156 奪われた光
憲兵から持ち込まれた事件の扱いをどうするのか、イーヴとトゥレンはライの寝室前で話をしていました。イーヴの提案で方針が決まり、魔物が関わっている可能性を考え、イーヴはSランク級パーティー『太陽の希望』に依頼することにしたようです。話が纏まったと思ったその直後、寝室からペルラ王女の声が聞こえて…?
【 第百五十六話 奪われた光 】
「『太陽の希望』…マクギャリー軍務大佐のご子息である、ウェンリー君が所属しているパーティーか。確かおまえとヨシュアがルクサールに調査で赴いた際にも、危ないところを助けられたことがあるのだったな。」
イーヴの口から出たその名前に、トゥレンは以前二重門の前で最後に会ったウェンリーとルーファスの顔を思い浮かべた。
ツンツンした赤毛の短髪に琥珀色の瞳を持つ青年と、非常に目立つ銀髪を持っているのに、それとは意識させずこの国の人中に完全に溶け込んでいた若者。
明るくて愛想の良いウェンリーに対して、軍人を嫌っている様子だったルーファスは、年若い外見からは想像できないほどの強者の風格と、恐るべき実力を隠し持っていた。
まだ実際にこの目でその戦いぶりを見たことはないが、イーヴやヨシュアからその圧倒的な剣技と、強力な魔法を使い熟すという戦闘能力について聞いている。
確かに彼らならば、イーヴの言う条件に最も適した守護者だろう。トゥレンはそう納得する。
「ああそうだ。結成して僅か一日でSランク級に昇格したという彼らのパーティーなら、なにがあっても対処可能だろう。私と貴殿、ヨシュアにライ様も、リーダーの顔を見知っているという点でも頼みやすいのだ。」
「…そう言えば今思い出したが、以前彼らからライ様に面談の申し込みがあったのではなかったか?」
「リーダーのSランク級守護者からだな。我々が護印柱の調査に向かった日の朝のことだ。こちらからの連絡を希望しないとの申し出で、緊急ではないことからライ様への報告にも上がっていない。依頼内容の説明時に顔を合わせるだろうから、その件についても尋ねてみようと思っている。」
「そうか…わかった、その辺りはおまえに任せよう、イーヴ。」
「ああ。話は以上だ、また貴殿の判断を仰ぐ必要がある案件が出た際には――」
一通りの話が済み、イーヴがやり取りを終えようとしたその時だ。トゥレンの背後にあるライの寝室から、ペルラ王女の声が響いた。
「トゥ、トゥレン様!!トゥレン様いらして下さい、ライ様が!!」
「「!?」」
その声にトゥレンはすぐさま扉を開け、イーヴと共に室内へ駆け込んだ。すると――
「ライ様…?」
寝台の上でペルラ王女に支えられながら上半身を起こす、意識を取り戻したライの姿が二人の目に飛び込んで来た。
「ライ様!!」
イーヴとトゥレンはライに駆け寄り、すぐに室内が慌ただしくなる。
「ライ様のお目覚めを国王陛下にお知らせ致します!」
「お願い致します、王女殿下。」
ペルラ王女の申し出にイーヴが頷き、王女は寝室から急ぎ足で出て行った。トゥレンはすぐに診察を開始し、ライの腕に触れて脈拍を測る。
「ライ様、ご気分はいかがですか?どこか痛むところや、吐き気がするなどございませんか?」
「……」
ライの状態を調べるため衣服の前をはだけて、トゥレンは医療器具を胸に当てながら尋ねる。だがライはまだ意識が朦朧としているのか、返事をしなかった。
「胸部の内音は問題ない。イーヴ、ライ様に浸透補給水を。」
「ライ様、浄化石を通した浸透補給水です。魔力が含まれているため、失われた栄養素と水分を瞬時に補給してくれますので、お呑み下さい。」
