111 束の間の再会
アクリュースの驚異的な力を感じ取ったルーファスは、勝ち目がないと感じながらも、戦うことで勝機を見いだそうと挑みます。ところがアクリュースは予想以上の恐ろしい存在で…?
【 第百十一話 束の間の再会 】
――時間を巻き戻す術を持つケルベロスの教祖『アクリュース』に、俺が勝てる見込みはかなり少ないとわかっていた。
それでも戦っている内になにかしらの攻略法を見つけられるかもしれない。俺はそれに一縷の望みをかけていた。
ただわからないのは、カオスのシェイディ達をなぜ戦闘から離脱させたのかだ。シェイディが持っていた双剣は俺にとって脅威で、ここまでの戦闘状況から見ても、あれがあれば俺が防戦一方になることは明白だった。
それなのにアクリュースは、そのシェイディ達を転移魔法かなにかを使ってどこかに追いやってしまったのだ。
しかし油断は出来ない。追いやったように見せかけて俺が弱ったところで召喚し直し、一気に畳みかけて止めを刺すつもりなのかもしれないからだ。
スコットさんの魂が封じ込められていると言ったあの双剣は、俺の魂を保護している『アストラルソーマ』に損傷を与えられるようだった。
アストラルソーマとは魂の保護層のことで、これを傷付けられると治癒魔法でも傷が癒やせなくなる。
全ての命は生命の源である霊力が魂の核と結びつき、個々の存在を形成していると考えれば、霊力が拡散しないように外側から包み込むような入れ物が必要だ。
それは魔物で言うところの躯体や外殻、即ち肉体とは異なり、通常は外から傷付けることの出来ない部分で、それが破壊されれば忽ち霊力が流れ出て魂そのものが消滅の危機に瀕する。
幾ら俺が不老不死だと言っても、魂がなんらかの損傷を受ければ無事でいられる自信はない。
運良く消滅を免れ、欠片だけでも残ってさえいれば、長い時間をかけて復活することは出来るかもしれないが、その時の俺は一から生まれ変わったのと同じような状態になるだろう。
だからこそ俺を本気で邪魔に思うのなら、シェイディにあの双剣を使わせるのは最も手っ取り早いはずだった。
――まさかこの後に及んでまだ、俺を殺すつもりがない?
一瞬でもそう思った俺が間違っていた。
「ふむ、やはり神魂の宝珠に力を分かたれた状態では、その程度が限界ですか。今の貴方は私にとって足元の小さな蟻の様なものですね。…退屈なので、そろそろ終わりにしましょうか。」
アクリュースはその身から、俺が尻込みするほど凄まじい闘気を放っていたが、それでもそこに明確な殺意を感じられず、俺は勘違いをしていたのだ。
アクリュースには俺を殺すつもりがないのではなく、殺そうと思わなくとも、簡単に俺を捻じ伏せることが出来るだけの話だった。
「どうせなら面白いものを見せてあげましょう。確か、右手に『アクエ・グラツィア』、左手に『グラキエース・ヴォルテクス』でしたね…それをこう合わせて――」
コォォォ…
俺は目の前で形成されていく独特の魔法陣に、驚愕した。
「その魔法は――っ!!」
俺は慌ててディフェンド・ウォールを発動して身構える。あの魔法陣が俺の予想通りなら、とんでもない攻撃魔法が来るからだ。
「貴方のものとは威力が桁違いですよ?――氷の微笑…『ヴィルジナル・ミスクァネバ』!!」
俺の周囲、四方八方に展開された青い魔法陣から、大量の水が襲い来て、直後に針のように細く尖った氷の先端が、俺の身体を貫いた。
「ぐあああああっ!!!」
――俺はディフェンド・ウォールを確かに唱え、普段通りにそれは魔法を防ぐはずだった。…が、アクリュースは合成魔法を放った瞬間に、『アンチウォ−ル』と一言呟くと、俺の防護障壁をいとも簡単に消し去ったのだ。
かつて感じたことのない全身の痛みに、俺は無数の氷塊に貫かれたまま絶叫した。
これは肉体が感じる痛みじゃない。俺のアストラルソーマが損傷を受けている、魂の激痛だった。
その激痛は魔法効果が消え去るまで続き、俺はそのたった一度の魔法で、石床に倒れ伏した。
身体から血は流れていなかった。アクリュースが放った魔法は、俺の肉体ではなく、アストラルソーマだけに損傷を与えるものだったのだ。
「ど…うして、あなたが…俺の合成魔法を…」
俺は痛みを堪えながら床に手を付き、必死に身体を起こそうとした。だがまるで力が入らずに、身体がガクガクと震える。
「――見ていましたからね、ずっと…貴方を。他に『タービュランス』と『エクスプロード』を合成した『ブラストラゴル・メギストス』でしたか?魔法と魔法を合成し強力な超高位魔法を創り出す…その仕組みと実行可能なだけの魔力さえあれば、真似することも簡単です。…尤も、それが出来るのは私ぐらいなものですけれどね。」
俺を見ていた…?ずっと…?いったいいつから、どこでだ…!?
