145 アミナメアディスのガーディアン
ルーファスとサイードが嘆きの澱みに向かってから時間が経っていました。中々戻って来ないルーファスに、ウェンリーは腐ってきました。突然お風呂に入りたいと言い出したウェンリーに、クリスが同意し、近くにあるという『温泉』に向かいましたが、そこで予想外の真実が発覚し…?
【 第百四十五話 アミナメアディスのガーディアン 】
「はあ……おっせえなあ、ルーファス……。」
クリスの家から外に出ないようにと念を押され、ヴァシュロンとラナンキュラスを監視役に閉じ込められたような状態になっているウェンリーは、サイードが魔法で作り出したテーブルに頬杖をついてぼやいた。
直後退屈そうに唇を尖らせ、天板に突っ伏して顎を乗せると、ウェンリーが無限収納から出してやった本を夢中で読んでいるクリスと、そこにいるヴァシュロン達を眺めた。
「クリス〜その本、面白えか〜?」
「うん!面白い!!」
クリスは胡座をかいて床に座るヴァシュロンの膝上に座り、開いた本を手に目を輝かせて返事をする。そっかあ〜良かったなあ〜、と生返事をしながらウェンリーは、やっぱり幽霊が怖くてもルーファス達と一緒に行けば良かったと悔やんだ。
嘆きの澱みに向かった二人が、こんなにも帰って来ないとは思いもしなかったからだ。
「ラナさん、あいつらが向かって何日経った?」
「そうですね…」
ウェンリーに唐突にそう振られたラナンキュラスは、なにやら着ている衣服の物入れをゴソゴソ漁ると、そこから小さな砂時計のような物を取り出した。
それはこの無限界域で時間を計るための魔道具で、呪文字が刻まれた円形の文字盤と8の字型の砂が入った透明容器に、魔法陣に似た光る文字円の刻まれた台座が付いている。
彼女はそれを覗き込んで、時間を確かめてからウェンリーに向き直った。
「人界の基準で言うと、七十九時間と三十分、というところでしょうか。」
「――てことは、もう三日経ってんのか…遅くねえ?」
「嘆きの澱みは一つの隔絶界です。それに環境が環境ですから、世界樹を見つけるのにも、そこに辿り着くまでにも時間は掛かりますよ?」
「それって、どんぐらい?いつになったら戻ってくんだよ。あー、やっぱ俺も行きゃあ良かった!考えてみりゃあ、ルーファスなら幽霊なんか一撃じゃん。俺が多少お荷物んなっても平気だったのに…!!」
それ、本気で言ってるんですか?と、ラナンキュラスは冷ややかな目でウェンリーを見る。自分が苦手だからと言って、ルーファスだけに戦わせればいい、なんてウェンリーの言い草にちょっと軽蔑したくなったのだ。
その彼女にウェンリーは、しれっとして「冗談に決まってんだろ。」と悪びれもなく言った。実際ルーファスを大好きなウェンリーが、彼を利用するようなことをするはずはない。
そうしてラナンキュラスは一瞬で不機嫌な顔になり、ぷうっと頬を膨らませる。ウェンリーに揶揄われたと知って腹を立てたのだ。
この人、性格悪い。彼女はそう思った。
その後もウェンリーはブツブツブツブツと文句を言い、ヴァシュロンやラナンキュラスにもお構いなしにグチグチ不満を漏らし続ける。この三日と言うものただじっと家にいるだけで、活動的なウェンリーには退屈で退屈でもう我慢の限界が来ていたのだ。
「だああっ、もう!せめて風呂に入りてえ!!井戸水で身体を拭くだけじゃ、ちっとも綺麗になった気がしねえ!!ゆっくりお湯に浸かって苺ジュースが飲みてえよーっ!!」
叫ぶウェンリーに遂にヴァシュロンが切れた。
「喧しい!!そんなに退屈なら外にあるユニヴェールの木を相手に、軽く運動でもしてくるが良い!!」
「ねーねー、ウェンリーお兄さん、いちごじゅーすってなに?美味しいの?」
「おー、クリス、苺ジュースってのはな…」
マイペースなウェンリーは、ヴァシュロンの怒りをスルーしてクリスの質問に答える。これがルーファスやシルヴァン達なら、ウェンリーの愚痴や文句に慣れており、言いたいだけ言わせておけば勝手に自己完結して収まるので放っておくところだ。ウェンリーは自分の不満を口に出すことで鬱憤を晴らすタイプだからだ。
