132 不思議穴<ヴリームト・ルア>の屍鬼 前編
バセオラ村を出てパスラ峠を目指していたルーファスでしたが、山道を登り始めてそれ程しないうちに異変を感じ取ります。広域探査をしてみたところ、今まで見たことのない紫色の点滅信号が地図に現れました。直感で調べた方が良いと思ったルーファスでしたが…?
【 第百三十二話 不思議穴の屍鬼 前編 】
――降りそうだなと思っていたら、旧パスラ街道からパスラ山道に入ったところでやっぱり雨が降って来た。
ユーク街道周辺は近くに水精霊の領域があってか、どうやら雨が降りやすいようで、シェナハーンに来て以来、よくこうして雨に降られている。
それでも基本的に俺達のようなハンターは、嵐のような暴風雨でもない限り、あまり濡れるのを気にしない。
一応風邪を引かないようにとか、身体を冷やさないようにとかはそれなりに気をつけるが、魔物が蔓延る町の外では、呑気に雨宿り出来るほど安全な場所は殆どないからだ。
パラパラと降り出した雨は大したことはないのだが、登山道に入って急に気温が下がったような気がして、なんだか肌寒いな、と思った直後ウェンリーが豪快なくしゃみをした。
「ぶえっくしょいっ!!」
あーあ、鼻水を垂らして…
手で拭うなよ、と微苦笑しながら見ていたら、ウェンリーはその前にズズズビッと音を立てて啜った。
アテナがいた頃は身嗜みにも気を使っていて、滅多にこんな姿を見せることはなかったのだが、さすがに男四人だと気も緩むらしい。
「大丈夫か?風邪引くなよ。」
「ああ、う〜、なんかやけに寒くねえ?少しずつ山登ってるせいなのかなあ。」
ウェンリーは俺に向かって、返事なんだか呻き声なんだかわからない様な声を出すと、身体を縮めるようにしてぶるるっと身震いしながら、両手で自分の二の腕を摩った。
「気温が変化するほどまだ高くまでは上がって来ていないと思うがな。」
「ああ、でも確かに肌寒いよ、俺も鳥肌が立ってる。」
山道脇に生い茂る草木と周囲に広がる鬱蒼とした森を見れば、いつの間にか薄霧が出始めていた。
天気が崩れたとは言え、まだ二合目にも達していないのに、この急激な気温の低下は少し妙だと感じ、俺は歩きながらその場で広域探査を行ってみる。
前回ここに来た時は、何度行っても頭に表示されなかった地図が、今は問題なく見えていた。
――このパスラ山のどこかに、あの切り立った絶壁のような崖と、俺が転移した深い森があるのだとしたら、結局あの滅亡の書に書かれていた『最後の希望』とはなんだったんだろう。
俺が助けたはずの『ミーリャ』と名乗った女性は、その存在自体が消えてしまったのでわけがわからない。
もし彼女がそうであったのなら、それがお腹の子と共に失われてしまった今、この先どうなってしまうのだろう。
あの滅亡を回避すると書かれた奇妙な本のことを、誰にも話していない俺は、そのことに不安を感じながらもそれをウェンリーやシルヴァンに相談することさえ出来ないままだ。
そんなことを考えながら歩いていると、広域探査の結果、今まで見たことのない新たな色の信号が地図上に光っていることに気付いた。
紫色の点滅信号?初めて見るな…なにを表しているんだろう。
今更だが、ここで俺の頭にある詳細地図に、普段から光る点滅信号について詳しく話しておくことにする。
先ず俺の存在を示しているのは、二等辺三角形の矢羽根形をした白い光だ。これは俺が向いている方向にその先端が向いていて、俺がどの方向に向かっているのかが一目でわかるように表示されている。
次に各信号の説明だが、赤が敵対存在を示し、緑が保護対象者や要救助者を、それに近い黄緑色が味方等を示す。
黄色の点滅信号は俺の目的地や向かう場所を表し、赤い線はなんらかの障害を、青い信号は調査すべき対象物などを示している。
その他自分と関わりの無い対象物は省かれるか、白い点で示されるのが普通だったが、紫色の点滅信号というのは今まで見たことがなかった。
俺は足を止め、その紫色の信号が点滅している方角を見た。
さっきまでは木々の間を漂う程度の薄霧だったが、今は大分その濃さを増し、ただでさえ鬱蒼とした森なのに、奥の方がどうなっているのかはまるでわからなかった。
――これはどこを示しているんだ?獣道すら見当たらないじゃないか。
地図上に目的地を示す黄色の信号は山道の先を示しているのに、その紫色の信号は道を逸れた深い森の中に光っている。
「ルーファス?どうされた?」
〝予の君〟呼びを意識してやめるよう努力しているらしいリヴが、ほぼ同時に足を止め、俺の横に並んで俺が見ている方向に顔を向けた。
「なにかこちらに気になるものでも…?」
「ああ、いや…なんでも――」
俺はただ深い森が広がっているだけのその先になにがあるのかわからず、じっとその場で気配を伺った。
――なく…はないな、なんだ…肌がピリピリする。木と草以外はなにも見えないのに、俺はなにに反応しているんだ…?
