一章その5 お嬢様
俺は腕まくりをして、作業に取り掛かった。
まずは資料のグループ分けをする。
途中で飽きてきたので、ワイヤレスイヤホンで音楽を流しながら作業すると予想以上に気分が乗ってきて、集中して作業に取り組めた。
かなり量があったはずだが、午後一時五十分に分類は全部終わった。
「さて、と……」
ワイヤレスイヤホンを外し、十数冊の本やファイルを手に持って資料室に向かう。
歩きだしてすぐ、本とファイルを積みすぎたせいで重さによろめくわ、視界が遮られて前がよく見えないわで後悔する羽目になった。
「ちょっと持ちすぎたか……?」
だがせっかく持ち上げたものを戻すのは負けた気がして、なんとなく癪に障る。
「いや、これぐらいなら、何とか……ううっ」
次はもうちょっと量を減らそうと思いつつ、廊下に出た時だった。
「うぉっ……!」
いきなり前方から何かがぶつかってきた。
「ひゃっ……!?」
女性の声が聞こえた。どこかで聞いた気がするが、ロールのものではない。では誰だろう?
ゆっくり考えている暇はなかった。
ぶつかられたことで後ろに傾きかけていた重心を前に戻そうとしたのはいいが、本やファイルも同じ方向に重量が動くものだから、それにつられてしまう。勢い余って前方に体が傾いていく。そしてそれはもう、俺自身にはどうすることもできない。
「とっ、とっ、おおおおおぉッ!?」
「キャァアアアアアッ!」
重量に引かれて、そのまま前のめりにぶっ倒れた。
しかし不思議とそこまで痛みはなかった。柔らかいものが顔のクッションになって受け止めてくれたからだ。
「……何だこれ?」
そのままの体勢で、クッションに触れてみる。しっとり滑らかで柔らかく、安心する温もりがあり、いい香りがする。
「なっ、なっ、な……!?」
頭上から途切れ途切れに声がする。
はて何だろうと顔を上げてみると、顔を真っ赤にした女性が俺を睨んでいた。
「えっ……え?」
今まで自分が顔を埋めていた場所を見やる。
めくれたエプロンドレスとスカートから伸びた、二本の脚。普段は隠れている、白く仄かに桃色に色づき、弾力のある膨らみ方をした部分。思わずまた、まじまじと見てしまう。
ふいに頭上から降ってきた、凍えるような低い声で思考は途切れた。
「このへっ、へっ、へ……」
一瞬言葉が切れたと思った途端。
「変態がァアアアアアッ!!」
隕石のごとき打撃が脳天に落ちてきた。
「ぐごがっ!?」
目の前にお星さま、頭の中はビッグバン。
ふらふらする頭を抱えて俺はおでこを冷たい床にくっつける。
「……吹雪、どうしたの?」
さっきの女性とは違う、舌っ足らずな幼い声。
その声につられ、俺は顔を上げた。
呼吸が止まるかと思った。
地味な病院の廊下をバックに、浮世離れした少女がそこに存在した。
長い濡羽色のロングヘア。
南国の赤い花と青々とした葉を薄く柔らかい布で織って描かれた、シフォンのドレス。
そして人形師がどんなに丹精を込めて作っても再現できない、白く柔らかな肌と澄んだ美しい瞳に長い睫毛、瑞々しい唇、高い鼻と最高のパーツを神の手によって寸分の狂いもなく配された、愛らしいフェイス。
言わずもがな、ドレスから伸びた手や脚、サンダルを履いた足に至るまで、塵の欠片ほども瑕疵は見当たらない。
天使のような可憐な少女だ。
一目見れば絶対に忘れることはないだろう。
しかし俺はどこかで、彼女に会ったことがある気がした。
デジャブだろうか?
