154 叶えられた願いの先に…
〝それを消すと後悔する〟と、金髪の少年に言われたルーファスは、悩んだ挙げ句に結論を出しました。目を開けたサイードに声をかけ、状況を説明しますが…?一方、〝小まめに会いに来る〟と言ったライが、もう何日も姿を見せず、不安に駆られたリーマは舞台上で倒れてしまいました。仕事を早引けしてジョインに送られ、アパルトメントに帰ったリーマでしたが…?
【 第百五十四話 叶えられた願いの先に… 】
俺が用意した寝台の上で、意識を取り戻したサイードがゆっくりと目を開けた。ずっと仮死状態だった彼女は二度ほど目を瞬かせると、夢から覚めたかのようにぽーっとしながら上体を起こした。
「サイード。…サイード、大丈夫か?」
俺とウェンリーはその傍らに寄って、腰かけるように足を降ろしたサイードが立ち上がろうとしたのを押し留めた。
「私は…」
「一時間以上も仮死状態だったんだ、まだ立ち上がらない方がいい。」
「……仮死状態?…どういうことです、あなたは私を殺してくれたのではなかったのですか?」
開口一番にそう返したサイードに、俺は戸惑う。殺してって…そんなに死にたかったんだろうか?
「俺はあなたの頼みを理解して引き受けはしたが、殺すことを承諾はしていない。目的は封印を解いて魔力回路を正常に治すことだろう?それが叶うのなら死ぬ必要はないはずだ。」
「な…では封印は?解けたのですか?」
「――ああ、ちゃんと消えたよ。魔力回路も正常に治した。あなたの研究結果が正しければ、時魔法も使えるようになっているはずだ。仮死状態にすることをあなたに黙っていたのには理由があって――」
俺が説明を全て言い終わらないうちに、サイードは大きく見開いた目を期待に輝かせ、寝台に腰かけたまま手元に魔力塊を出現させると、いきなり時属性魔法を放った。
「時の流れよ、我に従え『クロノシフト』!」
「ちょ…サイード!まだ話が…」
サイードの右手に練られた魔力塊が、出現した灰色の魔法陣の上で一気に巨大化し、次に「リバースシフト」と聞こえた瞬間、今度はあっという間に小さくなって消滅した。
どうやら今の魔法は指定対象の時間を一気に進めたり、戻したりする時魔法みたいだ。
その魔法が発動して消えると、サイードは魔力塊が消えた右の手の平を上に向けたまま、それを見つめ固まって動かなくなってしまった。
俺とウェンリーは顔を見合わせ、どこか具合が悪くなったのかと心配した俺は、慌てて硬直した彼女に手を伸ばした。
「サ、サイード?」
次の瞬間、その金色の瞳から歓喜の涙が溢れ出てくる。サイードは嗚咽さえ漏らさずただ静かに、灰色の魔法陣が輝いた自分の手を見つめながら、はらはらと泣き出した。
「――子供の頃から、何度この呪文を繰り返し唱えたことでしょう…それでも魔法光の前兆さえ発現せずに、その度に時空神の娘でありながら、自分にはどうやっても時魔法が使えないのだと思い知らされて来ました。」
サイードはその泣き濡れた瞳を俺に向けて、両手を小刻みに震わせながら俺が伸ばした右手を取りぎゅっと握った。
「ありがとう…ありがとう、ルーファス。私は間違いなく時空神である父の娘でした。今ここでそれが証明され、その後継となる資格が得られたのです。もう誰にも『不義の子』と後ろ指を指されることはありません。あなたにはどうこの恩を返せばいいのでしょう。」
――泣いて喜ぶサイードを見て、俺は複雑だった。普段ならすぐに出てくるはずの〝良かった〟という言葉は喉につかえ、胸の中に一抹の不安とこれで良かったんだろうか、という自問が残る。
なぜなら俺はついさっきまで、サイードの封印を解くかどうかでかなり悩んでいたからだ。
あれをそのままにして魔力回路だけを治せないか試してみたが、やっぱり心臓部の回路には触れられず、悩んだ末忠告に逆らうことを決めたのだった。
今回のことはサイードの命に関わるようなことではなかったが、それでも先に起こる出来事の可能性を恐れて、サイードの望みに背を向けるのは違うような気がしたのだ。
――この時の俺は、普通なら抱くはずの疑問を抱かず、自分に異変が起きていたことに全く気付いていなかった。