俺とリヴが立ち止まったことに、すぐには気付かなかったらしいウェンリーとシルヴァンは、十五メートルほど先から小走りに戻ってくる。
「どうした?」
「わからぬ、ルーファスが急に立ち止まられたのだ。」
「なあ、この辺りだけなんか変じゃねえ?今ほんのちょっと先へ行ったら、急に寒気が止まったんだよな。空気が違うっつうか…」
「冷気が漂っている?」
「そう!そんな感じ!!」
俺を除いた三人が横でそんな会話を交わした。
「――ルーファスが立ち止まっているところを見るに、単なる気のせいではなさそうだな。」
そう言ったシルヴァンは、俺を見てまたなにか見つけたな、とでも言うように眉間に皺を寄せながら腕を組んだ。
「シルヴァン、ギルドで受けて来たパスラ山の討伐依頼対象は、この辺りにいるんだったか?」
「いや、コリュペ近くの五合目辺りだと依頼票にはあった。山道を歩いているだけで襲ってくるという話だったから、まだ先なのではないか?」
「…そうか。」
やっぱり魔物を示しているわけじゃないんだな。…となると――
「――気になるな、すぐに調べた方が良さそうだ。」
「調べるって…なにをだよ?」
俺の呟きにウェンリーが首を傾げる。いつも思うが、この感覚的な直感は俺にしかわからず、一々みんなに説明するのは時間もかかって凄く面倒臭いのだ。
なので今日も端折って簡潔に(説明になっていないといつも言われるが)話し、一人でさっさと調べに向かおうと思った。
「この先森の中に紫色の信号が点滅しているんだ。いくら探索フィールドの地図があってもウェンリー達には見えないだろうから、一人でちょっと行ってなにがあるのか見てくる。」
「はあ!?」
「待てルーファス!!リヴ!!」
「任せよ!!」
ガシッ
――俺はいつものように端的にだけ話して単独行動をしようとしたのだが、この時のシルヴァンはこれまでと違って透かさずリヴの名を呼び、なぜかその名を呼ばれたリヴが俺の腕を瞬時にガシッと掴んだのだった。
「……え?」
なんか今、シルヴァンとリヴが連携した…?
「ナイス、リヴ!!」
「よくやった!!」
「ふふふふ…そうは行きませぬぞ、予の君。」
…って、なにが??
ウェンリーとシルヴァンがそんな風にリヴを褒め、俺の腕をガッチリ掴んで放さないリヴは、なにか妙な気迫を向けて笑った。
「毎度毎度そう一人で行方を晦まされては堪らぬのでな、我ら三人は結託し、ルーファスが単独行動しようと動いた際は、出来るだけそれを阻止することにした。」
「えー…」
いったいいつからそんな話に??
