124 二つ目の歯車
白髪銀瞳の暗殺者は、ライを殺し損ねた後で自国に戻ったようです。一方でエヴァンニュに残っていたイーヴは、トゥレンからライが負傷して帰国が遅れることになったと連絡を受けます。それが終わった後で、なにかを考え、謎の人物を呼びますが…?
【 第百二十四話 二つ目の歯車 】
暗殺団『オホス・マロス』を率いる俺の、団仲間にも教えていねえ本名は『シン』と言う。
この仕事をするようになってからは、表向きは暗殺者って意味の『シカリウス』で通しちゃいるが、一部の人間以外にはこちらの名前でさえ殆ど知られていねえ。
その俺は、ある日根城を訪ねて来たある男の使者に頼まれ、エヴァンニュ王国で正統な後継者から王位を狙っているという高位軍人を殺して欲しい、と暗殺依頼を受けた。
普段ならそう言った仕事は、どんなに金を積まれても事前調査も無しに引き受けることはねえんだが、この時は面白くないことがあってムシャクシャしてた上に、標的が『エヴァンニュの高位軍人』だと聞いてつい安易に引き受けちまった。
…その結果思わぬ事実が判明し、俺は猛烈に自分のしたことを後悔する羽目になってる。
シェナハーンの国王殿で『標的の暗殺』に失敗した俺は、追っ手がかかる前に、『クレスケンス』という名の大型飛竜に乗って、ビアとボッツという二人の仲間と一緒に『アヴァリーザ』へ帰って来た。
アヴァリーザはシェナハーン王国から三つほど国を越えた先にある王制のない民主国で、国王が国の頂点に立っているんじゃなく、国民の支持を得て定期的に入れ替わる『複数の代表者』が国政を担う国民主体の国だ。
そしてここには俺が裏で稼いだ金を仕送りしている、俺の実家がある。死んだ暗殺団の仲間とビアにボッツは違うが、十年前に突然滅んだ『ラ・カーナ王国』から命からがら逃げて来て、そのままこの場所に居着くことになった『ソル・エルピス孤児院』だ。
そこの敷地のすぐ傍に、あの日死んで行った俺の家族達の墓がある。
俺は途中でビア達と別れて孤児院に帰る前に墓地に寄り、その一番奥にある普段から花が絶やされることのない一つの墓前でそれを見下ろした。
――FT歴1986年…エヴァンニュ王国とゲラルド王国の戦争に巻き込まれ、僅か一日で跡形もなくなった俺の故郷『ヘズル』。
生まれた直後には王都の道端に捨てられていて、血の付いた布に包まれ、へその緒が付いたまま粗末な籠に入れられていたという俺は、自分の名前さえ持たない赤子だった。
それでも俺は幸運だったんだ。引き取られた先の古くからそこにあると言う『ソル・エルピス聖孤児院教会』で母親代わりの優しい修道女に育てられ、同じような境遇にあった子供達と一緒に、血の繋がりがなくても温かな愛情を受けて、家族として幸せな時を過ごすことが出来たからだ。
俺にとってヘズルの孤児院で一緒に育った子供達は、入院した時期に関係なく、等しくみんなが家族で何者にも代えがたい大切な弟妹だった。
その中でも特に仲が良く、なにをするにも一緒だった同い年の『弟』がいた。
俺とそいつが七つの年に、実の親子にしか見えなかった、漆黒髪の冒険者に連れられて来た『ライ』と言う名前の変わった瞳を持つ少年だ。
そいつは最初、人を疑うことを知らねえ澄んだ色違いの瞳で俺を見ると、こっちに興味を示しているようなのに、少し怖がってすぐにその男の人の影に隠れた。
なりは同じぐらいなのに、人見知りの激しい子供かよと思った。…それもそのはずで、聞けばずっと人里から離れた場所に住み、養父と二人きりで暮らしていたらしく、同じ年頃の子供と直に接するのはその時が初めてだったらしい。
