130 亀裂
トゥレンの協力でイーヴの自室に滞在することになったアリアンナは、ここまで来ても素っ気ないイーヴに落ち込みます。独りぼっちで沈んでいるのかと思いきや、アリアンナはネビュラ・ルターシュを呼び出して…?
【 第百三十話 亀裂 】
そぼ降る雨が窓硝子を伝い流れ、灰色の空が日光を遮ると、まだ日暮れ前で外は明るいのに、客間として一時的に整えられたこの室内を酷く暗くする。
それはまるで、今の自分の心をそのまま表しているかのようだ。
明光石の明かりも灯さず、窓を叩く雨音だけが聞こえる部屋で、寝台に座り俯く『アリアンナティア』はそんな風に肩を落とした。
――その恋心を自覚したのはいつのことだろう。十歳年上で小さな頃はいつも自分の傍にいてくれた、大好きな年の離れた優しい兄。
隣家のご長男であるトゥレン様と共に、王都の士官学校に入ってからはあまり家に帰って来なくなってしまったが、それでも帰省した際はなにかしらお土産を手に戻り、普段は殆ど見せないその笑顔を自分にだけは向けてくれていた。
王国軍に入ってからは、度々両親の元へ縁談話が持ち込まれるほど、イーヴ兄さまは女性におモテになる。
兄さまは私だけの兄さまなのに、いつか他の女性と結婚して、私だけの兄さまでなくなってしまうのでは?…そんな不安を抱いた時、自分がイーヴ兄さまを兄としてではなく、一人の男性として見ていることに気が付いた。
実の兄に本気で恋をするなんて、私はどこかおかしいの?…アリアンナはそう悩みながらもイーヴへの思いを諦めきれず、両親に我が儘を言って、兄への縁談は全て断って欲しいと駄々を捏ねた。――それが四年ほども前のことだ。
察しの良い両親は、アリアンナのイーヴに対する恋心にも気がついており、思い悩むアリアンナにイーヴがウェルゼン家の実子ではないことを告げ、イーヴさえ良ければとあの結婚話を持ちかけたのだった。
自分が正常であることと、イーヴとは血の繋がりがないことを知ったアリアンナは、普段から自分に優しいイーヴなら、きっと受け入れてくれるはずだと信じてとても喜んだ。
ところがイーヴは両親とアリアンナの予想に反して、アリアンナを妹としてしか見られないとキッパリ断ったのだ。
その日アリアンナは絶望し、自室に籠もって破れた恋を嘆き悲しんだ。
――と、ここまでならそれきりの話で、実らない思いを断ち切り、イーヴはあくまでも優しい兄でしかないのだと諦めることも出来ただろう。だがこれには続きがあった。
アリアンナは重ねた両手を胸に当てて目を閉じると、決して忘れることの出来ない、ある夜のことを思い出す。
それは今でも身体がカァッと熱くなるほど、自分の心臓を躍らせ、その幸せだった一瞬を呼び起こさせる。
一度だけでいい。どうせ思う相手と結ばれないのなら、せめて一度だけイーヴ兄さまと口づけをしてみたい。
我が儘を言っておでこや頬でなく、唇にキスをして欲しいと駄々を捏ねたアリアンナに、イーヴは一度だけだぞ、と言って僅かに触れるだけの口づけをくれた。
妹だと言ったのに、どうして唇へのキスをしてくれたの?
