142 無限界インフィニティア ⑤
ウェンリーとの会話を聞いていたらしいサイードに、ウェンリーは上手く言い訳をして誤魔化します。ルーファスはサイードに自分を知らないのかと尋ねることを諦め、なぜヴァシュロンがサイードとラナを連れてきたのか理由を聞き出します。そこには死期の迫ったクリスを助けるためと、ルーファスの話をヴァシュロンから聞いて、調査する目的があったようでした。ルーファスは自分のことよりもクリスのことが先だとサイードに言い、クリスを死に至らしめようとしているその原因について話を聞きますが…?
【 第百四十二話 無限界インフィニティア ⑤ 】
「なにが不思議なんだよ。…てか、人の話を盗み聞きするとか、どういう神経してんだ?」
ウェンリーは不機嫌な顔をしてサイードに冷たい目を向ける。いつもなら不審な相手に噛みつくような態度を見せることもあるが、俺と一緒にメクレンでサイードと会っているだけに、まだどう接するのかを決めかねている様子だ。
「扉を開こうとしたら、偶々聞こえてしまっただけですよ。」
サイードは扉を閉めてツカツカ歩いて来ると、さっきラナが倒した椅子をガタンと起こして、俺達から少し離れたところに置き腰を下ろした。
「〝もう子供じゃない〟なんて台詞は、普通年の離れた相手に対して言うものでしょう?失礼ですが、彼の方があなたより年若く見えるものですから。」
そう言ってサイードは、ウェンリーの隣で寝台に座ったままの俺に莞爾する。
「そんなら、普通そんな俺の台詞を気にしたりする方が変なんじゃねえ?俺とルーファスは子供の頃からの付き合いで、こいつは年上だからっていつまでも俺を子供扱いするんだよ。」
「……なるほど。」
ウェンリーは上手いこと嘘を吐かずにそう返す。こういう時のウェンリーは、いつもながら言い訳の天才だ。でも確かに、サイードがウェンリーの零した一言に突っ込んでくるのは少し妙だ。
…俺は下手に突っ込まない方が良さそうだな、藪を突きそうだ。そんなことよりも聞くべきことは他にあるし、ついでに話題を逸らしてしまおう。
「――ヴァシュロンはなぜ、あなた達を連れて来たんですか?昨日は単に、知り合いと一緒に来るとしか聞いていないんですが。」
俺は俺のことを知らないらしいサイードに、俺とメクレンで会った時の話をするのは諦め、彼らがここに来た理由を聞くことにした。俺達と出会う前の可能性が高い相手に、なにを言っても埒が明かないからだ。
それは記憶のない俺が、記憶を失う前の俺を知っている人達に、自分を覚えていないのかと聞かれるのと同じことなのだ。知らないものは知らないのだから、どこそこで会っただの、なにをしただの言っても多分困らせるだけだろう。
サイードはエヴァンニュで一緒に過ごした時とは異なる、一線を引いた他人を見るような表情で目を細める。それはまるで俺がどんな人間なのかを具に観察しているかのようだ。
こちらは知っているのに相手が知らないと、あんな目をするものなのか…俺がマルティルに再会した時、彼女が悲し気に俺を見ていたのも頷ける。…フェリューテラに帰ったら、改めてグリューネレイアに謝りに行きたいな…正直に言ってこれはかなり傷つく。
「私がここに来た理由は二つあります。一つはこちら側の世界で起きたある事件の影響で、閉ざされていたはずの『マナセルの門』が開き、それに巻き込まれる形で来ることになってしまったクリスの命を助けるためです。」
サイードはそこで一旦言葉を切り、無意識に腕を組んで話の内容について考えた俺の反応を見ている。
――クリスの命を助ける…つまりヴァシュロン達は、命が尽きかけていることを知っていたんだな。なのにこれまでなにもせず放っておいた?それで今になってサイードが助けるために来ただなんて、矛盾している。
頃合いを見て、サイードは続けた。
