136 絡みつく糸
リーマの元を訪れようとしていたライは、士官学校でジャンとティトレイに会った後、そこを出た通りでカレン・ビクスウェルトに声をかけられました。カレンを見て嫌悪を抱くライは、冷たく遇おうとしましたが、リーマがどうなっても良いのかと脅され、凍り付きます。その後冷静になって考えを巡らせ、怒りからカレンを逆に殺すと脅してしまいますが…?
【 第百三十六話 絡みつく糸 】
俺はその時、あまりにも馬鹿馬鹿しくなって笑いが込み上げてきた。
なぜ俺はこんなところで、虫唾が走るほど嫌悪する女に腕を掴まれ、〝愛人にしろ〟と脅されなければならない?
この醜怪な女は、リーマを人質にすれば俺が屈すると本気で思っているのか。
赤の他人でこれほどまでに俺を激怒させた女はいない。ああ、いっそのことこの場で斬り殺し、リーマから奪ったその緑紅石のペンダントを今ここで取り返してやろうか。
付き纏われたからと言って手を下せば、間違いなく俺は殺人犯だ。王宮近衛指揮官から転落して重犯罪者となり、あのバスティーユ監獄に囚人として送られることになるだろう。だがそれも悪くないかもしれん。
俺の手は既に血に塗れているし、一人ぐらい殺した人間が増えたところでどうということもない。
犯罪者となればペルラ王女との結婚話も消えるだろうし、さすがのあの男も今度こそ俺を諦めるだろう。
そんなことまで考えてしまい、心の奥底から湧き上がる、どうしようもないほどの憎しみが俺の理性と鬩ぎ合う。
――もしリーマに掠り傷一つでも負わせてみろ、魔物より酷い殺し方をして連中の餌にしてやる…!!
「――おい、もう一度だけ言う…俺に触るな。」
胸に渦巻く憎悪と殺気を抑えずに、俺は侮蔑の念を込めた目で女を見下ろした。瞬間、女は顔を引き攣らせたが、尚も俺を舐めてかかった。
「そ、そんな怖い顔をしても離れないわよ。王宮近衛指揮官が民間人に暴力なんて振るえないでしょう。それこそ大問題になるわ…!」
「それがどうした?貴様は俺がなぜ『鬼神』と呼ばれているのか、真の意味を知らんだろう。俺は敵と見做した相手が危害を加えようと向かってくるのなら、どんな理由があろうとも情け容赦はせん。」
執拗に食い下がる女に、俺は全身から殺気を放った。
「さっさと手を放せ。然もなくば先ずは最初にその細腕をへし折るぞ…!」
「ひっ…!!」
女は恐怖に顔を歪ませてようやく俺から離れると、今度は癇癪を起こしたように喚き始めた。
「どうしてよ!!同じ下町の女で同じ酒場の踊り子なのに、どうしてリーマは良くて私は駄目なの!?私だってずっとあなたが好きだったのに!!」
今度は情に訴えるつもりか。…同じ台詞でもこうまで響きが異なるとはな。
俺はあの日リーマの部屋で、同じように告白された時のことを思い出した。
リーマの時は違った。リーマからは本当にその思いしか伝わって来なかった。俺の心を望むのでもなく、俺を自分の物にしたいという欲望さえなく、ただ俺のことを好きだというその気持ちしかリーマにはなかった。
今ならわかる。だから俺はリーマの思いを受け入れ、その手をすんなり取ることが出来たのだ。
「好きならなにをしても構わないのか?同じ下町の女で踊り子だと言うが、俺から見れば貴様とリーマは全く違う。リーマは俺になにも望まない。ただ傍にいることを喜び、共に過ごす時間を大切にし、本当の俺を見て一途に愛してくれている。貴様は俺が王宮近衛指揮官でなければ、そこまで俺を欲したか?」
俺の問いかけに女はビクッと反応し、目を逸らして言葉に詰まる。ずっと好きだっただの愛しているだの言っても、俺に言い寄ってくる女の大半はやはりこんなものなのだ。
リーマのようになにも望まず、本当の俺を見て心から愛してくれる女の方が稀有だろう。
「わかったのなら答えろ。リーマになにをした?彼女に少しでも危害を加えてみろ、俺は貴様を殺す。これは脅しではない。俺にとってリーマ以上に大切なものなどないんだ。どうせなにもできないだろうと嘗めているのなら、今すぐここで斬り殺しても構わないんだぞ?」
俺は本気であることを示すために、女の目の前でライトニングソードの柄に手をかけた。
士官学校前の通りだけあって、何事かと足を止める人の姿がぽつりぽつりと出て来る。俺はフードを目深に被り外套で近衛服も隠しているが、長引けばやがて正体も露見するだろう。
あまり時間をかけたくはない。口にした通り、今この場でこの女を斬り殺しても構わないが、俺が憲兵に捕らえられればリーマを助けることは出来なくなる。
早く答えろ…この殺気がわからないのか?俺は本気だぞ…!!