親愛の情を示す家族間のキスは、額や頬にするのが当たり前で、唇にするのは夫婦間か恋人同士、もしくは好意を抱く相手のみに限られる。
アリアンナはそう思い、自分から言い出しておきながら眩暈がするほど驚いた。
以降イーヴは誤った行いをしたと悔いたのか、家に全く帰って来なくなり、そのことはアリアンナがイーヴの本心を知りたがる十分な理由となったのだった。
「……ネビュラちゃん、いる?」
『呼んだ?アリアンナ。』
アリアンナの呼びかけに応え、しゅるるるっとそこに姿を現したのは、イーヴに訣別宣言をして以降、姿を見せていなかったネビュラだ。
「イーヴ兄さまは夜遅くまで帰っていらっしゃらないし、寂しいから少しだけ話し相手になってくれないかしら。」
『うん、いいよ、お安い御用だ。ここへ来てもう一週間ぐらいになるかい?個人的にアリアンナとはもっと仲良くなりたいしね。』
そう言うとネビュラはふふふっ、と悪戯っぽく笑ってみせる。
『それにしてもまさか兄妹揃って識者だとは思わなかったよ。どうせ見えないだろうと油断してたら、悲鳴を上げるんだもの。アリアンナは本当に精霊を見たのはぼくが初めて?』
それはアリアンナがイーヴの部屋に来たその日のことだ。
イーヴがアリアンナを客室に通し部屋を出た後、いったいどんな子が来たんだろう?と興味を持ったネビュラが、仕掛け箱から出て呑気にその顔を見に行ったことから起きた出来事だった。
イーヴの元からどうにかして逃げ出したいと思っているネビュラにとって、イーヴの自室に出入りすることの出来る人間は、唯一助けを求めることが可能な相手だった。
これまで散々、何度も様々な人間に話しかけてはみたが、ネビュラに気づく者は一人もおらず、今度もどうせ自分には気が付かないだろうと思い込んでいた。
そうしてアリアンナの顔を「へえ…この子がイーヴの妹か。」と覗き込んだら、途端に驚かれて悲鳴を上げられたのだった。
「ええ、本当よ。小さな光のような不思議なものはたくさん見たことがあるけれど、それが微精霊だとは知らなかったわ。もちろん、あなたのように精霊とはお話が出来るということもね。」
『…そっか、まあぼくは〝大精霊〟だからね。フェリューテラにはもうあんまり精霊族は残ってないし、人間に声をかけてまで話そうと考えるのは、たぶん地精霊のクレイリアンぐらいかなあ。』
ネビュラは空中にふよふよと浮きながら、その小さな手指を自分の鼻先に当ててふむふむ、と考える。
――で、ぼくとなにを話したいの?、とネビュラはアリアンナの横にちょこん、と腰を下ろす。
「イーヴ兄さまはどうしたら振り向いてくださると思う?それとも口づけをしてくださったのは、やっぱり私がお願いしたからに過ぎなかったのかしら。」
なんだ、やっぱりイーヴの話か、と内心げんなりしながら、ネビュラはアリアンナの恋愛相談に真面目に答える。
『ぼくは人間じゃないから絶対とは言えないけど、ぼくが生きて来た中で見た限りでは、本当に〝妹〟だと思っている相手に、いくらお願いされたからって本気でキスするような男はいないと思うね。』
この子からイーヴのそんな話を聞いて、天地がひっくり返るほど驚いたのはぼくの方なんだ。
ネビュラは腕組みをしてアリアンナを一瞥する。
少なくともイーヴは、アリアンナをただの妹としてだけでなく、きちんと〝女〟として見てるはずだ。十歳の年の差なんて大した問題じゃない。
二十五の男が十五の娘に、っていうのはちょっと引くけど、元は妹として愛して来たのならあり得ない話でもない。ただ、あのイーヴが、ねえ…?
全く想像出来ないな、とネビュラは苦笑した。
「本当にそう思う?」
『思うよ。その証拠に、イーヴはアリアンナの目を真っ直ぐ見ないよね。自分に嘘を吐いてるから、あいつらしくなくまともに見ることが出来ないんだ。ぼくはずっとイーヴを見て来たからわかる。』
「…そうだったらどんなに良いかしら。イーヴ兄さまが好きなの。もしほんの少しでも望みがあるのなら、諦めたくないわ。」
でもどうすれば良いのかわからないの。アリアンナはそう言って塞ぎ込む。
そのアリアンナを見てネビュラは思う。
――イーヴがアリアンナのことを、本当はどう思っていようが構うもんか。あいつは闇の大精霊であるこのぼくを本気で怒らせたんだ、アリアンナには悪いけど精々役に立って貰うよ。