「もう一つの理由ですが、こちらは既に察しているのではありませんか?ヴァシュロンからざっと聞きましたが、赤毛の彼はともかくして…あなたは並みの人族ではないでしょう。」
「…ヴァシュロンから俺達の話を聞いて調べに来たんですか…それはもしかして魔法のことですか?フェリューテラには他にも使える人間はたくさんいますが。」
そう言い訳をすると、サイードはクスリと鼻で笑った。
「魔法が使えるだけで無限界生物は倒せませんよ。」
「え?」
「あなたが休んでいる間に、彼から話を聞き出そうとしたのですが、ここに来ることになった経緯と自分のことは教えてくれても、あなたのことを尋ねると口をつぐんでしまうのです。〝ルーファスのことを知りたければ、本人に聞け〟とね。」
「ああ…」
横にいるウェンリーの顔を見ると、ウェンリーは〝当然だろ〟と言うように、口をへの字に曲げながら、両手を広げて肩をすぼめる。
まあ俺のどんなことを聞かれたにせよ、ウェンリーがこの状況で余計なことを話すはずはないものな。
つまりはウェンリーからなにも聞き出せなかったから、直接俺から話を聞きたいということか。俺もサイードのことを知りたいからそれは構わないんだけど、今はそれどころじゃないはずだよな。
「あなたが俺のなにを知りたいのかわかりませんが、とりあえずそれは後にしていただけませんか?今はそんなことよりもクリスの命の方が大事でしょう。」
サイードがここに来た理由の一つとして、クリスの命を助けに来たというのが本当なら、俺に構っている場合じゃないだろうと思った。クリスのあの状態は一刻を争う事態だからだ。
「再度危篤に陥ったことで、俺がなにをしたのかはもうわかったと思いますが、クリスは一度、俺達の前で心臓が止まりました。」
「…ええ、そのようですね。あなたが使用したのは蘇生魔法リザレクション…死した直後、もしくは死の直前にある者に、自身の生命力である霊力を与え、死の淵から蘇らせる魔法です。…クリスの容態が悪いのは知っていましたが、こうなるのは私達の予想よりも早く、あなたがいなければ最悪の事態になっていたこともわかっています。」
――さすがはサイードだ、と言うべきかな…蘇生魔法についても十分詳しいみたいだ。
「俺はなんとかクリスを蘇生することはできましたが、あれは一時的な処置に過ぎず、クリスの命が危ないことに変わりはありません。」
俺が施した障壁は俺が解除しない限り、そう簡単に消えることはないが、ここの生物は害のなさそうな小動物でさえ総じて魔法を使う。ディフェンド・ウォールには異界属性の問題があるから、なにかの拍子にそれが破壊されないとは限らないんだ。
「それと聞きたいことがあります。クリスの命を助ける方法があったのに、なぜあなたは今まで放っておいたんですか?」
そう尋ねた瞬間に、サイードから笑みが消えた。
「――なにも知らなければ、あなたがそう思うのは当然でしたね。誤解のないように言っておきますが、私もヴァシュロン達も、クリスを助けたいと思っているのは真実です。」
俺はサイード達がクリスを見殺しにしようとしているとは思っていない。だけど俺の聞き方が悪かったせいか、サイードの気分を少し害してしまったみたいだ。
「クリスの死の原因となるものが、ただの病であればなんらかの治療法もあったでしょう。ですがあれは『怨嗟の呪縛』と言って、簡単に消せるようなものではないのです。」
『怨嗟の呪縛』とは、嘆きの澱みに棲む精霊バンシーがかける、死の呪いのことだとサイードは言う。
それは呪いにかけられた相手の生命力を喰らい続け、時折発作のように激しい痛みや全身の麻痺、震えなどの苦痛を与えるものらしい。
――精霊が呪いを?ヴァシュロンから聞いた印象では、単に誘い込んで惑わせ、最終的に死に向かわせるのかと思っていたけど…違うのか。