グラスに注いだ白く濁りのある液体を、イーヴはライの前に差し出す。ライは言われるままにそれを手に取ろうとして、右手を動かした。…が、その手があらぬ方向で空を彷徨う。
「ラ…ライ様?」
異変に気付いたイーヴとトゥレンが戦慄して凍り付いた瞬間、ライが凡そ二週間ぶりにその声を発した。
「――暗い…なにも見えない…俺はまだ闇の中にいるのか…?」
ライの瞳はなにも映さなくなっていたのだった。
* * *
『――ここが立ち入る人間を国に管理されているという、アパトの古代遺跡か。』
眼下に見える発掘中の巨大遺跡と、その周囲に張られた数多くの露営用天幕、そして遺跡とは反対方向に向かって伸びる街並みを見て、崖上から銀狼化したシルヴァンは呟いた。
恐らくこの場所は、かつて小高い丘か、標高の低い里山のような地形だったに違いない。
今シルヴァンが立っている場所は緩い坂のような傾斜があり、こちら側は切り出されていないためか、人の手が入らない鬱蒼とした森に雑草が生い茂っていた。
地中からほぼ天井の上まで、前面部分が掘り出された古代遺跡は、まるでたった今そこに建てられている最中のように足場が組まれており、作られた当時のままを思わせる風貌で鎮座している。
他の遺跡とはどこか異なる姿に、シルヴァンは一目で理解した。間違いない、この古代遺跡の中に『無の神魂の宝珠』は安置されている。
明確な根拠はなくても、ルーファスを通して繋がれた『魂の絆』がそう言っていた。ログニック・キエスの言う、『眼鏡をかけた生き字引』はここにいるのだと。
『ルーファスのいないわけを話せば激怒するであろうな。千年振りに責められるのは少々複雑だが、致し方あるまい。我らにはイスマイルの知識が必要だ。』
あの日ルーファスとウェンリーが目の前で消え、その場に残されたシルヴァンとリヴグストは、すぐに地面の魔法陣に踏み込んで後を追おうとした。…が、二人が飲み込まれた後、仕掛けられていた設置魔法陣は跡形もなく消えてしまい、ルーファス達がどこに飛ばされたのかもわからないままだった。
発動した魔法陣の光から、シルヴァン達にはあれが『時空転移魔法』であることをわかっていたため、初日はその場で帰りを待った。
だが二人が戻ってくる気配はなく、事前に受けていた緊急魔物討伐の依頼だけは熟すと、以降三日の間はバセオラ村に戻って待機していたのだった。
当時シルヴァンはリヴグストをその場に残して、いの一番に黒鳥族の長『ウルル=カンザス』の元へ行き、ルーファス達の捜索を頼んで、フェリューテラのどこに現れたとしても、遣い鳥による連絡が入るようにだけは手を打ってあった。
だが七日が過ぎてもルーファスとウェンリーは戻らず、そうしてリヴグストとどうするかを話し合った結果、ログニック・キエスから齎された情報を元に、先に『イスマイル・ガラティア』を探すことにしたのだった。
『予らと全く関わりの無い人間が、神魂の宝珠に封印されたイスマイルの存在を知っているとするのなら、その理由は明白ぞ。予やシルと同じように既に覚醒した彼女は、仮の身体を得て行動し、周囲で人との関わりを持っているに違いなかろう。』
数日前、バセオラ村での話し合いで、リヴグストはそう言った。
『まだ確定したわけではないが、ネビュラ・ルターシュの例がある。神魂の宝珠がこの国の王族の手に渡っている可能性はどう考える?あれはルーファスの魔力塊だ、その利用価値は計り知れぬ。』
『それはまずないであろう。予らの本体が眠っていた部屋の構造を思い出してみよ。何重にもかけられた強化魔法で保護され、扉や壁を破壊することは天災でも不可能だった。神魂の宝珠が安置された地にある、あの守護七聖主の扉を、力ずくで開けられる者は存在せぬだろう。恐らく彼女のことだ、なにか理由があって、自ら人間に接触したのではないかと予は思うぞ。』