イライラしながら女からの返答を待つが、女は往生際が悪く目を逸らしたまま口をつぐんでいる。
素直に吐けば良いものを…ここまでしてもまだわからないようなら仕方がない、俺が剣を抜けばさすがにわかるだろう。
――リーマ…!
さらなる憎悪を向けて睨み、剣の柄を握る右手にぐっと力を込めた時だ。この女…カレン・ビクスウェルトは、ようやく諦めたように呟いた。
「…浄水場裏の廃屋…」
そこで一旦言葉を切り、ごくり、と息を飲み込んでから続ける。
「今朝…仕事帰りのリーマを襲わせてバスティス達に攫わせたの。複数の破落戸達でめちゃくちゃにしてやってって…」
浄水場?廃屋…攫わせただと…?
あまりの所業に俺は、愕然として一瞬声を失ってしまう。
顔見知りでもない、全くの他人同士というわけではない。この女は、同じ酒場で働く同僚でもあるのに、なんの罪もないリーマをそんな目に遭わせようとしたのか…?
ラカルティナン細工のペンダントを奪っただけに飽き足らず…どこまで醜いんだ、信じられん…!!
「なぜそんなことを…正気か?」
「だってリーマが穢されたら、あなたはさすがにもう愛せないでしょう!?邪魔だったんだもの!!」
「貴様…っ!!」
怒りの気を放った俺に、女は即反応して「ひいっ!!」という短い悲鳴を上げて蹲る。俺はそれに構わず踵を返すと、すぐさま浄水場へ向かって走り出した。
今朝…仕事帰り?既に何時間経っていると思っている…!!
リーマはなんの力もない、か弱い女だ。複数の男達に力ずくで襲われたら、おそらく一溜まりもないだろう。
だがそれでもあの時のように、自分を穢そうとする男達に必死で抵抗するかもしれない。そうなれば短気な男達の中には腹を立てる者も出るだろう。
リーマに引っ叩かれてカッとなったバスティスが乱暴したように、頭に血が上った破落戸が、ただ襲うだけでなく手をかけたら…!?
頼むリーマ…無事でいてくれ!!どんな目に遭わされたとしても、俺はおまえが生きていてくれさえすればそれでいい。おまえのいない世界で俺はもう、生きてはいけないんだ…!!
俺はフードが脱げるのにも構わず、必死に走って東部浄水場に辿り着くと、塀で仕切られた敷地に沿ってその裏側に回り込んだ。
浄水場の裏手は小規模の林と伸び切った背の高い茂みに隔たれて、道らしい道すらない。だがその奥に木の板で打ち付けられた、粗末な壁らしきものがあることに気付き、境界線の向こうに俺が今まで立ち入ったことのない廃地区を見つけた。
「こんな奥に閉鎖された街区があったのか…」
以前護印柱の探索でここの浄水場に入ったことはあったが、周囲になにがあるのかなど気にも止めなかった。
多分どこかに通りやすい出入り口はあるのだろうが、探し回るのは時間がかかると判断し、俺はその壁板を剣で叩き斬って、出来た隙間から地区内に入り込んだ。
この廃地区は随分長い間放置されているらしく、通りの石畳は割れ欠けて剥き出しの土からぼうぼうに雑草が伸びており、日の当たらない場所に立っている家屋なんかは、屋根や壁が湿気を含んで腐りかけて緑色の苔まで生している。
どこの家も朽ちて窓硝子が割れており、外から中は覗けたが、天井が崩れて梁が落ちていたり、床が抜けていたりして、とても人が入り込めそうにない建物ばかりだった。
――王都にこんな場所があったとは…ここは西部の工場地区より荒れ果てている。きちんと憲兵は見回りをしているのか?犯罪者は元より、魔物が潜んでいてもおかしくないじゃないか。
いや、そんなのは今どうでもいい。
