101 バスティーユ監獄 ①
ルーファスを嘲笑うかのように聞こえた声の主に、ルーファスは覚えがありました。それと同時にイゼスとレイーノを目の前で攫っていった黒き触手は、間違いなくあの少年のもの。そう思ったルーファスは、すぐに助けに行くと言ったシルヴァンを引き止めます。イゼス達を助けに行きたい。でもアインツ博士達にももう残された時間はそれほどありません。悩むルーファスが下した決断は…?
【 第百一話 バスティーユ監獄 ① 】
「カオスだと!?間違いないのか…!?」
俺の耳に届いたあの声は、やっぱりシルヴァンにもウェンリー達にも聞こえていなかったらしい。
「…ああ。」
少し幼い印象の残る、無邪気な少年の声。イゼスとレイーノに俺の目の前で巻き付いた、あの黒い触手…まだエヴァンニュの守護壁が消える前、軍施設の最上階で俺が初めて対峙したカオス。
十四、五の子供にしか見えないのに、あの場にいた研究員を惨殺して死傀儡に変え、監視映像でパスカム補佐官をあれほどまでに震撼させた…邪悪な存在。
あの白とオレンジの二色髪をした少年に違いなかった。
――どうしてここに?なぜ俺達がこの場所にいることを、『カオス』が知っている?まるで先回りして待ち受けていたかのような…これが偶然であるはずがない。
『悔しかったら、取り返しに来てごらん。』
聞こえたのはたったそれだけだったが、嘲りを含む、人を小馬鹿にしたような物言いだった。目的は多分俺で、イゼスとレイーノを使って誘き出すつもりなんだろう。それはわかっていたが――
俺は怒りと悔しさで叫んだ。
「どうして今なんだ!!アインツ博士達の命が懸かっているのに…!!」
ウルルさんの推測通りに、連行された排斥対象者達が夕方処刑されるというのなら、こんなことをしている間にも刻一刻とその時が迫っている。
三人を助け出すのにも、いったいどのくらい時間がかかるか全く見当も付かないと言うのに、モタモタしている暇などなかった。
「では今のは…カオスがイゼスとレイーノを攫ったと言うことか?ならば尚更急いで助け出さねば殺されてしまう!!」
「そんなことは俺にだってわかっている!!」
カラミティとカオスの面々に対峙した時に、連中の残忍さはあれほど多数のアーシャルが殺されていたのを見ただけで、俺には良くわかっていた。
俺を誘い出す餌にイゼス達を使うとしても、二人が殺されない保証にはならず、逃げ出そうと抵抗すればすぐに殺して、その遺体を俺の前に見せつけることぐらいやりかねない連中なのだ。
シルヴァンが悪いわけではないのに、俺は苛立って声を荒げた。
「だがカオスが待ち受けているのなら、おまえだけを行かせるわけにはいかないんだ!!言うまでもないが、あの連中は危険すぎる…!!それに、目的は間違いなく俺だろう!!」
「お、落ち着け。落ち着けって、ルーファス!」
「ウェンリー、でも…俺のせいでイゼスとレイーノが…っ」
焦るばかりで考えが纏まらない俺に、ウェンリーは落ち着けと繰り返し、ポンポンと背中を叩いて宥めようとする。
俺がイゼス達を助けに向かえば、アインツ博士達を救い出すのはもう無理だろう。かと言ってカオスがいるとわかっているのに、シルヴァンだけを行かせるのはもっと無理だ。
アインツ博士達もイゼス達も大切なことに変わりなかったが、シルヴァンは俺にとってそれ以上に大切な存在だった。
守護七聖だと言うことだけじゃなく、友人としても唯一無二の存在だからだ。
「――でしたらルーファス様、私がシルヴァンティス殿と一緒にイゼスさんとレイーノさんを助けに向かいます。」
「アテナ…!?」
なにを――
俺は驚いて目を見開いた。
「私ならルーファス様の魔法を使うことが出来ますし、ルーファス様の防護魔法でシルヴァンティス殿をカオスからも守れます。これまでも度々二手に分かれて行動することはありましたし、この際、私がシルヴァンティス殿とお二人の救出に向かうべきかと。」
〝どうか私を行かせて下さい。〟
そう言っていつの間にそんな仕草を覚えたのか、アテナは俺に対して、祈るようにその手を組んで懇願した。
――アテナを、俺の代わりに行かせる?俺の娘にも等しいアテナを、カオスが待ち受けているのに、か?