ぼくはここから逃げ出すことだけを最優先に考える。これはぼくにとって、ようやく巡って来た絶好の機会なんだ。
ネビュラは口の端を小さく上げてくすりと笑った。
『ねえ、アリアンナ。イーヴが自分には〝ある使命〟があると思い込んでいるのを知ってる?』
「…使命?」
『うん。それは自分にしか出来ないことで、そのためならぼくやぼくの大切な人も、キミも良く知っている親友のトゥレンのことでさえも裏切りかねないんだ。』
「そんな…イーヴ兄さまが!?嘘よ…!」
イーヴのそんな素顔を知らないアリアンナは、衝撃を受けたかのように愕然とする。それを見ただけで、妹には随分と優しかったんだな、とネビュラは思う。
『ぼくは精霊だよ?キミに嘘を吐かなければならない理由があると思う?』
――一般に精霊族は魔精霊化でもしない限り、嘘を吐かないと言われている。それは彼らの世界であるグリューネレイアを守る世界樹ユグドラシルが、不浄なる感情を嫌い、嘘や欺瞞と言った人間が多く持つ邪心に触れると、滅んで枯れてしまうという伝説があるからだ。
もちろん精霊族以外にそんな伝説を知る者はいないが、〝精霊は嘘を吐かない〟ということは、伝承や逸話などでフェリューテラでも良く知られていた。
『それでね、多分ぼくはその使命に縛られているせいで、イーヴは自分の幸せを考えられないんだと思うんだ。そこにはきっとキミのことも含まれている。』
その〝使命〟については、アリアンナにも危険が及ぶ可能性があるから言えないけど、時々イーヴはまだ迷っている節があって、それに必要不可欠な『神魂の宝珠』が手元からなくなってしまえば、諦めざるを得なくなるはずだ、とネビュラは掻い摘まんで話しながらアリアンナに言い聞かせた。
「神魂の宝珠…?初めて聞く名前だわ。それがここにあるの?」
『うん、イーヴが絶対に入るなと言った書斎の、机の上にある仕掛け箱にしまわれているんだ。』
――ぼくは今それに閉じ込められているけど、本当の持ち主がぼくのことを探していて、その人の元に帰りたい。そうすれば自由になれるんだと、ネビュラは正直に続けた。
『だからね、アリアンナ。これはぼくからのお願いでもあるんだけれど、イーヴの書斎にこっそり入って、〝神魂の宝珠〟を外に持ち出してくれないかな?』
それはルーファスがウンディーネに対して抱いたのと同じく、時に自分の望みを叶えようとするあまりに〝身勝手〟になるという、相手のことを考えない精霊らしいお願いだった。
「ライ様、申し訳ありませんが、午後に二時間ほど私用で外出して来てもよろしいでしょうか?」
近衛の詰め所にある執務室で、机の上に山積みになった書類仕事を片付けているライに、イーヴは滅多にしないそんな頼み事を告げる。
「王都の宿にプロバビリテから両親が来ているはずなので、迎えに行きたいのです。」
普段なら後半の部分は加えずに、ライの返事を待つだけのイーヴだが、この時は違い、自分の私的な事情を話すことで、ライがどんな反応を示すか試したのだった。
シェナハーンへ出向く前のライであれば、イーヴの個人的な話にも興味を示し、にこやか、とまでは行かなくても時折目を細めて、皮肉を交えながらも信頼関係を築こうという意思が見受けられた。
だが今は――
「好きにしろ。」…と、その一言で終わりだ。
ここ数日ライはヨシュアだけを自分の傍に置きたがり、なにか用があってもヨシュアにしか話しかけない。
イーヴとトゥレンが声をかけると会話に応じはするものの、必要なこと以外は話さず、怒鳴ったり怒ったりしない代わりに笑いもしなくなってしまった。
「…失礼します。」
イーヴはチラリとも自分に目を向けなくなったライに、振り出しに戻ったどころか、さらに悪化したな、と溜息を吐いた。
――一度は信頼を向けたのに、国王陛下の命令に従って、ペルラ王女との縁談話を隠していたことが決定打になったか。
この亀裂を修復するのは並大抵のことではないな、と目を伏せて執務室を後にする。
ライに距離を置かれたトゥレンは近衛の訓練所に追いやられ、対魔物訓練の指揮を執らされている。
軍施設の各所にも、必要がなければイーヴとトゥレンではなくヨシュアを連れて歩くようになり、ライはあからさまにイーヴとトゥレンから離れるようになった。
それが通常の上司と部下の関係ならば構わない。しかしライはこの国の王太子なのだ。
