140 無限界インフィニティア ③
まだ子供のような少年、クリスが、この異世界に来て既に十年は経っていると知ったルーファスとウェンリーは驚きます。クリスがフェリューテラの竜人族であるのなら、傍にいるはずの半身の竜はどうしたんだろう、とルーファスは思いました。一方、エヴァンニュにいるライは、隣国のペルラ王女を城門で出迎えますが…?
【 第百四十話 無限界インフィニティア ③ 】
「うっそだろ…十年って…クリスは元々いくつだったんだよ?」
俺の横でウェンリーが遠慮無しにそんな質問をする。
正確にはわからないと言うけど、十年?ヴァシュロンがいるとは言え、そんなにも長い間、こんなところに一人でいるのか?
そこで一つ気付いたことがある。クリスは俺に竜人族だと言い、今自分もフェリューテラから来たと言った。ならば本来同じ魂を持つ、片割れの竜が一緒にいなければならないのだ。
竜人族は自分の片割れとなる竜の卵を抱いて生まれてくるという。その竜と竜人は生まれた時から死ぬまで離れることはなく、どちらかが死ぬと同時に命を落とすのだと聞いた覚えがあった。
その竜が傍にいないと言うことは、クリスは片割れの竜とも引き裂かれてしまったということなのか。
「うんとね…誕生日をクレスケンスと一緒に祝って貰って、ちょっと経ってからだったから…十二歳の時かな。」
十二…だとするとウェンリーと同じくらいの年令か?話し方は幼いままだけど、本来はもう成人しているはずなんだな。
「クレスケンスって言うのは、クリスの片割れ…愛竜の名前かい?」
俺がそう問いかけるとクリスは、ぱあっと顔を明るくして微笑んだ。
「うん、そう!ルーファスお兄さん、人族なのに良く知ってるね。ボクのクレスケンスはね、薄青い白竜なんだよ!見た目は飛竜に良く似ているけど、ボクを乗せて遠くまで飛べるくらい、力持ちだったんだ。優しくて人懐っこくてね、ボクと同じ青い瞳をしていて…もう、長いこと会ってない。クレスケンス…ボクのこと、忘れていないかなあ…。」
続けざまに息も吐かずにそう言うと、遠く離れた愛竜を思い出したのか、クリスはじわりとその瞳に涙を溜めてぐっと堪えた。
「え…どゆこと?」
ウェンリーはそこになぜ竜が出てくるのかわからなかったらしく、俺を見て怪訝な顔をした。
「…クリスは竜人族なんだ。」
俺がそれだけを言うとウェンリーは一度大きく目を見開いて、直後に余計なことを言わないよう慌てて自分の口を押さえた。
そう…俺達が元いたフェリューテラでは、既にクリスの種族は滅んでいる。もしかしたら獣人族のように、どこかに隠れ住み生き延びている可能性も否定出来ないが、その確率はかなり低いだろう。
なぜなら、俺の仲間に同族のアルティス・オーンブールがいるからだ。
俺はまだ彼のことを思い出せていなかったが、少なくともアルティスは、滅んだ竜人族の復活を望んで守護七聖になったのだとシルヴァンから聞いている。…ということは、クリスはそれよりも前に、インフィニティアへ来たと言うことなのだろうか?
