト・タウィル』の仕事だ。それらは彼の神が振りかざした腕の指先で、一瞬のうちに閉ざされたのだった。
扉を閉じた番人が去った後、なんとしてもそれを捕らえよとの命令を受け、我が輩の一族は全ての門前で待機し囚人を待ち受けた。
そうしてその永久囚人は、他の誰でもない我が輩の前に姿を現したのだ。
全身を〝怒り〟で鮮血を浴びたかのような真紅に染め、醜く折れ曲がった背中に六本の腕が生えており、薄汚れた身には襤褸切れを纏っていた。
それは一言で言い表すなら〝化け物〟だ。振り乱す長髪の隙間から覗く、死人のように青白い肌と正気を失った真紅の瞳だけが、あらぬ方を見てギラギラ輝いていた。
その囚人は元が何者であったのかもわからぬほどに変異し、全ての世界に禍いを齎すという、伝説の『災禍の化身』となっていたのだ。
これを無限界から逃がすわけには行かぬ。我が輩はそう思い、命令通り捕らえて牢獄に送り返すために戦った。殺さず生け捕りにするよう厳命があったからだ。
だがその災禍の化身は完全に狂っており、我が輩の攻撃に対し反撃はするものの挙動は終始おかしく、自分が今なにをしているのかさえ理解していない様子だった。
そうしてそれは呪いの言葉でも呟くかのように、ただブツブツと同じ言葉を繰り返し続けた。
〝許さぬ…許さぬ…滅びよ、許さぬ…〟
――〝我が妻と子を返せ〟
一体この者になにがあったのか…正気を失った狂気の中で、それは絶望にただ涙を流していた。
災禍の化身となるほどにその怒りと悲しみは深く、罪を犯して永久囚人となったのだとしても、余程のことがあったのだろう。
我が輩はあろう事かその罪人に憐れみを抱いてしまった。
そんな心の隙を突き、我が輩の手が止まった瞬間に戦闘を放棄すると、それは脇を擦り抜けるようにして『マナセルの門』に突進して行った。
通常であらば一度番人によって閉じられた門扉は、番人によってしか決して開かぬ。それを知っていた我が輩が無駄なことを、と油断して見ていると、どういうわけか突如として門扉が開き始めたのだ。
慌てた我が輩が追いかけたところで、もう遅い。それはあっという間に扉の隙間をスルリとくぐり抜け、追うことの出来ぬ光の中に消え去って行った。
なんと言うことだ。なぜ門が開いた?我が輩は大変なことを仕出かしてしまった。そう思い血の気が引いた我が輩の前に、今度は開いていたマナセルの門の隙間から、災禍の化身と入れ替わるようにして子供が放り出されて来たのだ。
――それがクリスだった。
クリスはなんらかの方法で災禍の化身が開いた門に吸い込まれ、意図せずインフィニティアに来てしまった。
後で知ったのだが、災禍の化身は自分の身代わりに、どこかの門の向こう側付近にいる存在をこちら側に引き込むことを条件に、扉を開いたことがわかった。
それは門の番人であるウルムアト・タウィルしか知らないはずの極秘開法であったが、なぜか災禍の化身はそれを知っていた。
そうしてなんの罪もない幼きクリスは、身代わりとなってインフィニティアに連れて来られてしまったのだ。
無理もない話だが、突然見知らぬ世界に引き込まれ怯えていたところに、目の前にいた巨大な我が輩を見た瞬間、クリスは恐慌状態に陥った。恐らく我が輩に食われると思ったのだろう。声をかける間もなく悲鳴を上げて逃げ出してしまい、やがて逃走を手助けするようなバンシーの声に誘われて、制止も聞かず幻影門から『嘆きの澱み』に逃げ込んで行った。
我が輩はすぐにその後を追ったのだが、クリスは目の前でバンシーに攫われてしまい、苦労して助け出した時には既に呪いを身に受けた状態だった。
小さな身体で呪いに苦しむクリスをイソボゾルグに連れ帰り、動けるようになるまで娘と共に看病しながら心に誓った。
我が輩のせいで家族と友人から引き離され、呪いまで身に受けて苦しむことになったこの幼子を、これからはなにがあろうと我が輩が守る。
出来る限りこの子の望むようにして、この子が死を迎えるその時まで、命懸けて守ろう。
――その時我が輩は、そう堅く心に誓ったのだ。
「クリスを凍らせて眠らせる!?なぜだ、サイード様…!!」
ルーファスとウェンリーが人界に帰ったと知らされた後、サイード様に聞かされた話に、我が輩は驚いた。
二人が遠い未来から来た存在だったと言うこともそうだが、なによりもクリスがルーファス達と一緒に行くことを、なにも相談せずに決めていたからだ。
かつてケツアルコアトルの姿を最初に見て怖がったことを謝った時のように、成長した姿でも変わらず申し訳なさそうな顔をしてクリスが言う。
「…ごめんね、ヴァシュロン。でもボク、どうしてもフェリューテラに帰りたいんだ。」
既に知る人がいなくても、自分には一族の血を残すという使命がある。ルーファス達のフェリューテラには、クリスの同族が一人だけ残っていると言うのだ。