『ヴィルジナル・ミスクァネバ』は、この遺跡内でもサイクロプスとの戦いで使用したからまだわかる。だが『ブラストラゴル・メギストス』はバスティーユ監獄で初めて作り、使用したばかりだ。
俺とウェンリーがリグと一緒に監獄にいた時から…?いや、その割には〝ずっと見ていた〟と口にした言葉には、もっと長い時間という意味合いが込められていたような気がする。
それ以上に俺が〝あり得ない〟と混乱するのは、俺の合成魔法を再現して見せたこの現実だ。
仕組みと実行可能な魔力があれば簡単だって…?そんなはずはない、俺が作った合成魔法には、全て『使用者特定刻印』を術式に組み込んであって、同じように構築しても、絶対に俺の許可なく他人が使用することは出来ないんだ…!!
「うふふふ…動揺していますね。自分は絶対だとでも思っていましたか?いずれ暗黒神を倒すのだから、カオスや私のような正体不明の存在に〝負けるはずはない〟と?…笑ってしまいます。」
「く…っ…!」
――まだだ、まだ諦めるものか…!!それが事実だとしても、このままなにも出来ずに殺られるわけにはいかない…!!
魔法がだめなら、せめて剣の一太刀でも…!!
俺は蹌踉けながら、最後の力を振り絞って立ち上がると、捨て身でアクリュースに突っ込んだ。
「それでもっ!!俺は…いつか必ず、暗黒神をこの手で倒すんだ…っ!!」
振り上げたエラディウムソードを、渾身の力を込めて振り下ろした瞬間――
「『ディフェンド・ウォール・リフレクト』。」
キンキンキンッ
――な…
俺の目の前で、俺の防護障壁…『ディフェンド・ウォール』が輝いた。
バチバチバチッ
「うああああああーっ!!!」
俺が渾身の力で振り下ろした攻撃は、その威力の全てが防護障壁に弾かれ、俺自身に跳ね返った。
俺はその衝撃で十メートル以上も吹っ飛ばされ、背中から地面に叩き付けられて何度か地面を飛び跳ねる。
全身を強打した俺は呼吸が止まりそうになり、喉元を押さえてヒュウヒュウ喘ぐと、必死に息を吸い込んだ。
――そうして身を捩りながら咳き込むと、今度は口から血を吐いて蹲る。
…だめだ、どうやっても力が及ばない…さっきも思ったが、アクリュースはもしかして暗黒し――
「違いますよ?」
俺の心を読んだかのように、アクリュースが答える。
「私は『暗黒神ディース』ではありません。彼の神の『依り代』は別に存在しています。貴方の力が及ばないのは、ただ単に貴方が弱いだけです。」
〝言ったでしょう。今の貴方では私に勝つことは出来ない、と。〟
そう言ってアクリュースは俺に右手を翳し、十三色もの光を放つ、見たことのない巨大な魔法陣をその手に形成して行く。
なんだあの魔法陣は…十三色の光?フェリューテラと異界の全属性色が輝いているのか。
――ああ、ここまでだな。…ごめん、まだ会うことも叶っていない七聖に、ウェンリー…アテナ、シルヴァン、リヴ…腑甲斐ない俺を許して欲しい。
そう覚悟したその時、突然周囲の歪んだ閉鎖空間が解除された。
「「…!?」」
結界が…消えた?