「ぐぬぬぬ…なんと自己中心的な…!」
「父上、ウェンリーさんの愚痴に一々反応していては疲れますよ?」
早くもウェンリーのあしらい方を身につけたらしいラナンキュラスは、ついさっきその言葉を真に受けて膨れたことも忘れて言う。
「でもお風呂、ですか…ウェンリーさんの気持ちはわかります。クリスもそろそろきちんと髪を洗わないと、水で拭くだけでは確かに衛生上良くないわ。」
ラナンキュラスがヴァシュロンに向かって小さく呟いたその言葉を、ウェンリーは聞き逃さなかった。
「なに、もしかしてどっかに風呂ってあんの!?」
「ラナンキュラス!」
慌てたヴァシュロンは、余計なことを言うなとでも言うように娘を窘める。…が、クリスが横で口を挟んだ。
「うん、あるよ!お風呂じゃなくって、温かい水が湧き出る『温泉』って奴だけどね。すぐ近くなんだ。」
この言葉にウェンリーはめちゃくちゃ喜んだ。
「マジか!!ヴァシュロン、頼む!!風呂に連れてってくれ!!このまんまじゃ身体に虫が湧きそうで耐えられねえんだよっ!!」
こうなるともうウェンリーは引き下がらない。ヴァシュロンに詰め寄ったウェンリーの横で、クリスも一緒になってお風呂に入りたいと言い出す始末だ。
ルーファスと違って、身体や衣服を清潔に保つ『クリーン』の魔法を使えないヴァシュロンとラナンキュラスは、クリスの体調と衛生的な観点からも根負けし、二人を温泉場まで連れて行くことにした。
『――では少しの間留守を頼む、ラナンキュラス。もしサイード様から連絡があった際は…』
「大丈夫です父上、その時は代わりに私がお二方をお迎えに参りますから。」
人化を解き頭上にウェンリーとクリスを乗せて宙に浮かぶヴァシュロンは、家の前で見送るラナンキュラスに念を押した。サイードからの連絡は、サイードがクリスの家に置いて行った魔道具に来ることになっていたからだ。
クリスの言うすぐ近くにあるという温泉場までは、ヴァシュロンの飛行時間で十分ほどの場所にあった。
そこに辿り着くまでの間、ウェンリーはふと疑問に思っていたことを口にする。
「そういや疑問でさ、この無限界域ってほぼ時間が止まってんだよな?俺の想像だと、時間が止まってたらなにもかもが彫像みたいんなって動けないし、植物も生長出来ないんじゃねえかって思うんだけど…どうなってんの?」
首を捻るウェンリーに、クリスはキョトンとして返した。
「…ウェンリーお兄さんって、案外細かいんだね。考えてもわからないことは気にしなきゃいいのに。」
『うむ、クリスに同感だ。これまでにも人界から来た者を保護したことはあるが、そなたは面倒なことばかり尋ねる。』
「うるせえな。世界の仕組みを知らなけりゃ、フェリューテラに帰る方法も見つけられねえだろ。疑問に思ったことはちゃんと聞いておくことにしてんだよ。」
ヴァシュロンは口に出さなかったが、ウェンリーの言った〝帰る方法を見つける〟という言葉に "そんなものはない" と内心では思っていた。あれば疾っくにクリスを帰しているからだ。
そう思いつつもウェンリーの言葉を否定せずに疑問に答える。
『このインフィニティアは、各々に定められた時の流れを持っていると聞く。無限界域の空間はほぼ時間が止まっているが、無限界生物は己の時間で動いているし、物体の時間もまた各々の時間を持っている。隔絶界も同様で、他よりも時間の流れが早い世界もあれば、遅い世界もあるのだ。』
「各々の時間?だったら、なんでクリスは成長してねえんだよ?俺とルーファスなんかはどうなワケ?腹は減るけど、時間の流れは感覚的に全く感じられねえんだけど。」
『ウェンリー、そこはそもそもの前提が間違っておる。我が輩が言ったのは無限界生物などに関してだ。そなたらとクリスの世界である "フェリューテラ" は、インフィニティアの理が通じぬ完全な異世界なのだ。よってそこの生命であるそなたやクリスは、インフィニティアの影響をどのような形で受けているのか、我が輩らには全くわからぬのだよ。』
「ふーん…つまり俺らは、インフィニティアにしてみれば変則的な存在ってことか…ありがとな、ヴァシュロン。なんとなくわかったわ。」