困惑する我が輩に追い打ちをかけるように、サイード様は仰った。
「私は自分の身体異常をルーファスに治して貰い、その際クリスを未来に送ることを約束しました。オルファランが破壊されない限り、安全な場所に装置を用意してあります。ヴァシュロン、クリスのためにあなたも手を貸して下さい。」
サイード様の研究能力の高さは良く知っている。安全を約束して下さった以上、クリスは眠ったまま永い時を過ごし、次に目覚めた時にはルーファス達の時代にいるのだろう。
クリスをラナンキュラスと同じ娘のように思い、手放したくないと反対するのは我が輩の我が儘だ。
それにルーファスは、絶望的だったクリスを死の縁から救ってくれた恩人だ。きっと我が輩の代わりに、クリスが幸せに暮らせるよう守ってくれることだろう。
別れは辛かったが、クリスの望みを叶えて送り出すのが我が輩の役目だ。
そうしてクリスは、また会えるんだからさよならは言わないよ、と言って微笑み、『冷凍睡眠装置<コールドスリープ>』の中で眠りについた。
我が輩はサイード様に無理を言って、度々オルファランを訪れては研究所に通い、装置の中で眠っているクリスに会いに来ていた。
クリスのいないインフィニティアは酷く寂しかったが、穏やかに眠るその姿を見守りながらなにごともなく日々は過ぎて行った。
――そんなある日、イソボゾルグに至尊からの通達が届く。
『時空神ダン・ダイラム・オルファランに叛意あり。時の領域オルファランを粛清す。何人も手を貸す勿れ。時空神側に付くものは全て同罪と見做す。』
お館様がまだ起きてもいない戦においての協力要請を拒否したことによる、私怨からの報復措置だった。
オルファランにはクリスが眠っている。我が輩は直ちに救援に向かおうと考えたが、一族は至尊に逆らえば自分達が滅ぼされると猛反対した。
それでも我が輩はクリスを守ると決め、一族は殺されたくないと言って我が輩と絶縁すると、イソボゾルグを捨てアブエロノンナに全員が直ちに逃げて行った。
「私は父上様と共に参ります。クリスは家族も同然…無関係な制裁に巻き込まれなければならない理由はありません。」
妻は去ったが娘のラナンキュラスだけが傍に残り、我が輩と娘は至尊からクリスを守るべく急ぎサイード様の元へ向かった。
「サイード様!」
「ヴァシュロン、ラナンキュラス…来てくれたのですか!」
会うなりサイード様からは、お館様に戦う意思はなく、至尊の攻撃に対し反撃はしないと仰っていることを聞かされた。
「永久の民はどうなるのです?お館様は見捨てられるのですか!?」
「ラナンキュラス、彼らはここを出て生きて行くことは出来ません。逃がすことも不可能なのですよ。そのことは民も理解しており、静かに死を迎えるために皆自宅に籠もっています。」
「そんな…!!」
「私にはどうすることもできず、永久の民はもう諦めるしかありませんが、クリスは違います。ルーファスとの約束を果たすためにも、あの子だけはなんとしても守らなければ…二人とも力を貸して下さい。」
――我が輩達がオルファランに辿り着いた時、そこには数え切れないほどの天兵(至尊の兵士)と神獣が破壊活動を行っていた。
ありとあらゆる魔法を使い、動植物を含めたオルファランの、生けとし生ける生命を屠って行く。やがてお館様は破壊し尽くされたオルファランを見捨て、城ごとどこかに消え去って行った。
その時のサイード様の激しい怒りと絶望が滲んだそのお顔を、我が輩は生涯忘れることはないだろう。
クリスの眠っているサイード様の研究施設は山岳地帯の地下深くにあり、ユラナスの塔からしか辿り着くことは不可能だ。
つまり天兵と神獣からユラナスの塔への侵入を防ぎさえすれば、冷凍睡眠装置で眠っているクリスを守り切れるのだ。
我が輩はユラナスの塔の機能と、警備機構を維持するための動力源である『エーテル結晶』を利用し、神力を使って戦い続け襲い来る天兵と神獣を退けた。
サイード様とラナンキュラスは、未知の道具を手にそれを利用して魔法を放ち続けている。
「サイード様、その箱は?」
一時的に攻撃が止んだ隙に、短い休息を取り、気になっていたその道具について尋ねてみた。
「ああこれですか?私は『魔泉箱』と呼んでいますが、無尽蔵に魔力が湧き続ける未知の道具なのです。真なる者の粛清が始まる直前、気づいたら私の研究所の机に置かれていたのですよ。」
我が輩はサイード様のその説明にギョッとした。
「そのような物を調べもせずに使用して大丈夫なのですか?危険なのでは…」
「問題ありません。…実は以前からこう言ったことは偶にあるのですよ。私がなにかに行き詰まった時や困りごとが起きた時、大きな異変が起きる前などに、必要になる物やどうしたら良いのかの解決法が記された紙などが、いつの間にか近くに置かれていたりするのです。…兄のギリアムが亡くなった直後からそんなことが度々あって、私は随分それに助けられてきました。そして今回も…不思議な話でしょう?」