グリューネレイアの精霊族なら不浄なるものや呪いの類いを嫌うため、魔精霊にでもならない限り誰かを呪ったりはしない。だけどここは異世界だ。同じ精霊という呼び名で表されていても、性質が異なるのかもしれないな。
「呪いなら解呪魔法で解けないんですか?」
「それができるのなら疾うにやっていますよ。解呪などで消すことが出来ないからこそ、別の方法で救おうと考えざるを得ませんでした。ですがクリスはそれを拒み、何度ヴァシュロンから話して貰っても頑として譲らず、私達はその気が変わってくれるのを待つしかなかったのです。」
助かる方法があるのにクリスはそれを拒んだ…命を落とすことよりも嫌がるような手段なのか?そうとわかっていても、もう時間がないからヴァシュロンはサイードとラナを連れて来たんだな。
「クリスが拒んでいるという、別の方法というのはどんなものなんですか?」
一時の間があって、サイードが答える。
「怨嗟の呪縛は、呪いをかけた精霊の元から、死なずに逃げ出した対象に起きる現象で、僅かずつ生命力を吸い取られやがては死に至るというものです。それを消すことが出来ないのなら、後はもう命の時間を止めてしまうしか方法がありません。」
命の時間を止める…つまり呪いの進行を止めると言うことか。
「そんなことが可能なんですか?」
「可能です。私の国『オルファラン』の主に許可を得て、『永久の民』となれば良いのです。既に随分前からいつでも保護出来るように、その準備は整っていました。」
――サイードの国『オルファラン』とは、インフィニティアの隔絶界(隔離された世界という意味らしい)の一つで、その大きさはフェリューテラがすっぽり入ってしまうほどだと言う。
そのオルファランでは、過去に俺達やクリスのように、フェリューテラからこの世界に迷い込んで来た人々を、ケツアルコアトルと協力して保護しているのだそうだ。
「そして永久の民とは、本人が望まない限り死を迎えることのない、かつて人界の住人だった人々の総称です。」
「「!?」」
本人が望まない限り、死なないだって…?不老不死、と言うことか…!?
それを聞いた俺は愕然とした。もしそうなら、俺が不老不死なのと永久の民には、なにか関係があるんじゃないかと思ったからだ。
隣でウェンリーも同じことを思ったらしく、吃驚して俺を見ている。
「私の言葉を聞いてそれなら〝不老不死〟になるのかと思うかもしれませんが、違います。ある誓約に従って、生涯オルファランから出ないことと、それまで生きて来た過去の記憶を全て忘れることを条件に、その時点で『命が寿命を迎えるまでの時間』を一時的に止める呪印を刻むだけなのです。」
「つまり呪印が消えれば元に戻る、と言うことですか?」
「そうです。消した記憶は二度と戻せませんが、元の肉体はそのままで変化することはありませんので、本人が望み呪印を消す際には、経過した時間が一気に進んで殆どがその場で死を迎えます。」
命の時間を止めても、その身に受けるはずだった時間経過は別に蓄積されているのか…永く生きていれば死を選ぶ者も出てくることを想定して、無条件で延命を施しているわけじゃないんだな。面倒なことをしているようにも思えるけど、考えられる理由としたら生命が辿る正しい理を歪めないため、かな。
――果たしてそんなことが出来るものなのか、とも思ったが、〝時間を止める〟という一見不可能なことのように難しく考えるから無理だと思うが、フェリューテラでも普通に使われてきた保存魔法のように、その状態を維持するだけなら物体と生体の壁さえ越えれば、可能なのかもしれないと思い直した。
全く関係がないとは言い切れないけど…俺の身体にそんな呪印はないから、俺がその永久の民である可能性は恐らく消えるな…。
一瞬、自分の出自についてなにかわかるかも、と期待したが、見当違いだったみたいだ。