「クリス、一つ聞いてもいいかな?クリスはフェリューテラ歴何年生まれなんだ?」
「え?ボク?…968年生まれだけど。」
――やっぱりか、と俺は納得し、ウェンリーと顔を見合わせた。
これは…時空転移魔法で俺達が飛ばされたのは確かだと思うけれど、マナセルの門は時間と空間が歪むとヴァシュロンが言っていた言葉からするに、このほぼ時間が停止しているという現在のインフィニティアは、フェリューテラの何年頃に相当するのかきちんと調べなければわからないかもしれないな。
「ルーファスお兄さんは何年生まれなの?」
お返しとばかりにクリスが可愛く聞いてくる。尋ねたのがウェンリーにじゃなくて良かったと思う。まさか1973年生まれだとは言えないし、俺なら身の上を語って話題を逸らすことが可能だからだ。
「俺か?俺は…」
わからないんだ、と正直に答える。実は記憶を失っていて少しずつ仲間のことは思い出せているけれど、自分の生まれや家族のことはなにもわからないままなんだよと掻い摘まんで説明する。
「そうなんだ…お兄さんも大変なんだね。ボクは今家族に会えないけど、お父さんやお母さん、お兄ちゃんのことはちゃんと覚えてる。目を閉じればいつでもみんなの笑顔を思い出せるし、夢の中だけだけど声だって聞けるんだ。」
だけどお兄さんはそれすら出来ないんだね、とクリスは自分のことより俺の気持ちを察して思いやってくれる。本当にいい子だ。
「ありがとう、クリスはとっても優しいんだな。」
そう言って俺が微笑むと、クリスはえへへ、と照れ笑いをし、頬を赤らめて隣にいるヴァシュロンを見た。
そしてそのヴァシュロンはよしよし、とでも言うように、大きな右の手で優しくクリスの頭を撫でながら目を細めている。
俺はその姿を見ているだけで、二人の間に深い絆があることを感じ取った。
「まだ話し足りないだろうがそろそろ家に送ろう。ルーファスの高性能な防護障壁があるとは言え、幻影門が開いているここは危険だ。バンシー共が泣き叫ぶ前にここを離れた方が良い。」
折りたたみ椅子から立ち上がったヴァシュロンが、そんな警告を口にする。その言葉とは関係ないが、人化した身体の大きさに対して、俺が無限収納から出した野営用の椅子は、ヴァシュロンにちょっと小さかったみたいだ。
「バンシー?」
危険だ、と言ったヴァシュロンに聞き返す。俺の横で動けないと言っていたウェンリーは、片すのは任せろとクリスと一緒に野営道具を片付け始めた。
「『嘆きの澱み』を彷徨う死を告げる精霊の名だ。――あそこを見てみよ。」
ヴァシュロンが指を差したその先、かなり遠く離れた木と木の間に、紫色に光るアーチ状の扉枠のようなものが見えた。
「あれは『幻影門』と呼ばれる別の地へ続く転移扉なのだが、この白色岩島群に異世界の住人がやって来ると、ああして出現し扉を開く。」
「あの先がその嘆きの澱み?異世界の住人と言うのは、つまり俺とウェンリーのことか。」
「今回はな。嘆きの澱みには数多くの、美しい女の姿をしたバンシーが棲み、同情を誘う悲し気な声色で迷い人を呼び込んでは虜にし、死へと導くのだ。」
「え…そんな恐ろしい精霊がいるのか?」
俺が吃驚してヴァシュロンを見上げると、ヴァシュロンは顔を少しだけ背後のウェンリーに向け一瞥する。
「うむ。そなたの友人…ウェンリーが倒れているのを見て、てっきりバンシーに出会ったのかと思ったが、ここを歩き回っていて良くあれに誘い込まれなかったものだ。」
俺とヴァシュロンが見ていることに気付き、ウェンリーがこっちを見て「なに?俺の話かよ?」と訝しむ。
「ヴァシュロンがあの幻影門に良く誘い込まれなかったな、ってさ。」
「あー………、アレ?」
〝あれ〟までにやけに長い間を空けて、なにか思い当たることがあるような顔をして、ウェンリーは目を在らぬ方に向けた。
「悲しげな女子の泣き声が聞こえたであろう?」
ヴァシュロンの問いにウェンリーは、確かに聞こえたぜ、と頷くも、酷い苦笑いを浮かべている。そのウェンリーの表情を見て、俺はハッと気が付いた。
「わかったぞ…ウェンリーおまえ、バンシーの声を聞いて幽霊かお化けだと思ったんだろう!」
「バ…言うなっつうの!!」
どうやら図星だったらしく、ウェンリーは一瞬で顔を真っ赤にした。
――なるほど、幽霊お化けの類いが大の苦手なウェンリーは、バンシーの泣き声を聞いて〝人がいる〟と思うのではなく、ここに人はいないのが前提で、得体の知れないものの声だと思ったわけか。…らしいというかなんというか…。
「ウェンリーお兄さん、怖がりなんだ!あははははっ」
「笑うなクリス!このやろっ」
微苦笑する俺の前でお腹を抱えて笑うクリスに、ウェンリーが左腕を回して頭を抱え込みながらぽこぽこ叩く。