え?あんな説明でわかったの?お兄さん、頭良いんだね。と、クリスはウェンリーを尊敬の眼差しで見る。それに対し彼は調子に乗ってそうだろ、そうだろ、とクリスの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
実際この時間に関する疑問の答えは、世界の “統一性” と “非統一性” で説明が付く。フェリューテラは世界の時間の流れに沿って、そこにいる全ての存在が同じ時の流れに従って生きているが、インフィニティアは世界の時間がほぼ動かずに、個々の存在が各々の時間で生きている、そう考えれば良かっただけだった。
「あ、ウェンリーお兄さん、あそこだよ!あそこが『温泉』だよ!!」
ウェンリーがヴァシュロンの頭から身を乗り出して覗き込むと、大きな土の器に真っ赤に煮え滾った液体の入った、巨大な湖のようなものが見えた。
それはボコボコと煮え立ち、どう考えても身体が一瞬で溶けそうな温度にしか思えない。
「待て待て待て、ありゃ温泉じゃねえ!どう見ても溶岩だろうが!!入ったら死ぬわっっ!!」
『落ち着け、ウェンリー。そちらの方ではない。温泉は島の端に見える小さな水溜まりの方だ。』
「へっ?」
言われて再度覗き込むと、確かに水溜まりのようなものが見えた。ウェンリーの慌てぶりが相当面白かったのか、横でクリスがお腹を抱えて笑い出す。
「あはははは、やっぱりウェンリーお兄さんって面白ーい!いくらボクが竜人族でも、溶岩のお風呂にはさすがに入れないよ!あははははっ!!」
「ク〜リ〜ス〜、笑うなっ!!」
ウェンリーはクリスの首に腕を回して、その頭をポコポコ叩いた。
クリスの言う温泉に辿り着くと、ヴァシュロンは近くを見てくると言ってお風呂セット(身体を洗うための石鹸や着替え、タオルのこと)をクリスに手渡し、その場を離れて行く。
ウェンリーはクリスとヴァシュロンに構わずあっという間に服を脱ぎ捨てると、〝ひゃっほ〜う〟と声を上げて走って温泉に飛び込んだ。
「ひゃあ〜、極楽極楽!!風呂、さいこ――っっ!!」
温泉のお湯は濁り湯で、ウェンリーが肩まで浸かれるほど十分な深さがあった。
「あーっお兄さん身体も洗わないで入ったね!えーい、ボクも飛び込んじゃえーっ!!」
そう楽しげな声を上げ、クリスもウェンリーのすぐ傍に思いっきり飛び込んで来た。当然、バッシャーン、と水飛沫が上がり、ウェンリーは一瞬で頭からお湯を被った。
普段ウェンリーはツンツンと頭の毛が立ったような髪型をしているが、それがびしょ濡れになって萎れた赤い花のように見える。
クリスはそれを見て「変な頭〜!!」と、また声を上げて笑う。ウェンリーは「やったな!こいつ!!」とお返しに、手でお湯をバシャバシャとクリスにかけ始め、二人はお風呂と言うより水遊びに来たような感じになってしまった。
「――っと、いけね、あんま暴れんなよクリス。また具合悪くなっちまうと大変だ。ルーファスの魔法はそう簡単に解けねえと思うけど、あいつが帰って来るまでは大人しくしてねえとな。」
「あ…うん、そうだね。あんまりにも身体が軽いから、ちょっと調子に乗っちゃった。」
クリスはウェンリーの横に並んで、えへへ、と笑顔を見せる。
「ボク、ルーファスお兄さんとウェンリーお兄さんに会ってから、凄く楽しい。実はね、お兄さん達が来るまでフェリューテラから来た人には会ったことがなかったんだ。」
「へえ…そうなのか。」
「うん。もし迷い込んだ人がいても、ヴァシュロンに保護された人達はみんな、元の世界に帰れないとわかるとオルファランに行っちゃうから。」
「ふーん、そいつらは随分と諦めが良いんだな。けど俺らはそういうわけにいかねえんだ、どんなことをしてもフェリューテラに帰らねえと。俺らにはやらなきゃなんねえことが沢山あるから。」
ウェンリーの固い決意の籠もったその表情を見て、クリスは目を細めると少し俯いて「ボクも帰りたい。」と呟いた。
「あのね、もしウェンリーお兄さん達が帰る方法を見つけたら、ボクも一緒に連れて行ってくれない?」