イーヴは城を出て小雨の降る中傘を差すと、両親が来ているはずの宿に向かいながら、そろそろヨシュアにも全てを話す時機に来たな、と考える。
だがその前に、イーヴは自分の問題を先に片付けねばならなかった。
ラインバスに乗り、高級住宅街にある貴族向けの高級宿に向かうと、待ち合わせ場所に指定してあった宿内の談話室に入る。
その部屋はある程度の広さがある複数の個室になっていて、予め予約をしておけば、この宿の利用者が外部の人間と心置きなく会うことの出来る場になっていた。
その一室の扉を叩き、イーヴは室内に足を踏み入れた。
「――遅くなってすみません、父上、母上。」
高価なアンティーク調のソファに座って待っていた両親に、イーヴは先ずそんな挨拶をする。
立ち上がってイーヴを迎えた両親の向かい側に、見慣れない若い男が座っていた。
「アリアンナが迷惑をかけてすまない、イーヴ。あの娘はどこに?」
「いえ、迷惑と言うほどのことではありませんので…私の自室にある客間におります。」
「君の部屋にか?」
ほんの一瞬だが父親のアルベインは眉を顰めた。アルベインはイーヴの自室がどんな造りになっているのかを知らず、アリアンナがイーヴの部屋にいることを良くは思わなかった。
イーヴは父親のそんな感情を読み取り、結婚の話を断った上に、兄とは言え血の繋がりがないのだから無理もないか、と心の中で苦笑する。
「紹介するわね、イーヴ。こちらの方がアリアンナを気に入ってくださった、ログフォート家のご次男ミングスさんよ。」
「初めまして、〝鬼神の双壁〟と名高い兄上様にお会いでき、光栄に存じます。」
「――イーヴ・ウェルゼンだ、よろしく頼む。」
この男がアリアンナの縁談相手か…両親が好みそうな好青年だな、と思いつつ、イーヴにしては精一杯の愛想を振りまいた。
「早速ですが城へご案内します。王宮の警備兵と紅翼の宮殿の使用人には、既に話を通してありますので、真っ直ぐ私の自室へ行きましょう。」
イーヴは挨拶もそこそこに、両親と縁談相手の男性を連れて、宿を後にする。
アリアンナがトゥレンと一緒にイーヴの元を訪れてから、既に一週間ほどが経過していた。
途中トゥレンのお節介で休暇を取る羽目になったものの、トゥレンの思惑通りには行かず、イーヴはアリアンナを一人部屋に残して別の場所で仕事をしていた。
イーヴにアリアンナと話をする気は微塵もなく、トゥレンが言うようにアリアンナのために縁談話に意見を言うつもりもない。
いつまでもアリアンナを自室の客間に置いておくわけには行かず、イーヴはアリアンナには一言も告げずに、強制的に両親の方から迎えに来て貰うことにしたのだった。
紅翼の宮殿に着き、両親と共に自室へ向かいながら、イーヴは既に両親にも受け入れられているミングスという男性を横目で見る。
まだ若いが優しさと誠実さが顔に表れているような、しっかりした男だ。彼ならアリアンナを大切にし、ウェルゼン家を問題なく継いでくれることだろう。
――これでようやく一つ肩の荷が下りる。
イーヴは胸にチクリと小さな痛みを感じながら、その思いに蓋をして自室の扉を開けた。
「ここが私の自室です。今アリアンナを呼びますので、中へどうぞ。」
両親とミングス青年をリビングに通すと、室内を見回したイーヴは、外出する際に必ず鍵をかけている書斎の扉が、ほんの少しだけ開いていることに気付いた。
書斎の扉が開いている?…まさか――
鍵をかけ忘れたはずはない。おまけに鍵は常に自分が持ち歩いていて、普通なら特別な魔法でもない限り、勝手に開くはずがないのだ。
慌てたイーヴは急いでそこに向かうと、勢いよくバンッと扉を開けて書斎に飛び込んだ。
明かりの点いていない薄暗い部屋の、窓際にある机の後ろに、その影が浮き上がるようにして立つ、顔を強張らせた妹を見つける。
「アリアンナ…!!」
この書斎にはイーヴにとってとても大切なものが置いてある。誰の目にも触れないように、机の上の鍵の開いた仕掛け箱に入れたまま、布を被せて見えないようにしてあったあれだ。
「ここには絶対に入るなと言っておいただろう!!」
かつて聞いたことのないイーヴのその大きな声に、アリアンナはあまりにも驚いて身体をビクッと揺らすと、直後に硬直して怯えたその目を見開いた。
優しかった兄の酷く険しい表情を見たのも、そんなに怒った声を聞いたのもこれが初めてだったからだ。