ドヤ顔をしてそう言ったシルヴァンに、俺は苦笑するしかなかった。
「なにか調べたいんなら一緒に行きゃあいいじゃんか。それともなにか、俺らに隠したいことでもあんの?」
「いやそんなのはないけど…獣道すらないんだぞ?」
「そのようなことぐらい問題ありませぬ、さ、参りましょうぞ!この方角で良いのですな?」
ガサガサと茂みをかき分け、そう言ったリヴが率先して森の中に分け入って行く。
――説明するのが面倒だと言うのもあったけど、初めて見る信号色だし、なにがあるかわからないから、出来れば一人の方が良かったんだけど…
俺はまあいいか、と諦めて全員でその場所を目指すことにした。
見事に道のないそこに足を踏み入れて暫く進むと、突然シルヴァンが〝腐臭がする〟と言い出した。
風は俺達の後ろから吹いており、こちらが風上にも関わらずそれに気が付くと言うことは、どこか近くになにかの死骸があると言うことだ。
おまけに――
「寒っ!なんか冷気?が強くなってねえか!?」
「吐く息が白い…?」
はあっ、と大きく息を吐くと、明らかに冬場のように息が白く見える。
「つまりは十度近くまで気温が下がっていると言うことですぞ、これはやはりおかしい。」
今の時期シェナハーン王国の昼の平均気温は二十五度くらいだ。パスラ山は三千メートル近い高さがあるが、山頂付近でもない限りここまで低くはならない。
俺達はまだ二合目にも差し掛かっていないのだから、どんなに下がっても精々二十度前後だ。
「〝腐臭〟と〝冷気〟か…あまり良い印象は抱かれぬな、連想する場に限りがある。」
「それって、例えば…?」
シルヴァンがボソリと呟いた独り言にウェンリーが嫌な予感、と言う顔をしながら戦々恐々として尋ねる。
わざわざ聞かなくたって想像ぐらいつくだろうに、そんな顔をするなら聞かなきゃ良いだろう、と思うのは俺だけだろうか。
シルヴァンはシルヴァンで悪乗りして一度ゴクリ、と唾を飲み込むと、ウェンリーを脅かすような強面をして返した。
「――夜の墓場だ。」
「ぎゃああっ、やっぱし!!」
即座に悲鳴を上げたウェンリーに、リヴが驚いて怒った。
「囂しいぞ、ウェンリー!そのような叫び声を上げたら、魔物が寄ってくるであろう!!」
普通ならその言葉は当然で、確かに人の騒ぎ声は魔物の気を引いてしまう。…が、今この場でそれは全くの杞憂だった。
「いや、その心配はない。わかるだろう?周囲に魔物が全くいないんだ。」
「「「!」」」
お化けや幽霊の類いが苦手なウェンリーは、シルヴァンに脅かされてその言葉に叫んだが、俺がそう言った途端に顔付きを変えた。
なぜなら俺が今言った言葉は、通常の魔物でさえその周囲から逃げ出すほど、脅威となるなにかが近くにいると言うことを指しているからだ。
以前カラミティはマーシレスと共にルク遺跡に封じられていたが、その影響でルクサールには周囲の魔物が長年近寄らなかったように、時には魔物にも恐れるものがある。
「――見つけた、どうやら紫色の点滅信号は、あそこを示しているみたいだな。」
生い茂った草をかき分け、鬱蒼とした森をただ真っ直ぐ進んできたところで、俺は地面に大きく口を開けた、真っ暗な穴を見つけた。
その穴は奈落のように真っ暗で底が見えず、大岩が屋根のようになっていて、さらに周囲を囲うように砂利を含んだ細かな石が、地面を伝って雨水が流れ込むのを防いでいるようだった。
「…凄い匂いだな、どうやら腐臭はここから流れ出しているようだ。」
シルヴァンでなくともわかる。そのぽっかりと空いた二メートル弱の穴からは、異常に温度の低い冷気と、鼻を覆いたくなるような腐臭が噴き出していた。
「なにも見えぬぞ?真っ暗でどの程度の深さがあるのやもわからんではないか。」
穴を覗き込んだリヴは、鼻を抓みながら怪訝な顔をしている。
「…いや、大した深さはなさそうだ。この穴、多分『不思議穴』だ。」
「「「不思議穴!?」」」
ウェンリー、シルヴァン、リヴの三人は同時に声を揃えて一驚した。
『不思議穴』と言うのは、一定範囲の別の場所と別の場所を繋ぐ、穴の形をした歪曲空間のことだ。