「クリス…」
縋るような瞳でそう言われたウェンリーは、困った顔をして少し考えてからクリスに返す。
「そうしてやりてえのは山々なんだけど、多分難しいと思うな。俺らの帰るフェリューテラと、クリスが元いたフェリューテラは、同じフェリューテラじゃねえから。」
「え…どういうこと?」
ウェンリーは慎重に言葉を選んでクリスに、同じフェリューテラでも時代が違うと言うことを遠回しに伝えた。クリスが一緒に帰っても、クリスが会いたいと望んでいる家族には多分会えないだろうとだけ告げて、竜人族が既に滅んでいることは言わなかった。
「そっか…そうだよね、こっちからマナセルの門を潜ってもどこに出るのかわからないってことは、その逆もあるんだ。…だからフェリューテラから来た他の人達は諦めてオルファランに行くんだね。…ボク、なんでそのことに気付かなかったんだろう。」
蒼白顔になったクリスはショックを受けた様子で、さらにウェンリーに尋ねた。
「ウェンリーお兄さんはどうして諦めないの?お兄さん達だって、元の世界に戻れる保証なんかなにもないんだよね?」
「うーん、確かに保証はねえけどルーファスがいるからなあ…あいつがいる限り、なんとかなるって思ってんだ。実際こんな風に飛ばされたのは初めてじゃねえし、その度にちゃんと元の世界に戻ってる。だからきっとなんとかなるってね。」
「…ルーファスお兄さんがいるから…ルーファスお兄さんって不思議な人だよね。ボクのことも助けてくれたし、ヴァシュロンとサイード様が驚いてた。」
「まあな、あいつは俺の自慢の親友なんだぜ。――さてと、そろそろ身体洗うか。いくら気持ち良くても、ずっと浸かってるとのぼせちまう。」
これ以上ルーファスのことを聞かれるとボロが出そうだと思ったウェンリーは、クリスの目の前で立ち上がると大きく伸びをした。
「…ん?」
そうして気付くと、クリスの視線が思いも寄らぬ場所にじっと注がれている。
「ばっか、どこ見てんだよクリス!!」
ウェンリーは慌てて身を捩り、恥ずかしくなって両手でソコを隠した。
「ウェンリーお兄さん、そこについてるの、なに?」
「はあ?」
首を傾げてキョトンとしたクリスの奇妙な質問に、ウェンリーは素っ頓狂な声を上げて眉間に皺を寄せた。
「なにって…決まってんだろ、変なこと聞くなよ。おまえにだってついてんだろ?それと同じだっつーの。」
「ボク?ボクにそんなのないよ?」
ザバッとお湯の中から立ち上がったクリスは、そのままウェンリーにつるぴかのお尻を向けてよいしょと地面に這い上がると、くるりと向き直って仁王立ちし、両手を腰に当てて踏ん反り返った。
「ほら。」
そう言われて訝しげにウェンリーが見ると、クリスの身体には腹部から背中にかけて、竜人族特有の鱗があった。クリスの愛竜と同じ色の白い鱗だ。
その鱗があるからこそ竜人族は外傷に強く、ちょっとやそっとの攻撃では致命傷にならない。だが問題はそこではなかった。
よく見るとクリスの胸の辺りは、男児にしては少し膨らみかけている。そうして自分にはないと言った、下の方に視線を向けたその瞬間、ウェンリーは遠くまで響き渡る悲鳴を上げたのだった。
♢
『――見えて来ました、あそこです。あの穹窿形の魔法障壁に包まれているのが、世界樹アミナメアディスとガーディアンの守護域です。』
これまでの間、俺達をここまで案内してくれたナイルは、インフィニティアの魔力言語ヘクセレイコルでそう言って遠くに見えるその場所を指差した。
「魔法障壁…あの硝子状の半球体がそうか。」
まだ距離はあったが、確かに遠くに透明な深型の器を逆さまにしたような壁が、日の光にキラキラと輝いて見えた。
「ようやくですか…なにもない大地をひたすら歩き続けるというのは、さすがに苦行でしたね。」
疲れ自体は休憩を取ることで解消出来たが、どの程度進んだのかの目印となる木の一本さえも生えていない大地をただ歩き続けるというのは、思いの外精神的に来ていた。