引っ掛かりの正体を探るべく思考回路に電流が走り出したが、それは少女の一言によって断ち切られた。
「……おじさん?」
身を切られるような一言。思考回路が一瞬全て切断される。
「……俺、そんなに老けて見える?」
少女は口元に指をやって小首を傾げ、
「……三十歳ぐらい?」
もう一発キツイブロー。血反吐が出そうなぐらいのダメージだ。
「……そうか。俺、三十歳……ははは」
「えっとあの、何かごめんなさい?」
少女の謝罪はより一層俺を惨めな思いにさせた。
「お嬢様、こんな無礼者に謝罪する必要などありません」
なかなか当たりのキツイ人だなと女性の顔を見やった途端、はたと気付いた。
特徴的なツリ目に、右目の下のホクロ。
「もしかして、昨日の……?」
女性はスカートをつまみ、軽く頭を下げた。
「ご機嫌よう、ジー様。わたくし朽木……というのは偽名でして。本名は福津吹雪と申します。以後お見知りおきを」
「これはご丁寧に……じゃなくって! なぜあなたがここにっ……?」
吹雪は俺の質問を無視し、すました顔で別のことを訊いてくる。
「昨日のお芝居はどうでしたか? 我ながら上々な出来だったと思うのですけれど」
俺は黙して吹雪の顔を見やった。きっとガン飛ばすような目つきになっているだろう。
しかし吹雪は臆した様子も見せず、逆に睨み返してくる。
にらめっこしてても仕方ないので、話を進める。
「ところで今日はどういったご用件で?」
「昨日、患者を偽って訪れたのはこの病院のお医者様がどういう診察をするのか調査するためです」
話が見えず、俺の声に明らかな苛立ちが混じる。
「と、おっしゃいますと?」
「こちらにおわすお嬢様が診察を受けるに値するかどうか、失礼ながら試させていただいたわけです」
お嬢様と呼ばれた少女を見やった。いかにも気弱そうで、俺を見る目にも怯えと警戒心が窺えた。
「……それで本日いらしたということは、あなたのお眼鏡にかなったというわけですね?」
「そういうことです」
「他の病院にも、同様のことを?」
吹雪は表情一つ変えず頷く。
「もちろん。しかしお嬢様が診察を受けるに値する病院は、一つもありませんでした」
きっぱりした返答だった。おそらく他の病院に患者を装って調査に行ったというのは嘘ではないだろう。
「なるほど。もしよければお聞かせ願いたいのですが、当院が評価に値した理由はどのようなものなのでしょうか?」
「懇切丁寧な対応です。患者に親身になってくださる姿勢が印象に残りました。ここならばお嬢様を安心してお任せできる、とさっきまでは全幅の信頼を寄せていたのですが……」
後半になるにつれて歯切れが悪くなっていく。顔が赤いのは、俺が太腿を触ったことを思い出してるからだろう。
俺は軽く咳払いをして、話を転じた。
「そのお嬢様のお名前を窺ってもよろしいでしょうか?」
吹雪が答える前に、少女が口を開いた。
「……賀集まほろ」
おどおどしていた割には、鮮明に声が聞こえた。声量自体はそこまでないが、よく通る風鈴のような声だ。
俺は小さい子に話しかけるということを意識して訊いた。
「まほろちゃん、だね」
確認すると、まほろは俯くように頷いた。
見た感じ、単に気弱そうな女の子にしか見えない。
精神的な疾患、心を病んでいるといった雰囲気は感じられない。
それともう一つ、気になることがある。
「……あの、お二人はどういったご関係なのでしょうか?」
吹雪は肩を竦めつつ鼻息を漏らした。
「……まさか今までのやり取りで、お分かりにならなかったのですか?」
そう言われては、自力で正解に辿り着きたくなる。
吹雪を一目見て、何かが引っ掛かっていた。
エプロンドレス、ワンピース、フリルの付いたカチューシャ。
「……あの、もしかしてメイドさんと、ご主人様とかだったり?」
半信半疑で訊くと、吹雪はあっさり頷いた。
「おっしゃる通りで。わたくしはお嬢様に仕えるメイドでございます。……正式にはご主人様は別の方になるのですが」
「……マジか」
思わず素の言葉が漏れた。
この現代日本でまさか本職のメイドに会うなんて思いもしなかった。