孤児院に来て暫くの間は、一緒に来た養父に捨てられたと思い込んでいて色々あったが、立ち直ってからは俺にとって最も頼りになる唯一無二の親友になった。
それと同時に、甘えん坊で寂しがり屋で、それでいて人一倍強くて他人に優しいライは、俺の自慢の弟でもあった。
そんな俺達の小さな幸せはあの一瞬で消え去った。
――夜なのに空が昼間のように明るくなって、そこかしこから炎と煙が上がっていて、凄まじい業火と次々に空から降って来る魔法弾に、丘の上からは墜落する巨大な戦艦が遠くに幾つも見え、世界の終わりが来たんだと子供心に恐怖しかなかったのを覚えている。
俺はその時に守って貰って命こそ助かったものの、至近距離に落ちた魔法弾で目と耳をやられちまった。
その所為ですぐに気づけなかったが――
『…へっ。』
俺はライが〝死んだもの〟とされ、生き残った俺の手で墓を建てられ、弔われていたのを笑った。だがそれは自分が間抜けだと嘲笑したんじゃねえ、嬉しかったからだ。
ライが生きてた。
≪ あんだけ探したのにな…まさか敵国にいたとは思わなかったぜ。≫
墓を建てて弔っても、ライがここにはいないような気がして、もしかしたらどこかで生きてるんじゃねえかと諦められず、俺はアヴァリーザを離れて他国を渡り歩いた。
その途中ビアやボッツ達と知り合い、とある暗殺団をぶっ潰して裏稼業を始めることになったんだが、それからも俺はずっとライを探し続けていた。
探して、探して、探し続けて…ラ・カーナ近くの大きな街に立ち寄った時、黒髪で珍しいオッドアイの守護者がいたという話を聞き、急いで情報のあったツェツハって町を訪ねたんだ。
だが俺がそこを訪ねた時は遅かった。
四年ぐらい前まで守護者として働きながら病気のマイオスさんと暮らしていたのに、既に魔物にやられて死んだと聞かされて、俺がどれだけ絶望して悲しんだか…おまえは知らねえンだろうな、ライ。
もっとも、おまえの方も俺達が死んだと思ってるんだろ?俺は見て呉れもすっかり変わっちまってるし、なんつったっておまえの敵に頼まれて殺そうと襲うぐらいだもんな。
きっと昔と変わらねえ黒髪のままなんだろうな…瞳の色も変わってねえのかな?あの護衛の大柄男が呼んでたのは、おまえの名前だったのか。
下手な情けをかけねえようにと、標的の素性に興味を持たなかったのが仇になったよな。
ごめんな、ライ。俺のこの目は一部の色しか区別が付かねえ上に、人の顔や姿をまともに見ることはもう出来ねえんだ。
鼓膜が破れちまったから、音も自分の魔力を使って拾わねえと認識出来ねえ。
もしこの目が『魔眼』じゃなくて、以前のようなちゃんとした瞳だったら、この耳がきちんと人の声が声として聞こえる耳だったら、おまえに危害を加える前に、俺はきっとおまえがライだってすぐに気づけたはずだ。…それだけが悔やまれて仕方がねえ。
――それでも俺は最悪の過ちを犯す前に、俺の即死針『アグルハス』がなにかで折れたことを運命だと思う。
ライが死んだと言われても、諦められずに『血晶石』を首に付けておいて良かった。
たとえあれが偶然だったとしても、ライがこれに触れたことで俺の目にも、こいつの赤い光が輝いたのを見られたんだ。
俺は心から歓喜した。
あいつが生きてる。なぜ俺達の故郷を滅ぼしたエヴァンニュなんぞの高位軍人になってるのかは知らねえが、それはこれから調べればいい。
その上で幸せに暮らしてるなら、俺はもう二度とあいつの前に顔を出すこともねえだろう。
だがそうじゃねえんなら…ガキの頃にした約束を、俺は守る。
そう決心して俺は、自分で建てた『ライの墓』を足で蹴って破壊した。
ライは生きてるんだ、こんなものにもう用はねえ!!