さらに悪いことに、イーヴはラカルティナン細工の仕掛け箱が開けられ、中にしまってあったはずの『神魂の宝珠』がないことにすぐに気がついた。
「神魂の宝珠がない…どこへやった!?」
物凄い剣幕でイーヴがアリアンナに手を伸ばした瞬間、イーヴの耳に久しぶりに聞くその声が届いた。
『逃げてアリアンナ!!両親がキミを迎えに来てるよ!!』
「…ネビュラ・ルターシュ!?」
バッ
驚いたイーヴの一瞬の隙を突き、アリアンナは書斎を飛び出す。
「アリアンナ!!」
「父さま、母さま…それにあなたはミングス・ログフォート様――!」
「アリアンナ、迎えに来たのよ。いつまでもイーヴに迷惑をかけてはいけないわ。プロバビリテに帰りましょう。」
リビングで待っていた両親と青年の姿に、アリアンナは一度立ち止まるも、母であるロザーナが伸ばしたその手を撥ね除けた。
「父さまも母さまも嫌いよ!!私の気持ちを知っているくせに…!!」
「アリアンナ!!」
イーヴの自室から飛び出したアリアンナは、紅翼の宮殿の廊下を走り出す。
「父上、母上、申し訳ありませんが、すぐに警備兵への連絡を頼みます!王城内は許可なく立ち入ると極刑に処されるような場所も多くあるのです、アリアンナを連れ戻さなければ…!!」
イーヴは自分がアリアンナを追うと両親達に話し、三人にはすぐさま警備室へ向かって貰うと、アリアンナが走って行った方へ急いでその後を追う。
――なぜアリアンナがネビュラ・ルターシュと?
アリアンナ自身も自分がそうであったことを知らなかったため、アリアンナが『識者』だと言うことに気づけなかったイーヴは、これ以上ないほど焦っていた。
神魂の宝珠が自らの意思で自分の元を去ることは出来ない。そう思っていたからこそ、盗まれたりしないように隠すことで守って来られたのに、それがまさか自分の妹の手で外部に持ち出されるとは、予想もつかなかった。
ネビュラ・ルターシュが以前言っていたように、『マスター』と呼ぶあの銀髪の守護者の元へ神魂の宝珠が渡ってしまえば、手遅れになる。
アリアンナがあの守護者と関わりがあるとは思えないが、なんとしても取り返さなければ。
イーヴの頭はそれだけで一杯になった。
アリアンナが真っ直ぐに走って行った方角にあるのは、地上から三十メートル以上もの高さがある、『東の塔』だ。
紅翼の宮殿から直接行くことの出来るこの塔は、普段は扉が施錠されていて、清掃担当の使用人以外、立ち入りが禁じられている場所だった。
鍵がかけられているはずだから、すぐに追いつけるだろう。そう考えたイーヴの予想を裏切り、書斎と同じようになぜか扉の鍵は開けられていて、アリアンナは螺旋階段を上り、塔の上へと駆け上がって行ったようだった。
そこでイーヴはようやく気付く。
そうか、ネビュラ・ルターシュ…あの闇の大精霊の仕業だ。あの精霊が書斎の扉も、ここの扉も魔法を使って鍵を開けたのだ。
ならば最上階の扉も難なく開けられることだろう。だが、上に逃げてどうするつもりなのだ?行き止まりではないか。
――それでも屋上に逃げたのであれば、今度こそ捕まえられる。そう思ったイーヴは、焦らずに螺旋階段を駆け上がって行った。
イーヴの予想通り、やはり東の塔の屋上へ出る扉も鍵が解除され、開いたままになっていた。
「アリアンナ…!」
その扉をくぐり、小雨の降る濡れて滑りやすくなった屋上へと、イーヴは妹を追って足を踏み入れた。
「イーヴ兄さま…」
東の塔はラプロビスで繋ぎ合わせた変成岩で建てられた円柱形で、直径は十メートルほどしかなく、その屋上は僅か一メートルほどの高さしかない、石積みの壁に囲われているだけだった。
万が一にもこの雨で足を滑らせようものなら、真っ逆さまに転落して命を落としかねん。
背の低い壁の淵に立つアリアンナを見て、イーヴはそんな懸念を抱いた。
「危ないからこっちに戻って来なさい。雨に濡れると風邪を引くぞ。」
アリアンナの右手に握られた、紫色の光を放つ神魂の宝珠を見ながら、それをすぐにも取り返したい思いを抑え、先ずはアリアンナの安全を確保しようと、イーヴは優しく声をかける。
「――教えて、イーヴ兄さま。イーヴ兄さまはなにをなさろうとしているの?」
アリアンナの問いかけにイーヴはピタリと足を止める。
「ネビュラちゃんから聞いたの。…兄さまの『使命』とはなんなのですか?」
――ネビュラ・ルターシュ…!!