アクリュースの魔法詠唱が中断し、それと同時に彼女は〝ようやく来ましたか〟とぽつり呟いた。
結界が消え失せるとそこは、エラディウムと白色花崗岩で作られた、二十メートル四方のだだっ広い遺跡の大広間に戻っていた。
「ルーファス――っっ!!!」
直後その聞き覚えのある叫び声と共に、二人の緑髪の人物を伴い、俺とアクリュースの間に転移魔法で割って入ったのは――
風に靡く、輝くような金色の長い髪…女性かと見紛うような整った美形に、セルリアンブルーの瞳…
「リ…リカルド…!?」
久しぶりに見る、かつての相棒…リカルドだった。
床に蹲り動けなくなっていた俺に、リカルドが泣きそうな顔をして駆け寄って来る。
不思議なことになぜか俺にはその顔が、似ても似つかないのにウェンリーと被って見えた。
「ルーファス…ルーファス!結界の解除に手間取ってしまい、遅くなってすみません…!!グラナス、早く『マナヒール』を!!」
『承知した、随分手酷くやられたな守護七聖主。――傷つきし魂よ、輝きを取り戻せ、〝マナヒール〟。』
リカルドの手に握られた大地の守護神剣『グラナス』が、オレンジ色の光を放ちながら変わった治癒魔法を唱えた。
すると俺自身の治癒魔法ではなんの効果もなかったのに、見る間に体力が回復して行く。
「傷が…アストラルソーマの傷が、癒やされていく…!?グラナス、その治癒魔法はいったいなんだ!?」
俺は一瞬で身に受けた傷の全てが治り、すぐに立ち上がれるようになって驚いた。普通の治癒魔法では、魂の保護層『アストラルソーマ』に受けた傷は治せないからだ。
そう尋ねた俺に、グラナスはなにも答えず、動けるようになったのなら今すぐここから逃げろ、と言い放った。
「待てグラナス、アクリュースは普通の相手じゃない!!戦うつもりなら俺にも手伝わせてくれ!!」
俺の申し出にリカルドが異を唱える。
「いいえ、ルーファス。あなただからこそ、あれに勝てないのです。ここは私達に任せ、あなたはウェンリーの元へ帰って下さい。」
俺だからこそ、勝てない…?どういう意味だ…!?
『そう言うことだ、此度は我らに任せよ。』
グラナスが追い打ちをかける。
「リカルド!!」
リカルドは俺に以前と変わらない微笑みを向けてそう言うと、グラナスに頼んで強制的に転移魔法を発動した。
「待て、話を…リカルドーっ!!」
シュンッ
――そうして俺は駆け付けてくれたリカルドに窮地を救われ、気が付いたらルフィルディルの入口に転移していた。
「あなたは…ルーファス様!?」
ルフィルディルの門前に突然俺が現れると、守備兵隊『ミーレス』の獣人達が騒然となる。
最初にアインツ博士を連れたイゼス、レイーノが無事に戻り、暫く経ってついさっき、負傷したシルヴァンとウェンリー、ウェンリーに抱えられたアテナが同じように戻ったばかりだからだ。
ミーレスの兵士からイゼス達とウェンリー達が順々に帰ってきたことを聞き、全員無事にルフィルディルに戻れたか、と俺は一先ず胸を撫で下ろした。
だが傍にいた獣人男性が慌てた様子で告げる。
「大長老の屋敷にお急ぎ下さい、ルーファス様!!ウェンリー殿とシルヴァンティス様より、ルーファス様がお戻り次第、急ぎアテナ様の元へおいで下さるようお伝えせよと伺っております!!」
「!!」
――そうだ、アテナ…アテナも俺と同じく、『魂』に直接的な損傷を受けたのかもしれない!!