積んであった石の墓がガラガラと音を立てて崩れる。その音は俺の耳にそのままには聞こえねえが、それでも最高の気分だ。
『な…なにをしているの!?シン!!そのお墓はライの――なぜ!?』
昔と変わらねえ姿で、修道服を着た『母さん』が慌てて走ってくる。俺の耳には魔力を使って言葉を発する、無限界の言語『ヘクセレイコル』でしか正確に言葉としては聞こえて来ねえ。
その手にはライの墓に供えるため、いつもの花束を抱えて――
『――シスター・ラナ…あいつ、生きてた。』
『…えっ?』
俺の取った行動に、俺を心配して、俺の手を掴んだ『母さん』が、目を見開いて聞き返す。
『今、なんて…?』
『ライの奴、生きてたんだよ…!』
* * *
「――ライ様が他国の暗殺者に襲われて負傷した…!?」
自室で個人用の通信機器を使いトゥレンから連絡を受けていたイーヴは、その知らせに顔色を変えた。
トゥレンの声が落ち着いていることから、命に関わるような怪我でないことはすぐにわかったが、それでもライがサヴァン王家の王族が住む国王殿内で負傷したとなれば話は別だ。
事前に警備が厳重であることはトゥレンから報告を受けて知っていたが、結界障壁をものともせずに侵入するような暗殺者が相手では、帰国後も城の警護を見直して徹底しなければ少しも油断出来ない、そう思ったからだ。
今回ライがトゥレンのみを連れて、隣国とは言え国境を越えることに様々な懸念を抱いていたイーヴは、トゥレンと二人溜まる一方だった給金を注ぎ込み、高価なこの通信機器を購入したのだった。
これは国を通さずに二人だけで私的なやり取りをするためのもので、国王とライでは根本的な考え方の違いから、今後も色々と対立することになるだろうと予測して、何処にいても小まめに連絡が取れるようにと考えた末の手段だった。
『ああ、幸いにしてシェナハーンには治癒魔法士がいるから、既に傷は治療して貰ったが、大事を取って帰国は一日遅らせる。国王陛下にはサヴァン王家の方から別に連絡を入れて貰ったが、明日の午前中にシニスフォーラを発ち、無理をせずレカンでさらに一泊してから王都へ戻るつもりだ。』
――国への連絡とライ様の怪我は治療済み…となると、トゥレンがわざわざ連絡を寄越したのは、国内の現状警備では不安有りと判断したためか。
出国前はあれほどライ様の護衛に一人でも大丈夫だと自信を持っていたのに、此度の暗殺者は相当な手練れのようだな。
トゥレンのその言葉だけでイーヴはその裏を察してみせる。
「わかった、こちらの仕事は既に目途が立ったから近衛の方はヨシュアに任せ、私も今夜中に王都を発って急ぎ国境まで迎えに行く。警備を徹底するよう国境兵にも手配を済ませる、レカンで落ち合おう。」
『ああ、頼んだ。』
ではまたな、と挨拶をしてトゥレンは通信を切った。
自室で立ったままトゥレンと話していたイーヴは、右手で通信機器を握ったままいつものように口元に手を当て、少し俯き加減で考える。
――イサベナ王妃に付けてある監視からは、おかしな動きをしているという報告は入っていない。…と言うことは、他国の暗殺者というのはミレトスラハにいるシャール王子の差し金か?