――先日のそんな会話を思い出し、確かにそうかもしれぬ、とシルヴァンは思う。我の良く知るあのイスマイルが、脅しなどに屈して囚われている姿など想像も付かないのだから。…そう心の中で苦笑した。
「聞こえるか?リヴ。ようやく "アパト" に着いた。」
シルヴァンは人化して木陰に身を潜めながら、首に提げた紐付きの共鳴石を右手で口元に運ぶと、周囲に気をつけながら小声で話しかける。共鳴石での会話は思念伝達で行えないため、一度人の姿に戻る必要があったのだ。
シルヴァンの問いかけにすぐさま反応があり、聞こえて来たのはリヴグストの少し安堵したような声だった。
『聞こえるぞ、シル。そなたにしては随分と時間がかかったな、なにか道中にあったのか?』
今リヴグストはルーファスの定めた『太陽の希望』の拠点である、獣人族の隠れ里『ルフィルディル』に待機している。
場の状況によっては大事になるため、リヴグストの方からは連絡しないように決めてあったせいか、到着連絡の遅いシルヴァンのことを心配していた様子だ。
ルーファスとウェンリーがいない中、この上我にまでなにかあったらと大分不安だったらしいな。そう見抜きシルヴァンは微苦笑する。
「うむ、街道を守護騎士の検問が塞いでいたのだ。銀狼姿なら迂回すれば気に止めることもないが、あまりにも長い人の行列が出来ており、なんのためのものなのかと調べるのに手間取った。」
『ふむ…して?』
「並んでいる当人達もよく状況を飲み込めていないようでな、話を聞いても今一つ要領を得なかったのだが、どうやら旅人の所持品を調べるためのものであったようだ。」
『街の入口でなく、そのような場所でか?魔物に襲われる危険もあるだろうに、少し妙であるな。』
「詳しい理由はわからぬが、エヴァンニュでなにか起きたことが発端のようだ。検問も一箇所で行っているわけではなかったそうだが、騎士達も〝街に入ってからでは遅い〟とか、〝全ての魔法石を調べろ〟などとかなり苛立っている様子だったぞ。これについては国内にいるリヴの方が情報を集めやすいかもしれぬ、ウースバインを使って直近で起きている事件をすぐに調べるよう伝えてくれ。」
『了解した。無事にその地でイスマイルを見つけたらまた連絡をくれ。再会しても説教は甘んじて受け入れ、彼女と揉めるでないぞ。』
「ぐう…言うな、わかっている。」
リヴグストの最後の言葉に、シルヴァンは詮無い顔をして了承した。
共鳴石での会話を終えると、シルヴァンはまた銀狼になって素早く移動し、隠形魔法『ステルスハイド』を使用しながら、崖下に降りて遺跡周囲にいる守護騎士の様子を窺った。彼らは民間人と違い、一目でそれとわかる騎士服を着ている。
――やはりかなり厳重な警戒だな。入口に見張りが二人と…あれは結界石による侵入者対策の魔法障壁か。
正面に一箇所しかない遺跡入口の前には左右に守護騎士が立ち、引っ切りなしに出入りする人間を監視している。おまけによく見ると、魔法による障壁が薄ら光を放っていた。
光属性が主属性のシルヴァンにとって、効果消去魔法『ディスペル』を使うのは容易だ。だがシェナハーン王国の人間は、総じて魔法を使うため、障壁が消えればすぐに気付き、姿を消していても侵入者がいるとばれてしまうだろう。
さて、どうするか。シルヴァンは考える。そうしてなにか思いついたのか、銀狼の口角をニヤリと人のように上げた。
――どちらにせよ夜になってからだな。