「リーマ…どこにいる?廃屋というのはどれなんだ。」
女が言った廃屋というのはどの建物のことなのかわからず、人気のないそこを俺は片っ端から覗いて行った。
「リーマ!!どこだ、いるなら返事をしてくれ!!」
左程広くはなさそうなのに、落ちた屋根が道を塞いでいるような箇所もあって、中々思うようにリーマを見つけることが出来なかった。
リーマが攫われて既にかなりの時間が経っていることから、俺は焦り、良くないことばかりが頭に浮かんで、不安に気が狂いそうになった。
王都は憲兵による頻繁な見回りと、軽犯罪者にも厳しい取り締まりがあるおかげで、下町や工場地区でも治安は良い方だ。
ただそれでも一定数の隠れた悪人はいて、そういった連中による婦女暴行から殺人に至る例も年に何件か起きている。
あのバスティスという男は半分崩れた感じの小者だったが、小者でも同じような連中と徒党を組めば大胆になり、時には普段やらないようなことまでやってしまいかねないことがある。
あの女にそこまでのつもりはなかったのだとしても、リーマが命の危険にさらされる可能性は十分あり、俺はそのことが最も心配だった。
チュピチュピチュピ…ジジーッ
「…?」
――その鳥の声は、冷静さを失い焦って気が動転している俺の耳に、不思議なほどはっきりと聞こえて来た。
チュピチュピチュピ…ジジーッ
「この鳴き声…ラ・カーナでは良く見かけた『燕』の声か…?」
エヴァンニュに燕がいるという話は聞いたことがない。あの鳥は人里を好んで巣を作る野鳥だが、温暖な気候を好む渡り鳥なのに、シェナハーン王国までは南下して来ても、なぜかフェリューテラの最南端に位置するこの国には近寄らないと言う。
その習性から『燕』がいる場所には、必ず近くに人間がいる。
そのことを思い出した俺は、手当たり次第に廃屋を探すのを止めて、その鳴き声を頼りに野鳥の姿を探し始めた。
繰り返し囀り続けるその鳥は、まるでリーマが〝ここにいるよ〟と俺に教えるかのように、俺がその場所へ辿り着くまでの間ずっと鳴き続けていた。
「真新しい足跡が…ここか!!」
一軒の廃屋の屋根に留まる瑠璃色の燕を見つけた俺は、道に残されていた複数の足跡に、蝶番が外れかけていた扉を蹴り開けて中に駆け込んだ。
バンッガラガラ…
「リーマっ!!リーマ、どこだ!?どこにいる!!」
元は居間だったらしき部屋の床に、結構な量の血溜まりがあった。見れば壁や天井にも大量の血が飛び散っており、ここでなにかが起きたことは一目瞭然だった。
奥の壁には扉のない別室への入口があって、そこに血溜まりを踏んだ大きめの足跡が点々と続いている。
俺はその足跡を辿って人気のない奥の部屋へと急いだ。
この血溜まりはまさか…いや、そんなはずはない、そんなはずがあるものか…!違う、あれはリーマの血なんかじゃない、リーマはきっと無事だ…!!
――そう思うのに、俺の血の気がどんどん引いて行く。そこに辿り着くまでの僅か数秒で、手が震え、指先が冷たくなり、喉がひりついて眩暈がしてくるほど、心臓がバクバクと早鐘を打った。
もしこの先に最悪の光景があったなら…俺はそれを見た瞬間、ここで発狂してしまうかもしれない。…そう恐れながら部屋を覗き込んだ。
そして俺はその部屋の中央、藁を編んで作ったような敷物が敷かれたその上に、倒れて横たわっているリーマを見つけた。
「…っ…リーマ…っ!!」
すぐに駆け寄り、俺は震える手で彼女を抱き上げた。…温かい。良かった、生きている…!!