それ以外にもサイードは、オルファランという場所から一生出られないとか、過去の記憶を全て忘れるとか、さらりととんでもないことも言っている。
フェリューテラから来て保護されたそこにいる人達は、最終的に元の場所に帰ることが出来ず、永久の民になるしかなかったと言うことなのかもしれない。
過去の記憶を忘れてしまえば、故郷に帰りたいと望郷の念にかられることもないだろう。
――なにから突っ込めばいいのか、混乱するな…。だけど、クリスの気が変わるまで待つしかなかった、というサイードの言葉の意味はわかった。
多分クリスはフェリューテラに帰ることを諦めておらず、死が迫っているとしても大切な人達の記憶を失いたくなかったんだ。
『ボクは今家族に会えないけど、お父さんやお母さん、お兄ちゃんのことはちゃんと覚えてる。目を閉じればいつでもみんなの笑顔を思い出せるし、夢の中だけだけど声だって聞けるんだ。』
――そう言ったクリスの言葉の裏には、自分は絶対に家族を忘れたくないという強い気持ちがあったのかもしれない。
「その怨嗟の呪縛というのは、どうあっても消すことが出来ないんですか?手段はあっても誰も実行出来ないとか、なにかがないとどうしようもないとか、そう言うのではなくて?」
サイードはギョッとして、奇異なものを見るような目を俺に向けた。
「あなたは…永久の民になれば命は助かるのに、そうクリスの説得をするのではなく、方法さえあれば呪いを解こうと言うのですか?」
「そうできるのならそれに越したことはありません。クリスは望んでいないのに、なにもせずに諦めるのはまだ早いでしょう。」
「………」
サイードは黙り、眉間に皺を寄せてなにか深く考え込んだ。そうして一分ほどが過ぎた暫く後に答えが出たのか、顔を上げて俺に言う。
「――わかりました、ここから先はヴァシュロン達を交えて、一緒にどうするかを話し合いましょう。」
なんの心境の変化があったのか、そう言って微笑んだサイードの顔はとても優しく、俺が中継施設で何度か向けられたあの笑顔そのものだった。
ヴァシュロンとラナ、クリスを交え、隣室で改めて話をしようとしたのだが、これもいつの間に出て来たのか、テーブルセットの椅子が一つ足りなかった。
「サイード様、椅子が一つ足りません。」
「ええ、そうでしたね…ではすぐに作ってしまいましょう。」
≪…作る?≫
俺とクリスが寝ていた寝台も、ここのテーブルセットも、サイードが用意してくれたのか。そう思い、横でサイードが魔法を唱えるのを見ていると、彼の手元に青銀の魔法陣が輝いて、そこから出現した木材や布、綿などで、目の前にある椅子と同じものがあっという間に作られて行く。
ピロン、と頭の中でまた音がした。
『天属性物質作成魔法/クリエイション』『魔技/トレースを発動』
へえ…天属性の物質作成魔法?凄いな、なんて便利なんだ。必要な材料は異空間を通して勝手に用意してくれるのか…この魔法があれば、今後バセオラ村の家具なんかを用意するのが格段に楽になる。
『解析複写に成功/取得しました』
俺が頼む前に自己管理システムが自動で魔技を使い、以前アテナがしてくれていたように、サイードの魔法を勝手に取得してくれた。…が、それが終わった次の瞬間、サイードがバッとこちらに顔を向けて俺を凝視した。まさか気付かれた!?
――今、なにをしたのですか。サイードの、その金色の瞳がそう言っていた。
「ウェ、ウェンリー、俺達は奥へ行こうか。」
「へ?な、なんだよ、なんで押すんだよ?」
俺は慌てて視線を逸らし、横に立っていたウェンリーの背中を押して、サイードから離れ奥の椅子に向かった。
サ、サイードが…怖い。勘が鋭いんだろうか?トレースは普通気付かれることのない隠形魔技なんだけど、解析複写が完了した瞬間に振り向いたよな…俺がなにをしたかばれたのか?