それはあの、俺に忠告をした『金髪にブルーグリーンの瞳を持つ少年』が、いったいどこの誰なのかとか、なぜあの少年は俺を呼んだのかとか、そんな当たり前の感情を持たなかったことだ。
突然意識が飛んで、喚び出されるようにしてあの場へ行ったにも関わらず、俺は少年の言葉に一切の不審を抱かなかった。
それにサイードは自分が時魔法を使えない原因がわかったのに、なぜ俺ではなく父親である時空神に助けを求めなかったのか、という疑問にもだ。
それが自分でも気付いていない、『未知の力』で『思考を狭められる』という強制されたものであったことを知るのは、もっとずっと後のことになる。
「そんなことは気にしなくていい、俺達もこれからサイードにフェリューテラへ帰して貰うんだから、お互い様だよ。なあ、ウェンリー。」
「おう。…てか、たった今使えるようになったばっかで大丈夫なんか?」
酷い顔でサイードを疑うようにウェンリーは見る。
「時魔法に関してですか?心配は要りません、魔法が発動しなくてもそこに至るまでの呪文詠唱や、魔力操作はすでに取得済みです。私が魔法自体の初心者であればそうは行きませんが、ルーファスほどではないにしろこれでも魔法熟練者なのですよ。」
――ウェンリーの心配に対してそう答えたサイードは、明らかに俺達に対する態度が変化した。
これまでどこかピリピリとした印象だったのが、俺がメクレンで出会った時のあの雰囲気そのままのような、優しい態度に変わったのだ。
それは長年胸につかえていた痼りが消えた所為なのか、俺達を心から信用してくれた所為なのかはわからないが、俺の知るサイードに戻って(なって?)くれたのは素直に嬉しかった。
「ウェンリーに納得して頂けたところで、あなた達を元の世界へ帰す算段に移りましょう。私も早く屋敷に戻らなくてはなりませんから。」
「そうだよな、義弟を探しに行かなくちゃならねえんだ。」
「ええ。」
それから少しして俺達は、今度は自分達がフェリューテラに帰るための準備に入った。
サイードの説明ではこの塔の屋上にある、魔法陣に集められた『エーテル』を使って、俺達を元の世界に帰してくれるのだそうだ。
この部屋の奥にあった扉から出て、俺達は三人で屋上へと螺旋状の階段を上って行く。
「――これまでの話から、あなた達がかなり遠い先から来たことは想像に難くありませんでしたが…ルーファス、あなたに会った時の私は年齢的に幾つぐらいに見えましたか?」
「え?ああ…二十代後半ぐらいかな。落ち着いた雰囲気で…その、凄く綺麗だったよ。」
俺が正直にそう言った瞬間、サイードが少し驚いたように目を丸くした。
「綺麗だと褒めて頂いてとても嬉しいですが…だとすると、少なくとも今より十は年を重ねているように見えた、と言うことですよね。」
「ああ、うん…」
――今も十七歳には見えないけれどな。…と突っ込みたかったが、女性相手に年令関連の余計なことは言わない方がいいと知っている。
「そういえばこのインフィニティアが、正確にフェリューテラの時代で何年ぐらいなのかずっと聞きたかったんだ。」
「それは難しい質問です。インフィニティアと人界とでは時間の概念が違いすぎるので、今がフェリューテラのいつなのか、とは正確に言えません。」
この後サイードの言った言葉に俺は驚愕した。
「ですが私の外見から大まかに、あなたと出会うのがどのぐらい後の出来事なのかはわかります。」
「ん?つまり?」
「私の外見が一年加齢するのに、フェリューテラの時間概念に合わせると、二百年かかります。…なので単純に考えて私があなたと人界で会ったのは、少なくとも二千年後ぐらいということでしょうか。」
「にせ…っ」
「自分の外見が計算基準なのかよっ!?…てかそんなに生きてんなら、子供がいたっておかしくなかっただろーが!!」
ウェンリーのその突っ込みにサイードが心底ムッとした。駄目だぞ、ウェンリー…女性にそのテの話は。逆なら喜ぶけど、間違いなく気分を害するから。
「フェリューテラの時間概念に合わせると、と言ったでしょう。インフィニティアでは私はまだ十七です。子を持つ年令ではありませんよ。」
ほらな。