あの屑王子、戦場の指揮を執らせれば少しは大人しくなるかと進言したのに、まともに働いてもいないのか。
ゲラルド王国はフェリューテラの三大大国の一つなだけあって、その兵力も馬鹿には出来ない。呑気に遊びながら相手が出来るものではないのに、参謀の将軍以下が相当努力しているのだろう。そう苦々しく思いながら、イーヴが珍しく舌打ちをした。
「…ライ様が王妃の提言でそうされたように、同じ理由で戦地に放り込んでやれば殺す手間も省けると思ったが…さすが王家の血族はしぶといな。」
そう呟いたイーヴの顔は、以前ロバム王とイサベナ王妃が中庭で朝食を取っている姿を見ていた時と同じ、殺気を含んだゾッとするような表情をしていた。
それを変えることもなく普段とは別人のような顔をして、イーヴはその場で誰かを呼んだ。
「――いるか?メラン。」
スッ、とその男は音もなく背後に現れると、イーヴに対して握り拳を作った右腕を胸の前に水平に掲げる、エヴァンニュのものとは異なる敬礼をして跪いた。
「は、お側に。」
その『メラン』と呼ばれた男は、見た雰囲気を一言で表すなら、『影』のような人物だった。
存在感がまるでなく、動く所作はカタリとも音を立てない。声は低く静かで、イーヴの耳にははっきりと届いているが、扉一枚隔てただけでもう他者の耳には聞こえない。言うなれば幽霊のような印象だ。
「私をお呼びになるとは珍しいですね、イヴァ様。」
「…ライ様が国民の支持を得て、貴族から縁談が持ち寄られるようになり、女狐王妃と屑王子が本気で動き出したようだ。こちらも来るべき時に向けて手筈を整える。」
メランに『イヴァ様』と呼ばれたイーヴに、ライやトゥレンと接している時の雰囲気は微塵もなく、なにかの拍子にそれが解けたのか、徐々にその髪色が種子から芽を出したばかりの葉のような薄白緑に変化して行く。
それに気づいたメランは、イーヴの髪を一瞥した。
「では会合を?」
「ああ、テラントに今夜皆を集めるよう伝えろ。」
「御意。…イヴァ様、御髪の色が。」
メランがそう告げると、イーヴは食器棚の硝子扉に視線を移す。そこに映った見慣れぬ自分の姿にほんの少し首を傾けると、表に出ていた殺気を鎮めた。
「…変化魔法が勝手に解けたか…近頃は己の魔力が強まり、気を抜いている時に感情が高ぶると制御を失う。…気をつけねばな。」
そう口にしながら、イーヴはすぐに変化魔法を使って髪色を元の薄い茶色に戻したのだった。
イーヴが自室でメランと会っていたその頃、王城の受付を一人の若い女性が訪れていた。
その女性は頭からすっぽりとフードを目深に被り、平民服の中でも少し上等な外套を着込んでいる。
顔と着ている衣服を隠すようにして城を訪れるなど、なんだか怪しい。もしやまた黒髪の鬼神に会いたいというどこぞの令嬢か?…そう思いながら、受付担当の警備兵はジロリと相手を睨んでから面倒臭そうな声を出した。
「お名前は?」
女性はその無愛想な声に、オドオドして小さな声で名前を告げる。
「ア、アリアンナティア・ウェルゼンと申します。急用があって参りました。事前に連絡を取っていないのですが、兄のイーヴに会えませんでしょうか?」
「アリアンナティア・ウェルゼン?イーヴ――」
名前を訪問台帳に記入しながら口頭でそう復唱すると、警備兵はハッとして慌てた。この女性は『鬼神の双壁』のご家族か!?そう理解すると、その場にいたもう一人の警備兵に後を託し、急いで受付所から飛び出して女性を貴族用の待合所に案内した。
暫し後、イーヴを呼びに来た近衛隊士が部屋の扉を叩くと、イーヴに客が来ていることを告げる。
「私に客?…なにかの間違いではないのか?」
今日のイーヴは近衛の副指揮官としては勤務しておらず、ライに頼まれた守備兵隊の派兵監督として、急ぎ書類を纏めなければならないのに、こんな時に何の冗談だ、と眉を顰める。
事前の約束も無しに城を訪れるような、個人的な付き合いのある人間はトゥレン以外におらず、家族はプロバビリテだ。警備兵が名前を聞き間違えたかなにかだろう。イーヴはそう思い、訝しんだ。