――幸いなことに、リーマは無事だった。どういうことかはわからないが、見たところただ気を失っているだけで、衣服にも乱れはなく、どこにも怪我をしている様子はない。あの大量の血溜まりは、やはりリーマのものではなかったのだ。
「リーマ…リーマ、俺だ。…しっかりしてくれ。」
俺が何度呼びかけても、リーマは一向に目を覚まさなかった。そのことから、もしかしたら薬などで深く眠らされているのかもしれなかった。
いったいリーマはどのくらいの時間、気を失ったままこんなところに横たわっていたのだろう。身体はすっかり冷え切ってしまい、大分冷たくなっている。
俺は外套を脱いでとりあえずそれにリーマを包むと、近衛服のまま彼女を抱き上げて急ぎ廃屋を後にする。もう誰にこの姿を見られたとしても構わなかった。リーマを少しでも早く連れ帰り、暖かい場所で休ませることの方が俺には大事だったからだ。
なんの薬を使われたのかもわからない。このまま目を覚まさなければ病院へ運んで、すぐ医者に診てもらった方がいいかもしれないな。誰かに相談できれば…そうだ、ミセス・マム…アフローネの女主人を頼ろう。
リーマを抱いたまま廃地区を抜ける間、カレン・ビクスウェルトがリーマを襲わせたバスティスや、その他破落戸達の姿は一切どこにも見えなかった。
だが単にリーマを放って留守にしているだけで、まだ近くにいるのかもしれないと思い、俺は周囲に最大限の警戒を張り巡らせる。
たとえ鉢合わせたとしても、俺は問答無用ですぐに叩き殺すつもりでいたが、悪人とは言えリーマの前で人を殺すのは出来るだけ避けたかった。
だから今は戻って来るなよ、と心底願いながら進み浄水場へ出ると、後は一気にアフローネまで街中を駆け抜ける。
途中近衛服と俺の黒髪を見て騒ぐ民間人もいたが、俺が人を抱えて走っていることに気づくとさすがに邪魔をする者はおらず、思ったよりも早くアフローネに辿り着けた。
扉にかけられた準備中の札を無視して店内に駆け込むと、リーマを抱いたまま息を整える間もなく汗だくになって声を張り上げる。
「ミセス・マローム!!誰かいないか!?王宮近衛指揮官のライ・ラムサスだ!!」
今夜リーマは休みだが、酒場は夕方から普段通りに開店する。アフローネはほぼ年中無休で、なにか余程のことがない限り休業しないと聞いていた。
ここの女主人は店の二階に住んでおり、料理人や事務方の従業員は営業時間外でも店舗で仕事をしているとリーマから聞いて知っている。なので誰かしらこの時間でも人がいるはずなのだ。
俺の声を聞いた見覚えのある男性が、すぐに奥から店に駆けて来る。確かジョインという名の従業員だ。
「リーマ!?どうしたんですか、なにが…」
「事情はミセス・マロームに直接話させて欲しい。身体が冷え切っているんだ、どこか彼女を休ませてやれる場所はないか!?」
ジョインはすぐにリーマを抱えた俺を店の奥に案内してくれ、俺は従業員用の仮眠室となっている部屋の寝台にリーマを横たわらせた。
ここに来るまでにも時間は経っていて、俺に運ばれる間結構身体は激しく揺さぶられたはずなのだが、それでも変わらずリーマは目を覚まさなかった。
「ずっと気を失ったままなんだ。俺が呼んでも目を覚まさない。」
「すぐにミセス・マムをお呼びします!」
「ああ、すまない、頼んだ。」
ジョインはすぐに部屋を出て行き、俺はリーマの頬に右手の甲でそっと触れて、髪を撫でながら寝台の傍らで女主人を待った。
そうして程なくすると、ミセス・マロームが慌てて二階から降りて来る。彼女はまだ部屋着で、その頭には女性の髪を整えるためのウェーバー(髪を巻き付けてくるりとした巻き毛を作る道具らしい)が付いたまま、寝台に横たわるリーマに駆け寄った。
「リーマ!?リーマ、どうしたんだい、しっかりおし!!」
ミセス・マロームはピタピタとリーマの頬を軽く叩いて、意識の有無を確かめながら目覚めさせようとする。
「待ってくれ、リーマはなにか薬を使われたようなんだ。すぐ病院に運ぶか迷ったんだが――」
「ジョイン、薬棚から気付け薬を持って来ておくれ!それで意識が戻らないようなら医者じゃなきゃ駄目だ、病院に運ぶよ!!」
