137 迷い
リーマの家に泊まったライは、魘されるリーマを優しく抱きしめて一晩を明かしました。翌朝早く、人目を避けて出勤し、昼前には予定通り城にトゥレンが帰って来ました。その時トゥレンから驚く話を聞いたものの、カレン・ビクスウェルトを捕まえるために証拠を見つけたいライは、トゥレンを連れてリーマを助け出した廃屋を調べに行きますが…?
【 第百三十七話 迷い 】
「――リーマ、本当に大丈夫か?」
昨夜リーマの家に泊まった俺は、人目を避けて早朝に出勤するため、入口に立って見送る彼女にそう尋ねた。
まだ顔色の良くないリーマは、眠っている間も何度か魘れて俺の名を呼びながら泣いていた。その度に俺はリーマを抱きしめて、もう大丈夫だ、俺はここにいる、と髪を撫でて口づけをし、再び寝息を立てるまでそれを繰り返した。
あんなことがあったばかりだ、休めるものなら休んで、せめてもう一日リーマの傍にいてやりたかったが、今日はトゥレンがプロバビリテから戻って来る。
俺が出勤していなければ間違いなく騒ぐだろうし、イーヴのことも気になっていた。あいつが帰って来るのは多分午後になるだろうから、いつものように抜け出して様子を見に来ることも難しいだろう。
昨日と同じようにリーマは、俺を気遣って微笑む。
「大丈夫よ。昨夜ライが傍にいてくれたから安心して眠れたし、仕事から帰る時はジョインに送って貰うもの。…心配かけてごめんなさい。」
「謝るな、おまえはなにも悪くない。今日はトゥレンが戻って来るから午後は来られないだろう。…できれば傍にいてやりたかったんだが…」
頬に触れる俺の手にその手を重ねて、リーマは本当に大丈夫だから。と言って横に首を振る。
「…わかった、無理はするなよ。なにかあれば必ずミセス・マロームを頼れ。」
またすぐ会いに来る。俺はそれだけを告げて口づけると、後ろ髪を引かれながらリーマの部屋を後にした。
――もどかしい。…俺にとって最も大切なのはリーマなのに、こんな時でさえ俺は傍にいてやることが出来ない。
なにもかも放り出してリーマと二人、さっさとこの国から逃げ出してしまえば良いものを、どうして俺は未だ二の足を踏んでいる?あの男の恐ろしさはもう十分知っただろう。
俺にとって最も大切なのはリーマだ。それは間違いない。だが、〝大切〟の前に〝最も〟と付けた時点で、俺が大切に思っているのはリーマだけでないことを表してしまっている。
本当はわかっていた。戦場では生き残ることに毎日必死なだけだったが、敵兵との命のやり取りから解放されてこの国で過ごす内に、いつのまにか簡単には捨てられないものが増えてしまったのだ。
だが俺は王族にはなれない。大切な人達ができ、この国に対する情が湧きつつあったとしても、それでもあの男を父親と認めることだけは絶対に嫌だ。
俺の実母を含め奪われたものが多すぎて、あの男に対してはどうしても憎悪しか抱けないのだ。
俺の中で答えは疾うに出ている。だがすまない、リーマ…後もう少しだけ俺に時間をくれ。もう少ししたら必ず、おまえを連れてこの国から逃げ出すから。
後もう少しだけ――
――昼近くになって、思っていたよりも早くトゥレンが帰って来た。戻ったばかりなのだから少しはゆっくりするのかと思えば、部屋に荷物を置いてすぐに着替え執務室へやって来たらしい。
「ただいま戻りました、ライ様。ウェルゼン家令嬢の葬儀に出席させて頂き、心よりお礼申し上げます。」
…?
以前の砕けた口調が帰国前に戻ったな…なにかあったのか?
