125 ライの決断
帰国が一日延びたシェナハーンから、軍用車両を運転してトゥレンはライと二人、シェナハーン側の国境街であるリーニエに戻って来ました。国境を越えてレカンに入ると、イーヴが待っているはずの国境守備兵詰め所に向かいますが…?
【 第百二十五話 ライの決断 】
「――もう間もなくリーニエに到着致します。体調の方はいかがですか?ライ様。」
軍用車両を運転しながら、ぼんやりと車窓の外を眺めている後部座席のライ様を、後方を見るために付けられた小さな鏡で一瞥して俺は尋ねた。
シニスフォーラの国王殿で白髪銀瞳の男に襲われ、魔法によって足を負傷したライ様だったが、シェナハーン王国には回復魔法で病気や怪我を治す『治癒魔法士』がおり、すぐに治療して貰って大事には至らなかった。
他国の医療は我が国とは大分事情が異なり、基本的に優秀な治癒魔法士による魔法での治療が主体だと言う。
ただ俺が死にかけた時のように必ずしもそれは万能ではなく、中には治せない病気や怪我もあるのだそうだが、それでも短時間で傷を塞ぎ、化膿や感染症などによる負傷後の悪化を心配することもないのだから、その点は便利だなと思った。
そうは思ったが、魔法が使えると言うのはいいことばかりではないようだ。
あの国王殿の警備がいい例だ。
結界障壁があることに油断し、警備は万全だと護衛の俺がライ様のお側にいることも認められなかった。
襲われたのは式典と会食が終わった後のことではあったが、それでもあっさりと暗殺者の侵入を許したのはあちらの落ち度だと責めたくもなる。
他国の貴賓も列席していたのだからやむを得ないが、ライ様の武器携帯が赦されてさえいれば、あの暗殺者を取り逃がさずに済んだかもしれない。
結界障壁というのは大層優秀なもので、場合によっては変異体のような魔物でさえ近付けなくすることも可能なのだそうだが、それを過信して警戒を怠るのはどうなのだろう。
結局あれで白髪銀瞳の男は一旦引いたが、これで今後も何時どこでライ様が命を狙われるかわからなくなってしまった。
一応イーヴには昨日のうちに暗殺団に襲われたことを知らせておいたが、城と紅翼の宮殿の警備も早急に見直して対策を立てねばならないだろう。
あれほどの手練れに城へ侵入されたら、就寝中の場合などライ様を守り切れないかもしれない。…そう思うだけでゾッとする。
そんな懸念を抱く俺に対して、実はあの襲撃以後、ライ様の態度がかなり素っ気なくなってしまった。
俺のことを怒っているわけではなさそうなのだが、一昨日の夜は談笑しながら酒を一緒に飲まれたほど近い距離におられたのに、今はまた見えない壁に隔てられてしまったようだ。
…その原因はわかっている。国王陛下が事前に書簡で申し込んだライ様とペルラ王女の縁談話を、俺は事前に知りながら隠し、さらにシグルド陛下と示し合わせて不自然にならないようライ様と王女殿下を対面させたからだ。
シグルド陛下の話では今回は単に顔を会わせるだけ、というはずだったのに、謁見式でペルラ王女の方が予定にない行動を取られた。
元々ライ様は最初から、なぜ自分が国の代表として国葬に出なければならないのかと訝っておられたのだから、なにかあると感づかれても不思議はない。
案の定、俺は詰め寄られて隠しておけなくなってしまった。
あの混乱の後暫くは普通にしておられたが、ペルラ王女がライ様の身を案じて駆け付けられ、無理せずもう一日滞在をと、こちらを押し切ったのを境に、ライ様の俺への態度が硬化した。
――そうして今も「…ああ。」と、こちらを見ようともなさらずに、たった一言だけ返される。