余計なことを、とイーヴは強く歯噛んだ。
「なにを聞いたのかは知らないが、おまえには関係のないことだ。いいからそれを持ってこちらに来なさい。闇精霊の悪戯に唆されるのではない。」
「悪戯じゃないわ。兄さまが私を放ったらかしていた間、ネビュラちゃんとはこの一週間でたくさんお話ししたもの。イーヴ兄さま、この宝珠とあの仕掛け箱は、本当は兄さまの上官でもあるライ・ラムサス様の物なのでしょう?どうしてそれを兄さまが隠し持っているの!?」
「アリアンナ!!」
聞き分けのない妹にイーヴは腹を立て、少しずつ苛立ちを募らせる。
「いい加減にしなさい、私には私の事情があるのだ!!」
「でしたらその事情を私にも教えてください!!」
アリアンナは重ねた両手で、神魂の宝珠を包み込むようにして胸に抱くと、イーヴを真っ直ぐに見つめた。
「イーヴ兄さまが好きなの。兄さま以外の方と結婚なんていや。詳しいことはわからないけれど、このネビュラちゃんが封印されている『神魂の宝珠』さえなくなれば、兄さまは使命を諦められるのよね?だったら――!!」
アリアンナは神魂の宝珠を握った手を高く掲げて、それを塔の上から空中に向かい、投げるような体勢に入った。
「止せ、アリアンナ!!」
ハッとしたイーヴは神魂の宝珠を取り返そうとして手を伸ばし、アリアンナに駆け寄った。
ズルッ
「きゃあっ!!」
その瞬間、雨に濡れた石床に足元が滑り、アリアンナは手元から離れた神魂の宝珠と一緒に石壁の向こう側に倒れ込んでしまう。
「アリアンナーッッ!!」
イーヴの目には、転落するアリアンナの伸ばされた手と、空中に放り出されてまだ手の届く範囲にゆっくりと落下していく、『神魂の宝珠』の両方が見えた。
その刹那、信じられないことにイーヴは、どちらを掴むかで迷ってしまう。
それは一秒にも満たない時間のことだったのだが、結果として神魂の宝珠よりもアリアンナを掴もうと伸ばした手が、虚しく空を掴むのには十分な時間だった。
「きゃああああああーっっ…」
――その空を切り裂く悲鳴が響き渡った直後、イーヴの全身が総毛立つ、柔らかい物が地面に叩き付けられた時のドスンッという鈍重な音が届いた。
目の前から消えてしまったアリアンナの姿に、イーヴはその場でへなへなとへたり込むと、這うようにして四つん這いでガクガク震えながら、石積みの壁向こうを覗き込んだ。
小雨がイーヴのその髪を濡らし、額から鼻筋へと冷たい水が何度も伝い落ちて行く。
その雫が鼻先から遠い石畳の地面へ向かって消えて行くと、そこには撒き散らされた真紅の薔薇の中に横たわるような、アリアンナの姿があった。
――イーヴ・ウェルゼンの妹御、アリアンナティア・ウェルゼン嬢が、東の塔の屋上から転落して亡くなった。
その知らせは、近衛の執務室で仕事をしていたライとその横にいたヨシュア、そして王都の西部にある、対魔物戦闘の訓練所にいたトゥレンの元にも瞬く間に届いた。
詰め所を完全に空けるわけには行かず、ヨシュアに戻るまでの間を任せたライは、警備兵の案内ですぐさまその現場へと駆け付けた。
小雨の降る中、そこには上から布をかけられて、亡骸が見えないように隠された人の形をした盛り上がりと、石畳の上に大量に流れ出た血痕、そしてその傍で狂ったように泣きわめく五十代くらいの女性と男性、若い貴族らしき男がいてイーヴの姿はなかった。
――あれはもしかしてイーヴの両親か?そばの貴族の男は誰だ。
そんなことを思いながら、ライはしゃがんで現場を調べる憲兵に声をかけた。
「いったいなにがあった?」
憲兵は立ち上がると、敬礼をしてから答える。
「東の塔にはイーヴ・ウェルゼン近衛副指揮官殿とご令嬢がお二人でおられたようですが、この雨で屋上の石床が滑り、誤って転落してしまったそうです。」