「わかった、ありがとう!!」
俺はまだ混乱していたが、リカルドとグラナスの口振りから、俺ではアクリュースに歯が立たなくとも、アーシャルとリカルド達になら、なにか戦う術があったのかもしれないと思い至り、とにかく急いでアテナの元へ向かうことにした。
あの歪んだ閉鎖空間では、アテナが俺の中に戻ることはなかった。それは恐らくだが、アテナの魂に俺の中へ戻るだけの力が、もう既に残っていなかった可能性がある。
だとしたらアテナは今、人間で言うところの危篤状態だ。俺がアテナの身体に触れて、直接アテナの身体を構成している俺の魔力を自分の中に取り込み、アテナごと受け入れてやるしか戻す方法がない。
俺はルフィルディルの中を必死で駆け抜け、アティカ・ヌバラ大長老の屋敷を目指した。
――その頃、大長老の屋敷の入口を入ってすぐにある一室では、マリーウェザーが必死でアテナに治癒魔法をかけ続けていた。
「はあはあ、どうして…!?最上級治癒魔法をかけ続けているのに、アテナちゃんの身体に回復の兆しが全く見られない…どうしてなの、シルヴァン!?」
「――わからぬ、アテナは普通の人間ではない。その身体も主の魔力で作り出されたものだ。だが魔力であっても実体があるのとほぼ変わりはないはず…だとすると、受けた損傷の方になにか特殊な理由があるのかもしれぬ。」
「それって、ルーファスが戻らねえとどうしようもねえってことか!?なあ!?シルヴァン!!」
寝台に横たわり、もう殆ど意識のない透き通ったアテナの手を握り、ウェンリーは傍に立つシルヴァンを見上げる。
その時、アテナがゆっくりと目を開け、握られているウェンリーの手を、微かに握り返した。
「…ウェ…ンリー…さ、ん…」
「アテナ!どした?頑張れ、きっともうすぐルーファスが戻ってくるから!!」
この時アテナには、もうルフィルディル内に無事なルーファスが戻って来ていて、すぐ近くにいることを感じ取っていた。
ご無事でお戻りですか…ルーファス様…ごめん、なさ…い…。
その声が、小さくルーファスの耳に届く。
『アテナ!?今行く、もう目の前だ、頑張れ!!』
ルーファスの力強い返事が聞こえて来て、アテナはぽろぽろとその瞳から涙を流すと、ゆっくり瞬きをしてから、心配そうに自分の顔を覗き込む、ウェンリーの濃い琥珀色の瞳を見つめた。
「…ウェンリーさん…私…あなたのことが…好き、でした…」
「…アテナ…!?」
――ルーファス様とは少し違う感情で、傍にいると楽しくて、手を握られると嬉しかった。
誰かを好きになる、という、恋とか愛とか…そういう人の感情は良くわからないけれど、シルヴァンとマリーウェザーさんを見ていて、ウェンリーさんといつかあんな風になれたらいいな、と思うようになりました。
この思いが、そうなのかはわからない…でも私はウェンリーさんの笑顔が好きです。私に向けられるその声も、瞳も…もっとずっと一緒に…傍にいたかった。
そう思いながらアテナは、自分が消えたらきっとウェンリーは悲しむだろう、と涙を流す。
自分はルーファスを守るために生まれて来たはずなのに、いつの間にかルーファスを守る為に、ウェンリーを守るのが当たり前になっていた。
それが自分に与えられた役目なのだと――
このままウェンリーを残して消えたくない。でももう…身体が動かない。自分はここまでなのだと、アテナは察した。
「ごめん…なさい…ウェンリー、さん…もっとあなたの傍に…いた、か…った…」
この瞬間アテナは、ルーファスの魔力が自分から、全て消えて行くのを感じた。
ウェンリーの手の温もりが薄れていく。――視界が急速に暗くなり、泣いているウェンリーの声も、もう聞こえない。
さようなら、ルーファス様…ウェンリーさん…
――そしてアテナは、細かな光の粒子となって、ウェンリーの目の前で完全に消えてしまった。
「う…うそだ、アテナ…アテナ!!うそだよな!?アテナああああっ!!!」