そんな和やかな一時の後、俺達はヴァシュロンに送って貰い、この日はあのクリスの家で三人雑魚寝をしたのだった。
翌朝(昼夜がないので大体で)目を覚ました俺が裏の井戸で顔を洗っていると、いつも通り寝ぐせ全開の頭でウェンリーが起きてくる。
「はよ…ルーファス。なーんか昼夜変わらねえと調子狂うわ。ノクス=アステールじゃ平気だったんだけどなあ。ふわあぁ…」
ちゃんと寝たのに頭がすっきりしないのか、ウェンリーは眠い目を擦り擦りそんなことを言って欠伸をする。
「あそこは常夜の国だけど、ここと違ってきちんと時間が流れているからな。俺達の体内時計は体力の消費に従って時間の経過を感じているのに、実時間との大きな差で変調を来しているんだ。環境に慣れるまでかなりかかるだろうな。」
「ふうん…」
ウェンリーはどうでもいいや、とでも言うような気のない返事をして井戸に近付くと、俺と同じように水を汲み上げて顔を洗う。
バシャバシャと顔面を水で叩くようにしていたウェンリーは、首にかけた自分のタオルで顔を拭くと、少し沈んだ声で話を切り出した。
「あのさ、ルーファス…クリスのことなんだけど、俺らがフェリューテラに帰る時、一緒に連れて行ってやれねえかな?」
――ああ…なにか上の空だと思ったら、クリスのことを考えていたのか。
ウェンリーはこう見えて子供好きだ。ヴァハにいた頃も俺が傍にいない時は、良く村の子供達の相手をして遊んであげていた。
クリスは実際にはウェンリーとそう変わらない年令なのだろうが、話し方や外見は子供のままだから余計気になるんだろう。
もちろん俺もクリスのことは考えているのだが――
「あいつ、本当は俺ぐらいの年なんだろ?ずっと小さいままでやけに顔色も悪いし…いくらヴァシュロンがいるったって、このままここにおいてけねえよ。」
「ウェンリー…」
それについては俺もなんとかしてやりたいとは思っている。だけど…
「おまえの気持ちはわかるが、それには色々と問題があるだろう。特に竜人族についてはわかっていると思うけれど、俺達の時代とクリスの時代では大きな差がある。クリスはそのことを知らないんだぞ。」
「わかってるけどさ、けど守護七聖には竜人族がいるだろ?こんなところに一人でいるぐらいなら、俺らと一緒に行った方が絶対幸せになれるって。」
「………」
――そう、だろうか?時代の異なる誰一人知る人のいない世界に帰っても、必ずここより幸せになれるとは限らない。少なくとも今はヴァシュロンがいる。なにが幸せかはクリスが決めることなんじゃないのか?
「――とにかくその話は後だ。まだ俺達も帰る方法を見つけたわけじゃないし、その時になってからクリスの意思を聞いても遅くはないだろう。いいかウェンリー、早まって余計なことは言うなよ?」
「……わかってるよ。」
そう言いながらもウェンリーは少し不満そうだ。実年齢はともかくとして、今は子供にしか見えないクリスをなんとかしてあげたい気持ちは、俺にだって良くわかる。だけどクリス本人の気持ちを無視して決められることじゃないんだ。
顔を洗った俺達はまた家の中に戻る。ここはクリスがこの世界に来てからずっと一人で使って来たらしいが、泊めて貰う代わりに修復魔法を施して綺麗に直し、台所も使えるようにした。
但し家具に関しては元からなかったようで、壊れたものさえ残っていなかったので、昨夜(あくまでも感覚としてだ)は俺が持っていた敷き布と毛布で床に寝たのだ。
「クリスは?まだ寝ているのか?」
「んにゃ、なんか具合悪そうだったからもう少し寝てろって言ったんだけど、ヴァシュロンが誰か知り合いを連れて来るって言ってただろ?だからもう起きるって。」
「…その割りには顔を洗いに来なかったな。」
初めて俺が来た時に、この家は少し変わった形をしていると言ったが、この平屋は廊下がL字の先端を鏡合わせで逆向きにつき合わせたような形になっていて、その間に部屋が二つと玄関側に台所がついている。
裏口を入ると目の前がトイレと部屋の壁になっていて、廊下を曲がるまで各部屋の入口が見えない。俺達が三人で寝たのは扉のない玄関側の部屋で、廊下を左に曲がったところで、その部屋の入口になぜかクリスの伸ばされた白い腕が見えた。
――それがクリスの倒れた姿だとすぐに気が付いた俺は、慌ててそこに駆け寄った。
「クリス!?」
クリスはうつ伏せに倒れて意識を失っていた。その顔色は明らかに血の気が失せていて、一目でその状態がかなり悪いと思った。案の定――
「ル、ルーファス、クリスが…息してねえ!!」
「な…蘇生措置を!!早く!!」
真っ青になったウェンリーに、人工呼吸と、止まった心臓に刺激を与えて蘇生させる救命処置を行うように言う。
その間に俺はスキル『真眼』と、解析魔法『アナライズ』を使って、クリスが倒れた原因を調べた。
すると――
な…なんだ、これは…!?