確かにアテナは俺の分身とも言えるほどの戦闘能力を持っているが…今回はその辺にいる魔物が相手なわけじゃない。…大丈夫なのか?
俺は声に出さずに直接アテナに問いかける。
アテナ…だがおまえはカオスの恐ろしさを知らないだろう。初めて召喚体として戦った時、おまえは霊体で敵に認識されない状態だった。おまけにあの時のカオスは、守護壁によってその力を半減されていたんだ。
カオスは真の意味で邪悪な存在であり、恐らく今日は以前の様に簡単には行かないだろう。俺のデータベースを見ただけでは、その力を推し量ることは出来ないんだぞ?
アテナの声が俺の頭に響いてくる。
『それでもアテナは、ルーファス様のお役に立ちたいのです。仮にルーファス様がシルヴァンティス殿と行かれても、私に考古学者の方々の救出は無理です。監獄という場所がどういったところなのかも良くわかりません。ですがシルヴァンティス殿の補助であれば、どう動けば良いのかわかります。それに万が一の時には、ルーファス様の元に逃げ込むこともできますから…!』
その言葉を聞いても俺はまだ迷った。アテナが俺を思い、切々と訴えかけてくるその気持ちは伝わって来るのだが、それ以上の言い知れない不安が、胸の中で渦巻いていたからだ。
あの邪悪な少年が相手だとわかっているからこそ、出来れば二人を行かせたくない気持ちの方が強く、シルヴァンが過去の歴戦を生き抜いてきた守護七聖であろうとも、アテナが俺並みの能力を有していても、それでもまだ、踏ん切りが付かなかった。
わかっている、俺は全てを救えるだけの力もないくせに…なんて欲張りなんだ。なにもかも自分一人の力でやろうとしても無理だと知っているのに、気持ちばかりが焦って、空回りするばかりだ。
だがそれでも、イゼスとレイーノを見殺しには出来ない。アインツ博士達も助けたい。なんの罪もないのに囚われて、処刑されるかもしれない多くの民間人も放ってはおけなかった。
不安で心配で堪らないのに、俺は俺の胸騒ぎを無理矢理押さえ込んで、最終的にアテナの申し出を受け入れる決断をした。
――それが、どんな結果になるか想像も出来ずに。
「…わかった、アテナ…シルヴァンを頼む。」
「はい…!!」
俺に信頼されたと思って喜んでいるのだろうか。俺にしてみれば苦渋の決断なのに、アテナは嬉しそうに微笑んだ。
行かせたくない…この感覚は、あの時背を向けて去って行った、リカルドに対して抱いた思いと一緒だ。
わかっているのに、こうするより他に選択肢はなかった。
「シルヴァンもアテナを頼む。二人ともくれぐれも気を付けて、絶対に無理はしないでくれ。おまえたちになにかあったら、俺は…っ」
「心配は要らぬ、主よ。我は守護七聖だぞ?それに千年前とは違うのだ、一度倒したカオス相手に後れは取らぬ。あの考古学者達を救い出したら、この地下迷宮で必ず落ち合おう。」
シルヴァンはエメラルドグリーンの瞳を細めて、安心させるように俺を見た。
「…ああ、そうだな。」
確かにそうか…守護七聖達はただ眠りについているわけじゃない。生命維持装置の中で『神魂の宝珠』を通じて霊力と魔力を取り込み、それによる身体強化も計っている。
そして俺と『魂の絆』で結ばれている彼らは、俺が力を取り戻して経験を積み、強くなればなるほどその分俺と一緒に能力が上がって行く。
俺達の真の相手は、カオスではなく暗黒神なんだ。敵を侮るわけじゃないが、眷属に負けるわけには行かないものな。
「ウェンリーさん。」
アテナはたたっとウェンリーに駆け寄り、着ていた衣服の物入れから唐突に装身具を取り出すと、ウェンリーの左腕をぎゅっと握って、バングルではなく、ミスリル製の細い三つの輪で作られたブレスレットを嵌め込んだ。
「アテナ、これって?」
シャラリと音を立てながら、アテナの手で着けられた三連の腕輪を目の前に掲げ、ウェンリーは不思議そうに尋ねる。
それはウェンリーの腕にぴったりの大きさで、多少動いたところで引っかけたぐらいでは簡単には外れない、細かな呪文字が刻まれたものだった。
常時魔法効果のある特殊装身具?アテナはいつの間にあんなものを…と、俺は見ていて思う。少なくとも俺が用意した物ではなかったからだ。