四日間の休暇が明け、戻るなりやけに畏まって礼を言ったトゥレンは、主従契約を結んで以降、良い意味で緩んでいた言葉遣いが、その態度と共に大きく変化していた。
葬儀に出席して戻ったのだから神妙なのはともかくとして、表情だけでなく瞳まで暗い。なにか思い詰めてでもいるような感じだ。
――よせ、一線を引くと決めたのは俺だ、情に絆されるな。こいつの態度や口調が変わったからと言って、今さらなにを…
一瞬複雑な思いを抱いたが、俺はなにも感じていない振りをして普段通りに答えた。
「ああ、礼はいい。イーヴは予定通りに戻って来られそうだったか?」
俺はわざと気にかけていると思われないように、イーヴを案じるような言葉ではなく、あくまでも仕事に差し支えるから聞いているのだ、と言わんばかりの聞き方をした。
トゥレンからはすぐに返事がなく、今度は一時の間が空いてから答えがあった。
「――…はい。……おそらく、ですが。」
「……?」
――どうやらこれは、本格的になにかあったようだ。
そうと気付いても聞き出すべきかどうかでまた迷う。関心がないように装っても気にならないわけではないのだ。
ただ問いかければこいつは、俺が二人を心配していると思うだろう。実際心配しているのは事実なのだが、それを気付かれては都合が悪い。
どうしようかと考えている内に、イーヴの机で仕事をしていたヨシュアがトゥレンの様子に気付き、俺が聞きたいことを尋ねてくれた。
「パスカム補佐官、失礼ですがご実家の方でなにかあったのですか?」
「ヨシュア…」
トゥレンは俺ではなくヨシュアから尋ねられたことに、少しガッカリしたようだった。…黙っていて正解だ。
そうして気を取り直したように俺を見ると、話し始めた。
「今週中にも連絡があるでしょうから先にお伝えしておきます。…ライ様、イーヴはウェルゼン家からの廃嫡が決まりました。」
「なっ…なに!?」
「ええっ!?」
これにはさすがに驚かずにはいられなかった。
廃嫡されると言うことは、家族の縁を切られるも同義だ。妹のことは事故であると証明されているのに、なぜ…?
「近衛に貴族かそうでないかは関係ないが、なぜそんなことになった?まさか妹の死が原因か?」
「いえ…関係がないとは言えませんが、恐らく違うと思います。それを言い出したのはイーヴ自身で、本人の強い希望によるものでした。目の前での両親とのやり取りを見て俺も少し思うところがあり、実は一昨日の葬儀の後…俺はついイーヴを殴ってしまいました。」
その上昨日様子を見にウェルゼン家に行ったら、イーヴは手紙を残して既に家を出た後だった、とトゥレンは言う。
イーヴを殴った?…この間はイーヴの方が馬乗りになって、トゥレンを責めていたな。帰郷している間に話をすれば蟠りも解けるかと思ったが、これは――
俺は二人の関係が予想以上に拗れていることを察した。
「それで貴殿はイーヴが行方を晦ませたのに、探さなかったのか?」
「休暇明けにはきちんと王都に戻ると、俺が見ることを想定して手紙に認めてあったのです。それなのに動けばイーヴの言葉を疑うことになるかと思い、休暇が明けても戻らないようなら再度考えようと思いました。」
「――…そうか、わかった。」
「えっ…それだけですか、ライ様?ウェルゼン副指揮官がご心配では…!?」
ガタン、と音を立てて椅子から立ち上がり、目を大きく開いてヨシュアが俺を見る。俺が、と言うよりもヨシュア自身がイーヴのことを心配しているのだろう。
「近衛を辞めるとは言わなかったのだろう。ならば心配しなくてもイーヴは戻って来る。廃嫡のことは驚いたが、事情は後で本人に聞けばいい。」
イーヴは子供ではない。ただそれも俺が尋ねたところで話すかどうかはわからないが、たとえトゥレンが詳しく知っているとしても、他者の口から聞くような内容ではなかった。
それをわかっているからこそ、トゥレンも言葉少なにしか俺に話さないのだ。
「ですが……いえ、かしこまりました。」
納得がいかないような顔をしつつも、ヨシュアは再び椅子に腰を下ろした。反対に俺は書類仕事を中断して立ち上がると、いつもの外套を近衛服の上に羽織った。
トゥレンが戻ったら手がかりが消える前に、あの場所を調べに行きたかったからだ。
「ライ様…どちらへ?」
上着を着た俺を見てトゥレンが聞く。普段なら俺が答える前に自分も行くと騒いでいたが、今日は静かだ。
「ヨシュア、二時間ほどトゥレンと出かけてくる。戻ったら続きをするから机の書類はそのままにしておいてくれ。」