――クリスの身体ははっきり言って、ボロボロだった。長い間ここでどんな生活をして来たのか、この無限界の環境の所為なのかはわからないが、本当なら寝たきりになっていてもおかしくない状態だった。
だがそれよりも俺がもっと驚いたのは、解析魔法で深度を上げて視ると、クリスの魂を守っている器…つまりは『アストラルソーマ』に、不気味な黒い染みがカビの生えたパンのように纏わり付いていたことだ。
この黒いものはなんだ?初めて見る…アストラルソーマがこんな状態じゃ、もういつ死んでもおかしくなかったんじゃないか…!!
「原因はわかったのかよ!?息を吹き返さねえ、早くなんとかしてくれルーファス!!クリスが死んじまう!!」
必死に救命処置を続けるウェンリーに、一刻の猶予もないと判断した俺は、原因を取り除くよりも前に、とにかくクリスを生き返らせることにした。
「わかった、蘇生魔法を使う、ウェンリーは下がれ!」
俺はウェンリーが離れたのを確認すると、すぐに古代魔法リザレクションの詠唱に入った。
「我が唱えし生命の詩は、我が命の灯を去りゆく汝に分くるものなり。天命尽くは今この時に非ず、我が祝福が汝の魂に再び輝きを与えん。蘇れ死の淵に立つ者よ、至高天位聖呪『リザレクション』!!」
――その頃、有翼蛇竜ケツアルコアトルの長『ヴァシュロン』は、その頭上に二人の人物を乗せクリスの家の近くまで来ていた。
「…それで、フェリューテラから来たという人族の若者は、人らしからぬ力でレインボウターイルの群れを一瞬で討伐したと言うのですね?ヴァシュロン・オ−サ。」
ヴァシュロンにそんな問いかけをしたのは、金瞳に碧髪の美丈夫だ。年若くまだ十代も後半ぐらいに見える。
『左様。その気配からオルファランの "永久の民" に似た霊力を感じました故、看過出来ず急遽お館様にお知らせ申したというわけだ。』
「…ですが父上様、その人族の若者になにも告げておられぬのでしょう?わたくしたちが敵対すると見做されたら、どうなさるおつもりなのですか?」
もう一人、ヴァシュロンを〝父〟と呼んだのは、ぼんやりとした薄い橙色の髪にエバーグリーンの鮮やかな瞳を持つ、こちらもまだ十代後半ぐらいの可愛らしい女性だった。
『案ずるでない、ラナンキュラス。もしもの時はお館様に出て頂くことになる。あれほどの力を有した者が相手では、さすがに我が輩は無傷では済まぬだろう。善良な人族に見えたが、その力はこのヴァシュロンをも凌ぐ。できるだけ争いたくはないものよ。』
「なんにしてもその力、確かめないわけには行かないでしょう。もしかしたらここ数日、オルファランに出現している『次元穴』に関係しているかもしれません。昨日は危うく城の者が飲み込まれそうになりましたからね。」
「――あ、父上様、見えて来ました。あの人界の建物がそうですわね?」
風の如き早さでヴァシュロンが、ルーファス達のいる浮島にザアアーッと音を立てて近付いた時だ。
『…む!?』
その異変に気付き、ヴァシュロンは上空で一度滞空する。次の瞬間、クリスの家全体から放射状に、凄まじい強さの白銀から金色に輝く閃光が放たれた。
ルーファスが『リザレクション』を使用した瞬間だった。
――今までにも俺は、何度かこの魔法を使用したことはあった。その度に自分の中からごっそりと、生命力である『霊力』を蘇生対象に分け与えて来たのだが、その分ける量によって俺自身にも多少のダメージがある。
それは酷い眩暈やそれによる吐き気だったり、極端な疲労だったりと基本的に大したことはなかったのだが、今回はわけが違った。