「継続治癒魔法『リジェネレート』の呪文字を刻んだ腕輪です。他にも幾つかの効果がありますが、ルーファス様を真似て私がウェンリーさんのために作りました。」
「え…俺のために!?」
驚くウェンリーにアテナが天使の微笑みを向けている。ここ最近は俺よりウェンリーに向けられることの多い笑顔だ。
「はい。私が戻るまで、この腕輪を絶対に外さないで、必ずいつも身に着けておいて下さい。…約束して下さいね?」
「アテナ…わかった、ありがとな。約束するぜ。」
俺から少し離れた位置でウェンリーは、右手の人差し指で照れ臭そうに一度鼻を擦ると、心から喜んでアテナに破顔する。
ほんの少しのやきもちから来る邪推なのかもしれないが、この二人…やっぱり特別な絆を育んでいるような気がする。互いに互いを想い合っているような…もしかしたらウェンリーは、アテナのことを?
俺は異性に特別な感情を抱いたことがなく、そういう目で見ることの出来る誰かに出会ったこともなかった。
だからあくまでもそうなのかな?という推測でしかないが、ウェンリーがアテナを見る瞳には、特別な感情が籠もっているような気がしてならなかった。
「アテナ、シルヴァン…気をつけて行けよ?ルーファスと一緒にアインツ博士達を助け出したら、俺らもすぐ合流すっからさ。」
「ふ…誰に言っている?ウェンリー、そなたの方こそルーファスを頼む。監獄と言うからには、邪な人間も囚われているはずだ。」
「あ…うん、わかった。」
ウェンリーとシルヴァンは腕と腕を組み交わし、二人にしかわからない相槌を打っていた。
「ではルーファス様、行って参ります。」
「アテナをお借りする。」
「ああ、イゼスとレイーノを…頼んだ。」
俺の目の前でシルヴァンは銀狼化し、アテナはその上にひらりと跨がると、ルスパーラ・フォロウを唱えて灯りを点け、すぐに二人は暗がりの中に消えて行った。
俺は二人が消えて行った闇を見つめながら、その場で自分に言い聞かせる。
大丈夫だ、シルヴァンもアテナも…きっと無事ですぐにまた会える。
「――よし、ウェンリー、俺達はなんとしてもアインツ博士達を助け出すぞ。…急ごう!」
「了解!!」
俺とウェンリーは地面を蹴って、蛍岩が照らす仄明るい地下通路を走り出した。
イゼス達のことは一旦アテナとシルヴァンに任せ、今は一刻も早くバスティーユ監獄を目指そう。
そうと決めたら俺は頭を切り替え、博士達の救出に集中することにした。
――その後もウェンリーと二人息を合わせて、進路を塞ぐように現れる魔物を次々に倒して先を急ぐ。
迂回したことで時間を取られ、予定よりも大幅に到着が遅れていた。
俺の地図と青磁製の道標を頼りにひたすら地下迷宮を進んで行くと、やがてここに来るまでも散々目にしてきた、同じような紋章が描かれた鋼鉄製の扉前に辿り着いた。
当然だが、その扉には鍵がかかっていた。
「随分錆び付いているな。」
地下迷宮を通る湿った風のせいか、黒鉄の扉は赤茶色の錆であちこち腐食が始まっている。
「そりゃそうだろ、マリーウェザーの記憶が確かなら、イル・バスティーユ島は旧アガメム王国時代でさえ立ち入り禁止になってたんだ。だとしたら逆に扉が残ってる方がすげえって。」
「まあそうだけど…」
基本的にフェリューテラの建造物には、どんなものにも保存魔法をかけるのが当たり前だったから、百年単位で形状を保つのは普通なんだけどな。
「とりあえず解錠魔法を使ってみるか。…開け閉ざされし扉よ。『アンロック』。」
俺の手に白っぽく透明な魔法陣が輝き、アンロックの無属性魔法が発動する。
シン…
「――だめか。」
だが扉の鍵には何の反応もなかった。
「開かねえの?」
「ああ。鍵自体が複雑な構造なのか、魔法では解錠出来ないようになっているのかはわからないが、鍵がないとだめみたいだな。」
「じゃあ、どうすんだよ?」
「うん…」
俺は口元に右手を当ててほんの一、二秒だけ考える。そして出た結論は――
「壊すか。」
「…は?」
俺はウェンリーの腕を掴んでぐいぐい引っ張り、後方に十五メートルほど下がると、威力を一点集中型に引き絞った、火属性魔法を扉に向けて放つことにした。