サイードのその、ゴゴゴゴ…と、聞こえないはずの音を立てて怒っているかのような迫力に、俺は後ろめたさで心臓がバクバク言っていた。そしてこれからサイードの魔法を解析複写する時は、絶対にばれないように、念には念を入れて十分気をつけよう。…そう心に誓った。
俺とウェンリーがテーブルの奥の椅子に座り、俺の隣にクリスが、クリスの向かいにヴァシュロンが座り、俺の正面にサイードが、そしてウェンリーの向かいにラナが座った。
ラナは俺と目が合うと、怯えた顔でサッと視線を逸らす。どうやらすっかり嫌われてしまったみたいだ。
いや…嫌うと言うより、俺を怖がっているんだろうな…ヴァハでも、良く村の女性や子供達があんな風に見ていた。…無理もないか。
「――では今後どうするか、話を始めましょう。…まずはクリス、これまでにも何度も尋ねてきましたが、あなたはどうしても永久の民になるつもりはないのですか?」
サイードは優しい眼差しを向けてクリスに問いかけたが、クリスは即、大きく横に首を振った。
「オルファランに行って永久の民になったら、もし帰る方法が見つかっても帰れなくなっちゃう。それに、ボクは家族やクレスケンス、友達のことを忘れるのは絶対に嫌だ。ここで死んじゃったとしても、魂だけになっても…いつかフェリューテラに帰りたい。」
ここはボクの世界じゃない。クリスは頑なにそう言った。
「…そうですか…お館様もあなたのことには責任を感じていて、とても心配しているのですが…残念です。」
お館様…責任を感じる?…まだ知らないことが結構あるな。
「――…すまぬ、クリス。我が輩が永遠の監獄から脱走した囚人を逃がさなければ、そなたがマナセルの門に吸い込まれることもなかっただろう。」
ヴァシュロンが悲痛な面持ちで俯く。そう言えばさっきサイードが、"こちら側で起きたある事件" とか言っていたけど、それにヴァシュロンも関係があるのかな…だからヴァシュロンは責任を感じてクリスを守っている?
「ヴァシュロンのせいじゃないよ!ボクが里長の言いつけをちゃんと守って、神の門に近付かなければ良かったんだ。あそこで遊ぶなって何度も言われてたのに…」
「クリス…」
ヴァシュロンを庇うクリスに、俺も同意してヴァシュロンを慰めたくなった。
「――クリスは優しいな。俺はなにがあったのかは知らないけど、ヴァシュロンが意図してマナセルの門を開き、クリスを無理やり攫ったのでない限り、ヴァシュロンに責任はないと思うよ。物事が起きる原因には複雑で様々な要素が絡み合っていて、どれ一つとっても、そこに行き着くまでには多くの存在が関わる経過を辿るものなんだ。それが時に取り返しの付かないような出来事に至ったとしても、決して誰か一人の失敗や行動が招いたものじゃない。だからヴァシュロンがクリスのことを自分のせいだと悔やむのは間違いなんだよ。」
一瞬、室内がシンと静まり返った。ウェンリーはただ黙って聞いていただけだけど、ヴァシュロン達はなんだかやけに驚いた顔をしている。
「…?」
経験から持論を言って、ヴァシュロンが責任を感じる必要はないんだと納得して貰いたかっただけなんだけど…なんでそんなに驚いた顔をしているんだ?
なぜか笑って最初に沈黙を破ったのはサイードだ。
「ふふふっ…ルーファス、あなたは随分と理に適った、面白い慰め方をするのですね。確かに〝子供が転んだ〟という事実一つを例に取っても、そこには様々な要因があります。傍に母親がいなかったから、父親が手を繋いでいなかったから、子供が足元を見ていなかったから、誰かが子供を急かしたから、押したから。他にも地面に段差があったかもしれませんし、石が転がっていたかもしれない。すぐに上げられるものだけでも転んだ原因はこれだけあります。あなたが今言ってくれたように考えれば、悔やむことの多い出来事で責任を感じている側の私達も、自分だけの所為ではないのだと思えることで少し心が軽くなりました。」
「え…?いや、そんな大袈裟なつもりじゃなかったんだけど…」
サイードがヴァシュロンだけでなく、自分を含めた言い方をして、俺に物憂い笑顔を向けたことから、サイードもなにか関わっているらしいことだけはわかった。
詳しく事情を聞きたいところだけど、今はクリスのことが先だ。機会があれば改めて尋ねることにしよう。