思いついた案を実行するのは人の減る深夜にすると決め、シルヴァンはまた移動してから適当な場所に寝そべると、行き交う人間を具に観察し始めた。
考古学に携わる者、それに従属する者、それらを相手に商売をする者、国に属する騎士の上下関係や、ただの見物人など、目に見える人の動きを追って行く。
そうして見つけた。他の人間が使う言葉に気をつけ、対等に話しているように見えて、態度で確実に敬っている者。
――あれがログニック・キエスの話にあった、前国王夫妻の娘…『スザナ』だな。
少し大人びているが年令はまだ十二、三の子供に見える。狐色の肩上までの髪に、深緑のような緑の瞳。王族とは思えない活動服に、傍にさりげなく二名の護衛騎士が付いている。
両親と同じく既に考古学に携わっており、少女らしさはあまりない利発そうな子供だった。
いざとなれば、あれを利用しよう。シルヴァンはそう決めると、少女が入って行った天幕の場所をしっかり覚える。
≪…ルーファスに食い下がっていたところを見るに、ここで待ち伏せている可能性も考えていたが、あの騎士はいないようだな。≫
最後は敷地内にログニック・キエスが現れないことを確認すると、予想外の事態になることも想定し、逃走経路を決めてシルヴァンは全ての準備を整えた。
深夜、遺跡周囲から守護騎士を残して殆どの人間が退けると、シルヴァンは風上に立って、そよ風を起こす風属性補助魔法『ブリッサ』を使い、予め用意しておいた『精霊の粉』を散蒔いた。
風に乗って遺跡周辺を漂うそれを吸い込んだ騎士達は、異変に気付く間もなくバタバタと倒れ、その場で深い眠りについてしまう。中にはグオーグオーと獣のような大鼾をかいている、かなり疲労の溜まった人間もいるようだ。
ルーファスが精霊族の女王マルティルから贈られて、シルヴァン達にも分け与えられた『精霊の粉』は、水に溶かして使うなどの用途外にも、人間であれば睡眠耐性を無視して眠らせることの出来る強力な精霊具だ。
シルヴァンはそれを利用して、守護騎士を含めた効果範囲全ての人間を眠らせると、素早く魔法障壁をディスペルで消去してから遺跡内に侵入した。
未知の遺跡探索時、普段ルーファスは自己管理システムで表示される地図を頼りに進んでいるが、それを持たないシルヴァンは、自分で知覚しながら地形や通路、内部構造を記録する技能『マッピング』を使用して探索して行く。
と言ってもその嗅覚で様々な匂いを嗅ぎ分けることが可能で、人が頻繁に出入りしているような場所であれば、それがどこを通りどこへ向かっているかを知るのも容易なのだった。
そうしてシルヴァンは迷うことなくほぼ一直線に、短時間で『その場所』へと辿り着いた。
そこは複雑な順路を辿る遺跡の上階で、最上階へと続く階段の上には、予想通り『守護七聖主』の紋章が刻まれた扉があった。当然だが、ルーファスとキー・メダリオンが揃わなければ、なにをしてもその扉は開かない。
シルヴァンは扉が無傷であることだけを確かめると、それを無視して階段手前にある通路に入り、多くの人が通った匂いのする痕跡を辿って、最奥にある明かりの灯った部屋へと足早に進んだ。
通路の先に見える、扉のないその部屋の前に、見張りをする守護騎士の姿はない。それでもシルヴァンは慎重に近づいて行き、入口からこっそり顔だけを出して室内を覗き込むと、そこに見えたあり得ない光景に吃驚して目を丸くした。
≪な…なんだ、この部屋は…!?≫
その部屋は古代遺跡の中とは思えないほどに、豪奢な家具が設えられていた。だだっ広い室内の壁には、分厚い本のギッシリ詰まった本棚がずらりと並んでおり、その前に見るからに高級な机と椅子が置かれている。