俺はお怒りを覚悟した上今ここで、ライ様にエヴァンニュ王国の王太子である御自覚を持って欲しいと訴え、ペルラ王女との縁談を受け入れるようにご説得申し上げるべきなのだろうか。
そう言えば昨日と今朝の二度、ライ様は結構な時間ペルラ王女と二人きりでなにか話されておられたようだが…
「…そう言えばライ様、昨日と今朝わざわざお時間を取られてまで、ペルラ王女殿下とはなにを話されたのですか?」
思い切ってそうお尋ねしてみたが、返事はない。…これは本格的にまたお心を閉ざされてしまったのかもしれない。
俺はライ様に話しかけるのを諦めて運転に集中し、帰路を急いだ。
やがて見えて来た国境の車両門からリーニエに入り、それを越えて真っ直ぐレカンに向かうと、行きに寄った時と同じように『王国軍国境守備隊詰め所』の整備場に軍用車両を停める。
行きと違って特に大きな問題にも会わず、ライ様が殆ど口を利いて下さらなかったため運転に集中したせいか、予定よりも早く日暮れ前にレカンに着いた。
このまま王都に帰ろうと思えばまだ帰れる時間だが、民間の宿泊施設は避けて今夜は軍施設の宿泊所に泊めて貰うことになっていた。
車両から降りると俺はライ様に、イーヴが迎えに来ていることを告げる。
「…わざわざシェナハーンから連絡したのか。」
「はい。あの暗殺者は危険です。今までの警護では虚を衝かれる恐れがありますので、イーヴに帰国前に出来るだけ警備を厳重にするよう連絡しておきました。」
「……。」
そう話す俺の横に並んでライ様は、以前のような無表情で無言のまま歩き出す。
戦地から帰国する前はそれを当たり前のことだと思えていたが、今では自分に向けられる信頼と優しさを含んだ視線に慣れてしまい、久しぶりにこんなお顔を見せられると胸にツキリと痛みが走る。…俺も随分と贅沢になったものだ。
「民間の宿泊施設では侵入者を防ぎきれませんので、今夜は軍の宿泊施設に泊まります。ベッドは固く寝心地も悪いでしょうが、一晩ご辛抱下さい。」
俺はその言葉を何気なく口にし、ライ様を気遣って言ったつもりだった。ところがライ様は急に歩く速度を緩めて不機嫌な顔をなさる。
「――生まれた時から貴族で名家の跡取りとして育って来たおまえにはわからないのかもしれないが、俺は寝台の寝心地など気にしたことはない。」
「…ライ様?」
なにか俺の言ったことが気に触られたのか、ライ様は冷ややかな視線を向けてそんなことを仰り始めた。
「固いベッドどころか、そこら辺の地面に布を敷いただけで寝そべることも、監獄の床で大勢の民間人達と雑魚寝をするのも平気だ。食べるものも同じく、城での贅沢な食事を心から美味いと思ったことはない。俺は食うものがなければ自分で狩った魔物の肉でも食えるし、道端に生えた野草を自分で調理して食うことも出来る。」
「え…いえ、あのライ様…?」
不満げに俺を見てそうつらつらと述べられると、ライ様はまた黙り込み、足を速めてスタスタと整備場の出入り口へ向かわれた。
そのライ様を慌てて追いかけながら、今の御言葉は俺になにを仰りたかったのだろうと考える。
ベッドの寝心地を気にしたことはない…城の食事も心から美味いと思ったことはない…?
それは裏を返せば、寝心地の良いベッドなどなくても構わないし、城の贅沢な食事など要らない、そう仰っておられるのか?
――城での生活を不満に思っておられるのはわかっていたが、望まずとも贅沢品を与えられれば普通はそれに馴染んで行くものだ。…なのにライ様はあくまでもそれらを要らないと仰るのか。
ただ単に王族であることを拒否なさるだけでは済まないかもしれない。ライ様が国王陛下と和解なさる日はいつか本当に来るのか…?