「いえ、間違いではありません。アリアンナティア・ウェルゼン様と仰る、ウェルゼン副指揮官と同じ髪色の若い女性です。閣下の妹君なのではございませんか?」
予想もしなかった近衛隊士の言葉にさすがのイーヴも驚いた。
急ぎ部屋に鍵をかけて飛び出すと、近衛隊士と共に紅翼の宮殿二階の廊下を早足で歩く。
「アリアンナはどこに?」
「王宮の一般受付所にある貴族用の待合所です。」
そこへ向かいながらイーヴは、連絡も無しにいきなり訪ねてくるなど、実家になにかあったのか、そう心配になった。
家族に対して複雑な感情を抱いていても、家族への愛情がなくなったわけではなく、両親や家になにか緊急の問題が起きたのなら、さすがに無下には出来ない、と思う。
「ルーベンス第二補佐官に、もしかしたら今日は詰め所に寄れないかもしれないと伝えておいてくれ。」
「は、了解です。」
近衛隊士にヨシュアへの伝言を頼み、アリアンナが待っているという貴族用の待合所に入ると、平民服の外套を着た妹の姿をすぐに見つけて駆け寄った。
「アリアンナ!!」
イーヴの妹アリアンナは、イーヴを見るなり両手を伸ばして泣きながら胸に飛び込んでくる。
「イーヴ兄さま!!」
イーヴはアリアンナを受け止めると、そのただならぬ様子に肩を抱いて問いかけた。
「どうした、父上と母上になにかあったのか?」
するとアリアンナは大きく首を横に振り、涙を流してイーヴに助けを求める。
「お願い、イーヴ兄さま…助けて!私…結婚なんて嫌です…!!」
「…結婚!?」
――アリアンナにしてみればそれは一生の問題で、貴族には良くある若くしての縁談話だ。
だがイーヴは両親か家になにかあったのかと心配しており、妹が突然訪ねてきた理由がそんな話か、と安堵すると同時に溜息を吐いた。
「…アリアンナ、私が日頃どれだけ忙しいかを知っているだろう。助けを求められても父上と母上がお決めになったことなら、私にはなにもできない。どうしても結婚が嫌なのなら、父上と母上にそう言いなさい。」
それはイーヴの本音であり、あの父母が愛娘にと決めた結婚相手なら、そう悪い相手ではないだろうと思っていたこともあった。
ところがアリアンナはさらに取り乱し、号泣してイーヴを責め始める。
「酷いわ兄さま、私がどんな思いで飛び出して来たと思っているの!?元はと言えばイーヴ兄さまが、父さまと母さまに家を継がないなんて仰るから…!」
「アリアンナ…!!」
そして次にアリアンナの口から出た言葉に、イーヴが凍り付く。
「私、知っているのよ、兄さま!兄さまがなぜウェルゼン家から出たのかも、私とは全く血の繋がりがないことも…!!」
「…!!」
そのあまりの蒼白顔に、アリアンナは我に返る。勢い余って口に出したものの、その言葉がどんなに兄を傷付けるか、その表情を見て一瞬で理解したからだ。
「ご…ごめんなさい、イーヴ兄さま…!私…っ…」
イーヴはアリアンナの肩からその手を放すと、慌てて詫びる妹から目を背けて冷たく告げる。
「――とにかくおまえの縁談話については言った通りだ。今夜遅くにはレカンに向かわなくてはならない仕事がある、明日夜まで城には戻らないから、このまますぐにプロバビリテに帰りなさい。父上と母上には私から連絡しておく。」
「待って兄さま!!まだお話があるの、行かないで…!!イーヴ兄さまっ!!」
それだけ言うとイーヴは、名を呼んで手を伸ばし引き止める妹に背を向けて、一度も振り返らずに待合所を出て行った。
カツカツと靴音を響かせ、近衛の詰め所へと向かう連絡通路を足早に歩きながら、イーヴは険しい顔をして妹の言葉を反芻しながら考える。
――いつ、どこで、どこまでをアリアンナに知られた?…あの両親は滅多なことを軽く口に出す人間ではない。
出会った場所が場所だけに、既に私の素性にも気づいているかもしれないが、それでも父上と母上は、手紙を寄越す度に私を愛している、自慢の息子だと認めて下さる。