「問題はそこじゃないから。でもおかしいな…クリスが生まれたのは968年で…インフィニティアに来たのが十年くらい前…?計算が合わない…」
「だから正確には言えないと言うのです。界渡りをしている時点で基準時間が狂っているのですよ。インフィニティアからフェリューテラ、フェリューテラからインフィニティアの同軸時間に移動可能なのは、時空転移魔法を所持しており、尚且つあなたが所持していない、無限界の一属性を持っている者に限られます。」
「そうなのか。」
「…あなたは時属性の素質を所持していますが、時空転移魔法は使えないのですか?」
――おっと…予想外な質問が来た。お館様から俺が『時翔人』であることは聞いていないのかな。…いや、今は俺が245年の光神の神殿で助けられる前なのか?…頭がこんがらがって来たな。
「正確には〝所持しているけれど使えない〟状態だ。詳しい理由はここで話せないけれど、俺は自分の魔法に制限を受けている状態なんだ。」
「…そうですか、まあ話をしている時間もあまりありませんからね。」
部屋の前の扉と同じように、封印されて光っていた扉をサイードは〝なにかの魔法〟で開いた。
サイードがなにか言っているのはわかるのに、呪文が聞き取れなかった。もしかしたら、これが俺の知らない異界の一属性なんだろうか?魔力回路が異常を来していた時と同じように、理解出来ない呪文は使えない、ということかもしれない。
まあ今のところ必要性を感じないから、気にしない方がいいだろう。
ピロン
『未知の魔法呪文を取得』『データベースに保存』
…って、覚えたのか!解析複写…はしていないよな、自己管理システムは情報として得たのかな?…まあ、いいけど。
サイードについて屋上に出ると、そこには六角形の床の中心に向かって、斜めに倒れるような形の鋭角な柱が六本あった。
その柱はどれもが透き通った光を全体に溜め込んでいて、そこから流れ出る無色の液体が床の溝に流れ込んでいた。
その溝は、どうやら階下の部屋の天井に見えた魔法陣を、鏡のように裏返した感じになっている。
下から見えたものが正確な魔法陣なら、これは逆転作用を齎すものだ。
「サイード、この魔法陣は…?」
「魔法が使えるのなら魔法陣の意味もわかりますよね。逆転魔法陣だと心配しているのですか?大丈夫です、これは侵入者対策の為のものですから。」
そう言って俺に微笑むとサイードは柱の一つに手で触れて、床の魔法陣を引っくり返した。(正確には呪文字が裏返ったのだと思う)と同時に、無色透明だった液体が碧色に変化した。
「この青い液体が『エーテル』です。神力を使うのにも必要なので、術者は神力そのものだとも言いますね。」
「これがエーテル…プロートン達の循環液もこんな色をしていたよな。」
「ええ。さあルーファス、ウェンリー、魔法陣の中に入って下さい。時空転移魔法を使用します。」
「うん。」
言われるままに俺とウェンリーは魔法陣の中心に立った。
「サイード、クリスのことをくれぐれも頼むよ。」
「約束しましたからね。」
サイードは頷く。
「ヴァシュロンとラナさんにもよろしくな。あと、義弟が無事見つかるように祈ってるぜ。」
「ええ、ありがとう…ウェンリー。」
別れの挨拶を済ませるとすぐに、サイードは魔法陣の前に立って時空転移魔法を唱えた。念のために俺はそれが発動するのを待ってから、防護魔法を使う。
エーテルの青い光と、魔法光に包まれた瞬間、消えて行くサイードがまた、涙を流して俺に微笑んでいるのが見えた。
泣きながら動かした唇が、俺に礼を言っているのだと気付いた時、その綺麗な笑顔を見て〝これで良かったんだ〟とようやく思えた。
――それから俺達は、時空転移魔法の流れゆく光の渦中をゆらゆらと、長い時間移動して行った。
やがてそれが途切れ、俺達は突然地面の上に放り出される。やけに長く感じたが、時間にしたらきっと数秒もないはずだ。
その直後顔を上げる前に、物凄い疲労と倦怠感が襲ってくる。ガクガクと身体が震え、力が入らずすぐには立てなかった。
この感覚…以前お館様に送り返して貰った時と同じだ。…もしかして自分で時空転移魔法を使わずに、他者に送り返して貰うとこうなるのか…?