整備場を出て国境守備隊の兵舎に向かうと、入口を入ってすぐの会議場に地図らしきものを広げて、数人の国境兵と話をしているイーヴの姿を見つけた。
国境兵はライ様に気づくとすぐさま敬礼をし、イーヴはライ様に挨拶をする。
「お帰りなさいませ、ライ様。怪我をなされたとトゥレンから聞きましたが、お身体は大丈夫ですか?」
心配するイーヴにもライ様はどこか冷たかった。
「…ああ、問題ない。近衛の方は変わりなかったか?」
その声の調子と素っ気なさに、イーヴもライ様のご様子にすぐ気づいたようだ。なにかあったのか?と問いたそうにチラリと俺を見た。
「変わりはありませんでした、と申し上げたいところですが、ご報告したいことがございます。お疲れでしょうがヨシュア・ルーベンス第二補佐官に関する重要なご報告ですので、とりあえず場所を移しましょう。」
「ヨシュアの?…ああ、わかった。」
イーヴがヨシュアの名前を出した途端に、ライ様の反応がガラリと変化する。一瞬でそのお顔に懸念が広がったのだ。
ライ様は余程ヨシュアを気に入っておられるのだろう。俺達と違いヨシュアは、ライ様が自ら望んで側付きに加えられたのだ、彼に向けられる声も笑顔も、時に俺が妬ましく思うぐらいの信頼を含んでおり、なぜ主従契約を結んだ俺ではなく、ヨシュアが俺以上の信頼を得られるのだろうと思うことがある。
イーヴは傍に立っていたここの警備兵に応接室を借りる旨を伝えると、俺達を案内するようにして先を歩いて行く。
ライ様は廊下を歩きながら淡々とイーヴの報告を聞いておられるが、やはりシェナハーンに行く前に比べると冷ややかだ。
俺達に対し怒鳴ったりして感情的になられない分、俺はライ様の俺達に対する感情がもっと悪化しているのではないかと心配になる。
やっとライ様の素の表情を見られるようになったというのに、以前のような状態にはもう戻りたくない。
応接室に入って椅子に腰を下ろすなり、ライ様はすぐイーヴにヨシュアがどうした?と心配そうに問いかけられた。
そうしてイーヴからその話を聞くと、俺も少し驚いたが、ライ様の方はかなり衝撃を受けられたご様子だった。
近衛隊士の集団による私的制裁。それがいつからなのか俺達の知らないところでヨシュアに振るわれていたのだ。
「近衛の中にそんな下らないことをする人間がいるのか。…それで、ヨシュアの怪我は?」
ライ様は、はあ、とうんざりしたような長い溜息を吐き、テーブルに前屈みになって両肘を付くと、右手の上に左手を重ねてそれを口元に押し当てた。
「近衛服に隠れる部位全ての全身に渡って暴行による内出血の痣と、肋骨を骨折しておりました。」
「…酷いな、それは。」
思わず俺もそう口を突いて出てしまう。俺かイーヴにでも一言相談してくれればなにかしらの手を打ったのに、と思う。
「すぐに医務室で診察をして貰いましたが、内臓の方に問題はなく、仕事も普段通り続けるそうです。」
「…肋骨が折れているのにか?」
「大した怪我ではありません。寧ろライ様の留守を任せられていながら休職する方が、同僚達の反感を買います。ライ様は御存知ありませんが、ライ様の側付きを望む者は多いのですよ?」
但しその大半は出世狙いと身の程を知らない野心のためですが、とイーヴは付け加えた。
ライ様は益々ご気分が沈まれたのか、さらに暗い顔をなされる。
「――おまえがそうして俺に報告を持って来ると言うことは、既になんらかの手を打ったんだな?」
「はい。近衛にあるまじき行為を行った者達です。私兵を使い全員を割り出し、即日除隊を命じました。彼らは降格処分となり守備兵に配属します。ですが今後どれほど努力をしようとも、二度と近衛に戻ることはありません。」