「はい、かしこまりました。」
「来い、トゥレン。東部浄水場に向かうぞ。」
「は、はい。」
トゥレンも椅子にかけてあった自分の上着を取り、急いでそれを羽織りながら俺の後に続く。
そうしてそこへ向かう間も、いつもならうるさいぐらいに喋る奴が、理由も聞かず終始無言でただついて来るだけで、却って俺はその様子が気になってしまう。
かと言って俺に余計な会話をする気はなく、トゥレンはずっと一人でなにかを悩んでいるようだったが、恐らく俺から尋ねない限り、それを相談してくることはないだろう。
――なぜなら、俺とトゥレンは『友人』ではないからだ。
浄水場の裏手に回ると、俺が知らなかったこの廃地区をトゥレンの方は知っていたようだった。だがなぜこんなところに来るのだろう、という顔はしていても、なにも尋ねては来ない。
結局そのまま、昨日リーマが倒れていたあの廃屋に辿り着くまで、俺とトゥレンは一言も喋らなかった。
廃屋に着くと、俺が蹴り開けた扉は倒れた位置もそのままで、あの後人が入った様子もなく、床や壁の血痕もそっくり残されていた。つまりリーマを攫ったバスティス達は、俺がリーマを助け出した後も戻っては来なかったのだろう。
そう考えるとやはりこの血痕は、バスティス達誰かのものの可能性が高く、一人分であれば結構な出血量だと思われた。
あの女が雇った破落戸が何人いたのかは不明だが、それでも複数人の致死量にしてみると微妙だ。
もし犯人がどこかにいるのなら、今後同じことが起きないように防ぐためにも、なんとかして捕まえたい。その後は俺が拷問でもなんでもして証言させて、あの女をイル・バスティーユ島送りにしてやるつもりだ。
「これは…なんの現場ですか?まだ床の血溜まりが生々しいですね。」
目的地に着いたことを察して廃屋内をきょろきょろと見回しながら、ここでようやくトゥレンが俺に口を開いた。
俺は血溜まりを踏まないように回り込んで、すぐに周囲を調べ始める。昨日はリーマが心配で傍にいてやりたく、気になってはいたもののここに戻るだけの余裕がなかったのだ。
「俺にもわからん。昨日この奥の部屋で気を失っていた民間人が保護された。犯人は下町に潜む複数の破落戸だったようだが、俺はその連中の行方を捜している。なにか手がかりが残されていないか、調べるのを手伝ってくれ。」
「…ライ様?お言葉ですが、そのような案件は憲兵の仕事です。犯人の手がかりを探すのでしたら、専門家に頼むべきではありませんか?」
床にしゃがんで血痕を見ていた俺は、向かいに立つトゥレンを見上げてギロリと睨んだ。
「――血痕は残されているが死体はなく、保護された民間人は薬で眠らされていたが無傷で、犯人達がどうなったのかも知らない。そんな下町で起きた事件を、憲兵がまともに取り合うと思うのか?俺が案件を持ち込んだとしても、建前上の雑な調査だけ行って終わらせるのが目に見えている。だから直接調べに来たんだ。」
手伝う気がないのならもういい、帰れ。そう言って俺は、半ば腹を立ててトゥレンに返した。
一人で調べるより二人で探した方がなにか見つかるだろうと思ったが、トゥレンもどちらかと言えば下町で起きる事件を重要視しない部類の軍人なのだ。
表立って身寄りのない孤児などを貶むようなことはしないが、下町で良く問題が起きるのは、碌な職に就けない育ちの悪い人間が多く住んでいるからだと、心のどこかで思っていることを俺はわかっていた。
そんなトゥレンにリーマのことを話すわけには行かないのに、カレン・ビクスウェルトを捕まえるため、証拠が消える前に手を借りようとした俺が間違っていたのだ。
トゥレンは俺がなにを考えたのかすぐに察したようで、一分ほど落ち込んで俯いていたが、「余計なことを申し上げました、お詫び致します。」と頭を下げ、その後は真剣に辺りを調べ始めた。
俺はそんなトゥレンを見て、小さく溜息を吐く。
どうにも調子が狂うのだ。だがその原因はわかっている。俺の中に以前とは違い、トゥレンに対して意識して冷たい態度を取っていることに、本当は傷つけたくないのだという罪悪感を持っているからだ。
俺はトゥレン・パスカムという男が嫌いではなかった。人好きのする明るい性格と笑顔に、特に俺に対しては尻尾を振って駆け寄って来る大型犬のようにさえ見える。
それでも俺はこいつを完全には信じられなかった。さっきも言ったが、トゥレンは俺をあくまでも王族の人間として見ており、俺を守ることに命は賭けられても、本当の俺を見て俺のことを思ってくれる友人ではないのだ。