「そうだ、ウェンリー…ウェンリーは大丈夫か?」
そう心配してウェンリーを見ると、ウェンリーは上体を起こしてぺったりと地面に座り込み、呆然としてどこかを見ながら手を震わせていた。そして…
「なんだよ、ここ…フェリューテラじゃねえぞ…どこだよ、サイード!!!」
――そう大声で叫んだのだった。
ルーファスとウェンリーを時空転移魔法で送り返した後、サイードはすぐにユラナスの塔の防御機構を解放して屋敷に戻った。
アインスの広間には、突然ルーファスとウェンリーから離されたことで、衝撃に泣き疲れてヴァシュロンの腿を枕に長椅子で眠るクリスと、そのクリスの頭を撫でながらサイードの帰りを待つヴァシュロンがいた。
サイードはヴァシュロンとクリスが自分を待っているとわかっていたが、アインスの広間を一瞥しただけでそちらへは向かわずに、使用人になにか尋ねるとその答えを聞いて、エントランスから正面奥の廊下へ足早に急いだ。
サイードが向かったその廊下の奥には、自分の私室にギリアムの使っていた部屋など、家族の居室がある。
一階には普段家族で過ごす遊戯室に、食堂と私客を通す応接間があり、一部の使用人以外は立ち入れないようになっていた。
その遊戯室に入りサイードは、庭に出られるテラスから階段を駆け降りて、日の暮れた夜の中庭に出ると、そこに一人蹲って泣いている子供に駆け寄った。
「こんなところに…!」
サイードは青ざめてすぐさま地面に膝を着くと、泣き過ぎて真っ赤に目を腫らし精神的ショックで憔悴しきった義弟を抱きしめた。
「ずっとここで泣いていたのですか…一人にしてごめんなさい、可哀想に…あれはあなたの所為ではありません。…だから泣かなくていいのですよ。」
サイードは慰めるようにそう言って優しく微笑むと、義弟の柔らかい金髪をただ繰り返し撫で続けてあげるのだった。
* * *
〝明日、ペルラ王女が来る。〟
俺は喜んで迎え入れる彼女の婚約者に見えるように、時が来るまでは精一杯演技をする。おまえはにこやかに微笑む俺を見て、俺の心を疑い、不安に駆られるかもしれない。だから俺は少しでも時間を作り、その不安が払拭されるように小まめに会いに来るつもりだ。
もう一度言っておく、リーマ。俺が妻にと望み、愛しているのはおまえだけだ。
――そう言って彼が私を強く抱きしめてくれた日から、十日が過ぎた。
ライを信じているのに、それでもやっぱり他の女性に優しく微笑んでいる姿を見てしまったら、きっと不安になるわ。だから私は、城門前広場で民間人にも事前公開された、王女殿下到着時には行かないでおこうと思ってた。
でも結局、ライの婚約者として迎えられる女性のことがどうしても気になってしまって、止せばいいのに見に行ってしまったの。
…後悔したわ。だって、とても綺麗な方だったから。身寄りのない孤児で下町の酒場の踊り子に過ぎない私なんかとは、到底比べものにならない。
日に透けるさらさらの髪に上等な衣服。私なんかが一生働いても手にすることができない高価な宝石を身につけて、迎えられたライに微笑んだ姿は、正に『お姫様』だった。
ライが差し出した手をあの人が取った時、「触らないで、彼は私のものよ!」と叫びたかった。私はライが傍にいてくれるだけでいい。多くは望まない、彼に会えるだけで幸せなの。…そう思っていたのに、生まれて初めて抱いた『醜い嫉妬』で狂いそうになってしまった。
ライが好き。愛してる。彼のいない世界で、私はもう生きて行けない。
ライとお城の中に消えて行くお姫様の姿を見送ってから家に帰った私は、自分が惨めでベッドに突っ伏して泣いてしまった。
手入れはしているけれど、高級な香油は買えないからボサボサの斑髪に、自分では贅沢だとさえ思っているみすぼらしい衣服や、冬にはカサついてしまう手。ライはこんな私を愛していると言ってくれたわ。…彼を信じたい。
それから毎日、今日は会いに来てくれるかしら、今日は?…今日は?、と待ち続けているけれど、彼は私の部屋を訪ねて来ない。
…もしかしたら、あの美しいお姫様が良くなってしまって、私のことなんか忘れてしまったのかも。あの人に比べたら、私が勝るところなんて一つもないもの、心が移ってしまっても仕方がないわよね。
そう日が経つにつれて諦めに似た感情が湧いてくる。もう彼は私のところには来てくれないのかもしれない。私から彼に会いに行くことはできないから、そうなったら私は捨てられてしまうの…?