イーヴは内心、ヨシュアが危害を加えられたことに腹を立てているようだった。俺以外に心を開くような素振りを見せたことはないのに、珍しい。
「…そうか、ではそれに伴い人員選考と補充の方もおまえに任せる。」
「承知致しました。」
その後ライ様はすぐに疲れたから休む、と仰って、用意された宿泊用の部屋に入られ早々に閉じ籠もられてしまった。
残された俺はイーヴと場所を移し、シェナハーンでの出来事やこれからのことについて話し合うことにした。
するとそこで予想だにしなかったことを聞く。
「――シェナハーンからご縁談について快諾の返答があった!?」
「声が大きい。この部屋は防音室になっているが、誰かに聞かれたらどうする。」
イーヴは淡々とそう言って俺を窘めるが、ならばこんなところでそんな話を聞かせるな、と言いたくなった。
「し、しかし…昨日の今日だぞ?いくら何でも返事が早過ぎないか?」
ライ様とペルラ王女が顔を合わせたのはつい昨日の朝の話だ。それから国王陛下に連絡が行くまで一日もかかっていない。
「驚いたのは私も同じだ。ライ様のご帰国が一日遅れると連絡があった際に、シグルド陛下から直にお返事を頂いたそうだ。ペルラ王女殿下は余程ライ様をお気に召したようだな、ライ様が良いとはっきり仰ったようだ。それを聞いて国王陛下は甚くお喜びになっている。」
「そ、そうか…。」
驚いたな…怪我をされたライ様に駆け寄り、甲斐甲斐しく手当てを手伝われていたのを見たが、それほどまでに会ったばかりのライ様を好いて下さったのか。
俺としてもこのご縁談が上手く行けばいいと望んでいたことだ、喜ばしいことに違いはないが…
この後イーヴが続けた話に、俺はもっと驚くことになった。
「だがトゥレン、私はもっと驚いたことがある。このご婚約について先方のお話では、既にシグルド陛下とライ様は、ペルラ王女殿下がこちらにいらっしゃる日程についても簡単に話し合われ、それほど間を空けずに王女殿下は我が国においでになられることが決まったそうなのだ。」
…は?、と俺は一瞬自分の耳を疑った。
「は…ええっ!?まま、待てイーヴ…それが真実なら、ライ様はペルラ王女殿下との婚約を受け入れられたと言うことか…!?」
聞き返した俺もだが、イーヴの方も相当驚いているのだろう、どうしても信じられない、と言った疑念が顔に表れている。
「先方が作り話をしているのでなければ、そうなのだろうな。だから私ももっと驚いたと言っている。ライ様はこの縁談話をお聞きになれば、てっきり反発なされるものとばかり思っていたからな。あれほど国王陛下の思い通りにはならないと仰っておられたのに、どういう心境の変化がおありだったのだろう?その辺りを詳しく貴殿に聞きたかったのだが…」
「待て、俺はなにもわからん!そもそも昨日だとて――」
俺はなにも知らないという意味を込めて、思わずぶるぶると首を大きく横に振った。
――そうだ、昨日だとてライ様は、暗殺者に襲われる直前までペルラ王女の行動について、俺を問い詰められていたぐらいだ。あのご様子ではとても縁談を了承なさるとは思えなかった。それなのに、なぜ…?
「私もライ様のお考えがわからない。本当に王女殿下をお気に召して婚姻を承諾なされたのなら、我々に対してのあの冷めた声と口調に、つい先日とはまるで異なる態度や視線は妙だ。なによりご承諾なされたのはライ様なのに、とてもご婚約を喜んでおられるようには見えん。」
イーヴは首を捻ると同時に、今後ライ様には暗殺者のことを含め十分注意を払う必要がある、と言った。
確かにそうだ。ライ様のお命を狙うあの暗殺者は、いつまた襲ってくるかわからないのだ。だがしかし…それが事実なら、ライ様はなにをお考えなのだろう?