ウェンリーがその名前を叫んだ時、ようやく息を切らせたルーファスが室内に駆け込んでくる。
天井に向かってわんわん泣き声を上げるウェンリーと、微かに残るアテナの残滓に、ルーファスは〝間に合わなかった…?〟と小さく呟き、力尽きてその場に倒れてしまった。
光の粒子となったアテナは、死した魂が辿る路ではなく、以前ルーファスの中から飛ばされた時に帰り道として辿った、金色に輝く光を逆に進んでいた。
そうしてほんの小さな光の欠片になると、あの荒涼とした『生命だけが存在しない世界』に辿り着く。
「――戻って…来たのですね、アテナ。」
そのアテナの光を両手で受け止めたのは、以前アテナがここで出会った『ラケシス』と名乗った美しい女性だ。
「元々細かった〝彼〟との僅かな繋がりを、とうとう断たれてしまいましたか。」
春の日差しのような、柔らかい金色の肩までの髪をさらりと靡かせ、ラケシスは鮮やかな青い瞳を細めた。
「大丈夫、やがて訪れるそう遠くない日に、また会えますよ。ですが今暫くの間はお眠りなさい。本当のあなたが目覚めるその時まで――」
――アテナが消えた。
どこにもその気配を感じられない。微かに輝く残滓から、俺が間に合わずにウェンリーの目の前で消滅したことを悟った。
…俺のせいだ…あの時あれほど嫌な予感がしたのに、それを振り払って行かせたから、こんなことになった。
もう取り返しが付かない。どんなに悔やんでも、アテナの輝くようなあの笑顔には二度と会えないのだ。
心が深い悲しみに沈んで行き、胸が引き千切られそうに痛んだ。それなのに、泣けない。ウェンリーのように声を上げて泣き、叫びたいのに、ただ苦しくて辛いだけだった。
そうして俺はその場に倒れ、意識を失った。
暗い闇の中を漂うような、なにも映さない夢を見ていたように思う。
『――アストラルソーマが傷ついたことで、ようやくおまえの魂に触れることが出来た。俺の声が聞こえているかわからないが、伝えたいことがある。』
その声はそんな風に俺に話しかけてきた。
『一刻も早く神魂の宝珠を探し出し、――に抵抗出来るだけの力を取り戻せ。そしてラ・カーナに行き、――を見つけるんだ。――が見つからなければおまえは、神魂の宝珠を全て解放出来ても暗黒神に勝てないかもしれない。』
――なにを見つけろって…?良く聞こえない。
そう問い返したのに、相手に俺の声は届いていないようだった。
『それと…あまり悲しむな。アテナというあの小さな光は、まだ完全に消えてはいない。あの光が行き着く先に俺とおまえの希望がある。だから…』
〝ラ・カーナを目指せ。〟
その声は確かに俺にそう言った。
『ラ・カーナ』…十年ほど前に、エヴァンニュ王国とゲラルド王国の戦争に巻き込まれて滅んだという、フェリューテラの遥か東にあった大国の名前だ。
そこになにがあるんだ?…そう尋ねたが、それきりその声は聞こえなくなった。
言葉少なだが、この声には俺への深い思いやりが感じられた。それにアテナは完全に消えてはいないと言う。
どうしてそんなことがわかるのかと疑問に思ったが、俺はその言葉を信じることにした。
多分この声の主は――
「……レインフォルス。」
俺はここで目が覚め、寝台から身体を起こした。
どうやら今は夜のようで、薄暗い室内を見回すと、ここはアティカ・ヌバラ大長老の屋敷にある、俺達が借りていたあの離れだった。
「ああそうか…アテナが消えたのを知って気を失ったんだな。」
隣室の居間にも人の気配が感じられずに、俺は寝台から出たその足で浴室へ向かった。
天井から降り注ぐ熱いお湯を浴びながら、夢の中で聞いた話の内容を具に思い出す。
あの声は〝もう一人の俺〟…レインフォルスに違いない。
ずっと意識のない状態で表面化したとだけ聞いていたが、初めてその存在を俺自身が感じた瞬間だった。