穢れを浄化した後のアレンティノスには、グリューネレイアのように澄み渡った青い空から溢れんばかりの日光が降り注ぎ、延々と続く茶色の大地だけが広がっている。生命の源である霊力が少ないために、浄化された土と清浄な水があっても草の一本さえ芽吹いて来ないからだ。
そこが見えてからもさらにまだ俺達は歩き続けた。なかなかその場所が近付いてこない。遮蔽物がなにもないためにそこにあるものはかなり離れた場所からでも見えたが、そもそも世界樹というのは超巨大なものだ。枯れた残骸だとは言え、それを包むようにして施された魔法障壁が相当な大きさであるのは説明するまでもない。つまり大きいから見えているだけで、そこまではまだまだ遠かったのだ。
「今日で四日目か…ウェンリーもさすがに遅いと思っているだろうな。」
「そう簡単に帰れると思う方がおかしいでしょう。嘆きの澱みは隔絶界だと、私はきちんと説明しましたよ。」
「そうだけど、まさか世界樹までこんなに遠いとは思わなかったんだ。」
無限界域と違ってアレンティノスにはきちんと時間の流れがあり、昼夜の区別と明暗があった。ディスペアゴーストを浄化してからは魔物のような危険生物もいないため、夜でも移動は可能だったが身体は睡眠を要求する。
つまりフェリューテラにいる時と同じように、夜遅くまで移動して野営をし、翌日また移動すると言うことを繰り返してきたのだ。そうして今日は三度目の朝を迎えている。
『あともう少し近付くと、ガーディアンが気付いてこちらに出てくると思います。事情を話して信用されれば、アミナメアディスの元まで運んで貰えるはずなのでご辛抱ください。』
ナイルの言葉にサイードがふう、と溜息を吐いた。
「信用されれば、の話でしょう?魔精霊化しかけているのであれば、素直に信じて貰えるかどうかは微妙でしょうね。精霊剣で精霊は傷つけられないと聞いていますし、襲いかかられたらあなたはどうするつもりなのですか?ルーファス。」
俺の身を案じてくれているのか、少し心配そうな顔をしてサイードは俺を見る。シュテルクストで傷つけられなくても、魔法でなら精霊と戦うことは可能だが、俺は端っからそんなつもりはない。
「――別にどうもしないよ、なにをされても俺は手を出さない。相手に信じて貰いたいのなら敵対するつもりがないことを態度で見せなければだめだ。特に精霊は怒らせると宥めるのが大変だから、もし何か起きてもサイードは俺に任せて一切なにもしないでくれ。」
「お待ちなさい、それはあなたが傷つけられても黙って見ていろ、と言う意味ですか?」
ムッとした顔をしてサイードが語気を強める。身も蓋もない言い方だが、どんな言葉を使っても意味は同じか、と思い、俺は〝ああ。〟とだけ返事をして頷いた。
「……わかりました、ですが相手が魔精霊化したり、度を超したと感じたら問答無用で助けに入りますよ。あなたを犠牲にする気はありませんから。」
俺はそれに同意はせず、その場でただ苦笑した。
――それからさらに暫く経ってそのなにもない地面を進んでいると、俺は普通に歩いていてその場所に差し掛かり、なにかの一線を踏み越えたことに気付いた。
恐らく感知魔法の一種だと思う。許可された存在以外が足を踏み入れた時、その危険を知らせるための設置魔法だ。
そしてその直後に、案の定それに気付いた存在が俺達の前に姿を見せた。
『何者だ、止まれ!!』
直前まで影も形もなかったのに、転移魔法のような手段で移動してきたのか、いきなり俺達に対して武器を突き付ける。
緑銀の全身鎧に紫色の髪。手には斧刃の付いた槍を持っている、二名の男精霊だ。屈強な身体付きに明らかに強者の魔力をその身から放っており、尋ねるまでもなく彼らがアミナメアディスのガーディアンだとすぐにわかった。
――他存在への明確な敵意。通常の精霊族が身に纏う穏やかな魔力とは異なる荒々しい気配。精霊にはあまりないその強い負の感情が見られることから、ナイルの言う通り、彼らが魔精霊化しかけているというのは本当らしい。
『これより先はアミナメアディスの守護領域だ!世界樹の守り手たる我らガーディアンの許可なく同胞以外は通さぬぞ!!』
なるほど、これはもし俺達だけだったら、まともに話をすることさえも難しそうだ。幸いなのはナイルが同行してくれていたことか。