「や、ちょっと待てルーファス…!壊すって、あんまでけえ音は立てねえ方が――」
「地下だからそこまで上には響かないよ。」
フオン…
正面に向けて翳した俺の右手に赤い魔法陣が輝く。
「扉を吹き飛ばせ、『エクスプロード』。」
ドンッ…ゴオッ
そこから直径が十センチ大の小さな火球が、一直線に扉へ向かって飛んで行く。
横にいたウェンリーは、火球が予想していたより小さかったことにホッとしたようで、あれなら大丈夫か、そう言いたげに口の端を上げた。
火属性魔法『エクスプロード』は、通常ブリックストーン製の一軒家ぐらいなら簡単に吹き飛ばせる、爆発系火魔法だ。
今回は扉を吹き飛ばすだけなので効果範囲を調整したが、鋼鉄製の扉を破壊するのだ、当然、本来の威力はそこまで落としていなかった。
となると、当たり前のことだが――
ボゴオオオンッ
――という、地下迷宮中に響き渡るような、大きな爆発音は発生する。
ゴッ…
「おわああっ!!」
続く爆風にウェンリーが頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「…そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、破片がこっちに飛んできたりしないように計算して撃ったんだから。」
「あ…あのなあ…!!」
俺がウェンリーを危険に晒すはずはないだろう、そう思いながらスタスタと、モウモウと上がる煙の中へ歩いて行く。
天井からカラン、と小石が落ちて来はしたが、鋼鉄製の扉は左右に拉げ、計算通りに破壊されていた。
「よし、通れるようになった。行くぞ、ウェンリー早く。」
なにか文句を言いたげにしていたウェンリーを促し、扉の先に現れた、ザラザラとした白石の螺旋階段を駆け上がって行く。
階段を上り始めると、すぐに土壁や岩壁が、黒味を帯びた灰白色の花崗岩の壁に変わった。
それは地上に向かうにつれて人の手が入っていたことを示し、この螺旋階段の先が、メク・ヴァレーアの森のような、遺跡かなにかの内部に続いていることを暗に表していた。
そうして階段をひたすら駆け上がって行くと、やがて朽ちて壊れかけた木戸の前に辿り着く。
その扉は相当古く、同じように紋章が彫られてはいたが、半分割れて既に欠けており、扉としての役目を果たしていなかった。
それを押し開けて外に出ると、そこは俺の予想通り、なにか神殿にあるようなエンタシスの石柱が数本並んだ建物の中だった。
遙か昔にかけられた保存魔法の効果は消えかけ、屋根の一部は抜けて穴が開いている。壁も所々崩れかけているが、奧の祭壇に掲げられていた大理石の像だけが、やけに自己主張をしているように見えた。
俺達はその像に近付いて行く。
「ここは…祠かなにかだったのかな?」
建物自体の大きさは、精々小屋程度の広さしかなく、朽ちた木箱や樽の残骸が転がり、長い間人が入った形跡もない。
神殿と言うには小さく、散乱した燭台や割れた陶器の器などと一緒に、祭壇らしきものはあるが、石床のあちこちに気味の悪い黒い染みが幾つも見えた。
俺は目の前に立つ、高さが三メートルほどの石像を見上げて、しげしげとそれを眺めた。
その像は、腰ぐらいまでの長さの緩い波形のついた髪に、額には菱型の石のついたサークレットを嵌めていた。
右手にはかなり大きな宝玉のついた長杖を持ち、前合わせの重ね衿の衣装を太い帯のようなもので括った、変わった衣服を着ている。
パッと見た印象では修道服のようにも見えるが、腰から下は身体の線に沿った、あまり風を含まない腰布が足元にまで伸びていた。
俺にはこの石像がスラリとした女性の姿に見えた。
「ルーファス、台座の石版に文字が彫られてるぜ。これ、古代文字じゃねえ?」
俺の隣に並んでふと下を見たウェンリーが、見覚えがある、と言って石像の台座に嵌め込まれた石版の古代文字に気づいた。
「ああ、本当だ。えーと…?『彼方よりの神アクリュース』…これは例の異界神アクリュースの像みたいだ。」
「げ!…ってことはこの男が邪神かよ…!!」
ウェンリーが思いっきり嫌そうな顔をして石像を見上げる。
うん?…今、なんて言った?