「は、はい!」
俺が薬を使われたようだと話すと、ミセス・マロームはすぐさまそう指示をして
ジョインに薬の入った小瓶をどこからか持って来させた。
そして俺の目の前で蓋を開けると、強烈な刺激臭のするそれをリーマの鼻に近付けて嗅がせる。すると次の瞬間、リーマは酷く咳き込みながら目を覚ました。
「リーマ!」
俺は寝台の端に腰を下ろし、起き上がったリーマの手を取ってその頬を撫で、水色の瞳を覗き込んだ。
「リーマ、俺がわかるか?助けるのが遅くなってすまない、おまえはずっと気を失っていたんだ。」
「ラ…イ…?…っ…ライ…!!」
リーマは余程怖い思いをしたのか、俺を見ると名を呼んでしがみつき、俺の胸に顔を埋めて号泣した。
俺はリーマを強く抱きしめ、その髪を撫でながら彼女の意識が戻ったことに安堵して、ミセス・マロームを頼って良かったと心から思った。
「いったいなにがあったんだい?今助けるのが遅くなったとか聞こえたけど…リーマがこんなに声を上げて泣く姿なんて、あたしゃ初めて見たよ。この娘は我慢強い子だから、余程でなけりゃ泣いたりしないんだ。」
「ミセス・マローム…それなんだが、実は――」
俺は今日、士官学校前の通りでカレン・ビクスウェルトに声をかけられ、リーマがどうなってもいいのかと愛人にするよう脅されたということから、それを突っ撥ねてリーマを傷つければ殺すと脅し返し、バスティスという男と破落戸共を使って仕事帰りのリーマを攫わせたことを聞き出したのだと、包み隠さずに全て話した。
「あの女から聞いたとおり、東部浄水場の裏に閉ざされた廃地区を見つけ、比較的マシに残っていた廃屋の中に倒れていたリーマを見つけたんだ。」
「なんてことだい…カレンがそんなことを?」
「ああ。」
ミセス・マロームとジョインは衝撃を受けて愕然としていたが、それ以上に俺の腕の中にいたリーマの方が、事実を知ってもっとショックを受けていた。
「わ、私…今朝帰り道で後ろから羽交い締めにされて襲われたの。複数の男性の笑い声が聞こえて…悲鳴を上げられないようにすぐ口を布で塞がれてしまったけれど、背後の男の顔を見たら確かにバスティスだったわ。てっきりあの日、もう近付かないでと言ったことを逆恨みされたのだと思ったのに…まさかカレンが…?本当なの…?」
「――リーマ。」
カタカタと恐怖に青ざめて震えるリーマを、俺はもう一度強く抱きしめた。
「リーマを傷つけたあの女を憲兵に突き出してやりたいが、証拠がない。俺に語った自白だけではこの手で捕らえたとしても、白を切られてそれまでだ。俺がリーマに贈ったラカルティナン細工のペンダントを奪ったのもそうだが、あの女は巧妙な手で悪事を働くのが随分と得意なようだな。」
――〝虫唾が走る〟。
俺はそう口に出して怒りと嫌悪感を顕わにし、ミセス・マロームと俺達のことを知っているジョインに、俺のカレン・ビクスウェルトに対する感情を暴露した。
するとミセス・マロームは、庇うわけではないけれど、と前置きをして唐突にあの女のことを俺に話し始めた。
「うちの店で働く踊り子の大半は『黒髪の鬼神』のファンでね。恋人がいてただ憧れているだけの娘が殆どだけど、カレン…あの娘は少し違うんだよ。」
話を聞くにあの女は、随分前から俺との繋がりを得るためだけに、女の美しさに惹かれて言い寄ってきた軍の兵士達を取っ替え引っ替え恋人にしては別れ、身体を使って少しでも上の位にいる軍人と懇意になろうとしては、要らぬ努力をして来たらしい。
「最近では高位軍人の一人を引っかけたと言って、近衛の独身男性を紹介して貰うのだと喜んでた。ようやくあんたが所属する部署の男に近付けた、と言ってね。カレンは男を手玉に取って時に貢がせては贅沢をし、結婚を申し入れられては〝あんたじゃない〟と言って手酷く振るような娘だけど、その心にはずっとあんたがいることをあたしゃ知っていたんだ。」
身分違いだし望みはないよと言っても聞かなくてね。…と、ミセス・マロームは苦笑する。