俺はこの二日間のライ様の行動やお言葉を思い出してみても、その想像すらつかなかった。
――翌日、俺は再び軍用車両を運転し、昨日と変わらず冷ややかな態度のライ様と、シャトル・バスを使って民間人に紛れてレカンに来たというイーヴを乗せて、王都への帰路についた。
ライ様は車中でもイーヴの仕事の話には普通に応じるものの、それ以外では俺達と目を合わせようともせず、以前ほどではないにせよ、またお心を閉ざしてしまわれたようだった。
そうして正午を回った頃、無事城に帰り着くと、そこではとんでもない事件が起こっていた。
近衛の詰め所に、憲兵隊の立ち入り禁止を示す赤色の縄が張られ、通路には点々と血痕が続いていた。
殺人現場などを具に調べる憲兵隊の捜査官が出入りし、俺達が普段働いているその場所で傷害事件が起こったことを知る。
犯人は既に捕まったそうだが、その事件の被害者の名前を聞くなり、ライ様はすぐに城を飛び出して行かれた。
当然、その場をイーヴに任せて俺もすぐに後を追う。
命に別状はなかったそうだが、小型のナイフで腹部を刺され、王都立病院に運ばれたのは執務室で仕事をしていたヨシュアだったからだ。
犯人はヨシュアに集団で暴行を働いたとして、イーヴが除隊処分にした近衛隊士の一人で、王都の高級住宅地に自宅のある貴族の男だった。
近衛を除隊になった軍兵は、軍籍を剥奪されなくとも即日退城を命じられて、軍の臨時宿舎にその荷物ごと追い出され、以降近衛の宿舎や勤務先への出入りを厳しく禁じられる。
当たり前のことだが、王城の近衛の詰め所には近衛隊士以外、限られた人間しか入ることを許されていない。
本来なら警備兵が、如何なる理由があろうともその男を通すはずがなかったのだが、ライ様も俺達も不在だったために、ヨシュアに詫びたいと言った男の言葉を信じて通してしまったのが原因だった。
――幸いなことにヨシュアの傷は軽く、薬で既に傷も塞がりすぐに退院出来るそうだ。
ライ様は安堵なされて、その場に来ていたヨシュアの婚約者という女性となにか話をすると、ヨシュアを婚約者の自宅まで送って行くと言い出された。
俺はもちろん自分も行くと言ったのだが、ライ様は以前のように怒って怒鳴られるのではなく、「俺はおまえ達のなんだ?」と酷く冷たい声で仰った。
あまりにも冷たいそのライ様のお声にヨシュアは驚いていたが、ライ様はヨシュアがなにも知らないことを利用され、上官命令を下して俺に国王陛下への報告をするようにと仰った。
そうなるとどんな理由があろうとも、俺に逆らうことは許されない。
俺は仕方なく護衛に同行するのを諦め、一人で城に戻ることにした。
…俺とイーヴは、今回の御縁談話でライ様の信頼を失ってしまったのだろうか?感情的になられ、お怒りをぶつけられることもないほどに、ライ様のお心を傷付けてしまったのだろうか。
シニスフォーラでの最初の夜、ライ様と和やかに談笑しながら楽しく酒を飲んだのが、今となっては夢だったように思えた。
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「――すまない、ヨシュア、エスティ嬢。まさかこんなことになるとは…俺の目が行き届かず、暴行を受けていた上に刺されるなど謝って済むことではない。」
俺はトゥレンを城に戻らせた後、既に治療を終えて何事もなかったかのように病室にいたヨシュアと、その婚約者であるエスティ嬢に頭を下げた。
ヨシュアの刺された傷は薬で塞がったが、肋骨が折れたままなのと、出血による貧血はすぐに治らないため、今日は大事を取ってこのままエスティ嬢の自宅で様子を見て貰うことになる。
思えばシェナハーンに発つ前日に、ヨシュアがなにか言いかけて言葉を飲み込んだのは、俺に助けを求めたからではなかったのだろうか。
命に別状がなかったから良かったものの、せめてあの時に話を聞いていれば、こんなことは防げたかもしれなかった。
「お、お止め下さい、ライ様のせいではありません!!」
ヨシュアは青くなって慌てふためくと、頭を下げる俺に伸ばした手をどうしようかと迷うように彷徨わせた。