そのことが悲しくもあり、残念でもあった。
廃屋の中で手分けして別れ、あちこち具に調べていると、やがてトゥレンがなにかを見つけたようで俺を呼んだ。
その手には見慣れない携帯灯が握られており、壁に伸びる青い光でなにかを照らしている。
「なにを見つけた?」
「これを見てください。」
トゥレンが示したそこを見ると、壁には白く浮き上がる文字が描かれていた。左程大きくはないものだが、見慣れない言語で一文が書かれている。
「この携帯灯は血液に残された魔力に反応して、血痕などを白く浮かび上がらせる道具なのですが、これは血文字ではありません。単に魔力で書かれただけ文字のようです。」
「…初めて見る文字だ、なんて読むのだろう?」
「『テュース・エクスロス・メウス・ホスティス』。〝おまえの敵は俺の敵〟と言う意味です。」
「読めるのか!?」
俺の横でそう言ったトゥレンに一驚する。博識なイーヴならまだしも、まさかトゥレンがこれを読めるとは意外だったからだ。
「この文字が理解出来るわけではありません。もちろん何語なのかも知りませんが、縁があって知っていた一文でした。」
「?…どういう意味だ?」
俺の問いかけに珍しくトゥレンは返事をしなかった。言いたくないのか言えないのか、とにかく黙り込んだのだ。その上少し経ってから逆に俺に質問をして来た。
「――ライ様、先程ここで民間人が保護された、と仰いましたが、もしやその民間人を保護なさったのは、ライ様なのですか?」
「!」
驚いた。俺は用心して一言もそれらしいことを口にしていないのに、こいつはなぜそのことに気付いたんだ?
「…なぜそう思う。」
「……いえ、根拠はありません。なんとなくです。」
――出たな、また "なんとなく" か。こいつは…
通常こう言った事件などの情報は真っ直ぐ憲兵に行く。だが俺が近衛の指揮官に就いてからは、憲兵ではまともに取り合って貰えないと思った民間人が、俺のところに相談を持ちかけてくることがままあった。
だからこそ手伝わせるためにトゥレンを連れて来ても、俺が民間人と称したリーマを助けたことは気付かれないだろうと思っていたのだ。
それなのに…こいつは『闇の眼』の他にも、まだ俺に隠しているなにかがあるのだろうか?
そのなにかがわからなければ、嘘を吐いても簡単に見抜かれると思った俺は、怪しまれないように「そうだ。」と認めて一言返すに留めた。
俺がそれを認めただけでも、イーヴとトゥレンがいない間、下町に出入りしていたことはばれるだろう。ただ今はヨシュアの婚約者が下町に住んでいることをイーヴとトゥレンも知っているため、そこまで不審に思われることはないはずだ。
それでも俺が誰を助けたのか、なぜ犯人を追っているのかなどと聞いて来るかもしれないが、それは幾らでも誤魔化せる。
そう思いながら俺は、今の俺とトゥレンは上官と部下でも主と従者でも友人でもなく、まるで腹の探り合いをしている赤の他人のようだ、と心の中で苦笑した。
その後も二人で隅々まで調べ尽くしたが、結局トゥレンが見つけた壁の文字以外なにも見つからなかった。
「駄目ですね、他にはなにも見つかりません。それに…ライ様が犯人を追うのはかなり難しいでしょう。」
「…簡単に言うな、根拠はあるのか?」
「そうですね、少なくともその連中は既に死んでいると思うからです。」
そう言うとトゥレンは、この血溜まりからは一人分の魔力しか感じないが、間違いなく致死量の出血で、元の持ち主は死んでいるはずだという。
「おまえの言う通り一人は死んでいるとしても、他の者はまだ逃げた可能性があるだろう。」
「いえ、血痕が残っているのは、〝その連中は既に全員殺したぞ〟という誰かに宛てたメッセージです。死体を引き摺りもせずに隠せる人間が、血痕だけをわざと残して行ったのでしょう。血溜まりを踏んだ一人分の足跡が奥の部屋に続いていたのは、被害者の民間人を見つけ易くするためだったのだと思います。」
「………。」
――確かに俺も、ここに残された血痕にはなにか意味がありそうだとは思った。
だがそれが誰かに宛てたメッセージだと言うのなら、他でもないそれは間違いなく俺に宛てたものだと言わざるを得ないだろう。
しかも…あの壁の一文を俺に向けた言葉だと捉えるのなら、バスティス達を殺した人間は、俺の敵は自分の敵だと言って連中を始末したことになる。
まさかリーマを助けてくれた何者かは、俺の味方だと言いたいのか…?