今までも散々俺達が利用して来た、古代遺跡やエヴァンニュの地下迷宮にもある転移魔法陣は、平面上の点と点を結ぶように移動するものだが、『不思議穴』はその変化形のようなもので、大抵ここのように地面にぽっかりと空いた穴の形をしており、そこから落ちると近くにある別の出口に落とされるという仕組みになっている。
因みに落ちた出口の先には必ず別の穴があり、そこに落ちれば元の場所に戻って来られるらしい。
そしてこの『不思議穴』と転移魔法陣の最も大きな違いは、離れた場所にある空間と空間が、実際に繋がっていることだ。
転移魔法陣は魔法で点と点の間を飛んで移動するが、『不思議穴』は穴と穴が連結しているため、隧道の中を通るのと変わりがない。
簡単に言うと、転移魔法陣は移動先の状況に左右されないが、不思議穴は出口の状況や環境が、入口を突き抜けてここのように流れ出てくると言うことだ。
「えっえっ?…ってことは、ここに落ちたらどこに出るかわからねえじゃん!!完全密封された地下空間とかだったらどうすんだよ!?下手すりゃ窒息して死ぬぜ!?」
「あのな…落ち着けウェンリー、冷気が噴き出してくると言うことは、密閉された地下空間じゃなく空気の流れがあると言うことだ。それに腐臭が流れて来ることからわかることもある。この先には多分別の出入口があって、そこから入った生物が死んだために、この異臭を放っているんだ。そのぐらい想像がつくだろう?」
「あ…あー、そっか、なるほど!」
ウェンリーは左手の平に右手の拳をポン、と当てて納得したように感心した。
「――で、どうするのだ?…まさか不思議穴だと言うことをわかっていながら、落ちるつもりではないだろうな?ルーファス。」
シルヴァンは超不機嫌な顔をして俺を睨んだが、俺は平然として答えた。
「もちろん、そのつもりだけど。」
「「ルーファスッッ!!!」」
おっと、シルヴァンとリヴが綺麗にハモった。
「しょ、正気であられるか予の君!!『不思議穴』は稀に穴から穴へと永遠に落下し続ける『無限穴』となる場合があるのですぞ!?もしそのようなことになれば、二度と戻って来られませぬ!!予は反対致す!!なにがなんでも反対致しますぞ!!」
なんだかリヴが、貴族に使える執事さんみたいな口調になってる。いや、反対されてもな…だから一人で調べに来たかったのに。
――リヴが心配しているのは、過去に実際にあったと言われる不思議穴に纏わる恐ろしい話のことだ。
さっきも説明した通り、不思議穴は『落下』が基本だ。つまり一度落ちれば地面に着地しない限り、落下は止まらない。(空を飛んでも無駄だ)
その特徴として、入口の穴に飛び込んだ瞬間に、落ちた先…〝出口〟にだが、必ず元の場所に戻るもう一つの〝入口〟がどこかに出現する。
だが極稀になんらかの変則的な事象が起き、落ちた場所のその位置が入口の穴とぴったり重なってしまう場合がある。
本来入口から入ると出るはずの場所に、元の場所に帰れるはずの入口があると、なぜだか不思議穴は永遠に落下を繰り返すようになる。これが『無限穴』と呼ばれる現象だ。
昔実際に不思議穴があることに気付かず落下した人が、この無限穴に遭遇してしまい、穴から出られずにそのまま亡くなったことがあるらしい。
そうして何十年もの後に、偶々その不思議穴の出口付近に迷い込んだ別の人が、天井に空いた真っ黒な穴から、真っ直ぐ地面の穴に落下し続ける白骨死体を見つけたのだそうだ。
後にこの不思議穴の入口からその出口へと、別の人間が通ることで無限穴は消えたが、その落下し続けた白骨死体はどこかに消えてしまったと言う。
「リヴは心配性だな、無限穴になることなんてそうそうないよ。それに万が一そうなったとしても、俺なら無事に帰って来られそうな気がしないか?」
「しませぬ!!」
「するか!!」
「しねえよ!!」
楽観的に考えてそんなことを言ったら、物凄い剣幕で三人に否定された。
だが俺に引き下がる気はない。ここに初めて見る信号が光っている以上、それがなにを示しているのかを確かめないわけには行かないからだ。