悲しくて胸が張り裂けそう。ライに会いたい。お願い、もう一度私だけを愛しているって言って!――ライ…!!
パシッ
伸ばした手を、誰かが握ってくれた。…温かい、誰…?
「――良かったよ、気が付いたかい!?リーマ!!」
目を開けると、手を握ってくれたのはアフローネのご主人、私にとってはお母さんのような人…ミセス・マムだった。
「ミセス・マム…?」
見覚えのある天井と薬棚。ここはアフローネの医務室だった。
「私、どうして…」
「ああ、起きるんじゃないよ、まだ横になっていな。舞台中に突然倒れたんだ、心配したよ。」
身体を起こそうとしてミセス・マムに止められる。言われてみれば、酷く身体が重くてだるい。眩暈が起きて目の前がくらくらした。
「貧血が酷いんだよ、顔色も良くない。ちゃんと食事は取っているのかい?」
「…このところ食欲がなくって…」
ライに会えないせいかもしれない…彼に会いたくて会いたくて仕方がないの。不安に押し潰されそうで、ご飯も喉を通らないから…
「――とにかく、今日はもうお帰り。ジョインに送らせるから。」
仕事を早退し、家の前まで送って貰うと、ジョインと別れて階段を上ろうとしたところで、後ろから小さく声をかけられた。
「リーマさん。」
「あなたは…ヨシュアさん?」
時間は午前一時過ぎ…驚いたわ、こんな遅くなのに、そこにいたのは私とライの関係を知る、近衛第二補佐官のヨシュア・ルーベンスさんだったの。
ヨシュアさんは周囲を注意深く見回して、足早に近付いて来ると、人に聞かれるとまずい話があるので、不本意ですが部屋に入れてください、と険しい顔をして言った。
私は一瞬迷ったけれど、ヨシュアさんの婚約者であるエスティさんのことは、私も会ったことがあって知っている。そしてライがこの人をとても信頼しているのも知っていた。だから私は彼を信用して部屋に入れることにしたわ。
私の部屋はワンルームで、入口を入って左に小さなキッチンがあり、途中までの壁に仕切られた向こうに浴室とトイレがある。
玄関らしい玄関はないから、入口の扉を入るともうそこは部屋なの。土払い用のマットだけが置いてあって、目の前はテーブルだわ。
ヨシュアさんは私が椅子へどうぞ、と促しても首を振ってここで結構です、と言って、玄関の扉前から一歩も動こうとしないの。
深夜に一人暮らしの女性宅に入るのは、本当に不本意だったのでしょうね。そうまでして私を待っていたなんて、どんなに重要な話なのかしら、と怖くなる。
もう会えない、とか…このまま別れて欲しい、なんていうライの伝言を持って来たのだったら?…考えたくないけれど、さすがに耐えられないかもしれないわ。
「周囲に聞こえないよう声を小さくお話しします。驚いても決して大きな声を出さないでください。いいですね?」
「…は、はい…。」
その真剣で険しい表情に、私はとても嫌な予感がした。
「ここに来たのは自分の一存で、ライ様ご本人も双壁のお二人も知りません。ですがペルラ王女殿下がご到着後、ライ様が何日もここへ来られないとなれば、あなたが心配するのではないかと思い参りました。」
そこで一旦言葉を区切り、ヨシュアさんは暗い顔で続ける。
「このことは決して口外なさらないでください。…現在ライ様は何者かに毒を盛られたために、昏睡状態で意識がありません。もう既に一週間以上が経過しましたが、未だお目覚めになる気配がないのです。」
「……え…?」
――今、ヨシュアさんはなんて言ったの…?ライが、毒を盛られた…?昏睡状態…?
想像していた内容の方が、よほど良かった。こんなの…酷いわ。どうしてなの?
一瞬で目の前が真っ暗になって、膝の力が抜けて行く。気が付いたら私は、へなへなと床に座り込んでテーブルの端に両手で掴まっていた。
「リーマさん…!」
ヨシュアさんは私に手を伸ばしてくれたけれど、室内に入るのは躊躇われたのか私が「大丈夫です」、と手で遮ると近付いて来なかったわ。
「ライは…ライは、死んでしまうの…?私を置いて、逝ってしまうの…?そんなのいや…いやよ、ライ…っ」
手が震えて、目から止めどなく涙が溢れる。彼がいなくなってしまうくらいなら、他の女性に心変わりしてくれた方がずっといい。この世から消えてしまって、もう二度と会えなくなるのは耐えられないわ…!