両親の口からは、私の生まれについて漏れ出る可能性は皆無だと思っていたが、もしアリアンナが父上と母上からなにかを聞き出し、万が一にも私の素性に気づいたら、その時は…
アリアンナがウェルゼン家に生まれた時のことを覚えている。あれは私が十才の時で、幼年学校を卒業するよりも前のことだった。
長い間子供に恵まれなかった両親が、本当の意味で自分達の子供を手にした時、そこに私は入って行けないことをはっきりと自覚した。
髪の色が違う、瞳の色が違う、顔もあまり似ていない。この国に来たばかりの七才の時、幼心にそれが嫌で、無意識に変化魔法を発動し両親と同じ髪色と瞳に自ら姿を変えてしまった。
それと同時にその時初めて、この国の人間は皆一様に魔法を使うことが出来ないのに、私は誰からも教わることなく既に魔法が使えるということを知った。
私が魔法を使えると知っても、両親はそれを「隠しておきなさい。」と言って受け入れ、両親の実家があったプロバビリテに引っ越したのを機に、私は養子ではなく実子として届が出されることになった。
両親はどこの誰かもわからないのに私を愛し、実の子のように育ててくれた。その一方で私は、時折頭に過る悲惨な光景と、両親ではない男女の優しい顔を思い出しては自分はどこの誰なのだろう、と疑問に思っていた。
そのことを完全に思い出したのは、士官学校の入学式の時だ。その男の顔と声が私の記憶に残っていたことで、突然なにかの封印が解けたかのように当時の記憶が甦ったのだ。
――その日から私は変わった。
イーヴ・ウェルゼンとしての自分は偽りの人間で、いつかその時が来たら、本当の自分に戻るのだとそう決心して。
その時が少しずつ近付いているような気がする。トゥレンと過ごした子供の頃を思い出し、私に向けられるあの屈託のない笑顔を見ると、時々イーヴとしてこのまま生きて行くのも悪くないのではないかと思うこともあるが…
…夢はいつか覚めるものだ。
イーヴが近衛の詰め所に着くと、執務室でライとイーヴの代わりに事務仕事をしているはずのヨシュアの姿がない。
ヨシュアは普段から勤勉で、ライを心の底から敬っていることもイーヴは知っており、そのライに留守を任されているのに、余程でない限り勤務中に席を外すとは考えられなかった。
用を足しにでも行ったのだろうか。…そう思い暫くの間待っていたが、一向に戻ってくる気配がない。
机の上にはやりかけの仕事が残ったままで、放置してあるのも妙だ。
いくら何でもこれはおかしいと心配になったイーヴは、ヨシュアを探しに詰め所を出た。
擦れ違う近衛隊士にルーベンス第二補佐官を見なかったかと尋ねても、皆知らないと首を振る。それも当然だった。大半の隊士達はギルドに協力して魔物狩りの手伝いに出ていて戻ったばかりか、訓練所で対魔物戦闘の訓練プログラムを熟していたかのどちらかだ。
そう言えば私の部屋にアリアンナのことを知らせに来た近衛隊士は、どこの隊所属だっただろう。
ふとそう思いながら記憶を辿る。顔に見覚えはあるのに、名前も思い出せない。おかしいな、と首を捻りながら詰め所の近辺を歩き回った。
――そうしてイーヴは人気のない裏庭の隅に、倒れて気を失っているヨシュアを見つける。
「ヨシュア!!」
イーヴは倒れたヨシュアに駆け寄ると、すぐに表から見える怪我の有無と、脈拍などを確かめ、命に別状がないとわかるとヨシュアの頬をピタピタ叩いて意識を取り戻させた。
「ヨシュア、しっかりしろ。目を覚ませ。」
「う……」
ヨシュアは酷く苦しそうに一度顔を歪ませると、すぐに気が付いて目を開ける。
「ウェルゼン副指揮官……?」
「そうだ、私だ。なにがあった?なぜこんなところに倒れている?」
イーヴに起こされ、目を射す光が眩しくて目元に手を当てたヨシュアは、ハッと我に返ってガバッと起き上がった。
「す、すみません!!俺、まだ仕事が――…っっ!!」