天井には明光石のシャンデリアが点けられていて、窓のない室内を昼間のように煌々と照らしていた。その上反対側の壁際には、木製の木彫り細工が施された衝立があり、その影にふかふかの寝具が乗せられた寝台と、サイドテーブルまでが置いてあった。
思わずシルヴァンは来る場所を間違えたのか、と目を疑った。ここが遺跡内部でなければ、王侯貴族の住む城の一室かと勘違いするところだ。
半ばそう呆れながら、人気のない室内に足を踏み入れる。毛足の長いふかふかの絨毯に、肉球が触れて気持ちが良い。ほんの一瞬、さっきまでの警戒心が薄れた。
我の勘が正しければ、ここに彼女がいるはずだが――
その姿を探して部屋の中央まで進んだシルヴァンは、突然入口を塞ぐようにして背後に現れた気配に飛び退くと、反射的に銀狼姿で警戒態勢を取った。
身を低くして、いつでも相手に飛びかかれる態勢を取り、その気配の主を見上げる。するとそこには、冷ややかな視線でシルヴァンを見下ろす、ラベンダー色の髪に紫の瞳の、眼鏡をかけた女性が腕を組んで立っていた。
ハッとしたシルヴァンはサーッと青ざめ、その顔を見てすぐに察した。
――まずい、此奴我がなにか言う前に、既にルーファスの不在を察して怒っておる!
『――ご機嫌よう、シルヴァンティス。なぜあなたはお一人なのかしら?』
頗る不機嫌な顔で、今にもその頭の左右からにょきにょきと角が生えて来そうなほどに、冷たい声で眼鏡女性の声が降る。
『イ、イスマイル…!待て、我は…!!』
慌てたシルヴァンは千年前の癖が出て、ほぼ反射的に両耳と尻尾を垂れ下がらせると、即座に言い訳をしようとした。だがその言葉を遮り、女性は物凄い形相でキッと睨んだ。
『お黙りなさい!わたくしが良いと言うまで、あなたから話すことは許しません。先ずはなによりも、聞きたいことがありますわ。』
ピシャリと言葉でシルヴァンを威圧すると、彼女は身を屈めてその顔を覗き込んでから、『ルー様はどこです?』と、問いかけた。
彼女の言う "ルー様" とは、勿論、主であるルーファスのことだ。
『いいえ、尋ねるまでもありませんわね…ここに一人で現れた時点で知れるというもの。わたくしが思いますに、あなたのことですからきっと、ルー様の行方を見失ってしまったのでしょう。しかもこれが初めてのことですらないですわね、何度目なのです?』
『なっ…なにを言う!!我はきちんと主の傍について――』
彼女はビシっとその人差し指を突き付けて、また遮る。
『嘘おっしゃい!その垂れ下がった両耳と尻尾が言っています。少なくとも三度、あなたはルー様を見失ったでしょう。』
――な…、なぜばれる!?…と、シルヴァンはタジタジになった。
一度目はノクス=アステールで眠っている間にルーファスが消えた時。二度目はバセオラ村でルーファスがグリューネレイアに黙って行った時。そして三度目が今回だ。確かに三度、シルヴァンはルーファスの行方を見失っており、今回に至っては未だなんの手がかりも掴めていなかった。
だからこそリヴグストと話し合って、先にこの目の前の彼女を探すことにしたのだが――
アテナよりも少し濃い、ラベンダー色の髪をきちんと纏めてアップにし、金色の縁の丸い眼鏡をかけ、アメジストのような紫色の凜とした瞳がシルヴァンを見る。
身につけている衣服は、ハイネックの白シャツにスラッとした緑のワンピースと、薄手のカーディガンという彼女らしい出立ちだ。
昔からシルヴァンには風当たりが強く、不機嫌な顔ばかりをしているが、ログニック・キエスが口にした通り、マリーウェザー一筋のシルヴァン以外には『絶世の美女』と言っても過言でないほどの美人だ。