私は気が動転して、ライは助からないの?と尋ねた。ヨシュアさんは首を横に振って、そんなことはありません、と答えてくれる。
「ライ様が口にされたのは非常に強い猛毒でしたが、ウェルゼン副指揮官の解毒剤が間に合って、一命を取り止められました。それからは双壁のお二人が24時間交代でついておられますから、大丈夫です。」
「…本当に…?」
「本当です。」
ヨシュアさんは私を安心させるように笑ってくれた。少し落ち着いた私は、すぐに今度はライが誰に毒を盛られたのかと言うことと、なぜライがそんな目に遭わなければならないのかしらという疑問を持った。
「――ヨシュアさん、なぜライは毒を盛られたの?ライはこれまで一生懸命この国に尽くして来たわ。望まない戦地に送られて、本当は人殺しなんかしたくなかったって言っていたの。それなのに毒を盛られたなんて…誰がそんなことをしたの?ライは…ライは立派な人よ…!」
少しの間があって、ヨシュアさんは言った。
「…だからですよ。ライ様がシャール王子殿下のような方であったなら、このような目に遭うこともなかったでしょう。ご本人は決して望んではおられませんが、ライ様はこのエヴァンニュ王国に必要とされており、それを面白くない、邪魔だと考えている人間がいるのです。」
――ライ様があなたの存在をひた隠しにするのは正解だ。ライ様にとって最大の弱点となるあなたは、ペルラ王女とライ様の婚約を隠れ蓑にして、決してその存在を知られてはなりません。もしあなたがそう言った連中に質にでも取られた日には、ライ様は間違いなく殺されてしまう。
ヨシュアさんは真剣な顔で私にそう告げた。
「今回のことで俺は、自分が甘かったことを知りました。本当ならライ様のためにリーマさんには、今すぐエヴァンニュを出て欲しいぐらいなのです。あなたさえどこかで無事にいてくれれば、多少時間がかかっても、ライ様はいつか必ず自由になってあなたの後を追いかけるでしょう。」
「ヨシュアさん…」
どうして?ライはいずれ軍を辞めると言ったわ。いくら王国軍最高位にある王宮近衛指揮官だと言っても、そうまでして命を狙われるものなの?
「今日はここへライ様のことを伝えに来ただけでしたが、あの方のために一つの手段としてそのことを考えてみてください。ライ様にとってあなたは、命を捨てても構わないと思われるほどに大切な人だ。今ならきっと双壁にも知られずに済み、誰に追われることもなく逃げられるはずです。」
ヨシュアさんは軽く頭を下げると、そう言って踵を返し、私の部屋から出て行こうとした。
「待ってヨシュアさん、犯人は捕まったの?」
王宮内での殺人未遂事件なんて、厳格なことで有名な国王陛下が許されるはずがないわ。城下にお城で起きたそんな事件の情報は出ていないから、犯人を捜しているはずよね?誰がライを…!?
「――ええ、捕まりました。ライ様の部屋付きだった、アルマ・イリスという名の侍女が犯人です。ライ様は彼女をよくやってくれていると褒めていましたが、まさか裏切るとは…自白もして罪を認めているので、近々処罰が決まるでしょう。…それでは。」
侍女が犯人…目覚めてそのことを知ったら、ライはきっと傷つくわ。
ヨシュアさんは犯人に対して相当憤りを感じているのか、一際怖い顔をして帰って行った。
――ライのためにエヴァンニュを出る…今なら追われることもなく逃げられるだなんて…身分の差がどうのという前に、普通じゃない。ヨシュアさんはどうしてそんなことを言うの…?