もしそうだったとしても、良くこいつは初見でメッセージだとか見つけ易くするためだったとかの想像が付いたものだな。こんなことをする俺の味方にでも心当たりがあるのか…?だから俺が民間人を保護したのだと思ったのか。
互いに酷く回りくどいことをしているような感じがする。俺がリーマのことを打ち明けており、俺の恋人が襲われたのだとトゥレンが知っていれば、もっと理解するのは容易いのだろう。
――いや、考えすぎだな。下手に突いて逆に問われ、リーマのことを知られるわけには行かない。トゥレンが俺の味方ではないことを忘れてはならないのだ。
「わかった、では引き続き手配だけはしておいて、俺が犯人を直に追うのは諦めよう。城に戻るぞ、トゥレン。」
「…はい。」
俺は諦めて廃屋を出ることにした。これ以上粘ってもトゥレンに余計な疑問を抱かせるだけだからだ。
廃地区を歩きながら俺は、帰り道でトゥレンにヨシュアの前では言えなかったことを伝える。そう、ヨシュアにヨシュアの知らない俺の事情を、トゥレンの口から全て話して聞かせろということをだ。
するとトゥレンは酷く驚いた顔をして、本当に良いのかと聞いてきた。
「明後日にはペルラ王女が来るんだぞ?俺の婚約者だと言ったらヨシュアは困惑していた。一介の軍人に嫁ぐ女性としては、同盟国の王女となると身分が高すぎる。疑問を抱くのも当然だろう。」
「で、ですがライ様は、王宮近衛指揮官としてのライ様を慕うヨシュアを、側に置きたがられたのではないのですか?事情を聞いたヨシュアが態度を変える可能性は高いと思います。」
「――そうかもしれんな…だがヨシュアなら変わらずに、本当の俺を見て付き従ってくれるかもしれない。俺はそう期待してもいるんだ。ヨシュアはただの部下でなく、俺の友人でもあるからな。」
「……友人…ですか?ヨシュアが、ライ様の…?」
ああ、そうだ。――俺がそう答えた時のトゥレンは、なんとも言い表しがたい顔をして目を逸らした。
傷ついたような、衝撃を受けたような…それでいて少し怒っているような、拗ねているような顔だ。
俺は一瞬それを見て余計なことを言ったと後悔したが、トゥレンはすぐに顔を上げて了承し、仕事が退けた後今日中にヨシュアに話します、と返事をした。
*
――俺は自分が、誰かをこんなにも妬ましく思える人間だと言うことを、これまで知らなかった。
恋人を奪られた男ではあるまいに、心からの忠誠を捧げた主君が、他の臣下を友人だと口にしただけで、どうしてこんなにも憎く妬ましく、またとても羨ましく思ってしまうのか。
ライ様と闇の主従契約を結んだのは俺だ。そのおかげで俺だけが死んでも決して切れない絆で、ライ様と結ばれているのだ。…なのにその俺ではなく、なぜライ様はライ様が真の王太子であることさえ知らないヨシュアを、好んで側に置きたがるのだろう。…わからない、イーヴならまだしもなぜヨシュアなのだ。
シェナハーン王国から帰国して以降、ライ様は俺に冷ややかな態度と疎むような視線しか向けて下さらなくなった。それが酷く悲しい。辛く苦しく、また寂しかった。
俺はライ様が本当に好きだ。嫌がられて怒られるのが最初からわかっているからしないが、出来ることなら四六時中お側について、身の回りのお世話すらもこの手でして差し上げたいほどにだ。
もちろんそれは恋愛感情などではないが、ライ様は俺が忠誠を捧げるに相応しき御方であり常に尊敬して止まず、もし家族とどちらを取るかと言われたら、ライ様を選ぶほどに心酔していると言っても過言ではない。
ライ様をお守りし、常にその隣にいる資格があるのは、俺だけだ。イーヴでさえも死ねばライ様との絆は断ち切られる。俺だけがあの方と死した後も繋がれて、来世でも巡り会うことを許されているのだ。
――そのヨシュアに、ライ様からライ様が王族であることを話せと言われた。
正確にはライ様御自身は、未だ王族であることを認めておられないため、ヨシュアの知らぬ事情を全て話せと言われただけだ。
俺は心のどこかで、ライ様のことを全ては知らないヨシュアに対して、優越感を持っていた。
ライ様にどれほど好かれていたとしても、彼の知らないことを俺は知っているのだと、そのことが妬む気持ちを抑えてくれてもいたのだ。
これでライ様が期待していると仰っていたように、ライ様が真の王太子であると知っても、ヨシュアの態度が変わらずにいたら?