「…男?いや、女だろう?」
「は?なに言ってんだよ、どう見たって男じゃんか。」
石像を指差してそうキッパリと言い切るウェンリーに、俺は首を傾げてもう一度石版を見た。
「待て、古代文字に続きがある。…神像が男に見えし者には『生』を、女に見えし者には『死』を賜る。…なんだこれは?」
「なに?つまり、人によって男に見えたり、女に見えたりする、ってことか?んなわけあるか、だって石像だろ?石だぜ?」
「…そうだな。」
――そういうわりにはウェンリーにはこの石像が男に見え、俺にはどう見ても女にしか見えない。生とか死とか意味はわからないが、人によって見え方が違うのは確かみたいだな。
どちらにせよ今の俺達に、この石像は関係ない。
俺はこんなものに構っている暇はないと辺りを見回し、入って来たのとは別の場所に大きな扉を見つけると、さっさとウェンリーを促して、とにかくこの祠のような場所から外へ出ることにした。
片方が蝶番から外れかけて斜めになった、両開きの大扉を押し開けて外に出ると、驚いたことにそこは、直径が百メートル以上はある円形の壁に周囲を囲まれた、巨大な建造物の中庭のような場所だった。
「――なんだここは…壁に囲まれている?」
祠から出て白い花崗岩の階段を降り、膨ら脛ぐらいまで伸びた草の地面へ足を踏み入れると、少し歩いてそこに立ち、ぐるりと360度周りを見回した。
この場所にあるのは、今俺達が出て来た小さな祠のような崩れかけた建物と、所々に石造りの家屋の土台部分があり、それから倒壊した物置のような掘っ立て小屋と、『ファブルブナ』という名の数本の大きな木だった。
周囲を取り囲んだ壁は地面から二十メートルぐらいの高さまで、全て鋼鉄製の金属板で補強を施されており、この位置から見えるいくつかの扉は、王都の軍施設にも使われている、俺の剣と同じエラディウム製のもののようだった。
壁の高さはどのぐらいあるんだ?もしかしてここは――
空から差し込む日の光に、上を見ようとしたその時だ。ウェンリーが俺に叫んだ。
「ルーファス!あそこ…誰か倒れてる!!」
ウェンリーは目敏く、いつだってなにかを見つけるのは俺よりも早い。
そのウェンリーが指差した場所を見ると、木の下に茂る草叢に、極一般の民間人が着る衣服を身に着けた男性が倒れていた。
俺はウェンリーと一緒にそこへ駆け寄り、うつ伏せに倒れて気を失っているその男性を助け起こした。
瞬間、俺の手にぬるりとした生暖かい感触があって、この男性が瀕死の重傷を負っていることに気づく。
「酷い怪我だ…!おい、しっかりしろ!!」
既に大量出血で蒼白顔をした男性は、声をかけても反応がない。
「全身血だらけじゃねえか…魔物にやられたのかな?」
「わからないけど…液体傷薬じゃ間に合わないな。仕方がない、治癒魔法を使う。」
俺はすぐに男性の衣服の前をはだけて、鋭い爪で抉られたばかりのような酷い裂傷に、直接魔法をかけて治療することにした。
「深き傷を癒やせ、『エクストラヒール』。」
俺の右手に白い魔法陣が浮かび上がり、淡い緑色の光が強く輝きを放つ。ウェンリーは俺が治癒魔法をかけている間に、男性の血や泥で汚れた顔を濡れタオルで拭い、頭の下に枕代わりの畳んだ布を差し入れた。
近くに魔物の気配はないのに…これは負傷したばかりの傷に見えるな。なにに襲われたんだろう?