「なんてことだ、足を滑らせたのか…それでイーヴはどこだ?」
現場には足を滑らせた痕跡が残っており、事故であることは間違いないと判断されたため、憲兵による事情聴取を終えたイーヴは自室に戻らせたという。
「ライ・ラムサス近衛指揮官、ウェルゼン副指揮官ですが…かなり動揺しておられたので、側にどなたかついておられた方がよろしいかもしれません。」
その憲兵はライにそんな助言をする。
「わかった、気をつけておく。」
イーヴが動揺…無理もないが、その役目は俺にはできんな。トゥレンが知らせを聞いて戻り次第あいつに――
ライがそう考えていると、汗だくになって肩で息をし、必死に走って戻って来た様子のトゥレンが目に入った。
「ライ様!!」
「…戻ったのか、聞いたな?」
「はい、なにがあったのですか!?アリアンナが亡くなったと言うのは本当に――っ!!アルベイン叔父さん!!ロザーナ叔母さん!!」
トゥレンも余程動揺しているのか、ライを目の前にしての話しもそこそこに、奥に見えたイーヴの両親に気付くと、「失礼します、また後ほど」と言って、ライの横を通りその場所へと走って行った。
…やはりあれはイーヴの両親か。
ライは現場から離れ、紅翼の宮殿内へと戻りながら、どうするかを考える。
二人があの男の臣下である以上距離を置いて離れ、一線を引くと決めたが…さすがにこれは放っておけないか。
だがまともな信頼関係さえ築けていないのに、俺になにが出来る?
イーヴに妹がいたこともつい先日まで知らなかったのに、そんな俺の慰めなど心には届かないだろう。
「…とりあえず、トゥレンが来るまでイーヴの様子を見ておくだけにしておくか。」
突然こんなことになって、本心ではイーヴのことが心配で堪らないのに、ペルラ王女との縁談を隠されたことが許せず、ライはその複雑な思いを抱えながら、二階にあるイーヴの自室へと向かった。
扉の前に立ち、それを叩こうと右手を上げた瞬間に、ライはイーヴの部屋を訪ねるのは、これが初めてだと言うことに気付く。
王宮近衛指揮官になる前にいた軍施設の住居棟でも、イーヴやトゥレンの部屋をライが訪ねたことは一度もない。
信の置ける臣下として親しくなり互いの部屋を行き来するのではなく、こんな形で初めて訪れるのもなんだかな、とライは短く溜息を吐いた。
手の甲を扉に向けたまま、物音一つしない室内に、イーヴは本当にいるのかと訝りながらも右手を動かす。
コンコン、と二度その音が廊下に響く。暫く待ってからライは口を開いた。
「――イーヴ、俺だ。…入るぞ。」
扉には鍵がかかっておらず、ノックをしても返事がなかったために、ライはそのまま取っ手を引くと扉を開けて勝手に入った。
薄暗い室内に入るとすぐに、リビングのソファに腰かけ、両肘を膝の上について背中を丸めているイーヴを見つける。
「…イーヴ。」
ライの呼びかけにイーヴは俯いたまま一度小さく身体を揺らすと、ライの方を見ずに口を開いた。
「隣国との縁談話を隠していたことで、我々は御不興を買ったのではなかったのですか?」
私のことなど放っておいて下さい。イーヴは震える声でそう告げる。
「………。」
ライは黙ってイーヴの前のソファに腰を下ろすと、なにも言わずに背もたれに身体を預け、両腕を組んで目を閉じた。
「ライ様…」
「下手な慰めなどかける気はない。…トゥレンが来るまでの間だけだ、俺の存在は気にするな。」
ライのその言葉に、イーヴはパッと下を向いて顔を逸らすと、暫くして声を出さずに肩を震わせ始めた。
――転落した妹を助けられずに目の前で失うとは…かける言葉もない。俺にはただ黙って側にいてやるぐらいのことしかできないが、幼い頃からの親友だというトゥレンなら、多分こいつを支えてやれるだろう。…早く来い、トゥレン。