――仕方がないな、こうなったら強行突破だ。
「ああっ!!!」
俺は唐突にあらぬ方向を指差して、驚いたような大きな声を上げた。その瞬間、ウェンリーもシルヴァンもリヴも、バッと振り向いて俺が指差した方向を見る。
ダッ
俺はその隙に地面を蹴って『不思議穴』に飛び込んだ。
「「「ルーファスッッ!!」」」
「ごめん、ここで待っててくれ、なるべく早く戻るから!」
――そうして俺はウェンリー達を置いて、数秒後にはなんの問題もなく不思議穴の出口に移動したのだった。
「がああーッ、信っじらんねえ!!ルーファスの奴、俺らを騙して一人で行きやがった!!なにがここで待っててくれだ、ふざけんなあああーっっ!!」
その場に残されたウェンリーは天を仰いで絶叫すると、ダン、ダン、ダンと激しく地団駄を踏んだ。
呆然としたシルヴァンとリヴは開いた口が塞がらない。
「――シル…予の君は昔からああも無謀であったか…?」
あっという間に消えたルーファスに、リヴは抜け殻のようになっている。
「…ああ、だが近頃それに拍車がかかっているような気がするぞ。神魂の宝珠の封印を解いてから少しずつ記憶を取り戻すにつれ、我の手には負えなくなっている。主はまだ以前の力を取り戻せていないと言うことがわからぬのか…??」
リヴの問いに答えるシルヴァンも、あまりのことにすぐには身体が動かない。
唯一ルーファスの予想出来ない現象や行動に慣れている、ウェンリーだけが激怒して後ろからシルヴァンとリヴの身体を揺さぶった。
「シルヴァン、リヴ、呆けてる場合じゃねえ!!俺らもルーファスの後を追うんだよ!!こうなりゃ俺らも不思議穴に飛び込んでやる!!そんで俺らが無限穴に遭遇したら死んだ後で化けて出てやるからなあ、待ってろよルーファス!!」
すっかりやけくそになってそんな縁起でもないことを叫びながら、ウェンリーは二人の間に立ち、シルヴァンの右腕とリヴの左腕に自分の腕を通してそれぞれ絡めると、そのまま二人を引き摺って不思議穴に向かった。
「な…まま、待てウェンリー!!予はまだ心の準備が――ッ!!」
「ウェンリー!せめて我に獣化させよ!!穴の先がどうなっているかわからぬ!!」
「うっせえ、待ったなしだ!!オラオラ行くぜ、あーらよっ!!」
「「ああああーっっ!!」」
そうして叫び声を上げながら、ウェンリー達三人も問答無用でルーファスの後を追い、穴に飛び込んだのだった。
「――酷い臭いだな…どこからこの腐臭は漂って来るんだろう。」
不思議穴に飛び込んだ先はどうやらパスラ山の下層部にある自然洞窟だったらしく、俺の頭にはこの辺り一帯の地図がすぐに表示された。
土壁のあちこちに突き出した岩があって、そこには一面にびっしりと光苔が生えていたため、周囲は案外明るい。
それでも少し狭い道に入ると真っ暗なので、一応ルスパーラ・フォロウで道を照らしながら臭いの元を探すことにした。
あれだけ上に冷気と腐臭が流れていたんだから、すぐに異常が見つかるだろうと思ったのに、洞窟内に良く見られる蝙蝠の死骸一つないなんて、本格的におかしいな。
ここの気温はかなり低く、まるで氷室にいるような寒さだ。だが全体的に地図を見る限りでは左程広くはなく、変わらず点滅している紫色の光はもっと奥を示していた。
「…とりあえず素直に点滅信号を目指して進んでみるか。」
そう決めた俺は周囲に魔物がいないことから寄り道をせず、真っ直ぐそれを目指すことにした。
そうして信号が点滅するその場所に辿り着いてみれば、そこは巨大な地下空洞で、歪な形の円を半分に割ったような空間だった。
広さは大体二十メートル四方ぐらいだろうか。ここも光苔が岩に繁茂していてかなり明るい。
だが他と明らかに異なったのは、さすがの俺も吐き気を催しそうになるような、強烈な腐臭と凍えるような冷気だった。
「間違いない、臭いの元はこの辺りだ。」
そう思うのになにもない。腐臭に似た臭いのガスなどが、地面から発生している様子もない。
「目に見える異変はないな…」
――そうだ、確か目に見えないものの痕跡を可視化する魔法があったはず…!