俺は治癒魔法をかけながら、ふと男性の顔を見る。
癖のかかったアッシュブラウンの猫っ毛に、年齢はウェンリーぐらいだろうか?少しやつれているようにも見えるが、きりっとした男らしい精悍な顔付きに、どこか幼さも感じる。
細身だが随分と鍛えられた筋肉質の身体をしていて、傍らに高価な魔法剣、『ライトニング・ソード』が落ちていたことから、丸切りの素人のようにも見えなかった。
ここは既にイル・バスティーユ島のはずだから、普通の民間人がいるはずはないんだけど…なぜこんなところに?
そんな疑問を抱きながら、血の気のないその顔を見ていると、なぜだか俺の視界が急にブレ始めた。
「…!?」
直後に俺はギクリとして目を見開くと吃驚する。それは俺の固有スキル『真眼』が、いつものように働いた瞬間だった。
――え…?な…嘘だろう!?…なぜこの人がまた、こんなところに倒れているんだ…!?
周囲を全て壁に囲まれた場所にいるのに、どこからか強く吹いて流れて来た風が、俺の真眼が明らかにしたその男性の漆黒の髪を揺らした。
〝く…黒髪の鬼神…ライ・ラムサス…!!〟
見覚えのある髪色と合わさったその顔に気づき、呆気に取られた俺が心の中でその名前を呼んだ時だった。
空から差し込んでいた日の光が、巨大ななにかに遮られて翳った。俺の頭の地図に突然ポッと出現した大きな赤い点滅信号に、俺はハッとして治癒魔法を維持したまま、上を見る間もなくすぐに左手で防護魔法を発動した。
「障壁よ、守れ!!『ディフェンド・ウォール』っ!!」
キンキンキンッ
防護障壁の展開音が響いて、俺とウェンリーと横たわるライ・ラムサスを、白く透明な光の壁が穹窿形に包み込む。
遙か上空からもの凄い速度で急降下して来たそれの攻撃が、刹那差で防護障壁を穿つように直撃した。
ドガガガッ…バチバチバチンッ…バリリリッ
「キシャアアアーッ」
「うわあっ!!」
両脚の鋭く伸びた三本指の爪がディフェンド・ウォールの抵抗を受けて弾かれ、障壁内にこれまでにないほどの閃光が瞬く。
その激しい光は、相手の攻撃が凄まじい威力を持っていることを、暗に伝えて来る。
迸る抵抗の衝撃に、それは蛇の威嚇音に似た声を上げてたじろぎ、敵に気づかずにいたウェンリーは、驚いて叫び声を上げ身を屈めた。
彼を傷付けたのはこいつか…!!あと少し…先にライ・ラムサスの治療を…っ!!ウェンリー…ウェンリーに!!
「『ラファーガ』の魔法石を使えっ、ウェンリーっっ!!!」
右手でエクストラヒールを使用中だった俺は、ディフェンド・ウォールとの二つの魔法を並行発動中で攻撃することが出来ず、咄嗟にウェンリーに指示を出す。
ウェンリーは一時的に怯んだものの、以前と違って守護者らしく瞬時に気を取り直すと、一秒とかからずに指定した魔法石を自分のバッグから取り出して投げつけた。
「こいつを…食らえぇっっ!!」
カッ…
その巨大な敵は至近距離にいたため、目の前で緑色の魔法陣が輝き、そこから発動した風属性魔法『ラファーガ』が、螺旋状の渦を巻いた暴風となって一気にそれを押しやった。
ゴオッ…ズゴゴゴゴッ
薄い皮膜の両翼はまともにその風を受け、均衡を取れずに吹き飛ばされて、その躯体は轟音を立てながら地面を転がって行く。
この隙に…!!