「ぐ…っ…まだ霊力が足りないのか…!?――これ以上は、俺の…方が…っ持たない…!!」
――どういうわけかクリスの生命力はその器から漏れ出し、どこか別の場所へと流されているような感覚があった。
普段なら魂を包むアストラルソーマ一杯に霊力を注ぎ込むのだが、この時は辛うじてクリスが蘇生出来るだけの力を移したところで、俺の方が限界に達してしまった。
「う…う…ん…」
「クリス!!」
それでもどうにかクリスは息を吹き返して、目を開けてくれた。すぐにウェンリーがクリスを抱き起こす。
「大丈夫か!?良かった…、良かったな、クリス!!」
「ウェンリーお兄さん…?あれ…ボク…」
「クリス…」
目を覚ましたクリスに笑いかけようと身体を動かした瞬間、強烈な眩暈に襲われて床と天井がグルグルと回った。
「ルーファス?大丈夫かよ、おまえ…!!」
「――ああ、大丈夫だ…少し休めばすぐに…」
その時玄関の扉がガチャッと開く音がして、家に駆け込んでくる複数の足音が聞こえる。俺はどうにか意識を保ち、入って来た人物を下から見上げた。
「クリス!?」
人化したヴァシュロンだ。今日は誰か連れて来ると言っていたけど、後ろに見える人達がそう、なのか、な――
――…え…?
ヴァシュロンの影から姿を見せたその人物に、俺は目を見開いた。以前メクレンで会った時よりも若い男性姿だが、俺がその顔を忘れるはずもない。
金色に光る瞳に少し長めの碧髪…落ち着いた印象…だった以前と違い、今は精力溢れるハキハキとした雰囲気だ。だけど、間違いない。
「サ、イード…?サイードなのか…!?」
「…え?」
――そこに立っていたのは、紛れもない、あの日シャトルバスの中継施設で俺の目の前から消えてしまった、サイードその人だった。
♦ ♦ ♦
――とうとう、この日が来てしまった。
昨夜あの男は、日暮れ後にいきなり国民に向けて、隣国シェナハーンからペルラ・サヴァン王女が花嫁修業のために来国することを発表した。
その段階では正式に誰の元に嫁ぐか言わなかったが、他国の王女が花嫁修業に来国すると言うことは、この国の重要人物に嫁入りするのだと国民はすぐに理解した。
おかげで昨夜は深夜まで祝いの花火が上がったり、大通りで急遽お祭り騒ぎが始まったりで遅くまで近衛の仕事に時間がかかってしまい、結局リーマと過ごせたのはほんの小一時間ほどだけだった。
リーマには王女が来ることだけを話したが、俺を信じると言ってくれた通り、その笑顔はいつもと変わりなかった。
リーマは最初から俺になにも望んだことはない。不安を表には出さず、俺に甘えて短い時間でも触れ合えたことをただ喜んでいた。
そして今日、大勢の王都民が熱狂と歓声で歓迎する中、今正に王都の城門前広場に、彼女が隣国の護衛車両に乗って到着した。
俺は開かれた城門の中で城の正面に立ち、イーヴとトゥレンを従えて王宮近衛指揮官としてではなく、婚約者として出迎えている。
因みにヨシュアには近衛の指揮に回って貰っている。ヨシュアと言えばトゥレンから俺の話を聞いてかなり驚きはしたものの、その後俺の部屋に来て直接俺から事情を聞くと複雑な顔をしていた。
だが彼は俺がどこの誰であろうとも、決して俺を裏切らないと改めて誓ってくれ、俺が望む俺の幸せを第一に考えたいと本当の意味での味方になってくれた。
それは俺の期待通りで心底嬉しかったが、俺がなにか失敗すればヨシュアを巻き込むことになるのだと、病院で交わしたエスティ嬢との約束を思い出した。
あの男は恐ろしい人間だ。一国の王とはああでなければならないのかもしれないが、思い通りにならなければ守るべき国民でさえも平気で殺せる。