俺は自己管理システムの魔法一覧から、逆検索をかけてそれを探し出した。
「あった、ええと…目に見えぬ痕跡を顕せ、『リペルトゥス』!」
俺の右手に半透明の魔法陣が輝き、それが拡散するようにこの空間全体に弾け飛ぶと、俺の周囲に毒々しい薄茶色の煙と、青く色付いた靄が浮かび上がった。
「うわっ、なんだこれ!?なにも見えなくなったぞ!!」
一気に視界が遮られて一瞬慌てたものの、落ち着いて手を動かすと、そこに生じた空気の流れで、薄茶色の煙と青い靄が一緒に動くことに気が付いた。
「わかった、薄茶色の煙が腐臭で、青い靄が冷気なんだな。なるほど、これが噴き出す元を見つければ良いのか…!」
俺は暫くその場から動かずに、この二つの色がどの方向から流れてくるのかを確かめ、それを見極めると元に向かって痕跡を辿って行った。
すると土壁に小さな亀裂があり、天井付近ではそれが横に大きく広がっていて、光が届かなかったために気付かなかったが、壁向こうにも空間があることがわかった。
リペルトゥスの効果が切れると視界が元に戻り、俺はその壁を入念に調べた。
――てっきり壁だと思っていたけど、これ…崩落した土が長い年月で固まってしまい、壁のようになっているだけだ。
「水魔法と地属性の土魔法で、塞いだ壁を全て取り除けそうだな。よし、やってみるか。」
俺は先ず水魔法の『ヴァダパート』という、上方から滝状に水を流す魔法を壁全体にかけ、次に土魔法『ソルクラッシャー』と『ソルプレッシャー』を使用して、壁のようになっていた土砂を崩すと、それを両脇に退けて崩れないように圧縮凝固させた。
そうして目の前に広がったのは、新たな空間と大量の魔物『狂乱熊』の死骸だった。
「ぐ…!腐臭の原因はこれか…!!」
目に突き刺さるような凄まじい腐臭が広がり、凍えるような冷気が一段と冷たさを増す。
俺は思わず右腕の服の袖で鼻を覆い、目を屡々させて顔を顰めた。
壁を取り除いたことで詳細地図が更新され、それを見るにこの自然洞窟はどうやら、パスラ街道側に続く別の出入口があるようだ。
――ここは…もしかしてギルドの情報にもあった、狂乱熊の巣穴か?
それはパスラ山の麓に洞窟があり、そこを巣とする狂乱熊に注意せよという、パスラ街道を利用する民間人向けの警戒情報だったのだが、旧道を通る予定だった俺達にはあまり関係がなく、頭の隅に置いておく程度の情報だった。
通常パスラ街道は常に多くのハンターが行き交う場所でもあるため、人的被害が出る前に魔物は駆除されることが殆どだ。
だがここの様子はどう見てもハンターが狩った状況には思えない。どの死骸も解体されずにそのまま放置されており、さらにハンターの間では常識の、死骸を埋めるなりして新たな魔物の発生を防ぐという、後始末さえ行われていないからだ。
俺は無限収納から布を取り出すと、臭い避けのためにそれで鼻と口を覆い、頭の後ろできつく結んでから、しゃがんで魔物の死骸を調べ始めた。
何体あるんだ?…三十近いか、どれも外傷が極端に少ないな。刃物で受けた傷は一つもない…共通しているのは、胸元に大きな穴が空いていることか。
これは解体してみないとわからないけど、もしかしたら〝心臓〟が抜き取られている…?
そこまでは死骸に手を触れず調べていた俺だが、一体の死骸の皮膚になにか光を反射するものを見つけて、狂乱熊の毛を両手でかき分けた。
それを手に取った俺は、驚愕する。
「――爪!?しかもこれは…」
人間の手の爪だ…!!
それは白っぽく不透明な楕円形をしており、血は付いていなかったが、皮膚のような薄い膜と肉片が残っていた。
形は紛れもなく人間の手指の爪で、恐らくはこの狂乱熊に素手で攻撃した際に剥がれたものなのだろう。
この狂乱熊を殺したのはやっぱり人間なのか?それにしては殺し方が異常だ。
手の平の上でもう一度それを確認していると、やがて爪は砂のように崩れて消えてしまった。
爪が消えた…ということは、この爪の持ち主は――!!