「話が逸れてしまいましたが、本題に入りましょう。ヴァシュロン、クリス。ルーファスは怨嗟の呪縛を解き、クリスを助けるつもりでいます。そしてこれまでどうすることも出来ないと諦めてきた私は、ルーファスにならそれが可能なのではないかと思い、協力しようと思っています。」
ヴァシュロンとクリス、ラナが酷く驚いた。
「怨嗟の呪縛を解く!?そのようなことが出来るのですか、サイード様!」
ガタン、と音を立てて、真っ先にラナが立ち上がる。彼女は俺を知らないが、俺の知っているラナは本当に子供が大好きで、自分の身を犠牲にすることさえ厭わない人だった。だからきっとクリスを心から心配しているのだろう。その表情は喜んでいるように見え、それでも半信半疑という感じで、エバーグリーンの瞳も真剣そのものだ。
それに対して不満げに感情を顕わにしたのはヴァシュロンだ。
「そんな方法があるのなら、なぜ我が輩に教えて下さらなかったのです!さすればクリスが苦しんでいるのを、なにも出来ずに見ているだけではおらなかったものを…!」
「今言いましたでしょう、ヴァシュロン。ルーファスになら可能なのではないか、と。つまり私やお館様を含め、他の者では先ず怨嗟の呪縛を消すことは不可能なのです。あなた方もわかっているでしょうが、私達が嘆きの澱みに立ち入っても、バンシー達の激しい拒絶に遭い、呪いを解くどころか満足になに一つ出来ず、無事に戻って来られる保証さえないのですから。」
サイードは厳しい目をヴァシュロンに向けて、そうキッパリと言い切った。
「で、ですがサイード様、この方なら大丈夫だと言う根拠があるのですか?確かに
…その、少し…、変わった方だな、とは思いますが…。」
ラナが最大限気を使って俺をチラ見する。クリスのことは心配だけど、俺のことを薄気味悪い変な奴だと思っているのかな。それに根拠か…俺はなにがあっても手を尽くしてなんとかしようと思っているだけだけど、そう言えばサイードはどうして態度が変わったんだろう?
「ええ、もちろんありますよ。――ルーファス、突然ですが…あなたの剣を見せて頂けませんか?」
「剣を?…ええ、いいですよ。」
なぜ剣を?と思ったけれど、俺は言われるまま手元に精霊剣シュテルクストを召喚して、サイードに手渡した。暫くすれば俺の手元に勝手に戻ってしまうけど、俺が近くにいるから二、三分は大丈夫だろう。
「サイード様、その剣がなにか?」
ヴァシュロンは不思議そうに首を傾げる。
「…わかりませんか?この剣は、全ての精霊族の信頼を得ている者にしか手にすることの出来ない、伝説の精霊剣『シュテルクスト』ですよ。」
「全ての精霊族!?」
ウェンリーを除いた驚くヴァシュロン達の前で、サイードは俺の剣を頭上に掲げると、白銀の刀身に光る虹色の輝きを惚れ惚れしながら見つめていた。
「私がこの剣を見るのは二度目ですが、ルーファスからこの剣の気配を感じたので、恐らく持っているのではないかと思っていました。」
二度目?これは完全に俺のためだけに作られた一点物だけど、過去他にも精霊剣が存在していたのかな?
「ルーファスが精霊族に認められた存在であるのならば、嘆きの澱みに足を踏み入れてもバンシーに害されることはありません。反対にバンシーを殺すことも出来ませんが、シュテルクストを見せれば、きっと彼らと会話を交わすことができるでしょう。…おや?」
時間が来たのか、サイードの手元から消えて俺の手元へ、シュテルクストが転移して来た。
「すみません、この剣は俺にしか従わないので、手元から離れて暫く経つと戻って来てしまうんです。」
あくまでも俺の意思じゃないんだと、俺はそんな言い訳をしてシュテルクストをしまった。
「――つまりサイード様は、ルーファスに精霊自らクリスの呪いを解くように説得させようと仰るのですか?」
ヴァシュロンの疑念を抱くような質問に、大きく頷いてサイードは微笑む。
「可能なら、そうですね。ですがそれには嘆きの澱みにある、枯れてしまった世界樹を蘇らせて貰わなければなりません。」
「なっ…世界樹が、枯れた!?」
これには俺が驚いて思わず大きな声を上げてしまった。
「あり得ない…世界樹が枯れたら、精霊族は霊力を得られずに、生きて行けなくなってしまうはずだ。第一、自然を育む世界樹が枯れるなんて、この世界はどうなっているんだ?」
「…それについては実際に嘆きの澱みへ行き、現地を見て頂いてから改めてお話ししましょう。それでルーファス、世界樹の再生ですが…」
サイードは少し先走ったことを心配しているような顔をして、確かめるように聞く。