『お待ちください、世界樹の守り手よ!この方々はアレンティノスの穢れを浄化してくださいました!!そしてこれ以上他種族の霊力を奪わなくて済むように、アミナメアディスを蘇らせたいと仰っています。そのために世界樹のお姿を見たいのだと――』
『…なに!?』
ナイルの言葉を聞いてガーディアンの二人は顔を見合わせた。
『世界樹を蘇らせるだと…?光神レクシュティエル様でもないのに、そのようなことをできるはずはない。』
『至高天の神々はお隠れになった光神とその領域だったシェロアズールと共に、我ら精霊族を見捨てられた。今になって救い手が現れるなど、信じられるものか…っ』
そんなヘクセレイコルによる彼らの会話が聞こえてくる。
――魔力言語ヘクセレイコルというのはある意味便利だな。話す声の大小に関わらず、ある程度までなら離れていてもはっきりとその会話を聞き取ることが出来るみたいだ。
ナイルとガーディアン達の今の話を聞くに、蒼天界シェロアズールというのは光神の領域だったらしい。だけどお隠れになった、と言うことは、あの光神レクシュティエル様は亡くなられたのだろうか…?
俺はあの優しさと慈愛に満ちた直視出来ないほどの美しい姿と、畏怖の念を抱いた嫉妬を向けられた時の恐ろしい顔を思い出して少し驚いた。
「俺の名前はルーファスだ。アレンティノスの事情については把握している。いきなり現れて信用しろと言っても無理なのは当然だが、話だけでも聞いて貰えないだろうか?」
俺は出来るだけガーディアンを刺激しないように、ここへ来た目的を詳しく説明することにした。
『――つまり一番の目的はその子供にかけられた怨嗟の呪縛を解くことか。』
「ああ、そうだ。だがあなたたちにとって他存在から搾取する霊力は、滅びに瀕した自分達の生命を維持するための最後の糧でもある。だからただ呪いを解いて欲しいと言っても納得しないだろう?」
『…それで我々が霊力を搾取しなくても済むように、アレンティノスそのものを救おうと言うのか…一応筋は通っているが、貴様がそこまでする理由がわからん。我々精霊族を救ったところで、なんの得がある?』
彼らガーディアンの、あまりにも精霊らしくない言葉に心の中で苦笑する。魔精霊化しかけて負の感情を抱くようになり、その疑心からまるで人間のような物の言い方をしているからだ。
そこで俺は、手っ取り早くある手段を取ることにした。ここで彼らとあれこれ問答をしていても、無駄な時間を取られるだけだと判断したのだ。
「俺になんの得があるのかって?そんな質問をするなんて、まるで人間みたいだな。あなたたちは世界樹の守り手でありながら、俺が正直に事情を話しているのにまだ敵か味方かの区別もつかないのか?」
『なに!?貴様…っ!!』
俺の言葉に怒りの感情を顕わにするなんて、本当に人間みたいだ。…そう思いながら俺は静かに呼吸を整えて、ある種の気を放った。瞬間、ガーディアン達は驚愕の表情を浮かべて目を見開くと、急に俺達に向けていた武器を下ろした。
『そんな…どうして――』
『あ、あなたは何者ですか…!?』
毒気を抜かれたように狼狽える彼らからは、急激に負の感情が消えて行く。どうやら今ので俺が敵ではないとわかってくれたみたいだ。
「わかってくれたのなら、俺を世界樹アミナメアディスの元に連れて行って欲しい。ナイルからまだ完全には枯れていないと聞いた。俺はあなたたちのことも助けたいんだ。」
『――か、かしこまりました…直ちに精霊術にて転移し、守護領域内にご案内致します。…おい。』
『了解。』
そうして俺達はガーディアンの力で、まだ遠くに見えていた世界樹の元へとようやく辿り着くことが出来たのだった。
守護領域内に入り、そこから歩いて向かうまでの道中サイードが俺に、「いったいなにをしたのですか?」と尋ねて来る。
「別に大したことじゃない。精霊族が最も良く知っている特殊な気を放っただけだ。」
「……あなたは、最初から彼らと敵対することのない手段を持っていたのですね。だから襲われたらどうするのかと尋ねた私にあんな嘘を…」
