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一章その4 偽証誘拐

「『感覚遮断』か」

 ドアを施錠した先輩がぼそっと言った。

「何か引っかかるんですか?」

「いいや。ただ、この前フランスで起きた事件を思い出しただけだ」

「フランス? 何かありましたか?」

「ファッションショー集団誘拐偽証事件だ。知らないか?」

 それを聞いて俺は思い出した。

「3D映像を使った見せかけ誘拐ですか?」

「ああ。第一報ではまだ本当の誘拐事件だと思っていたから、それこそ観客の目と耳を封じなきゃ不可能だと思ってた」

「でも結局事件は狂言で、犯人はただの一般人でしたね。まあ、そうは言っても主催者っていう立場でしたけど」


 主催者はキャットウォークを境にしてスクリーンを下ろし、3D映像を流して数百人の偽の観客を人々に見せた。そして停電を装い会場内の電気を落とし、映像を消してスクリーンを巻き上げてあたかも数百人の人間が一瞬でいなくなったかのように見せかけたのだ。

 目的は身代金三千億円。闇金に借りた金を返すために、主催者はこんな無謀な賭けに出たようだ。


「あれで警察を騙せると思ったんだから、愚かだ」

「失踪した客達がいた席に、人の存在した痕跡、毛髪とかがまったく残っていなかったんでしたっけ。せっかく監視カメラのダミー映像を用意したのに、詰めが甘いですよね」

「客も客だ。どうして映像なんかに騙される」

「それは仕方ないですよ」

「何だと?」

 先輩は眉をひそめ、首を傾げた。


 俺は指を一本立てて、ゆっくりとした口調で語った。

「事件当時、会場内は映画館の劇場のように、照明を落とし大音量で音楽を流していた。おまけに光量の強いレーザーライトを動かし、観客の目に幾度も強い光を浴びせていた。これにより彼等の視覚、聴覚を麻痺させていた。その状況下だと、ある現象が起きるんですよ」

「ある現象?」

「はい、それは――」


 言いかけたところで、横槍が入った。

「桜大門さん、又瀬(またせ)警視がお呼びです!」

 初々しさを感じる若い警官が、焦った顔で駆けてくる。

 先輩は彼をちらっと見やって、「すぐに行く」と答えた。

 警官は「はっ!」と先輩に敬礼し、俺にも礼を一つして駆け足で去っていった。


「あの警官、新人ですか?」

「ああ。四月に入ったばかりだ。まだまだ未熟な面も目立つが、伸びしろはある。あの頃のオマエのように……」

 そこまで言って、先輩は首を振った。

「いや、何でもない。今日は助かった。この礼はいつかする」

「いいですよ、礼なんて。仕事、頑張ってください」

 先輩は一度頷き去っていった。

 俺は入り口に向かって、薄暗い廊下を歩きだす。

 途中、すれ違った警官が俺を見て、舌打ち一つ、吐き出すように言った。

「……バケモノが」


 俺は気付かないふりをして通り過ぎた。

 警察署の廊下ってのは、いつ来ても暗い。

 照明も、それ以外も。


   ○


「おざまーっす……」

 出勤早々の覇気の欠片もない挨拶に、弁当を食べていたロールは苦笑する。

「どうしたの。昨日はよく眠れなかったのかしら?」

「まあな……。警察署帰りで枕高くして寝れるほど、俺の心臓は頑丈じゃないんだ」

「悪いことして行ったわけじゃないんでしょ。もしかして具合悪い?」

「熱はない。いたって健康体だ」

「とてもそうは見えないけど。まったく、こんな有様で一人にして大丈夫かしら」


「一人? どういうことだ?」

 ロールは溜息を吐いて、白い目で見てくる。

「今日はアタシ、学会に行くの。昨日のお昼休みに言ったはずよ」

「そうだったかな……」

 記憶を漁ってみたが、本調子じゃないせいか思い出せない。


「まあ、何とかなるさ。いつも通りにやればいいわけだろう?」

「そのアナタがいつも通りの状態じゃないから、心配してるのよ。できれば一緒にいてあげたいんだけど」

「平気さ。大体、学会をすっぽかすわけにはいかないだろ?」

「まあ、お偉いさんも来るしね……」


 俺は荷物を自席に置き、ラックハンガーから自分の白衣を手に取ってワイシャツの上から羽織った。

「どうだ、いつも通りの俺だろ?」

「格好だけはね……。給湯室で顔を洗ってらっしゃい」

「……了解」

 俺は給湯室に行き、流しの冷たい水で顔を洗った。顔を洗いながら、給湯室なのに冷水も出るってのはおかしくないかと益体もないことを考えた。ラーメン屋でそうめんを食べるようなもんじゃないか。……冷やし中華なら、そうでもないか。

 顔を洗い終えるとまだ頭の中に靄は残っていたが、さっきよりはマシになった気がした。


 休憩室に戻るとロールは荷物をまとめていた。

「もう行くのか?」

「ええ。ああそうそう、今のアナタに頼むのも悪いんだけど、学会用の資料作りに使った資料が私の机と共同机にあるから、それを仕舞っておいてくれる? もしも無理そうだったらいいけど……」

 事務室に通じているドアから見てみると、ロールの事務用机と共同机には分厚いファイルや本がどっさり置いてあった。タワーのように積まれたそれ等は、見た感じの威圧感はすごい。だがまあ、片づけられない量ではないだろう。


「分かった、やっておく。ロールは安心してお勉強会に行ってきてくれ」

「そんな生易しいものじゃないわよ。教授達にこてんぱんにされたら、また慰めてくれる?」

「もちろんだ、ロール」

 ロールは微笑を浮かべ、俺の頬に口づけして休憩所を出て行った。

 ややあって入り口からドアベルの音が聞こえる。


 時計を見ると午後一時二十分。受付開始時刻は三十分からだが、うちに来る患者は基本的に事前に予約してくれる。初来診の人が来る可能性もなくはないがその場合多くが誰かの紹介なので、やはりちゃんと予約を入れてくれる場合がほとんどだ。

 今日これからの予約で一番早いのが午後二時。

 つまり四十分間は自由時間ということだ。

「それまでに、この資料の山を片付けるか……」

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