「ああ、状態を見てみないと確実とは言えないけれど、手を尽くしてなんとかしてみせる。俺は精霊族と盟約を交わしていて、彼らは俺が困った時にいつも力になってくれているんだ。ここはフェリューテラじゃないけれど、この世界の精霊達が困っているのなら絶対に放っておけない。」
「…そうですか、良かった。」
思わず敬語で話すのを忘れた俺に、サイードはホッとしたように微笑んだ。
――俺の目には『真眼』で、ずっと青銀の髪に金瞳の若い女性に見えているけど、ウェンリーやヴァシュロン達には碧髪の男性にしか見えていないんだよな。
ヴァシュロン達はサイードが女性であることを知っているんだろうか?…いや、多分知らないんだろうな。でなければ仕草まで男性の振りをする理由がない。
でもサイードはどうしてインフィニティアでも、外見を変えているんだろう?あの時は元の姿が目立つから、と言っていたけど、こちらの世界でも変化魔法を使わなければならないなにか理由があるのかな…。
それから俺は、今クリスのアストラルソーマに纏わり付いている怨嗟の呪縛が、どんな状態であるのかをヴァシュロン達がきちんと理解出来るように説明して、この後すぐに嘆きの澱みへ一緒に誰が行くのかを話し合った。
当然ウェンリーはいつも通り一緒に行くと言い張ったが、サイードの説明で嘆きの澱みにはバンシー達の他にウェンリーが大の苦手とする、『幽霊』が出現すると知って素直に諦めた。
そうして最終的に『嘆きの澱み』に行くのは俺とサイードだけ、と言うことに決まったのだが、この後俺は、予想外の事態に見舞われることになる。
ウェンリーとクリスには、クリスのアストラルソーマに施した防護障壁が消えないように、絶対に外には出ないようにと言い聞かせ、ヴァシュロンとラナには二人の監視(特にウェンリー)と不測の事態からの護衛を頼んだ。
クリスにかけられた怨嗟の呪縛は、既に呪いの成就に達していて一刻の猶予もなく、俺とサイードは準備を整えるとすぐに出発し、嘆きの澱みに通じる『幻影門』が出現している、あの白岩島まではヴァシュロンに送って貰った。
『――では我が輩は一旦クリスの元へ戻りますが、サイード様、どうか気を付けてお行きください。』
宙に浮き、その大きな鬼面の顔だけを、俺とサイードに近付けてヴァシュロンは言う。
「ええ。クリス達を頼みますよ、ヴァシュロン。」
『お任せを。――ルーファス、そなたに希望を託す…頼むぞ。』
「ああ、俺こそウェンリーを頼むな。あいつ、なかなかじっとしていてくれないから。」
『ふむ、心得た。』
ヴァシュロンは俺達に被害が及ばない程度まで離れてから、あの六枚羽根で一度だけ強く羽ばたくと、あっという間に遥かな高みまで到達し、そのまま飛び去ってものの数秒で影も形も見えなくなった。
「――凄い速さだ…俺達が乗っていた時は、あれでも加減してくれていたんだな。」
俺が呟くとサイードはさらりと返す。
「ケツアルコアトルの最高速度は、音が伝わるよりも速いのですよ。彼らにとってはこの無限界ですら狭いかもしれませんね。」
「……ああ、そうなんですね。」
音が伝わるよりも速い?…どんな速度だ。俺は思わず顔を引き攣らせた。
「幻影門は…」
俺は辺りを見回して、昨日見た木々の間辺りに紫色の扉枠を探した。すると俺が見つけるよりも早くサイードが指差した。
「あそこです。開いたままですね…問題なく嘆きの澱みに入れるでしょう。」
「そうですか、それじゃ行きましょうか。」
「…ええ。」
俺達はまだかなり遠くに見える幻影門を目指して、並んで歩き出した。
「――ところでルーファス…ヴァシュロンが言っていたレインボウターイルの群れを、魔法と剣技で一分とかからずに殲滅した、と言うのは本当ですか?」
まだ数歩も歩かないうちに、サイードから不意打ちを食らった俺は、思わず「えっ」と声を漏らした。
…このタイミングでそれを聞くのか?ウェンリーのフォローもないのに、誤魔化せないじゃないか。
ヴァシュロンから話を聞いているのに、嘘は吐けない。それに俺は、そもそも嘘が苦手だ。
「ええと……はい、本当です。」
俺は諦めて正直に頷いた。
あの時は倒れているウェンリーを見て、つい頭に血が上っちゃったんだよな…レインボウターイルは全く関係なかったのに、ちょっと悪いことをした。
俺が素直に認めると、サイードの口元が微かに歪んだ。
――笑った…?