なんのつもりで俺にそんな話を聞かせたのかはわからないが、はっきり言って逆効果だ。あの女が複数の男に散々抱かれた身体で、さらに俺に抱けと言って迫って来たのかと思うと、それだけで吐き気がする。
「――悪いがそれを聞いても、身分など関係なく身持ちの悪い女は御免だ。そうでなくとも俺にはリーマがいる。リーマ以外の女を娶る気は微塵もないし、リーマ以外の誰かを愛することはない。たとえ神に俺達の関係を否定されたとしても、俺はもうリーマがいなければ生きては行けないだろう。今日リーマが破落戸共に攫われたと聞いて、失うのではないかという不安に駆られ、本気でそう思ったんだ。」
「ライ…」
俺は俺に身を寄せて腕の中にいるリーマを、また強く抱き寄せて「本当に無事で良かった。」とリーマの額に口づけた。
「同感だね。だけど良くバスティスのような連中に攫われて、無事だったね?リーマ。」
「ああ。怖い思いをしたのに思い出させるつもりはないが、バスティス達はどうした?あの近くにはいなかったようだが…」
「わ、たし…――」
俺達の質問に、リーマは思い出そうとして表情を強ばらせ、そのまま少しの間言葉が途切れて考え込む。
「……そう言えば、廃屋に連れて行かれた時、乱暴される前に誰かに助けて貰ったような気がするの。暴れないように薬を無理やり飲まされて意識が朦朧としていたけれど、心配するな、もう大丈夫だ、って言われて――」
リーマが誰かに助けられた…?それが事実なら、俺はその誰かに心から礼を言いたいところだが、だとしたらあの血溜まりは…まさか、バスティス達のものだったのか?
――複数人を殺害した後の血痕にしては量が少なかったように思うが、あの血溜まりから足跡が続いていたのは、リーマのいた部屋へ向かうものだけだった。
死体を引き摺ったような痕跡はなく、考えてみればおかしなことに、あれだけくっきりとリーマの元へ続く跡は残されていたのに、それも一人分のたった一つだけで、外へ出たはずの血溜まりを踏んだ足跡がなかった。
…どうなっている?リーマを助けることに夢中で今頃になって気付いたが、まるで一部の血痕だけをわざと残し、それ以外の物は全て消し去ったかのようだ。
相手が魔法を使える人間だったとしても、あんなところにいたリーマを助けた上に、そんなことをする理由がわからない。俺は首を傾げた。
リーマは結局それが男だったのか女だったのかさえもうろ覚えで、直後に意識を失ったのか、どんな顔をしていたのかも一切記憶に残っていなかった。
当然バスティス達の行方も全くわからず、あの血溜まりについても恐らくは聞いても無駄だろうと思った俺は、リーマをこれ以上怖がらせないように、もうなにも聞かないことにした。
その後俺は、もう大丈夫と言って寝台から出て立ち上がったリーマと一緒に、リーマの家へ帰ることにしたのだが、アフローネからの去り際にミセス・マロームとジョインには、同じ下町に住むというバスティスをもしどこかで見かけたら、俺のところに知らせてくれるようにだけ頼んだ。
リーマを包んで運んで来た外套を着てフードを被り、また近衛服と顔を隠してリーマとアフローネ前の通りを歩いて行く。
酷く怖い目に遭っただろうに、並んで隣を歩くリーマは、大丈夫かと尋ねた俺に気丈にも微笑んでみせた。
さっきはしがみ付いて号泣したほどだったのに、こんな時でさえ彼女は俺を心配させないようにと気遣っているのだ。
リーマが愛しい。本当に無事でいてくれて良かった。心からそう思い彼女の肩を抱いて寄り添う俺に、リーマは意外なことを言ってきた。
「ライ…怒らないで聞いて欲しいのだけれど、これだけは知っておいて欲しいの。」
俯いてそう切り出したリーマは、あのカレン・ビクスウェルトについてこんなことを口にした。
「カレンなのだけれど、彼女はあなたの地位やお金が目当てではないと思うわ。あなたに近付こうとするその方法は間違っているし、たくさんの男性と関係を持つなんて、なにかの目的があったとしても女性として褒められたことでないのは当然よ。けれど…それでもカレンは、本当にあなたのことが好きなの。」
俺は黙ってリーマの話に耳を傾けた。