所々なにかに邪魔されているかのように、一部の言葉が聞き取れなかったのは気になるけど、神魂の宝珠とその他になにかを見つけろと言っていた。
「――アストラルソーマが傷付けられたことで俺の魂に触れられたって…?…レインフォルス、おまえは…」
コンコン、と浴室の扉を拳で叩く音がする。
「ルーファス?」
シルヴァンだ。すぐに大丈夫か、と心配する声が聞こえてきた。
「ああ、大丈夫だ。…ウェンリーは?」
俺の問いかけにここにいる、とだけ短く返って来る。アテナを目の前で失ったウェンリーは、相当大きな精神的衝撃を受けていることだろう。
――俺はレインフォルスの言葉を信じることに決めたけど、確証もないのにアテナが完全には消えていないと、ウェンリーにも伝えるべきだろうか。
それでもしアテナが戻らなかったら、余計傷付けることになる。だけど…
浴室を出た俺はおろしたての服に着替えて、シルヴァンとウェンリーの待つ居間へ戻った。
シルヴァンはマリーウェザーに治癒魔法をかけて貰い、完全に怪我を治して貰った様子だ。
ウェンリーはその手に残されたアテナの腕輪を握りしめ、泣き腫らした目をして俯いていた。
「…ウェンリー。」
俺が声をかけると、ウェンリーは一瞬身体を大きく揺らす。
「あ…えーと、ルーファスは大丈夫か?無事に戻って来てホッとしたけど、あれからカオスとアクリュースはどうなったんだ?」
アテナのことには触れずに、ウェンリーは精一杯平静を装っていた。
「――カオスのシェイディはアクリュースにどこかへ強制転送された。俺は残ったアクリュースと戦ったが…もう少しで消滅させられるところだった。」
「な…!」
「しょ、消滅…って、ルーファス…!?」
俺は椅子に腰かけていたウェンリー達と一緒に、近くの椅子に腰を下ろし、ウェンリー達が逃げた後、なにがあったのか全て話して聞かせた。
「俺はアクリュースに全く歯が立たなかった。彼女は恐らく人間でもカオスでもない、なにかもっと別の存在だ。あの窮地にリカルドが来てくれなかったら、俺は今ここにいなかったかもしれない。」
「…彼奴め…ルーファスの腕に施した呪印で、その危機と居場所を感知して駆け付けたのか。守護七聖である我はなにも出来なかったのだから、今度ばかりは感謝せざるを得んな。」
「……。」
シルヴァンは言葉と裏腹に、とても感謝しているような顔をしていなかったし、ウェンリーは終始無言でなにも言わなかった。
「なあ、ルーファスにはまたアクリュースが女に見えてたのか?」
リカルドについては無言だったウェンリーが、俺がアクリュースを〝彼女〟と言ったことに引っかかったようだ。
「え?ああ…俺には初めから女性の姿にしか見えなかったな。…と言っても、かなり禍々しい強烈な印象だったけど。」
「女!?我にはあれが男にしか見えなかったぞ?」
一驚してシルヴァンがそんな声を上げる。シルヴァンにもアクリュースが男の姿に見えていたのか。
「シルヴァンもか?俺もあいつは最初から最後まで男にしか見えなかった。なんでルーファスだけ女に見えるんだろ?」
「――そういえばアクリュースも、俺には真実の姿が見えているとか言ってたな。でも外見がどう見えたって、あまり関係なんてないだろう?」
「…ふむ。」
ウェンリーもシルヴァンも首を捻った。
「…アクリュースと言えば、リカルドが俺を助けに来てくれたことで、一つだけわかったことがある。」
俺は俺との戦闘中だったにも関わらず、結界が解けた瞬間にアクリュースが呟いた言葉を思い出していた。
「カオスのシェイディは俺が目的だったようだけど、アクリュースの方は俺ではなく、リカルド…もしくはアーシャルだったような気がするんだ。」
「それってケルベロスの教祖がアクリュースってことと関係あんのか?前にリカルドの野郎が、アーシャルの方でケルベロスについて調べてるって言ってたんだろ?」