俺がある可能性に気付き事の深刻さに震撼した直後だ。俺がたった今手で触れた、目の前の魔物の死骸がビクン、と大きく波打った。
刹那、異変に気付いた俺は、すぐさま魔物の死骸から離れて身構えると、鼻と口を覆っていた布を掴んで引き下げた。
「まずい、まさかここの死骸はすべて…っ」
腐臭と冷気が漂う中、水分を含んだ腐肉の地面を擦る音がし始める。
腐った肉を毛ごとずる剥けにし、そこかしこに横たわっていた狂乱熊の死骸が、次々にゆっくりと起き上がって来た。
それは普通では起こりえない、魔物の不死<アンデッド>化だった。
俺は手元に精霊剣『シュテルクスト』を呼び出すと、そのまま為す術もなく『不死化狂乱熊』相手の戦闘に雪崩れ込んだ。
狂乱熊が集団になっただけでも手に負えないのに、それが不死化したとなると数倍厄介だった。
当然だが不死族に分類される『アンデッド』は普通に戦ったのでは倒せない。光属性の聖魔法による『浄化』が必要だ。
俺はその手段である聖魔法を所持しているが、それを使うには呪文を詠唱しなければならない。それなのに――
「く…痛みを感じないから怯ませることも出来ないか、防護魔法を詠唱しようにも隙がないな、失敗した…!」
斬っても斬っても不死化した魔物は前進を止めず、生きている時よりも多少は動きが緩慢なようだが、それでも腕を切り落とそうが首を跳ね飛ばそうが、なにをしてもほんの一瞬さえ動きを止められないことに、俺は身の危険を感じてゾッとした。
ここは一旦撤退して、シルヴァン達を連れて戻って来るしかないか…これだけの数がいるアンデッド相手は一人じゃ無理だ…!!
俺は千年前の記憶が少しずつ戻るにつれ、無意識に当時の感覚で動くようになっていた。
ただそこにはまだ伴わないものがあり、時々その間隙に頭が追いつかなくなる。
そして俺はこの時、ウェンリーにシルヴァンとリヴの猛烈に怒り狂った顔が頭に浮かんでおり、これで逃げ帰ろうものなら怒られるだけでは済まないかもしれないな、と苦笑いするしかなかった。
その死した目にはなにも映さず、ただ『俺』という生き物の『餌』に釣られて、執拗に襲い来るアンデッド・ベアーから後退り、なんとか逃げ出す隙を窺っていた時だ。
「憐れなるものよ、死して安寧の眠りにつけ!!『聖光昇華滅槍輪』!!」
その勇ましい声と共に、俺の背後から横回転する光の斧槍が飛んで来て、俺に群がる目の前のアンデッド・ベアーに向かうと、足元から円形に展開する白い魔法陣が、光る柱となってアンデッド・ベアーに襲いかかった。
俺の周囲には十体近くいただろうか、それらのアンデッド・ベアーが地面から立ち昇る魔法に貫かれ、一瞬で灰となり消散して行く。
「この攻撃は――シルヴァン!!」
「「「ルーファス!!」」」
振り返るとそこにはウェンリー、シルヴァン、リヴ三人の姿があった。
因みに今の攻撃は光属性に特化したシルヴァンの、昇華魔法と槍術を組み合わせた不死族特効の特殊技だ。
俺の至近距離にいたアンデッド・ベアーはシルヴァンの攻撃で消滅したが、すぐにそのさらに周りにいた連中が襲いかかってくる。
「ぎゃああ!!マジで熊の腐ったお化けはやめろって、どんだけいんだよ!!なんでルーファスはいきなりゾンビ熊に囲まれてんだ!?」
「だから一人にしたくないと言うのだ!!リヴ、ルーファスに合流する、氷魔法で敵の動きを止めよ!!」
「承知!!降り注げ凍てつく吐息!!『ヴァレンブレス・リオート』!!」
リヴが走りながら氷魔法を使用すると、群がるアンデッド・ベアーの頭上に青い魔法陣が光り、そこから氷の結晶が舞い降りてきてピキピキ、パキッと敵を凍らせて行く。