「ちょっ…それは誤解だ!いきなり襲いかかられたら言った通りにしていたよ。だけどナイルのおかげで思ったよりも落ち着いて話ができたから、別の手段を取っただけだ。それも通用しない可能性だってあった。結果としてこうなっただけで、あなたに嘘を吐いたわけじゃない…!」
サイードになにか誤解されたと思った俺は、慌ててそれを否定する。するとサイードは俺の慌てぶりを見て口の端を上げて笑った。
「――でしょうね、あなたが嘘を吐いていないことは、もちろんわかっていました。あまりにもあなたが私の知識が及ばない行動ばかりを取るので、少し意地悪を言ってみたくなっただけです。」
「…サイード…。」
サイードはかなり意地悪だ。まだ俺を試し足りないのだろうか?
ガーディアンの後に続いて行くと、やがて枯れて朽ちた切り株のような姿になっている、巨大な世界樹アミナメアディスが見えた。
そこを中心にして周囲にはただ静かに地面に横たわる、大勢のバンシー達がいる。彼らは死んだようにじっとしており、極力霊力を消費しないように、その日動いても良いと許可された者以外は、日がな一日ああして命を繋いでいるのだという。
そのバンシー達の間をガーディアンに従って、静かに通り抜けて行く。横たわる精霊達は皆痩せ細って虚ろな目をしており、既に生きる屍と化しているようにさえ見えた。
――思っていた以上に酷い状態だ。精霊達の数も少ない…あれほどのゴーストが生まれるほど他存在を犠牲にして来たのに、それでもこれだけしか生き残れなかったのか。
精霊の中に子供と老齢者の姿はなく、放っておけば恐らくあと一年もしないうちに滅びただろうことは見てわかった。
「…クリスのことがなければ、気づけなかっただろうな。――今から世界樹を蘇らせてもどれほどの数を救えるかどうか…」
「そうですね。…でもやってみなければわからないでしょう。少なくともまだ生きている精霊達は助かるかもしれません。…私にはなにもできませんが。」
ほんの一瞬、サイードが悲し気に目を伏せて俯いた。
『ルーファス様、これ以上世界樹に近付くことは許されておりませんので、私はここで失礼致します。』
「ナイル。」
ここまで一緒に来てくれたナイルが、唐突にそう言って俺に頭を下げた。
『ガーディアンの団長エネドラーは、これまで我々のために死力を尽くしてくれました。どうか彼を含め、我ら精霊族とアレンティノスを…お救いください。』
「ああ、俺に出来る全ての手を尽くすと約束するよ。ここまでありがとう。」
ナイルが去り、魔法障壁のさらに内側に施された結界を通って、ガーディアンだけがいる世界樹の前にまで近付いて行く。
ここまで来ればアミナメアディスの状態が目で見て確認出来た。
初めに嘆きの澱みに足を踏み入れた時と同じような、朽ちて黒化し小さく縮んだ幹が見える。通常の植物が根から水を吸い上げるように、霊力で満たされているはずの身体には、その欠片すら残存しておらず、俺には既に死んでいるようにしか思えなかった。
――これで僅かでも命が残っているのか?本当に生きているのなら、アミナメアディスの精霊がいるはずなんだけど…
「ルーファス、世界樹の前に目の前を見なさい。一際強い力を放つ精霊が待ち構えていますよ。」
警戒を促すようにサイードが忠告する。確かに世界樹の前には、黒みがかった緑色の闘気を放つ巨体が仁王立ちしていた。恐らくあれが最後の難関、ガーディアンの団長だろう。
「サイードはここで待っていてくれるか?」
足を止め振り返ってそう言うと、サイードは吃驚して目を見開いた。
「え…なぜです?あなた一人では…」
「大丈夫だから。」
俺は戸惑い気味のサイードに微笑んで彼をその場に残し、ガーディアンの二人に続いて威圧する精霊の前まで進み出た。
『エネドラー団長、この者がご報告した異存在です。』
そう言ったガーディアンの声が聞こえる。彼らは俺の正体がなんなのかわからずに、そんな呼び方をして敬礼のような仕草をした。
「ご苦労、持ち場に戻れ。」
「!」
――この精霊…ヘクセレイコルじゃなく、共通言語で話した?