シルヴァンやリヴグストと同じく、魔力から作り出した〝仮の身体〟で今は動いている彼女が、"眼鏡をかけた生き字引" と呼ばれる人族の才女『イスマイル・ガラティア』だった。
『ぐう…相変わらずだな、イスマイル。だが我も千年の間に少しは成長したのだ、言い分はあっても昔のように喰ってはかからぬぞ。』
『まあ、それで?言いたいことがあるのなら聞きましょう。さあ、どうぞ。』
眼鏡をくいっと持ち上げながら言う、その高慢な態度にムッとしながらも、シルヴァンは一度息を吐いてから、落ち着いて素直に頭を下げた。
『――すまぬ、イスマイル…そなたの言う通りだ。我とリヴグストは、皆に先んじて封印を解かれた身でありながら、主が罠に嵌まって消えるのを、なにも出来ずに目の前で見ていた。それきりルーファスの行方は杳として掴めぬ。故にそなたの力を借りたい。今日はそのために来たのだ。』
『………。』
頭を下げたシルヴァンに対し、素直に謝ったのが意外だったのか、イスマイルは無言でぷいっと視線を逸らすと、『謝るよりも前に、いい加減に人の姿を見せてはくれませんの?』と、小さく呟いた。
そう言われて、ずっと銀狼姿のままで話していたことに気付いたシルヴァンは、すぐに人の姿を取ると苦笑して「これで良いか?」と両手を広げた。
そのシルヴァンの腕の中に、一瞬の間を置いてイスマイルは涙を浮かべながら飛び込んでくる。シルヴァンは少し驚いた顔をして、二人は再会をやり直すように抱きしめ合った。
小さく肩を震わせて、イスマイルは優しい声で話し出す。
『――シルヴァンティス、良く無事で…リヴグストの封印も既に解かれているのですね?ルー様にお会い出来なかったのは残念ですが、あなたとだけでも再会出来てこんなに嬉しいことはありません。』
「…我もだ。早々に怒らせてすまなかった。リヴも会いたがっていたが、そなたがこの国でどのようなことになっているのかわからなかったのでな、今回は我だけがここを訪れることにした。守護騎士がそなたの情報を持って我らの元を尋ねてきたのだが、どうなっている?」
シルヴァンから離れて涙を拭うと、イスマイルは才女の顔をして頷いた。
『ログニック・キエス魔法闘士のことですわね?誤解のないように、このシェナハーン王国という国と、現在のわたくしの関係について説明しますわ。過去天災が起きることを予測して警告し、それで多くの人が実際に何度も難を逃れたことから、彼らはわたくしを守り神のように崇めています。入口に守護騎士が立ち、魔法障壁で許可なく侵入する者を弾いていますが、監視されていたり脅迫されているわけではありませんの。』
「ふむ…確かにあの騎士もそなたのことを『守り神』だと口にしていたな。だがイスマイル、我らはどこの国にも属さぬ。ルーファスが封印を解けばそなたもここを出ることになるのだ、一国に肩入れするでないぞ。」
『ええ、当然ですわね、わかっておりますわ。』
イスマイルはほんの一瞬だけ目を伏せると、すぐに顔を上げた。
『あなたはなにか道具を使用して、周囲の人間を眠らせたようですわね。正面から守護騎士を通して来たのではないと言うことは、ルー様はシェナハーン王国を警戒していらっしゃるのですわね?』
「その通りだ。眠りの効果はそこまで長くない、積もる話は後にし本題に入ろう。」
♦ ♦
「――いかがですか、ライ様。僅かでも瞼に明るさを感じませんか?」
ペルラ王女を出迎えたあの日から、いったいどれぐらい経ったのだろう。
今日がいつなのかを尋ねる間もなく、イーヴとトゥレンは俺が視力を失った原因を調べている。
今はトゥレンが俺の閉じた瞼に、明光石の携帯光を翳しているようだ。目に見える真っ暗な闇が、ほんの少しだけ灰色に変化したように思えた。