「ところでジー様。診察の件ですが、わたくしも同席して構いませんでしょうか?」
「ああ、はい。患者さんご本人が了承すれば、大丈夫です」
精神科の診察は、患者の心をケアするためのものだ。同席者がいて不都合がなく、患者が安心するというなら断る理由はない。
俺は片膝をついて、まほろに視線を合わせて訊いた。
「まほろちゃん、吹雪さんと一緒がいいんだよね?」
まほろは無言で大きく三回頷いた。
さっきから吹雪のエプロンドレスをぎゅっとつかんでいるし、よっぽど彼女に懐いているのだろう。
俺は診察室を手で示して言った。
「では、こちらへどうぞ。吹雪さんもご一緒に」
「ありがとうございます。それと、こちらを」
吹雪の手には、いつの間にか俺が散らばした資料がきちんとまとめられてあった。
「……あ、どうも」
「お運びいたしましょうか?」
尋ねる吹雪は俺の時のように体や資料がぐらつくことなく、安定していた。腰の辺りから頭が見えなくなるぐらいある資料の束を、危なげなく持ち続けている。
心の奥底が、ぐつぐつと熱く煮え滾る。
「いえ、大丈夫です。自分で運びますので」
「そうですか。ではどうぞ」
受け取った途端、資料の塔が揺らぎだす。端から見たら踊るピサの斜塔のようだろう。
「……おじさん、大丈夫?」
「へ、平気だ。これぐらい……うおぉおお!?」
気を抜いた途端、一気に資料のバランスがあらぬ方へと傾いた。
しかし資料が雪崩になる直前に、ぴたっと崩壊が止まる。見ると吹雪が崩れかけた資料を片手で支えていた。
「す、すみません」
「……昔はもう少し力がおありだったのでは?」
「最近、運動不足でして。ははは……」
吹雪はじっと俺の顔を見た後、さっきと同じ調子で尋ねてきた。
「お運びいたしましょうか?」
「……お願いします」
男女差別するつもりはないのだが、それでも男としての情けなさを感じてしまう。
「承知しました」
吹雪は無表情で頷き、俺の手から軽々と資料を受け取った。
「どちらへお運びすればよろしいですか?」
「あ、じゃあ、こっちへ……」
診察室ではなく、資料室を手で指した。
半袖のワンピースから覗く吹雪の腕は細く、とても筋肉があるようには見えない。一体どこにこれほどの力が蓄えられているのだろう……。
「普段、何か運動とかされているのですか?」
「いえ。仕事では家事などをお任せいただき、休日は日がな一日料理をしております」
「……家事と料理」
確かにそれなりに体力とか腕力は鍛えられるだろうが、ここまで凄まじい筋力がつくとは思えない。
資料室に十冊以上あったファイルや本を仕舞い終えても、吹雪には呼吸の乱れや発汗はまるで見受けられなかった。
唖然としている俺に、吹雪は平然とした表情で尋ねてくる。
「他に片すものがあれば、お手伝いしますが?」
「いやいや、そこまでお手を煩わせるわけには……」
言ってからその返答は、暗にまだ運ぶものが残っていると答えているのと同じだと気付く。
「あっ、あの」
声が聞こえ、入り口にいるまほろを見やる。彼女は顔を赤らめながらも、声を振り絞って続けた。
「わっ、わたしも、お手伝い……する」
まほろの申し出を聞き、俺は少し考え込む。
普通、患者に仕事を手伝わせたりはしない。
しかし診察だけでは患者の様態が分かりにくいことも多い。
見た感じ身体面の異常はなさそうだし、共同作業で分かることもあるかもしれない。
まあ、まだまほろの症状が何なのかすら知らないのだが。
ただお嬢様に力仕事をさせるのは吹雪が許さないだろうなと思うやいなや。
「分かりました。ただし、無理はなさらないでください」
意外にも、吹雪はまほろの申し出を承諾した。
「……って、ちょっと待てください! これは元々俺が院長に頼まれた仕事ですし、患者さんの手を借りるわけには……」
「しかし今、少し考え込んでいましたよね」
「……それは、その……」
「他の仕事が気にかかってお嬢様の診察が疎かになっても困りますし。何より、わたくし達がいいと言っているのですから、お手伝いさせてください」
「えっと……分かりました」
吹雪に押し切られる形で、俺は彼女達と資料を片付けることになった。