「俺もまさかあれほど厳しい条件で厳選される近衛隊士に、身分のことや妬みから暴力を受けるとは思っていませんでしたが、それでも俺は第二補佐官の職を辞したくなかったんです。」
そうして俺の傍でやっと働けるようになったのに、脅しや暴力に負けたくなかった、と悔しげに言う。
「俺は彼らを説得するのではなく、言いなりにはならないと反抗したために暴行を受けることになったんです。自分にも悪い部分がなかったと言い切れません。」
集団で私的制裁を行った相手を恨むのではなく、自分の至らなかった部分を言うのか。…いくらなんでも人が良すぎるぞ。
そう俺が口にする前に、傍にいたエスティ嬢が怒り始めた。
「な、なに言ってるのよ、ヨシュア!部下の失態なんだから、上官が頭を下げるのは当然でしょ!?もちろん悪いのはその男達だけど、刺された場所が悪ければ死んでたかもしれないのよ!!ライ様好き好きもいい加減にしてよね!!」
「ちょっと…エスティ!!」
ライ様好き好き?と言うのは良くわからないが、エスティ嬢の言葉は当然だ。俺の失態でヨシュアを失っていたかと思うとゾッとする。
「エスティ嬢の言う通りだ。その上逆恨みで刺されたなど…城の警備も見直さなければならない。だがそれでも、俺にはヨシュアが必要だ。エスティ嬢はヨシュアに仕事を辞めさせたいと思うかもしれないが、俺はヨシュアの存在に救われている部分が多い。今後このようなことはないように努めさせていただく、謝罪を受け入れていただけないだろうか?」
俺は誠意を込めてエスティ嬢にそう頼んだ。ヨシュアは俺の素性を知らず、素のままの俺を見て支えてくれる。今の俺にはどうしても必要な存在だった。
「…ならば約束して下さい、ライ・ラムサス近衛指揮官。家族のいない私にとってヨシュアは、自分の命よりも大切な人なんです。ヨシュアがあなたに必要だというのなら、上官としてあなたもヨシュアを守って下さい。もしこの先あなたのせいでヨシュアになにかあったら、私は絶対に許さないわ。」
そう告げた彼女の瞳に、どれほどヨシュアを大切に思っているかという強い思いが見て取れた。
その気持ちが痛いほど良くわかる。彼女のような真っ直ぐな人間は、権力や理不尽な力には決して屈しない。
ヨシュアがこの女性を愛しているのも、そんな芯の強い部分に惹かれているからなのだろう。
「エスティ!!ライ様に対してなんてことを言うんだ…!!」
そこは怒るところではないだろう、とヨシュアに言いたくなったが、俺が口を出すべきではない。
「いや、良くわかった。約束しよう、俺は俺に出来る限りの力でヨシュアを守る。己の命よりもヨシュアが大切だと言ったあなたの言葉を決して忘れない。」
「ライ様…!」
俺はエスティ嬢に許して貰い、無理をさせないようにヨシュアに手を貸して三人で王都立病院を後にすると、下町にある彼女の家までヨシュアを送って行った。
二人と別れた後、俺は五分ほど道を歩いて行き、すっかり通い慣れてしまった繁華街の通りに出ると、リーマの自宅がある集合住宅の前で足を止めた。
俺はリーマに、ペルラ王女とのことを話さなければならない。
――シェナハーンに行く前、ようやく愛していると伝えたばかりなのに、あの幸せな日から僅か三日ほどでこんな話を聞いたら、リーマはどう思うのだろう。
やはり泣くだろうか?…出来ることなら悲しませたくないが、なにをどう説明したところで俺の気持ちを疑うだろうし、下手をすれば彼女との幸せだった日々はこれで壊れてしまうかもしれない。
だが黙っていて公式に発表され、外から耳に入るのはもっと最悪だ。
良く考えた上であの話を承諾することに決めたのは俺だ。…裏切り者と罵られても、俺の口からきちんとリーマに話さなければ。
俺はリーマの自宅へ向かい、いつものように階段を上ると、リーマの部屋の扉を叩いた。
時間はまだ昼を過ぎたばかり…普段なら家にいる時間だ。それなのにいつもならすぐにある返事がない。
おかしいな、どこかに出かけてでもいるのだろうか?