「…わからないが、僅かになにか感じるような気はする。微かだが、目に見える暗闇が薄らいでいるような…」
今の俺に、トゥレンのその表情を見ることは出来ないが、その分気配には敏感になり、ホッとしたような安堵の息を吐いたのは、なんとなくだがわかった。
「僅かでも光を感じることが出来ているようです。ライ様ご安心下さい、目が見えなくなったのは、猛毒を摂取したことによる一時的な後遺症だと思われます。多少時間はかかるかも知れませんが、お身体が回復なさるにつれ、元通り見えるようになるでしょう。」
トゥレンの声が明るさを取り戻し、俺を気遣うようにそう言った。
「…完全に失明したわけではないと言うことか…喜ぶべきか複雑だな。目が見えなくなれば俺は役立たずだ。身体に瑕疵のある者は近衛に在籍できなくなる。そうなれば王宮近衛指揮官の任も、すぐに解かれることとなっただろうに。」
暫くは療養のために、休暇を取らされてここに閉じ込められ、監視をつけられて一人で出歩くことも許されなくなるだろう。
どうせ殺すつもりなら毒を盛った上に心臓に剣でも突き立てて、完全に息の根を止めてくれれば良いものを…なんとしても俺を殺そうという殺意の割りには、中途半端な奴らだ。
「ライ様の水差しに混入されたのは、『死神の血』という名の猛毒でした。エヴァンニュ国内では入手困難な毒薬で、一般の民間人が手にするには非常に高価な代物です。」
「……いくら王宮勤めの使用人でも、城に上がって左程経っていない侍女には過ぎた薬だな。…アルマが本当に犯人なのか?」
「――ライ様の水差しに薬を入れたのは自分だと、自白しております。誰かに指示された可能性や、騙された可能性、知らずにそうした可能性も考えられましたが、毒の入手経路については愚か、一切口を割りません。」
「……そうか。」
アルマ・イリス…裏表のない、素直な娘だと思っていた。彼女に恨まれるようなことをした覚えはない。いつも部屋を綺麗にしてくれて有り難いと、感謝していたくらいだった。
だがそれでも、本当に俺を殺そうとしたわけではないと、心から信じられるほどの感情を持ってはいなかった。
イーヴの話では単独犯としての有罪が確定すれば、表向きは懲役刑であっても、あの男が裏で必ず極刑に処すだろうと言っていた。
俺に薬を盛ったと認めているのなら、犯人であることは間違いないのだろう。他に毒薬を用意した黒幕がいようといまいと、正直に言ってどうでも良いな。
この暗闇の中、今は怒りさえ湧いて来ない。
「…ライ様、俺になにか御用はございませんか?して欲しいことや、お食べになりたい物など、なんでもご遠慮なくお言いつけ下さい。俺にできることであれば、なんなりとご用意致します。」
まだ自力で起き上がることも出来ない上に、文字を読むどころか人の顔さえ見えないというのに、そんな欲求などどこから湧いて来るんだ。
――トゥレンの俺を気遣った話し方に苛立つ。医者が患者にするように、静かに言い聞かせるような声が癇に障る。…それなのに、指先にさえ力が入らず、声を荒げることすら億劫だった。
「なにも要らん。…診察が済んだのなら一人にしてくれ。疲れたから少し眠りたい。」
寝台に横たわる俺の、右側にいるらしきトゥレンから顔を背ける。寝返りを打って背を向けることさえ出来なかったからだ。
「…畏まりました。隣室に待機しておりますので、なにかの際はすぐにお呼び下さい。一時間毎に様子を見に参ります。」
悄気たような覇気のない声でそう言うと、俺のすぐ脇で椅子のガタン、という音がして、トゥレンの気配が遠ざかって行った。