ライ様はこれまで以上に、ヨシュアを側に置きたがられるのはもう間違いないだろう。
そう思うだけで、俺はヨシュアが妬ましかった。
ライ様は事前に俺から話を聞くようにと知らせてあったようで、ヨシュアには極秘事項であるため俺の自室で話すと言い、仕事が終わった後で俺の部屋に来て貰った。
そして俺は今、ライ様が十八年以上も行方不明だった、この国の前王妃ベルティナ様と国王陛下の御子であることと、エヴァンニュ王国の真の第一王子で、もうすぐ王太子となられる御方なのだと言うことを包み隠さずに話して聞かせた。
結果ヨシュアは想像もしていない内容だったのか、あまりのことに驚きすぎて気を失いそうになっていた。
「ラ、ライ様が…我が国の第一王子殿下…それでウェルゼン副指揮官とパスカム補佐官は、あの方をお名前で呼ばれておられたのですね。やっとその理由がわかりました。」
「――それで貴殿は今後どうする?俺とイーヴは側近として、王太子となられた後もライ様にお仕えすることが既に決まっている。だが貴殿はライ様に望まれているだけで、無理をして多くの犠牲を強いる『王族の盾』になる必要はない。婚約者と年内中に結婚するのだろう?」
「えっ!?嫌だな、パスカム補佐官…御存知だったのですか?」
「ああ、ライ様から伺った。」
――俺が嫉妬していることなど知らずに、照れ臭そうに頭を掻きながらヨシュアは、屈託のない笑顔を見せる。そこにはライ様の事情を知って猶、ライ様への忠誠心が微塵も揺らがないと表れていた。
いっそのこと断ってくれれば良いのにと思いつつ、俺は今日ここで彼の返答を聞くことは出来なかった。
「すみません、パスカム補佐官。少し考える時間を下さい。返事はライ様に直接しようと思います。心が決まったら御自室を訪ねるようにも仰せつかっていますから。」
「…そうか、焦ることはない。王女殿下がいらしてからのことは、イーヴが戻ってから話し合うことになっているし、ゆっくり考えると良いさ。」
「はい、ありがとうございます。では俺はこれで失礼します。」
おやすみなさい、と言ってヨシュアは早々に部屋を出て行った。ヨシュアの部屋は同じこの階にあるのだが、多少遅くなっても下町の婚約者の元で、夕食を取ることになっているらしい。
――あの分だとそれほど大きな変化はなさそうだ。…だとするとやはりヨシュアは…
「おいおい、男の嫉妬はみっともないぜ?第一補佐官殿。」
その声に振り向くと、『奴』が突然姿を現した。
「シカリウス…!」
そう言えば夜に来いと自分から言っておいて…すっかり忘れていた。
「よお、お帰り。約束通りあんたが留守の間、ライの様子をちゃあんと燕で伝えてやったぜ?俺の従魔がどんな奴なのか、これでよくわかっただろ?」
男はそう言いながら指先に瑠璃色の燕を呼び出すと、俺のソファに我が物顔でどっかと腰を下ろした。
この態度の大きい白髪銀瞳の男は、元暗殺団オホス・マロスの頭領で、本名かどうかはわからないが『シカリウス』と名乗っている。
何度見ても目立つ外見をしているが、この男は以前シニスフォーラの国王殿でライ様を殺そうとして襲いかかって来た犯人だ。
イーヴの妹が東の塔から転落して亡くなった日、勝手に俺の自宅の書斎に入り込んで、今と同じように俺に〝お帰り〟と言って退けた厚かましい奴なのだが、なぜこの男が俺の元をこうして訪れるようになったのかは理由がある。
「それはわかったが、貴様…何度言えばわかる?幼馴染だか一緒に育った兄弟だか親友だか知らんが、ライ様を馴れ馴れしく呼び捨てにするな!きちんと敬称を付けてお呼びしろ!!敬称を!!」
「は!そっちこそいい加減わかれや、俺はあんたの指図は受けねえ。俺にとってライはただのライなんだよ。…ったく、あんたの中からあいつの霊力を感じなけりゃ、わざわざ声なんかかけなかったのによ…ちっ、めんどくせえ。」
シカリウスは足を投げ出して背中をソファに凭れかけると、両手を頭の後ろに組み当ててそっぽを向きながら舌打ちをした。
育ちの悪い破落戸はこれだから…いや、待て、この男はライ様と同じ孤児院で育った人間だ。この男を悪く言えばライ様を貶すことになる…!!いかん、それだけは絶対に駄目だ、考えを改めねば!!