そう思い出直すか、と扉から離れようとした時だ。一瞬本当にリーマの声か?と思うほど暗く沈んだ声で返事があった。
「…はい…どなた?」
「リーマ?…俺だ。」
随分と暗い声だ。俺がリーマと出会ってから、彼女のこんな声は初めて耳にする。…なにかあったんだろうか。
「ライ…!?」
すぐに扉が開き、俺を見て嬉しそうに微笑む、いつも通りのリーマが出迎えてくれた。
「お帰りなさい、シェナハーンから戻ったのね…!」
その笑顔に俺の気のせいだったのかとも思ったが、珍しくリーマの目元に薄らと隈が出来ていた。
室内に入り扉に鍵をかけると、リーマはすぐに俺の腕の中に飛び込んで来て、離れていた三日ほどの間を埋めるかのように抱きついた。
俺はリーマを抱きしめ返し、そのまま彼女に口づける。リーマの髪から甘い香りが漂うとそれが俺の鼻を擽り、いつものようにリーマを寝台に押し倒したくなった。
その湧き上がる欲望を抑えて、もう一度リーマを強く抱きしめる。…とその時、リーマが震えていることに気が付いた。
「…リーマ?どうした、俺がいない間になにかあったのか?」
心配になった俺がそう尋ねるとリーマはただ首を横に振った。
「嫌な夢を見たの。…それでよく眠れなくて…」
夢?眠れないほどの悪夢なのか…
女性は良く第六感と呼ばれるものが鋭く、事前に様々なことを感知することがあると言う。…まさかとは思うが、俺のことを?…だとしたらあまりにも時機が悪いな。
「…そうか、それで目の下にも隈ができているんだな。具合が悪いんじゃないのか?」
「ううん、大丈夫。ライに会えればそれだけで幸せになれるもの。」
「リーマ…。」
リーマはいつも俺を見てただ幸せそうに微笑む。この笑顔を失いたくない。
――駄目だ…今日は話せそうにない、日を改めよう。
直前までの決心がすぐに揺らぎ、俺は腕の中にいたリーマから離れると、今日はもう帰ると告げる。
リーマはがっかりしたように悲しげな顔をしたが、すぐに〝帰って来たばかりだもの疲れているのね〟と俺を労り、食欲がないと言うと、俺の好きなボア肉のサンドイッチを作って持たせてくれた。
…俺は卑怯だ。このままなにも言わずにリーマをいつものように抱いて、ただ甘えてしまいたい。そう思ってしまう。
後ろめたい気持ちを隠して彼女に触れれば、それはもう酷い裏切りに他ならないだろう。
俺の中にあるリーマへの思いが、俺に逃げるなと言う。俺はリーマを信じられないのか?リーマは俺が軍を辞めてただの男になっても、愛する気持ちは変わらないと言ってくれた。
ならば今度も俺が真剣に話せばわかってくれるんじゃないのか?…そう思うが、どこの世界に、〝おまえのことだけを愛しているが、隣国の王女との婚約が決まった〟と話して、『愛している』という言葉を信じてくれる女がいるだろう。
「すまない、明日か明後日か…時間を作ってまた会いに来る。」
「ええ、いつでも待ってるわ。」
リーマはもう一度俺にその腕を回して抱きついて来ると、囁くように小さな声で俺を愛してる、と言った。
俺はその瞬間、どうしようもなくリーマが愛しくなって、強く抱きしめた。
だめだ、これ以上は俺の心が持たない。
「――リーマ…俺もおまえを愛している。俺はいつかおまえと温かな家庭を持ち、何人かの子供に囲まれて穏やかな人生を共に歩みたいと思っている。だがそこに行き着くまでに、おまえの想像もつかないような壁が立ち開かっているんだ。」
その壁を越えるために俺は時間稼ぎをする。リーマは俺のその言葉を聞いてなんの話なのかわからない、と言う風に困惑した表情を浮かべた。
そうして俺はリーマに、酷く傷付けるとわかっていながら、やっとの思いでその言葉を告げた。
「…落ち着いて聞いてくれ。理由があって俺は、隣国シェナハーンの王女と婚約することを決めた。」
*
王都立病院からの帰り道、ライの信頼を失ったのかと失意の底にいてトボトボと裏通りを歩いていたトゥレンは、汚れた外套に身を包んで道端に座り込んでいた人物を見つける。
両手で膝を抱えてその間に顔を埋め、具合が悪いのか、将又財布でも落として無一文になり途方に暮れてでもいるのか、華奢な身体付きから子供か女性かと、気にしながらその前を通り過ぎようとした。