気のせい、だろうか?今一瞬サイードが口の端で笑ったように見えた。
「そうですか…どうやらあなたは、私の想像以上に色々と規格外のようですね。」
「規格外って…」
無限界生物を狩ったことが、そんなに問題なのか?俺からしてみれば、サイードの魔力回路を正常に治せる力の方が、余っ程稀有だと思うけど。
「…おや?ルーファス、あそこを見てください!なにか地面に光るものが落ちていませんか!?」
急にサイードがハッとしてその表情を変え、数メートル先の地面を指差して慌てたような声を出した。
「え?どこですか?」
「あそこです!もしかしたらあれは…いえ、まさか…!!」
緊張したその表情と声に、なにかわからないけど確かめた方が良いだろうと思った俺は、サイードが指差した辺りに急いで向かい、その『光るもの』を地面に探した。
「――障壁よ、彼の者を閉じ込めよ。『ガビア・ブラストラーンストヴァ』。」
俺はサイードから聞こえたその声に、屈んだままの格好で顔を上げて彼を見た。彼の手元には、金色の魔法陣が輝いていた。
「サイード?」
だが異変に気付いた時にはもう遅く、俺を含めた一定の範囲に、下方から細長い六角形を網目状に組み合わせたような、金色の障壁が穹窿形に形成されて行った。
隔離結界…!?
なにが起きたのかわからず、慌てた俺がサイードに駆け寄ると、サイードは俺の顔を見るなり目の上辺りに右手の指先を当てて、呆れたように首を振った。
「ルーファス…あなたは人が良過ぎます。こんな手に簡単に騙されるようでは、却って心配になってしまいますよ。」
「…騙す?」
俺はサイードにそう言われても、まだなにを言われているのかわからなかった。
目の前で俺とサイードを隔てている金色に透けた壁は、ぐるりと見渡すと、ヴァシュロンの巨体が軽く入ってしまいそうなほどに大きかった。
解析魔法が弾かれる?…この障壁はディスペルでも消去出来ないのか。
頭の中で自己管理システムが次々に俺の疑問に答えを出してくる。
「これはいったい、なんのつもりですか?」
「――クリスの命は大切ですが、嘆きの澱みに入る前にあなたの力を見せていただきます。これから私が召喚するスカラベの上位種を、あなた一人で全て倒してください。」
「な…サイード!?」
「安心してください。無理そうだと私が判断したら、この隔離障壁は解除します。但し、その能力を隠そうとすれば容赦は致しませんよ?」
サイードが念を押すようにして鋭い眼光を俺に向けた。
俺の力を見せろだって…!?
「来なさい、『インヴォルカティオ』!」
ブウンッブウンッ
「!!」
サイードの召喚魔法に俺が後ろを振り返ると、地面に広がる召喚魔法陣から、目の覚めるような赤色と青色をした二体のスカラベが出現した。
「特殊な環境下に強い上位種です。各々の弱点を見出せなければ倒せませんよ。」
冷ややかにそう告げたサイードから、一切の笑みが消える。本気なのだ。
――そうして俺は予期せずサイードの策略に遭い、嘆きの澱みに至る前に、強力な無限界生物とサバイバルバトルを行う羽目になったのだった。
次回、仕上がり次第アップします。