俺はヨシュアという貴重な味方を手に入れたと同時に、あの男の恐るべき手からも、ヨシュアを守らなければならない責任が出来たと言うことなのだ。
護衛車両から降りたペルラ王女は、すっきりとしたデザインの上等な衣服を身に着け、長く艶やかな狐色の髪を緩く編み込んで垂らしている。
「では我々はこれにて帰国の途につきます。我が国の至宝たるナシュカ・ザクハーン・ペルラ・サヴァン王女殿下、末永くエヴァンニュ王国にてお幸せに。我らシェナハーン王国の民は心からお祈りしております。」
「ありがとう、国王陛下にも息災で、と伝えてください。」
「かしこまりました。」
ペルラ王女の護衛について来た二人の守護騎士は、城門の外から俺を見ると深々と会釈をし、俺が王女の手を取るのを見届けてから護衛車両に乗り込んで、あっという間に去って行った。
ここから先は『エヴァンニュ王家』に嫁ぐ身(建前上は)として、側付きの侍女から護衛まで全てがエヴァンニュの人間に変わるのだ。
護衛が去って行ったのを見送ると、俺はペルラ王女の手を放し、向かい合って儀礼的な挨拶を交わす。
「無事に到着されてほっとした。…よくいらっしゃった、ナシュカ王女。」
「――あれから一月半ほどになりますね…ようやくここまで参りましたわ、ライ様。」
軽く会釈をするペルラ王女は、その新緑のような瞳で俺を見上げるとその目を細めて婉然とした。
思えば、あの日最初にこの笑顔に、してやられたのだったな。
俺はペルラ王女の瞳に宿る、堅い決意の光を見て思わずふっ、と微笑んだ。
――これでいい。先ずは互いに目を合わせて微笑み合う。…少なくともこれで周囲は俺と王女の仲が良好だと思うだろう。
「謁見の間にて国王陛下がお待ちだ。」
「はい。ではライ様がお連れくださいませ。」
「…ああ。」
俺は普段なら絶対にしない、左肘を曲げて王女に腕を差し出すと、彼女がそこにそっと右手を添えるのを確かめてから歩き出した。
傍に立っていたイーヴはいつも通り無表情だが、トゥレンはその顔にまだ俺への疑念が表れていた。
「右がイーヴ・ウェルゼン近衛副指揮官で、左がトゥレン・パスカム近衛補佐官だ。二人と面識はあるだろうが、歩きながら改めて紹介しておく。」
「ウェルゼン様はお久しゅうございます。そして…トゥレン様。シニスフォーラでは碌にお話も出来ませんでしたね。後ほど御時間を頂けますかしら?」
「は…?…はあ、かしこまりました。」
「…?」
――俺の横でペルラ王女は、俺に向けたのよりも遙かに心情の籠もった微笑みをトゥレンに見せる。
それを見ていたイーヴがその無表情を崩し、ほんの少しだけ目を開いて訝しんだ。まあ婚約者である俺の前で、トゥレンに対してその名を呼び、心から嬉しそうな微笑みを向けて社交辞令のように『自分のために時間を取れ』と言ったのだ、妙だな、とその一瞬で思うのはさすがだろう。
「実はもう一人俺の臣下がいるのだが、彼には後ほどあなたの部屋に案内した時にでも会わせよう。」
「はい。」
「では後ほどライ様の御自室にヨシュアを向かわせます。」
「ああ、頼んだ。」
歩き出してからは一歩下がり、俺の右に顔を出してそう言ったのはイーヴだ。イーヴは戻ってからも淡々としていて、時折見せていた笑顔に似た表情を見せることは一切なくなった。
それは偏に俺の態度にも理由はあるが、それ以上にイーヴからは俺だけでなく、トゥレンに対しても壁のような一線を感じる。