サイード様はそれが誰の行いにせよ、こんなことをしてくれるのは間違いなく自分の味方だとして受け入れておられたが、我が輩であったなら不気味に思うところだった。
「もしやそれはお館様がなされているのでは?影ながらサイード様を助けようという親心なのでは…」
「まさか、それは絶対にあり得ません。お館様ほど私に厳しい親は、この世に存在しないのではないかしら。あの父は幼い頃から、私のほんの小さな願いでさえ聞き入れてくれたことは一度もありませんでした。このオルファランのことも…床に頭を擦り付けてまで助けて下さるようにお願いしたのに、見捨ててしまわれたでしょう。愛された思い出はあるので、お館様に娘に対する愛情が微塵もないとは言いませんが、少なくともそのようなことをして下さる方ではありませんよ。」
――そう言ったサイード様の瞳には、お館様に対する失望が表れていた。
その後至尊の粛清はいつまで経っても止むことはなく、我が輩達にも疲れが見えて来た。
このままではクリスを守り切ることは難しい。ラナンキュラスにも限界が近付いている。
サイード様には遠い未来で、クリスを無事にルーファス達の元に送り届けて貰わなければならない。まだ若い愛しい娘にも、このようなところで命を落として貰いたくはなかった。
そうして悩んだ末に、我が輩は思い至ったのだ。
サイード様の手にある『魔泉箱』を身に取り込み、永遠に尽きぬ魔力とエーテル結晶を用いた神力があれば、我が輩のみでここは守り切れるはずだと。
娘にはサイード様の手を借りて人界に行き、ルーファスにこのことを知らせ助力を仰ぐようにと言い付け、サイード様にはクリスが目覚めた後のことをお願いすることにした。
娘を人界に行かせたのは、真実ルーファスを呼びに行かせるためではない。我が輩亡き後至尊に罰せられないように、インフィニティアから逃がすためだ。
サイード様は我が輩の目論見に気づいていらしたが、ラナンキュラスを守ることになにも言わずに協力して下さった。
娘が人界に渡れば、再びサイード様の手を借りない限り戻って来ることは叶わぬだろう。だがそれで良いのだ。サイード様はそれを承知で娘に必ず迎えに行くと嘘を吐き、ラナンキュラスを人界へ送って下さった。
我が輩の優しく強く賢い娘なら、そこがどこであろうとも、人に紛れて生きて行くことは出来るであろう。
騙されたと気づいて父を恨んだとしても、生きていてくれればそれで良い。
――娘を逃がし、サイード様に後のクリスを託すと、我が輩はサイード様が気を逸らした隙に『魔泉箱』を奪って飲み込んだ。
サイード様は我が輩がただ使用するのではなく、体内に取り入れたことをお怒りになり、すぐに吐き出すよう仰って下さったが、これでいいのだ。
これで我が輩は一人でも、クリスを最後まで守ることができるであろう。
クリス…我が輩のもう一人の娘よ、どうか幸せに――
――それはヴァシュロンの記憶だった。
ハッとして我に返ると、隣にいたウェンリーと後方にいたサイードも、夢から覚めたかのような表情をしている。どうやら今の記憶は三人同時に見ていたらしい。
「今のって…?」
「ああ、ヴァシュロンの記憶だ。このエーテル結晶から流れ込んで来たみたいだな。」
ヴァシュロンの記憶…そこには、俺の予想外の情報も含まれていた。
全身を真紅に染めた〝化け物〟。ヴァシュロンが『災禍の化身』と呼んでいた、あの真紅の長髪に真紅の瞳を持つ存在は――
「ルーファス、ウェンリー!!すぐにそこから離れなさい!!早くこっちへ!!」
サイードのその声に、俺とウェンリーはすぐさま台座から飛び降りた。
「サイード!?」
ジリジリと後退るサイードの元まで駆け付け、驚愕の表情を浮かべている彼女の視線の先を振り返って見上げると、エーテル結晶の表面に波紋のような揺らぎが生じており、その中心から大きな手のようなものが生えていた。
「な、なんだありゃ…人の、右手!?」
そこから先ず始めに、青く透き通った結晶と同色の右腕がにゅうっと伸びた。続いて同じように左腕が伸び、その両腕が波紋の両脇を掴んで這い出るように、ずいっと上半身が飛び出して来た。
俯く頭には長く伸びた髪と見覚えのある角が二本、生えている。俺達が知る、人型の彼よりも三倍は大きいだろうか。だがその姿形は彼そのものだ。
波紋の中心から完全に這い出たそれは、やがて体重を感じさせない軽さで、音も立てずにふわりと地上に降り立った。
「ヴァ、ヴァシュロン…?」
俺は思わずその名を呟く。
――そこに現れたのは、エーテル結晶でできた、ガラス細工のようなヴァシュロンだったからだ。
遅くなりました。次回、仕上がり次第アップします。いつも読んでいただき、ありがとうございます!