窓を叩く弱い雨音が聞こえるほどシンと静まり返った室内で、ライとイーヴは一言も話さないまま時間が過ぎて行く。
そうして幾ばくかが過ぎた頃、ドンドン、と拳で扉を叩くその音と共に、イーヴの名を呼んでそのまま室内にトゥレンが入って来た。
「イーヴ…!!」
イーヴはその声に顔を上げてトゥレンを見る。
――さすがにトゥレンが相手だとその態度も違うな。
ライはこれで後はトゥレンに任せれば大丈夫だろう、と思い一息を吐く。
ところがこの後、イーヴとトゥレンが予想だにしない状況になり、ライは困惑することになる。
「なにがあったのかは大体叔父さん達から聞いた。だが一つ聞きたい。まさかとは思うが、アリアンナは自ら飛び降りたわけではないよな?」
「「!?」」
ライとイーヴは、血相を変えてそんなことを尋ねたトゥレンに驚愕する。
――自殺?…どういうことだ、なぜそんな話が出てくる?
ライはそう疑問を抱いたが、それでも自分は部外者だと二人の会話に割り込まず、ただ黙って成り行きを見守ることにした。
同様に疑念を持ったらしいイーヴは、その顔付きまでもを変えてトゥレンに詰め寄る。
「なにを言っている?どこからそんな話が出てくるのだ、トゥレン…!答えろ!!」
魔物に襲われて日々人が死んで行くこの世の中で、『自殺』と言うのは生きていられる命を自ら絶つとして軽蔑される、非常に不名誉なことだった。
そして家族の中からそんな不名誉な死を選ぶ人間が出ると、これは貴族の場合だが、残された遺族は一定期間社交界に出られず、後ろ指を指されることになる。
濡れた石床で足を滑らせての転落だと聞いたのに、そんなことを言われれば、いくらなんでもイーヴが怒るのは当たり前の話だった。
「いや…すまん、違うのならいいんだ。ただ俺は、アリアンナと裏通りで再会した際に、〝死にたい〟と彼女が口走っていたから、まさかと思って尋ねただけだ。」
「アリアンナが…?待て、その理由を貴殿は聞いたのか?」
「ああ、聞いた。…だからおまえとの仲を取り持ってやると言って、彼女を城に連れて来たのだ。」
そこまで話し、イーヴとトゥレンの会話がピタリと止まる。
二人の間に不気味な沈黙が流れ、イーヴからピリリとした殺気にも似た気配と、目に見えるような感情の波が動くのをライは感じ取る。
だがライには、今の会話にイーヴがそんな状態になるなにが含まれていたのか、まるでわからなかった。
「トゥレン…」
「イーヴ、俺はおまえがご両親の提案を受け入れ、ウェルゼン家を継ぐべきだと思った。アリアンナは本気でおまえを――」
「――いつから知っていたのだ。」
イーヴの顔色が変わって、額から頬の辺りまでが影となり、その激しい感情が揺れ動く。
「…アリアンナと再会した時に、彼女の口から聞いた。俺はそうだと聞いて、以前から疑問に思っていたことの答えを得たような気がした。イーヴ、俺は見ていたんだ。三年ほど前の夜、プロバビリテに帰省した際、おまえがアリアンナにしたことを――」
「っ!!」
その瞬間、イーヴはトゥレンに掴みかかった。
「イーヴ!?」
ガタガタガタン、と大きな音を立て、縺れるようにしてトゥレンが倒れ込み、イーヴはその上に馬乗りになって胸ぐらを掴んだ。
驚いたライはなにも出来ずに、人が変わったようになったイーヴを見る。
「おまえが…おまえがっっ!!余計なことをしたから、アリアンナが死んだ!!なぜアリアンナをここへ連れて来たのだ!!恨むぞ、トゥレン…!!!」
そう叫んだイーヴの瞳からは、堪えきれずに零れた悲しみの涙が滴り落ちたのだった。
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