俺は城の前庭からペルラ王女をエスコートして王宮内に入り、左右に警備兵や城の使用人、近衛隊士達が並ぶ中を謁見殿に向かって歩いて行く。
彼らは皆『サヴァン王家の至宝』とまで噂される王女を歓迎するために、王女が通るこの通路脇に控えているのだ。
その列にいる兵士や使用人達は、全員が俺の行動と王女が俺の腕に手を添えていることに吃驚している。
それはそうだろう。俺は今、慣れない微笑みを王女に向け、仲睦まじく見えるように演技をしているのだ。
今後はこうして人の目があるところでは、王女に優しくし、その手を取って親しげにしなければならない。――うんざりだ。
謁見殿の吹き抜け階段を上り、正面にある謁見の間への扉を左右にいた親衛隊二人が頭を下げて開いてくれる。
こんな風に正面から堂々と俺がイーヴとトゥレンを伴ってここに入るのは、四年も前にこの国へ来た時以来だ。
――今日の俺は、精一杯ペルラ王女との婚約を心から喜ぶ男の振りをする。
足元に敷かれた、毛足の長い絨毯の上を、一段高くなった玉座に並んで座る、あの男と王妃イサベナの前まで歩いて行く。
左右にはこの国の重鎮と一部の貴族、王国軍の主な幹部などが控えていた。
俺も随分と神経が図太くなったものだ。これだけの国の重要者達が一堂に会している中を、足が震えることもなく然も当たり前のように進んで行けるようになったのだから。
チラリと参列者に目だけを向けると、マクギャリー軍務大佐と奥方らしき中年女性の姿が見えた。確かウェンリーの母親は、ヴァハの村で一軒しかない雑貨屋を営んでいたはずだが…店を畳んで王都に移って来たのだろうか?
それから貴族列の中には、先日東の塔の下で見かけたイーヴの両親の姿もあった。
ウェルゼン夫人は廃嫡したイーヴが、俺の後に続いてトゥレンと並んでいる姿を見てハンカチを目に当てている。…多分泣いているのだろう。
その横には夫人を支えるようにして若い貴族男性が立っていた。あれが恐らくイーヴの廃嫡とほぼ同時にウェルゼン家に養子に入った男だな。
――思えばイーヴの両親も酷いことをする。貴族というのは跡継ぎがいないと余計な争いを招くらしいが、それにしてもすぐに他家の貴族子を養子にするとは…イーヴが両親に未練を抱くことがないのはある意味不幸だ。
俺は今でもレインに愛されたことを忘れないと言うのにな…
ああ、婚約者をエスコートしているのに、俺の頭が別のことを考えているのには理由がある。――わかるだろう、俺はこれからあの男の前に屈しに向かうのだ。
演技をするのは自分のため。延いてはリーマのためだ。俺はあの男の恐ろしさを知り、一人で立ち向かうには強大すぎる相手だと負けを認めた。
だが俺は自分の人生を諦めたわけではない。それでも目の前の玉座に座す男は、俺が王女を婚約者としてここにエスコートした時点で、王族であることを受け入れたと思うだろう。
できることなら、それだけは避けたかった。
満足げに微笑む男を見て、腸が煮えくり返る。なにに対して腹が立つのか?自分にだ。今、ここで、この男に与えられたライトニングソードを引き抜き、その冷たい氷のような心臓に力一杯突き立ててやりたい。
血の繋がりのある実の父親だと言うのに、不思議なものだ。この男に対しては家族の情は愚か殺意と憎悪しか湧いて来ない。
――そして俺は、このエヴァンニュ国王ロバムの前に、ペルラ王女と共に跪く。
屈辱だ。
だが諦めはしない。俺は必ず、どんな手を使ってでもこの男と、エヴァンニュというこの国からリーマを連れて逃げ出してみせる。
俺に欺かれたと知った時に、この男がどんな顔をするのか…
楽しみだ。
次回、仕上がり次第アップします。