ガーディアンの二人が離れ、近くには俺とその団長だけが残された。
「――俺は世界樹の守り手を纏めるエネドラーだ。我らバンシーの嘆きが澱み、穢れに沈んでいたこの世界を浄化してくれたそうだな。日の光を見るのはどれぐらいぶりか…礼を言おう。――だが、貴殿は何者だ?」
エネドラーと名乗ったその精霊は、他のバンシーと同じ外見の特徴を持っていたが、その紫髪は黒味を帯び自身の闘気で炎のように舞い上がり、薄いピンク色の肌は赤に近い濃さにまで変化していた。
静かに落ち着いた口調で話してはいるが、抑えきれないほどに膨れ上がった怒りと嘆きが全身を包んでおり、俺の行動一つで彼はすぐにも魔精霊と化してしまう可能性が高かった。
――まずいな…このエネドラーという精霊は、もう限界を通り越している。多分これまで世界樹を守るという使命と、気力だけで正気を保って来たんだ。…それに…
俺は微かだが、彼の中から自分の霊力を感じ取った。それは即ち、クリスに怨嗟の呪縛を施したのは、このエネドラーという精霊であるということだった。
クリスのアストラルソーマから漏れ出た俺の霊力は、この精霊を通じて世界樹に送られていたみたいだ。…彼がクリスに呪いをかけたのか。
「俺の名はルーファス。インフィニティアではない異世界から飛ばされて来た、フェリューテラの人間だ。…あなたが世界樹のために竜人族の子供に霊力を搾取する呪いをかけたんだな?どうかそれを解いては貰えないだろうか。」
「……アミナメアディスは僅かな霊力で命を繋いでいる。たとえ子供一人の命であっても、それが途切れれば滅びかねない。――呪縛は解けぬ。」
「わかっている。ならば俺がアレンティノスを再び霊力で満たし、世界樹を蘇らせたらその必要はなくなるだろう?それからでもいい。お願いだ、あの子を解放してくれ。」
瞬間、ザワリとエネドラーの気が逆立った。
「――異世界の人間如きが大層な口を利く。部下達に世界樹の気『ベルデ・プリエール』を放って見せたようだが、俺を納得させるにはそれでは足らぬ。その力、俺を倒して見せてみよ!」
エネドラーの闘気が爆発し、その怒りと嘆きを隠さずに俺への初撃を放った。彼の得物はその巨体に相応しい大剣だ。それを大きく横に薙ぎ払い、魔力を込めた斬撃が弧を描いて飛んで来る。
「ルーファス!?なにをしているのです、避けなさい!!!」
そんなサイードの俺を叱る声が聞こえて、俺はほんの少しだけ顔を傾けてサイードに微笑んで見せた。
避ける?…そんな必要はない。言ったじゃないか。信じて貰いたいのなら、態度で示さなければならないって。
だから、俺は避けない。シュテルクストも召喚しない。防護魔法も使わない。
――そうして俺は、世界樹の守り手エネドラーが放った攻撃を、そのままなんの抵抗もせずに…受け止めたのだった。
次回、仕上がり次第アップします。