――この男はあの日、俺にライ様をお守りした礼と、ライ様を守る俺に襲いかかったことの謝罪を言いに現れた。困惑しながら聞いた話は信じ難いものだったが、シカリウスは亡国ラ・カーナの生存者で、ライ様と同じ孤児院で育った家族だという。
ライ様がラ・カーナの出身であることは、俺とイーヴしか知らないことだ。その上その証拠にと、ライ様しか知らない孤児院の紋章を書かせたら、この男は難なく描いて見せたのだった。
それがなぜシャール王子とイサベナ王妃に雇われて、ライ様のお命を狙う羽目になったのかと言うと、元々この男はライ様と同じように、故郷を滅ぼしたエヴァンニュと王国軍人を憎んでいた。
今でもそれは変わりないそうなのだが、暗殺団の噂を聞いて仕事を持ちかけてきたのがシャール王子の側近であり、殺して欲しいと言われたのが王国軍の最高位軍人であったため、上手く両方共始末してやろうと企んで引き受けたらしい。
それでもライ様にもっと早く気が付けば、あの国王殿での戦いは防げたのだが、シカリウスはそれ以前にファーディアでライ様が死んだと聞かされており、まさか故郷を滅ぼしたエヴァンニュの軍人になっているなどとは微塵も思いもせず、相手を確かめようともしなかったのだそうだ。
その上実際に対峙してもまだ気付くことが出来なかったのは、十年前、国が滅びた戦争時に魔法弾で失明し、その後獲得した銀色の光を宿す『魔眼』と、魔力を使ってでしか音を聞くことの出来ない鼓膜を失った耳のせいで、ライ様が『ライ』であることもわからなかったのだという。
普通ならそう聞いても、すぐには信じられないのが当たり前だが、俺には『闇の眼』がある。
国王殿で戦った時は、鮮血のような光を放っていたシカリウスが、その胸元に、ライ様への深い親愛の情を示す『橙』色の強い光を放っていたのだ。
闇の眼は嘘を吐かない。信じないわけには行かなかった。
そんな状態で良くライ様に気がついたものだ、と尋ねたら、シカリウスはあの時光り輝いた、首飾りの赤い宝石を俺に見せた。
「こいつは血晶石と言って、これに記録させた血液の持ち主に反応して赤い光を放つんだ。ライはもう覚えてねえみたいだったけど、昔俺達がある誓いを交わした時に、俺が頼んでこいつにライの血を記録させたんだ。あいつが死んだと聞かされても、肌身離さず身に着けておいて良かったと心底感謝したぜ。」
そうしてシカリウスは、魔眼だと『赤い光』だけはそのままに見えるんだ、と言って涙ぐんだ。
その時は思わず感動して絆されてしまったのだが、今後はライ様を俺と協力しつつ影から守りたいと言われて、信用し受け入れたことを今はほんの少し後悔している。なぜなら――
「くっ、貴様…それよりどういうことだ、昨日ライ様が民間人を保護なされたことは俺に知らされていないぞ。なにがあったのかはわからんが、ライ様がお探しの犯人を殺したのは貴様だろう。なぜ教えなかった?」
「ははっなに言ってんだ、当たり前だろ?ライがあんたたちに隠したがっていることは、さすがに口が裂けても教えねえよ。どういうわけかあんたには、ライの霊力が混じってるから信用することにしたけどよ、俺は最初から最後までライだけの味方なんだぜ。」
――とこのように、この男はライ様を守る為に俺を利用したいだけで、ライ様が望まないことはなにか知っていても、絶対に口を割らないのだ。
「まあ犯人についてはその通りだな。『テュース・エクスロス・メウス・ホスティス』。あいつの敵は俺の敵。碌なことを仕出かさねえ馬鹿野郎は、見逃さずにこっそり消しておくに限るだろ。」
そう言って笑ったシカリウスは、間違いなく元暗殺者の顔をしていた。
この男は、故郷がこの国とゲラルド王国のせいで滅んだ後、視力と聴力を失い、ライ様を失って…いったいどのように生きて来たのだろう。俺などには到底想像もつかない、それは苛酷な人生だったのだろうな…でなければライ様を守るためとは言え、兵士でもない民間人がこのように冷酷にはならんだろう。
「ああ、そうそう、一応教えとくけどさ、あんたより先に副指揮官は王都に帰って来てたぜ。休暇はまだ三日もあるんだろ?城に戻らずなにしてんだろうな。」
「な…イーヴがか?」