そんなちらっと話しただけのことをよく覚えているな、と感心する。ウェンリーが言っているのはまだヴァハを出る前の話だ。俺がケルベロスの信者とみられる男達に襲われた時に、それらしいことを確かにリカルドは言っていた。
「それなら寧ろカオスの方であろう。アーシャルは遥か昔からカオスとは敵対関係にあった。ケルベロスは人間の宗教団体だぞ?アーシャルの関知するところではなかろうに。」
俺達はそれぞれ思いつく限りの意見を出し合ったが、結局アクリュースの目的についてはなにもわからなかった。
それから俺は今の自分が、カオスと対峙するにしても全くの力不足であると自覚したことを告げ、今後は神魂の宝珠の捜索と解放を急ぐつもりでいることを話す。
するとシルヴァンから、思いがけない話を聞くことになった。
「ルーファス、隠していても後々面倒なことになるであろうから、先に伝えておくことがある。」
「…なんだ?」
シルヴァンのその表情から、またなにか嫌な予感がして来る。あまり悩むようなことじゃないといいんだが…
そう思ったのに、それは想像を遙かに超えた重大な問題だった。
「カオス第七柱、死遊戯のシェイディ…あの子供は、我のことを〝シルおじちゃん〟と呼んだ。…最後に会ってから千年以上も経っておるし、人格もさることながら、あまりにも面変わりをしていてすぐに気づけなかったのだが…彼奴の本名は『シェイドリアン・バルト』。我ら守護七聖が〝緑〟、『デューン・バルト』の息子だ。」
♦ ♦ ♦
「――リグ、あんたが提示した期限は、今日の夕方までだったよな?」
魔物の肉とルーファスが置いて行ってくれた乾燥野菜を調理し、温かい朝食を取りながらアーロンが尋ねて来る。今日は朝から結構な量の雨が降っていて、建物内は少し肌寒い。
城での贅沢な暮らしに慣れ切っていた俺が、監獄の固い床で寝起きし、魔物の肉料理を食すのにも随分慣れた。下層ではそろそろ新たな魔物が送られて来ないと、重犯罪者達も気づき始める頃だろう。
ルーファスは中から昇降機を開けることは出来ないと言っていたが、あの凶暴な囚人達が階層を移動する術を知ったら、恐ろしいことになる。
あの悪夢を、俺はもう繰り返したくない。ヘイデンセン氏を救おうと死に物狂いで戦っていて、あの時の俺はきっとどうかしていたんだ。
相手は囚人だとは言え、笑いながらあんな風に人を殺せるなど…あれが俺のはずはない。
身震いするような自分自身に、ルーファスがいなくなってほんの短い間でも、彼の存在が俺を支えてくれていたのだと思い知る。
マグワイア・ロドリゲスを俺が殺したと言った時、なにか言いたそうにしながらも責めなかったルーファスは、あの優しいブルーグリーンの瞳で、たとえ俺がなにをしても笑って許し、受け入れてくれそうな気がした。
それだけでなく、俺は普段人の上に立つ側の人間で、誰かに主導権を渡してなにもかもを任せることが出来なくなっていたのだが、ルーファスは違う。
彼になら俺は安心して頼ることができ、信頼してその指示に従うこともできた。それはルーファスがレインだからと言うことではなく、Sランク級守護者だからという理由からでもない、恐らく彼の人柄によるものだろう。
ルーファスが俺の正体を知っていたはずはなく、俺がライ・ラムサスだと知ればその態度も変わってしまうのかもしれないが、それでも…彼ならただ〝そうだったのか〟と言って笑ってくれそうな気がする。
監獄の窓を打ち付ける雨音を聞きながら、俺はそんなことを考えていた。
「…ああ、早ければ午前中にも動きがあるだろう。俺はそう予想している。」
イーヴ達にあの男への伝言を託してから、今日で二日…収容者を引き上げるにしても準備に一日かかるとして、そろそろなにかしらの返答があって然りだ。
「聞いておきたいんだが、もし俺達が望むような返事が貰えなかったら、その後はどうするつもりなんだ?」
傍で聞き耳を立てている他の収容者達も、自分達の今後が気になるのだろう。不安げな表情で俺の返事を待っているようだ。