「だってね、ライ…カレンがあなたのことを好きになったのは、あなたが軍に入る前で、下町に時折来ていた頃のことなのよ。…多分、殆ど私があなたを好きになったのと同じ頃。…私、そのことを知っていたの。」
リーマはあの女のことを思い、その瞳一杯に涙を浮かべる。特別親しかったと言うわけでもなさそうだが、それでも同じ酒場の踊り子として、それなりになんらかの付き合いはあったらしい。
その程度で友情という類いの感情が湧くものなのか、俺には到底女同士の友達関係や付き合い方など理解できやしないが、そうしてリーマはラカルティナン細工のペンダントを奪われたことについても俺に話して聞かせた。
俺がリーマの家を訪れ、リーマと親しげにしているところを目撃したあの女は、俺が城に帰った後のリーマの部屋を訪れて、泣きながら、〝狡い〟だの〝泥棒猫〟だのと言っていきなりリーマを罵ったのだそうだ。
リーマはリーマと同じようにあの女が、ずっと長い間俺のことを思っているのを知っており、どんなに酷い言葉で責められても自分は俺に愛されていることから、相手の気持ちを思いなにも言えなくなってしまったようだ。
そして俺が贈った高価なペンダントが、リーマの日給で買えるような代物ではなく、俺から贈られたことにもすぐに気付いて、俺の心を手に入れたのなら、せめてそのペンダントぐらい譲れとあの女に泣き叫ばれ、仕方なく渡してしまったのだそうだ。
俺はそれを聞いて酷く複雑な気分になった。これはあくまでも俺の個人的な見解だが、男同士の場合、同じ女を好きになって取り合いになったとしても、その多くは振られた方が負けを認めて引き下がる。
好きな女が好敵手から贈られた装飾品を身に着けていることに嫉妬から腹は立てても、好きな女が好敵手に贈った物を横取りしようなどとは、最初から負けを認めているようであまり考えはしないだろう。
だが女というのはそんなものさえも奪おうとするものなのだろうか?他者に贈られた他者への思いがこもった代物で、決して自分に向けて贈られた物ではないというのに。
てっきりあの女はペンダントの価値に気付いて、金目の物が目的で奪ったのだと思っていた俺は、その辺りが最も理解不能なところだった。
あの女を思って泣くリーマを責める気は毛頭無いが、正直に言って俺に愛されることでリーマが、あの女に引け目を感じるということだけは間違いだと言いたかった。
俺は俺の意思でリーマを愛したのであって、たとえあの公園で出会ったのがカレン・ビクスウェルトであったとしても、あの女があの女である限り、決して同じ結果にはならなかったと言い切れるからだ。
俺はただ涙を流すリーマの肩を抱き、わかったからもうあの女の話はするな、と言って路地を曲がると、通い慣れたアパルトメントの階段を上り、リーマと一緒にリーマの家に帰り着いたのだった。
「嘘吐き!!」
――その日の夜、カレン・ビクスウェルトは、高位軍人や貴族が良く利用するような高級宿の一室で、豪奢なソファに腰かけて足を組む三十代半ばぐらいの男相手に酷い癇癪を起こしていた。
備え付けられた硝子のグラスをいくつも床に叩き付けて粉々にし、肩でハアハアと息をするほど興奮している。
昼にライを呼び止めて声をかけた時よりも高級な衣服に身を包んでいたが、リーマから奪ったラカルティナン細工のペンダントは今、なぜか外している。
そのカレンは今にも噛みつきそうな顔をして、さらに男を責め立てた。
「なにが恋人を楯に脅して迫れば思い通りになる、よ!!愛人にして貰うどころか酷く怒らせて、リーマを傷つけたら殺すとまで言われたのよ!?余計ライ・ラムサスに嫌われちゃったじゃない、どうしてくれるのよ…っ!!」
叫ぶだけ叫ぶと、カレンは寝台にわあっと突っ伏して大声で泣き始めた。
酒の入ったグラスを手にカレンが喚くのを聞いていた男は、ほんの一瞬だけ酷く面倒臭そうな顔をして、突っ伏すカレンに冷たい目を向ける。