「私は孤児で酒場の踊り子に過ぎないわ。他国に誰一人頼る人はいないのに、この国から出てどこへ行けばいいと言うの…?」
リーマの自宅へ行った後、自室に帰ろうとして『紅翼の宮殿』二階の廊下を歩いていたヨシュアは、主君を思う心労から少し疲れたな、と思い、あまり周囲に気を配らずに俯いていた。
そうしてイーヴとトゥレンの部屋の前を過ぎ、自室の壁に差し掛かったところで、突然柱の影に隠れるようにして立っていた誰かに声をかけられた。
「――こんな夜中にどこへ行っていた?」
ギクリとしてその方向を見ると、不審をあからさまにして冷ややかな目を向けるイーヴが姿を見せた。
「…ウェルゼン副指揮官。」
自分の自室がある階には、イーヴとトゥレンも住んでいる。隠れて紅翼の宮殿を抜け出す時は、こんな風に咎められることもあるかもしれない、とヨシュアは日頃から想定していた。
「婚約者のところです。ここ数日連絡もしていなかったので…それより、ライ様になにか変化があったのですか?」
「いや…今夜の付き添いはトゥレンだ。お目覚めになるなりなにかあれば、国王陛下にもお伝えしてすぐに大きな騒ぎになるはずだ。今のところそれはないから、お変わりないのだろう。」
「そうですか…体内の解毒には成功したはずなのに、なぜライ様は未だ目を覚まされないのでしょう。」
イーヴは暗い顔で大きな溜息を吐いた。
「その原因がわかれば疾うに取り除いている。ただ今回ライ様に関しては、私もトゥレンも全く知らなかった事態が発生しており、もしかしたらあれがなにか障っているのではないかと危惧している。」
「――ライ様のお背中にあった、見たことのない入れ墨のような印ですね。」
「ああ。私もトゥレンも…あのような印がライ様のお身体にあったこと自体、あの時までまるで知らなかった。普通の王侯貴族は衣服の着替えや入浴などの世話を使用人にさせることが多いが、ライ様は必要以上に他人に近付かれるのを嫌う御方だから、我々を含め誰も目にすることはなかったのだろう。」
普段口数の少ないイーヴが、こんな遅い時間にも関わらずまだ起きていて、さらに饒舌になっている。トゥレンはライの傍に付きっ切りで、横で話をするわけにも行かず、箝口令も敷かれているために、不安を口に出せるのはヨシュアしかいないのだと、ヨシュアは察した。
「それにあの印は消えたり浮かんだりするようだから、余程傍にいない限り気付かなかった可能性は高い。今回は偶々倒れられたことが切っ掛けで出現したようだから、普段は消えていたのかもしれないな。」
「なるほど…それでしたらあのように赤く光を放つのに、誰も気付かなかったのは納得が行きます。あれほど強い光ならば、衣服を着ていてもわかるでしょうからね。」
「うむ…ヨシュア、貴殿はライ様から時々私的な話もされていただろう?恐らくライ様は、私やトゥレンに話さないようなことも、気を許していた貴殿になら普段の会話の中でしていた可能性が高い。あれについてなにか思い当たるような話を聞いた覚えはないか?」
イーヴに尋ねられてヨシュアは記憶を辿り、ライと交わした過去の会話を必死に思い出した。
「…そう言えばルクサールが炎上し、その原因調査にウェルゼン副指揮官と向かうように命じられた時、ライ様がルク遺跡で酷い目に遭ったと俺にぼやかれたのです。その際、化け物に妙な印をつけられたと…もしかしたらその印というのがお背中のあれのことだったのでは?」
「お一人でルクサールに向かわれた時のことか…!ライ様が我々から遠く離れられたのは、その時とバスティーユ監獄での時だけだ。囚人になにかされたのかと思ったのだが…だが、そのルク遺跡の『化け物』とは?なにを指す言葉なのだろう。」
「申し訳ありません、自分にはわかりません。閣下が笑って話されていたこともあり、深刻そうには感じなかったので尋ねませんでした。」
「笑って、か…いや、貴殿が謝ることはない。我々がライ様の信頼を得られていれば、話して頂けたかもしれない情報だ。トゥレンから聞いたのだが、貴殿はライ様にとって『友人』でもあるそうだな。…羨ましいことだ。」
「そんな…!俺なんかまだまだで…」
――謙遜するな、とヨシュアに言ったイーヴは、普段トゥレン以外には見せたことのなかった、穏やかな笑みを向けていた。
その後どこからか深夜二時を知らせる、ボーン、ボーン、という時計の音が聞こえると、遅くに引き止めてすまなかったと言って二人はその場で別れた。
すぐ目の前の扉から部屋に入ったヨシュアを見送り、踵を返して廊下を歩き出したイーヴは、程なくして辿り着いた同じ階の自室前で扉の取っ手に手をかけると、殆ど聞き取れない小さな声で独り呟いた。
「…やはり邪魔だな…ヨシュア・ルーベンス。」
そしてイーヴは扉を開け、自室に入って行ったのだった。
次回、仕上がり次第アップします。