最後までその治療を終えた俺は、ディフェンド・ウォールを切って立ち上がると、腰のエラディウムソードを抜いてウェンリーに叫んだ。
「よくやったウェンリー!この人の怪我は治した、すぐに目を覚ますと思うから、気が付いたら安全な場所に移動して守ってあげてくれ!!」
「り、了解…!気を付けろよ、ルーファス!!」
俺がその場を離れると同時に、ウェンリーはディフェンド・ウォールの魔法石を使って防護障壁を張る。
魔法が使えないウェンリーにとって、俺が作った魔法石は、強敵と戦う時の生命線でもあった。
そのためこの前のディル湖でのホールモール戦で、初歩の効果的な使い方を学んで貰うつもりだったのだが、ウェンリーはもう既にそれを熟達していて、俺顔負けの早さで魔法石を見分け、瞬時に使うことが出来るようになっていた。
そうなるまでにはアテナと一緒に戦闘訓練を重ねて、影で必死に努力していたことを俺は知っている。
だからこそ俺はこういう時にウェンリーを当てにし、頼りにすることが出来るのだ。
――そうして俺はウェンリー達からかなり離れた場所に、翼を広げた状態で突っ伏す、正体不明の巨大な敵の前に立った。
くすんだ鉄色の骨格に、背から伸びる薄紅色の皮膜が張られた翼。その両翼を広げると優に十メートル以上はある。
様々な濃淡の藍色を混ぜた、金属のような光沢のある青黎い躯体は、関節やその部位ごとに異なる緑色をしていた。
興奮したようなフシューフシュー、という息を吐きながらそれは、両手を着いてゆっくり起き上がろうとしている。
その顔は丸みを帯びた短い嘴を持つ鳥のようでいて、額や耳に小さな突起がついており、目は瞳のない白味がかった緑色の木の葉のような形をしている。
眉間から額を通って、流れるように頭の後ろから背中を覆う、長い萌黄色の剛髪は、柔らかいのか硬いのか、それが動いても棘のようなツンツンとした毛先の形状を保っていた。
異様に長い両手は肩口から立ち上がった状態で膝辺りまであって、二脚の太ももには外側に向かって突き出す、楕円形の鱗のようなものが重なりついており、膝から下は極太い鶏のような脚をしていた。
この敵は一言で言えば、『異形』だ。少なくとも、フェリューテラ上の動物が魔物化したものでないことだけは確かだと言えそうだった。
相当頑丈そうな装甲に身を包み、翼で空を舞え、生き物なのか駆動機なのかの判断もつかない。
唯一今の時点でわかっているのは、少なくとも魔法は効く、と言うことだけだった。
――こんな敵は初めて見る。ここの周囲を囲む壁は、これを外に出さないための檻なのか?
チラリと上を見ると、周囲の壁の高さは軽く六、七十メートルはあり、その上遙か高い位置に見える天井は、透明ななにかで覆われているようで、それこそ円柱形の鳥籠のような印象だ。
いったいここはなんなのだろう。イル・バスティーユ島には監獄しかないと言う話だから、ここもその関連施設に違いないはずだが――
二本の鳥脚で完全に立ち上がったそれを前に、俺は全神経を集中して相手の出方を窺った。
すると次の瞬間、敵の白味を帯びた緑色の目が、ギラリと光った。
≪来る!!≫
飛び出しナイフを振ってその刃先をパチン、と出現させる時のように、その敵は両手を一度、前から後ろに勢いよく動かした。
するとジャキンッ、という金属の擦れるような音がして、両手の爪が一気に鋭い刃となり三十センチほどの長さに伸びる。と同時にあの鳥脚が地面を蹴った…と思ったら、それは俺の前からいきなりフッと姿を消した。
「なっ…」
消えた!?
ヒュッ…
辛うじてその空を斬る音が耳に届く。
上っ!?
避けるのは間に合わないと判断、すぐに瞬間詠唱の魔技を使ってディフェンド・ウォールを盾状にして頭上に掲げる。
ガガガガガンッ
上から降り注ぐ、落下する大岩でも防いでいるかのような衝撃が、俺の身体に伸し掛かる。
――重い…なんて力だ!!
その攻撃の速度と威力に、俺のディフェンド・ウォールが押されて、踏ん張る足が地面に溝を作って後退った。
この間に俺は、『フォースフィールド』と『クイックネス』などの能力上昇魔法を自分にかける。それも、重ねがけで。
そうしなければ動きについて行けないほどに、この異形の敵は強力だったのだ。
「『バスターウェポン』『インテリジェンス・ブースト』!!食らえ、『ソルグランドスピア』!!」
剣を握ったままの手で、下から上に向かって黄色の魔法陣を動かす。
宙に浮いた状態の敵に、地属性魔法で尖った岩の槍を下から突き上げるように放った。…が、相手はまたしても俺の視界から消え、今度は一瞬で俺の背後に回った。
――は…速い!!