慌てて謝罪を口にしようとした瞬間、ヨシュアは胃の辺りを押さえて身体を折り曲げた。
「ヨシュア?どこか怪我をしているのか。」
「い、いえ、これは…なんでもありません…!」
「なんでもないという顔ではないぞ、私は医師の資格も持っている、いいから服を脱いで身体を見せろ、命令だ。」
なぜか必死に抵抗しようとするヨシュアに、イーヴは上官命令を下した。その一言でヨシュアはイーヴに従わざるを得なくなる。
「……。」
諦めたヨシュアは、黙って近衛服の前をはだけ、下に着ていた肌着を捲った。
「な…!!」
ヨシュアの身体を見たイーヴは、その酷さに絶句する。
胸から腹、背中にかけての広範囲に渡る、内出血の痕跡だらけだったからだ。
「なんだこれは…!!」
驚いたイーヴがヨシュアの身体に触れると、触診ですぐさま肋骨が折れていることにも気が付いた。
いる場所が悪かったが、幸いにして周囲に人気がなく、すぐに他も診た方がいいと判断したイーヴは、完全には脱がなくても下も下げるように言って、ヨシュアの足も確かめた。
「…近衛服で隠れる部位全部に痣が…誰にやられた?一人や二人の仕業ではないな、集団による私的制裁か。」
イーヴの指摘にもヨシュアは頷こうとせず、俯いてただ黙り込んだだけだった。
「近衛隊士達の中に犯人がいるのだな?だから貴殿は黙り込むのだろう。」
「ウェルゼン副指揮官…!」
イーヴはヨシュアの衣服を元に戻し、その釦を止めてやりながら問い質す。
「平民出身のくせに、とでも言われたか。近衛の中にはライ様の側付きを目指す貴族が少なくないからな。ライ様が貴殿を側に置きたいと仰った時に、こんなこともあるのではないかと懸念を抱いていた。…ライ様が戻り次第、このことはお伝えする。」
「待って下さい!それだけは…ライ様にご迷惑をおかけしたくありません!!」
イーヴの腕を掴んで必死にそう訴えるヨシュアに、イーヴはキッパリと否定する。
「迷惑?それは違うぞ、ヨシュア・ルーベンス。」
「え…で、ですが…!」
「我々はライ様直属の臣下であり、言うなればライ様の所有物だ。ライ様の所有物が攻撃されれば、ライ様がお怒りになるのは当然であり、また同じ立場の私とトゥレンも側近として引き入れた以上、貴殿が傷付けられれば同じように腹を立てる。」
イーヴは淡々としながらも静かに怒っていた。
「当然だが、ライ様の下にいながらこのようなことをする輩がいるのは認められん。すぐに犯人は割り出せる、ライ様にご報告するのは事後報告であって、進行形ではないから安心しろ。」
イーヴは自分がこう話している時点で、メランがすぐに動き出し、イーヴの私兵にその命令を伝えることがわかっていた。
通常私兵はイーヴの命令しか聞かないが、メランはイーヴの姿に見える幻術を施し、イーヴの命令を直接伝えることが可能なのだった。
「え?そ、それはどう言う――」
「貴殿が気にすることはない。それより立てるか?軍人であれば肋骨の骨折ぐらい大した負傷ではないが、内出血は心配だ。医務室できちんと内臓も診て貰ったほうがいい。」
「…はい、わかりました。」
ヨシュアは素直に返事をしてイーヴに支えられながら立ち上がると、二人は医務室に向かって歩き出す。
「ウェルゼン副指揮官、もしかして…怒ってらっしゃいますか?」
「…そう見えるか?」
はい、見えます。そう言ってヨシュアは微苦笑する。
――感情の動きは表に出ないように、普段から極力無表情だと思われるよう仕向けているのだが、と思いながらヨシュアの灰色の瞳を見る。
素直そうで邪気がなく、軍人としてここにいる以上は戦地を経験し、人を殺したこともあるはずなのに、この男はどこか自分とは違う。イーヴはそう思った。
その上でヨシュアの持つ雰囲気が、誰かに似ていることに気づいた。
そうか…ヨシュアはあの若者に似ているのだ。姿形ではなく、気質というかその身に纏う雰囲気が、だが、銀色の髪を靡かせ、凄まじい能力で魔物を狩る、青緑の瞳のSランク級守護者『ルーファス・ラムザウアー』に。