「うん。」
含みのある言い方をし、ほんの一瞬銀瞳をキラリと光らせると、「聞きたきゃ誰と外で会ってたか教えてやってもいいけど、どうするよ?」と、シカリウスは俺を試すような口調で告げたのだった。
♦ ♦ ♦
――トゥレンが戻った二日後、予定より一日早くイーヴが帰って来た。…と同時に貴族管理院からの書類を俺に手渡し、ウェルゼン家から正式に廃嫡となり、既に全ての手続きを終え、貴族籍からも抜けたことを俺に報告した。
理由を聞けばイーヴは元々ウェルゼン家の養子であり、家督は妹のアリアンナティア嬢の夫となる者が継ぐことになっていたそうなのだが、あの事故で実子ではないことが知れ渡ると、イーヴが跡継ぎとなるために妹を殺したのではないかとの噂が広まるのではと懸念したという。
「明日にはペルラ王女殿下がいらっしゃいます。もしも私が噂などでライ様の側近に相応しくないと思われれば、後々私はライ様の元を去らなければなりません。それをなんとしても私は避けたかったのです。」
イーヴの言ったその言葉を鵜呑みにしていいものか迷ったが、要するにイーヴは俺の側近を辞めさせられたくないから、そんな手段に出たのだと言っているも同然だった。
「――他に方法はなかったのか?養子とは言え、親子仲は悪くはなかったんだろう。ウェルゼン家のご両親は悲しんだのではないか?」
俺はレインから受けた愛情しか知らないが、養父としてでもとても愛されたような記憶がある。そのことからしても、親子というのは血の繋がりだけが全てではないことを知っている。
娘を失い、悲しみも癒えぬ間に息子にまで去られたら、両親は相当悲しむだろうと思った。
「いえ、ウェルゼン家には妹の婚約者であった男性が跡継ぎとして養子に入ります。両親は彼をとても気に入っており、私がいなくなったとしても問題ありません。」
淡々とそう言ったイーヴに俺は驚く。自分がいなくなっても問題ないとは言い過ぎだろう。そう思ったからだ。
「…おまえは本当にそれで良いのか。」
「お言葉ですがライ様、良いもなにも既に手続きが終わった後のご報告です。今後一年間はウェルゼンの姓を名乗ることが許されておりますが、その後は養子に入る前の本名に戻りますので、ご了承ください。」
「――わかった。」
「ありがとうございます。ではこの後陛下にもご挨拶に伺いますので、一旦失礼させて頂きます。また午後に。」
そう言うとイーヴはさっさと執務室を出て行った。
養子に入る前の本名、か…聞きそびれたが、なんというのだろう?
――両親と縁を切ったというのにあまりにも淡々とし過ぎていて、また俺はイーヴという男がなにを考えているのかわからなくなった。
トゥレンの命を救うために必死になり、あれほど大切にしていたかと思えば、妹の死以降は碌に話もしていないという。
俺の元を離れたくないと(本心とは思えないが)噂を恐れて両親との縁を切るなど、普通では考えられないことだ。
トゥレンはトゥレンでこの二日というものまた様子がおかしいし、イーヴが戻ったと知っても顔を出しもしない。
これは俺にも責任の一端はあるが、今俺達はバラバラだ。
「――こんな調子でペルラ王女が来て大丈夫なのか、俺は…」
心配してもどうしようもない。王女が滞在する部屋も紅翼の宮殿の、俺の自室がある階に既に用意されている。
最初は結婚前なのになぜそんなに近い場所の部屋なのかと耳を疑ったが、頭の痛いことにそれを指示したのはあの男とシグルド王の両国王らしい。
もちろん俺が王女に手を出すことは絶対にないが、そうまでして俺と王女を結婚させたいのかと呆れる。
王女は来城後明日一日は重鎮などに顔を合わせをして挨拶をし、それ以降は花嫁修業という名の勉強に入る。…が、これは建前だ。
――今日は遅くなってもどうにか抜け出してリーマに会いに行こう。リーマは俺を信じると言ってくれたが、それでも不安にさせていることに変わりはない。
それを少しでも払拭出来れば――
そうして翌日の昼過ぎ、隣国シェナハーンの護衛車両に乗って、遂にあの『ナシュカ・ザクハーン・ペルラ・サヴァン』王女が、俺の婚約者としてこの国にやって来たのだった。
次回、仕上がり次第アップします。