その隙に三人は道を塞ぐアンデッド・ベアーを蹴散らして俺と合流し、俺は全員揃ったところでようやく『ディフェンド・ウォール』をかけた。
「大事ありませぬか!?予の君!!」
「ああ、助かった、三人共!あのままだとさすがにやばかったかもしれない。」
「ば…っ助かった、じゃねえ!!おまえは!!」
「文句は後だウェンリー、すぐに動き出すぞ!!」
自分の行いも忘れて笑った俺にウェンリーは迫り、シルヴァンは物凄い形相で睨んだ。
「対アンデッド・ベアー戦闘フィールド展開!!シルヴァンとウェンリーは背後を頼む、リヴは氷魔法で援護を!!一体も残すな、殲滅するぞ!!」
「「「了解!!」」」
――不死化した生物との戦闘で最も気をつけなければならないのは、相手がどんな姿形をしていても、噛まれないようにすることだ。
アンデッドと化した生物は痛みを感じなくなり、光属性の聖魔法で浄化しなければ倒せないのはこれまでにも話したが、それ以外にも身体の一部が変異し、口内に特殊な唾液腺が形成されるという特徴がある。
その唾液に含まれるのは死んだ細胞から生み出される猛毒で、その毒に冒されるとそこから徐々に壊死してしまうのだ。
手足を噛まれた際は猛毒が全身に回る前に切断すれば助かるが、首から上や腹などを噛まれればどうすることもできない。
一応俺はその猛毒を解毒する特殊魔法を所持しているが、噛まれてすぐに治療しなければ間に合わないほどにその毒の巡りは早く、それに反して壊死する速度は遅いため、手遅れになることが多い。
またアンデッドの猛毒で命を落とした者は、その場でアンデッド化するのが殆どで、手遅れだと判断した時は変化する前に、本人の同意を得て介錯するのが常識だ。
ただこれも、俺の『ディフェンド・ウォール』があれば、仲間が被害を受けることはほぼない。
「シルヴァン、ここの死骸に人間の手の爪が残っていた。」
「なに!?」
シルヴァンは力技でアンデッド・ベアーを吹き飛ばしながら、その隙に小まめに先程の特殊技を使い、数体ずつ浄化して倒して行く。
俺はリヴの氷魔法に守られながら、昇華魔法『ルス・レクイエム』で同じく浄化しつつ、急ぎシルヴァンの耳に入れておきたかった情報を話した。
「砂塵化してすぐに消えたところを見るに、恐らくだがその人間はアンデッド化した『屍鬼』だ。」
「待て、なぜ『屍鬼』だとわかる?それが真であれば大変だぞ!?」
「アンデッド・ベアーを見てみろ、全て胸に穴が空いているだろう。あれは心臓を抜き取られて食われた後だ。屍鬼に殺されたから狂乱熊はアンデッド化したんだろう。」
「…!!」
事の深刻さを理解したシルヴァンは、ならば急いで其奴を探さねば、と猛烈な勢いでアンデッド・ベアーを狩り始めた。
俺が今言った『屍鬼』と言うのは、この狂乱熊の不死化よりもさらに厄介な相手だ。
屍鬼は主に、生きているものの心臓を好んで喰らうのだが、屍鬼に殺された生物はこれもまた例外なく不死化する。
そしてその『屍鬼』には、知能の高い生物しか変化しないため、屍と化していながらにして非常に素早く頭が良い。
屍鬼がいつからここにいるのかはわからないが、狂乱熊を食い尽くせば腹を空かせて外に出るはずだから、その前に見つけて倒さないと近隣の人里に被害が出る。そうなれば結界障壁があるバセオラ村だって安心は出来ないだろう。
ただ俺はその屍鬼が本当にここにいると仮定しても、屍鬼自体がなぜここにいるのかが疑問だった。
それについてはまた後で説明するが、未だ詳細地図に点滅している紫色の信号を見ながら、俺はとりあえず目の前の敵を完全に倒すために『ルス・レクイエム』をひたすら唱え続けたのだった。
次回、仕上がり次第アップします。