そうやって自分に向かって、少し困ったように笑うところなんかも似ているような気がする。
イーヴはアーケロンの討伐に来たと言って、近衛に下がるよう叫んだ時のルーファスの顔を思い浮かべながらそんなことを思うのだった。
*
『――やっぱりあいつは信用出来ない。いつかライだけでなく、あんなに大切にしているトゥレンのことまでも裏切りそうだ。』
イーヴの部屋でイーヴとメランのやり取りを、こっそり覗って見ていたネビュラは、久しぶりにイーヴの部屋にあるラカルティナン細工の仕掛け箱の上に姿を現した。
ネビュラはイーヴがなにを話しかけて来ようとも、神魂の宝珠を手に取ってじっと長時間眺めていようとも、あの訣別宣言以降、完全に気配を断ってイーヴを無視していた。
だからと言って、ずっと神魂の宝珠の中で大人しく眠っていたのかと言うと、そうではない。
『それにしても…ライには運命の方が付き纏うってわかっていても、自分から危険に飛び込み過ぎだよ。このままじゃ幾らマスターが力を取り戻してぼくが強くなっても、守り切れなくなる。』
そう呟きながらネビュラは、必死でライを守って来たここ最近のことを思い出す。
切っ掛けはライの背中に、カラミティによる呪印が刻まれたことにあった。カラミティは災厄そのものの存在で、どれほど危険な相手かと言うことは良く知っている。
そのカラミティがミレトスラハ王家の血を引くライに気づき、刻印を施した。だけどその刻印にどんな意味があり、どんな効果があるのかが未だネビュラにはわからなかった。
ネビュラはライとトゥレンが主従契約を結んだ際に、トゥレンがいるからもう大丈夫、と思いつつも心配になって、ライとトゥレンの中に咄嗟に自分の霊力の一部を紛れ込ませ、なにかの時にはライかトゥレンの元に駆け付けられるよう念を入れてあった。
その結果、ライが護印柱に入り込み、レスルタードに遭遇したことも、フェザーフォルク・ラルウァと戦ったことも、最後にアーシャルの檻に捕らわれたことも知っていたし、バスティーユ監獄に乗り込んで、あまりの悲惨な状況におかしくなりかけたことも、マグワイア・ロドリゲスを手にかけたことも、ヘレティック・ギガントスに殺されかけたことも知っていた。
あの時はマスターが近くにいることに気づいてたから、すぐに離れるしかなかったけど、マスターはちゃんとライを助けてくれた。
それで無事に城へ帰ってきたと思ったら、今度は暗殺団に狙われるってなんなのさ?僕が咄嗟にライのオルゴール・ペンダントであの針を折らなかったら、ライは死んでたんだよ!?…そう憤慨する。
だけどその分、思わぬ収穫もあった。
『――あの暗殺者はシンだった。ヘズルの孤児院でライと一緒に育って、マイオスのところにもライと良く一緒に来てた…随分と外見が変わってたけど、ライに気が付いたみたいだった。なんとかしてシンをライの守りに付けられないかな。』
ネビュラはふよふよと宙に浮きながら、寝そべって足を組み、腕を組んでうーん、うーん、と考え込む。
だが結局イーヴの元から神魂の宝珠ごと逃げ出さない限り、どうにもならないんだ、と嘆く。
『マスターはその時にならないとぼくを迎えに来ない。ぼくを探してくれているみたいだけど、未だに気配を消したぼくに気づかないところを見るに、まだきっと〝先〟なんだよね。…だったら、自力でなんとかしなくちゃ。』
きっとイーヴの手の中から逃げ出す機会が必ずある。ぼくの神魂の宝珠はマスターのもので、どんなにイーヴが隠そうとしても、いつか必ずマスターが見つけられるようになっているはずなんだ。
今はまだ、このまま辛抱するしかない。…そう思いながら、ネビュラはまたイーヴが戻ってくる前に、神魂の宝珠の中へと姿を消すのだった。
今回、主要登場人物達の今後に深く関わる人達が絡むお話しでした。次回、仕上がり次第アップします。ブックマークありがとうございます!今後ともよろしくお願い致します!!