すると抱えていた膝の足元に、外套の隙間からやけに上等な靴と中に着ている衣服がチラリと見え、この人物が女性であることと、粗末なのは外套だけで中の衣服が貴族の着るような服の生地であることに気がついた。
勘でただ事ではないと察したトゥレンは、すぐにその蹲っていた女性の前に片膝をついて優しく声をかけてみる。
もしなにかの事件に巻き込まれているなら、すぐに保護して家に連絡しなくてはならないと思ったからだ。
「もし…どうかなさいましたか?具合が悪いのですか?それともなにか事件に巻き込まれでもしましたか?」
その女性は泣いているのか、か細い声でただ〝死にたいの。〟とだけ返した。
≪なん…死にたい?…こんなところで!?≫
その言葉にギョッとしたトゥレンは、なぜ死にたいのか、と問いかけ、もし良かったら近くのレストランで食事をしないか、と一向に顔を上げない女性を誘い、お金がないのならご馳走するし、泊まるところがないのなら宿代を出す、そう言って必死に話しかけた。
やがて女性は鬱陶しそうに顔を上げ、真っ赤に泣き腫らした目をして、「放っておいて下さい、私は兄に捨てられた要らない存在なんです。」と顔を背けた。
兄に捨てられた要らない存在?…どんな大層な理由かと思えば、兄妹喧嘩でもしたのだろうか、とトゥレンは苦笑する。
放っておいてと言われても、死にたいと言って道端に蹲っているのをそのままにしておくわけにも行かず、まじまじと女性の顔を見た。
フードから出て胸元に垂れる薄い茶色の長髪に、同色の瞳を持つこの女性…なんだか見覚えがあるような気がするんだが…?
――次の瞬間、トゥレンは驚愕する。
「なっ…アリアンナ!?アリアンナじゃないか…!!」
目の前に蹲っていた女性が、アンドゥヴァリで帰国した後の休暇中に会ったばかりだった、『イーヴの妹』であることに気づき、思わずそう声を上げた。
「…トゥレンお兄様…?」
そこに蹲っていたのは、信じられないことにイーヴの妹『アリアンナティア・ウェルゼン』だった。
トゥレンはアリアンナからなにがあったのか詳しく事情を聞くと、アリアンナは昨日イーヴに会うために城を訪れたのだが、会えはしたもののごく短時間で碌に話も聞いて貰えずにプロバビリテに帰れと言われ、泣く泣く城を出たものの、家に帰りたくなくて宿にも泊まらず王都を彷徨い歩いていたのだという。
「なぜそんなことを…そもそもなぜ家に帰りたくないのだ?ご両親と喧嘩でもしたのかい?」
「…そうではありません。でも両親が早い内に相手を決めておいた方が良いと言って、私に縁談を持って来たのです。」
「え…?」
縁談。なんと言うことだ、こちらも縁談話か、とトゥレンは眩暈を起こす。
――つまりアリアンナは見合いが嫌で家を飛び出し、イーヴに助けを求めたが、けんもほろろに帰れと言われ、泣いていたのだな。
なぜだ、イーヴ。確かに俺達にとってライ様は最優先で仕事も大事だが、それでもおまえのたった一人の妹だろう…!!
「なるほど…事情はわかった、俺がイーヴに取り成してあげよう。少しゴタゴタしてはいるが、それでも可愛い妹の為だ、あいつもすぐに折れるさ。」
「…可愛い妹…本当にそうでしょうか?」
アリアンナはその瞳からぽろぽろと涙の粒を落としながら俯いた。
「私、イーヴ兄さまに言ってはいけないことを言ってしまったんです。…兄さま、とても傷ついたお顔をされていました。もう嫌われてしまったのではないかしら。」
「まさか、あいつは感情表現が下手だが、それでもアリアンナのことは大切に思っているよ。兄妹間で言っていいことや悪いことがあったとしても、きちんと謝れば仲直りも出来るはずだ。」
アリアンナの落ち込みように、そんなことはないだろうと、トゥレンは笑い飛ばす。
言ってはいけないこと、とは…イーヴにそんな言葉があったのか?俺の記憶にある限り、昔からイーヴは他者になにを言われても影響を受けるような人間ではなかったと思うが…
「…無理です。だって私とイーヴ兄さまは、血の繋がりがないから――」
「…え…?」
「兄さまと仲の良いトゥレンお兄様なら御存知でしょう?イーヴ兄さまは両親の実子ではないんです。だからイーヴ兄さまは、ウェルゼン家を継がない、と…」
次回、仕上がり次第アップします。