――あいつにして欲しいことなどなにもない。身体を動かすこともままならないが、俺が望んでいるのはただ一つだけだ。
「…リーマ…。」
ライが弱った身体で動けずに寝台で横たわっていた頃、王国軍兵士官学校内の中庭に、教官である『ティトレイ・リーグズ』と、既に退学したはずの『ジャン・マルセル』がいた。
二人は並んで花壇の縁に腰かけて、なにやら深刻に険しい顔をしている。
「――もう二週間以上になるんだぜ?俺にいつでも会えるようにってくれた、このミスリルの標板を見せても、城の衛兵に追い返されるんだ。ライは今誰とも会うことが出来ないって。…いくらなんでもこんなに姿が見えないなんて、おかしいだろ?」
「…うん、確かにそうだね。最後に会った時の口振りでは、君にすぐにでも実戦を兼ねた剣技指導を行うようなことを言っていたのに、先輩らしくはないな。」
「だよな。ライが俺との約束を破るはずねえし…リーグズ教官、軍の方からなにか聞いてねえ?」
「いや…特に近衛に変わりはないと思うし、ウェルゼン副指揮官とパスカム第一補佐官、それにルーベンス第二補佐官も通常通りだと聞いているよ。これと言ってライ先輩の噂話が流れているようなこともない。…だとしても、そろそろマルセルのように、様子がおかしいと思う人間が出て来てもいい頃だね。」
二人は互いに顔を見合わせて、一抹の不安に表情を曇らせる。ライに剣を教わる約束をしていたジャンは、ペルラ王女が来る前に最後にライに会ったきり連絡がつかなくなり、城へ行っても会えないことに心配してティトレイに相談に来たのだった。
「ライに…なにかあったのかな?俺、ちらっと嫌な話を聞いちまったんだよね。」
「うん?」
「ライって民間人の多くに好かれてるけど、軍内部や一部の貴族からは煙たがられてるって…そのせいでつまらない嫌がらせされたり、襲われて怪我したこともあるとか、苦労が絶えねえらしいんだ。」
「ああ、そう…まああの年で王国軍の最高位にいらっしゃるからね、そう言った妬みや嫉みはよくあることだよ。ただライ先輩はそんなことに負けるような方ではないと思うけれどね。」
「ははっ、そうだよな!ライならなにかされても、返り討ちにしそうだもん。」
ティトレイの言葉に同意して笑いはしたものの、ジャンの瞳には不安の色が浮かんでいる。そのジャンの懸念を汲んだティトレイは、かつての怪我が原因で、もうぼんやりとしか見えないその目を、色つきの眼鏡向こうで細めて微笑んだ。
「そんなに心配なら、俺の方でライ先輩が今なにをされているのか、調べてみようか。」
ティトレイの申し出に、ジャンはパッとその表情を明るくした。
「本当か!?」
ティトレイは頷く。
「これでも士官学校の教官だからね。対魔物戦闘の訓練プログラムの件もあるから、近衛に出向いてもおかしくはないんだ。仕事の相談も兼ねて、ウェルゼン副指揮官にでも話を聞いてみるよ。それでいいかな?マルセル。」
「ありがとう、リーグズ教官!!ライがどうしてんのか、なんかわかったらすぐに教えてくれよな。」
嬉しそうにそれだけを言って立ち上がると、ジャンは大きく手を振って足早に中庭から出て行った。
その場に残ったティトレイは、服についた土汚れを払うと、立ち上がってジャンが去って行った方向を見つめる。
「――ライ先輩にはね、見えない敵がとても多いんだ。なにかあったんじゃないといいね。…もう、手遅れかもしれないけれど、君も巻き込まれないように気をつけた方がいいよ…ジャン・マルセル。」
憂いを含んだ表情でそう呟くと、引き攣った顔左半分の縦創に触れ、ティトレイはゆっくり歩いて校舎の中へ帰って行くのだった。
次回、仕上がり次第アップします。