「それはおまえのやり方が悪かっただけだ。実際、黒髪の鬼神はファーディアで、病気の祖父代わりだった老人の命を楯に、高価な薬の投与と延命治療を受けさせたければ一緒に来いと言われて、エヴァンニュに連れて来られたのだそうだぞ。その後もこの国から出さぬように鳥籠に入れられて、二言目にはそれを引き合いに出され脅されていたらしい。」
「そうは言っても上手く行かなかったのよ!!…もうこれからなにをしたって、汚い物を見るような目でしか見て貰えないんだわ…お終いよ…!」
男はどうでも良いな、とでも言うようにカレンの嘆きを聞き流した。
「ふん…それよりおまえ、記録用の現映石はどうした?ちゃんと身に着けて黒髪の鬼神とのやり取りを、しっかり記録したんだろうな?」
「言われなくてもちゃんと記録したわよ。こんなもの、なにに使うのか知らないけど、私には見せないでよね。ライ・ラムサスを怒らせて嫌われたところなんて、目にしたくないわ、惨めすぎるもの…!ううっ…ぐすっ」
カレンの手から使用済みの現映石を受け取ると、男はそれを握って〝上手く行った〟とほくそ笑んだ。
「――まあそんなに泣くな、カレン。脅して迫るのに失敗したのなら、今度は別の方法を試してみたらどうだ?」
「ぐすっ…もう良いわよ。リーマを攫ったはずのバスティス達からは、いつまで経っても連絡が来ないし、さっきここへ来る途中で白髪に銀色の瞳をした男に、これ以上黒髪の鬼神になにかしたら、二度と王都に住めないようにしてやるって脅されたの。ライ・ラムサスが怒った時よりもその男の方が余っ程怖かったわ。誰だか知らないけど、あんなに目立つ外見なのに、一瞬で消えて…もしかしたらあの人には影みたいな護衛がいるのかしら。」
「白髪に銀色の瞳だと…?」
そんな人間を見かけたことなどないな、と男は首を捻った。
「もしそんな護衛が奴にいたのだとしても、次はおまえがなにかすると言うわけではなく、寧ろ感謝されるようなことだから、怯える必要はないだろう。」
「感謝…?…待って、どういうこと?」
カレンは男の話に興味を抱き、四つん這いで床を這って男に近付くと、その膝に手をかけて凭れるようにして頬を擦り寄せた。
「ねえ…教えて、『レフタル』の隊長、クロムバーズ・キャンデルさん。別の方法を試して感謝される、って言うのはどうすればいいの?これ以上彼に嫌われないのなら、私もう一度挑戦してみるわ。」
「…おまえも変な女だな。俺を含め、取っ替え引っ替え色んな男に手を出してるくせに、黒髪の鬼神がそんなに良いのか?」
男が呆れたように尋ねると、カレン・ビクスウェルトは急に真顔になって答える。
「――当たり前じゃないの。ライ・ラムサスほど身分の有る無しに関わらず、貧しい下町の人間にも分け隔てなく接してくれる人はいないわ。身寄りのない孤児院の子供や、襤褸を纏った老人にさえも優しいのよ。あの人に愛されることができたなら、きっと本当の意味で幸せになれるわ。私はどうしても彼に好かれたいのよ。」
――女好きのシャール王子と違って、あの若いくせに特に言い寄る女には異常に潔癖な男が、おまえみたいな尻の軽い女を好きになるはずがないだろう。分け隔てなく接すると言っても、それと女の身持ちはさすがに違うと思うがな。
黒髪の鬼神に脅しや色仕掛けは通用せず、なにかしら手を下そうとすれば、忌々しい『双壁』が事が起きる前に人知れず始末しにかかると来た。
暗殺者や破落戸に金を渡して襲わせても、返り討ちにされて傷一つ負わせられない。あの男を殺すにはもう、幾つもの糸をあらゆる場所に仕掛けて、じっくり、ゆっくりと絡め取るように罠にかけるしかないんだ。
それに雇った連中から連絡がないのは、邪魔が入ったかなにかして計画に失敗した証拠だぞ。
今頃は恋人に危害を加えたおまえを、確かな証拠がなくてどうやって憲兵に突き出すか考えあぐねていることだろうよ。
カレンに『クロムバーズ・キャンデル』と呼ばれた男は、表に出さずそんな風に考えてカレンを貶んだ。
幼年学校には通ったはずだが、碌な教養のない、馬鹿な女だ。
そう思いながら男はカレンに提案する。
「まあいい…良く聞け、カレン。次の作戦はな――」
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