敵は着地と同時に地面を蹴り、一秒とかからず矢のように迫り来る。
なんて奴だ、と驚愕する。だが俺もそれにすぐさま対応を取った。
「弾け!!『ディフェンド・ウォール・リフレクト』!!」
キンキンッ
既に展開してあった防護障壁を、瞬時に形状変化させ穹窿形にすると、勢いを乗せて突っ込んで来たそれは、障壁に触れた瞬間、自分の攻撃威力が全て跳ね返って、朽ちた掘っ立て小屋まで吹っ飛んだ。
ドゴオオオンッ…バキバキバキッ
危なかった。だが今のは相当な損傷が入っただろう。…そう思ったのに、それは三度俺の視界から消え去った。
また消えた!?
その姿を見失い、気がついたら、それは俺の目の前にいた。
頭上から振り下ろされる右腕の五本の刃が、咄嗟に庇って振り上げた俺の左腕を直撃した。
パアンッ…
罅割れた硝子のように、俺のディフェンド・ウォールは砕け散り、フォースフィールドの重ねがけで身体能力を強化していたおかげで、辛うじて腕の切断だけは免れた。
でなければ、俺の左腕は細かく切り刻まれて、見事なまでに地面に落下していたことだろう。
ボタボタボタ、っと深く抉られた傷から、足元の草葉に俺の血が降り注いだ。俺は慌てずにすぐさま『ヒール』をかけて傷を塞ぐ。
「クケケケケケケ…」
不気味な鳥に似た声を上げるそれを睨み、俺は息を呑んだ。
――手強い…クイックネスの重複で反応速度をいつも以上に上げているにも関わらず、俺がその攻撃速度について行けない。
この瞬間、俺は不味いと思った。俺の今の能力で、単身相手をするにはこの敵は強すぎる、そう思ったからだ。
『異形』という言葉がぴったり来るこの敵は、やはりフェリューテラ上の存在ではないのかもしれない。
そんなものがなぜこんな場所にいるのかは知らないが、俺の視認速度を超えて瞬間移動をするかのような敏捷な動きと言い…少なくともこの時点では、俺よりもこの敵の方が戦闘能力を遙かに上回っていた。
俺はカオスや暗黒神と対峙するための存在…守護七聖主なのに、認めたくはないが、そう判断するしかなかった。
――いつものように戦闘効率や、出現証拠となる戦利品のことなど考えていては負ける。死に物狂いで全力を出さないと、俺が戦闘不能に陥れば、それはウェンリーの死に直結するんだ…!!
俺は自分の中にあると知っていたが、今まで使う機会のなかった『守護七聖主』としての力を解放することにした。
だがそれは七聖全員が揃っていない今、まだ不安定で、制御の一角を担うシルヴァンさえも傍にいないことで、下手をすれば暴走しかねない危険を孕んでいた。
それでも、俺はこんなところで負けるわけにはいかない。
ウェンリーが近くにいれば、俺は力を制御出来る自信があった。それは俺が最も守りたいと願う存在がウェンリーだからだ。
ウェンリーが無事である限り、俺は俺自身の力で決してウェンリーを危険には晒さない。
だから、大丈夫だ。
無限収納からキー・メダリオンを取り出し、封印解除の呪文を唱える。シルヴァンの解放時に取り戻した『光の神魂の宝珠』が、中央に嵌め込まれていたブルーグリーンの宝玉と一緒に強い光を放った。
俺の生命色である白銀と黄金色の闘気が、解放されたキー・メダリオンに呼応して爆発的に膨れ上がるのを感じた。
これでいい。今度は攻撃について行けるはずだ。
「――おまえがどこから来た何者なのかは知らないが、俺の邪魔をするなら排除する。覚悟しろ!!」
そして俺は全力でこの『異形』に攻撃を開始したのだった。
年内もう一話投稿できたらな、と思っています。一年、応援ありがとうございました!次回また仕上がり次第アップします。ルーファスとライはいよいよ再会を果たしそうですが…?お楽しみに!!