「その時は万が一のためにルーファスから、地下迷宮の脱出路を詳細な地図にして貰い、受け取ってある。一人一人の収容者達全員の意見を聞いて、命懸けになってもここから脱出したいと望む者だけを連れ、本土に戻るつもりだ。」
本土に戻って…その後は各自バラバラに逃げるしかないだろうな。…どこにも行く宛てがなく、自宅にも戻れない…収容者達に待っているのは犯罪者としての汚名と、憲兵に追われ続けるだけの人生しか残されていない。
…ルーファスはあの元気な爺さん博士達を、どこに連れて行くつもりだったのだろう。
「命懸け…ルーファスさん達から地下迷宮は相当危険だと聞いたが、無事に出られる保証はあるのか?」
「…ないな。だから望む者だけを連れて行くと言ったんだ。――俺はルーファスのように収容者達全員を守れるほどの力がない。魔物に襲われれば、確実に何人かは犠牲になることだろう。」
隠して取り繕ったところで、結果は変わらない。傍にいた収容者達はどよめきたったが、ここに残ったとしても、いずれ食糧が尽きれば結局はお終いだ。
俺の言葉を聞いてアーロン達もてっきり暗くなるかと思えば、アーロンはジェフリーと頷き合い、なにかを決意したような表情を見せる。
「――だったら、俺も戦う準備をしておいた方が良いな。返事次第では食糧が残っている内に脱出するべきだろう。俺は魔物を相手にしたことはないが、全く剣を握ったことのない民間人よりは多分マシなはずだ。リグ、俺はあんただけに任せるようなことはしないぞ。」
俺は驚いた。ここで最初に出会った時のアーロンは、自分には俺のような真似は無理だと言って、ジェフリーの捜索を俺に任せたぐらいなのだ。まさか魔物相手に自ら戦うと口にするとは思ってもみなかった。
「アーロン…だが武器がないだろう。」
その気持ちは嬉しかったが、肝心な武器がない。マグワイア・ロドリゲスが支配していた二階の囚人達から奪う方法もあるが、今の俺はとてもそんな気分にはなれなかった。
「心配するな、実はルーファスさんから念のためにと、五本ほど予備の鉄剣を託されているんだ。ルーファスさんはリグを信じているから水を差したくないと言って、元憲兵の俺になら管理を任せても大丈夫だろうと渡してくれた。」
「ルーファスが…」
――そうだったのか…常に先のことを考えて手を尽くす…俺を信じてくれて、その上で万が一の時に備え、できることをしてくれていたんだな。
「俺もアーロンと一緒に戦うつもりだが、他に剣を握ったことのある人間がいれば、そっちに任せた方が良いかもしれねえ。」
「そうだな、俺達で手分けして収容者の中に誰かいないか探してみよう。」
アーロンとジェフリーのその会話を聞いて、俺は二人が俺を支えようと動いてくれていることに気が付いた。
俺達をほぼ一人で守り切った、Sランク級守護者のルーファスはもうここにいない。俺達は全員で協力して生き残るしかないのだ。
俺はアーロンとジェフリーに、思い切って自分の正体を打ち明けようと思った。この二人なら一時腹を立てたとしても、俺に協力してくれるはずだ、そう確信したからだ。
「アーロン、ジェフリー、場所を移して三人だけになれないか?話したいことがある。」
二人は顔を見合わせ、俺の申し出を快く了承してくれる。
そうして朝食を済ませ移動しようと立ち上がった時、監獄内に放送機器から、あの耳障りな雑音が響いた。
ガガ…ピ…
この前の警報は制御室で切ってあり、あのけたたましい音はしなかったが、俺はすぐにイーヴ達が戻って来たのだと気づく。
「この音は…」
「――戻って来たか。」
放送機器が埋め込まれた天井を見上げると、程なくしてイーヴの声が聞こえて来た。
『私はエヴァンニュ王国軍近衛隊所属の副指揮官イーヴ・ウェルゼンだ。再度監獄内への立ち入りを希望する。』
俺達はその足で再び駆動棟の一階へと向かうのだった。
次回、仕上がり次第アップします。