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終章その3 乱心

 吹雪はしばらく呆気に取られていたが、やがて頬を僅かに緩めて言った。

「まさか、わたくしが?」

「そうだ。お前が俺達に電話をかけてきて、実験棟に混乱をもたらしたんだ」

「そんなわけないでしょう、だって電話をかけてきたのは男のはず――」


 俺は突きつけた指を左右に振った。

「吹雪。俺は内線電話をかけてきた相手が男だとは、一言も言ってないぞ」

「え……あっ」

 慌てて両手を押さえる吹雪。しかし一度した失言は、なかったことにはできない。

「電話越しなら、ボイスチェンジャーを使えば簡単に性別を偽ることができる。最近のものは性能がいいからな。それで動画配信をしている人もいるぐらいだ。そうだよな、吹雪?」

 しばし下唇をかんで沈黙していた吹雪は、やがて肩の高さまで両手を上げた。

「そうです。わたくしがあの火事騒ぎを起こした犯人です」

 彼女は天井を仰ぎ、長く息を吐いた。

「……まさかお医者様の呼び方ひとつで見抜かれるとは、思っていませんでした」

「門外漢が知ったかぶると痛い目を見るもんだ。でもどうして、電話をかける時間と火災を偽装する時間が二十分以上もズレたんだ?」

「内線をかけた部屋の時計がズレていたんです。アナログ式の時計なんて信用できませんね」

「なるほどな」


「……ジー様は動機の方も分かっていらっしゃるんですか?」

「それは想像しただけだ。金之助は消防庁や警察庁とコネがある。もしも娘が火事で危険な状況に陥って、消防隊が救助を躊躇していたら彼ならどうするか。そしてその結果どうなるか。もう答えは出ている」

 俺はグラスに入っていた赤ワインを一気に飲み干して言った。

「大方、どこぞのお嬢様思いのメイドがお節介を焼いたんだろうな」

「……そのメイドを通報なさらないんですか?」

「この事件の犯人を通報したところで、社会に何の益もない。あと俺は警察にはちょっとばかし恨みがあってね。先輩には悪いが、今回のことを隠すことで憂さ晴らしをしたいんだ」

 「それに」と俺は付け加えた。

「医者として、患者の心身の安定にはまだあのメイドが必要だと判断した。だから俺は患者のために、犯人を通報しない」


 ボトルを手にして自分のグラスを満たし、吹雪のグラスにもワインを注いでやった。

「それが精神科医の見解ですか?」

「そう、精神科医の見解だ」

 俺達は自分のグラスを手に、相手のグラスの縁に軽く当てた。

 軽く澄んだ音が静かに鳴った。


   ○


 夜の街を吹雪と二人で歩く。

 ネオンがカラフルな光を放ち、遠近問わずビルの窓からは室内灯の明かりが漏れている。

 眠らない街、東京。時に人は皮肉を込めて不夜城と呼んだりする。

 こんな場所じゃ、空を仰いだところで星なんて一欠片も拝めない。ぼやけた闇がそこにあるだけだ。

 だから俺達は前を向いて歩くしかない。

 そんなことを考えていた矢先に、吹雪が問うてきた。

「ジー様は昔のことを思い出したりしませんか?」

「……たまにな。でも基本的には、今を生きている」

「わたくしはよく昔のことを思い出します。懐かしんで、あの頃に戻れたらという思いさえ抱きます。それは精神科医のあなた様から見て、いけないことですか?」


 俺達は立ち止まった。車道の向こうの歩行者用信号が紅く点灯していた。

「別にいけないとは思わない。先の見えない、闇に包まれた未来とばっかりにらめっこしていたって気が滅入るだけだ。それに過去に戻りたいっていう欲求は人間として当然のものだ」

「ジー様も思いますか? 過去に戻りたいと」

 吹雪の問いが、俺の中で繰り返される。

 俺は過去に戻りたいのか?

 ワイシャツの内側のペンダントを思わず押さえる。

 しばし黙考した後、俺は結論を出した。

「……そうだな。戻れるものなら、戻りたいな」

「それはどれぐらい昔ですか?」

「十年ぐらい前だ。そこで俺は、自分の過ちをなかったことにしたい」

「……そう、ですか……」

 段々と吹雪の声が弱々しいものになる。


 俺は少し声を張り上げて言った。

「でも過去には戻れない。だから俺は、また同じ過ちを繰り返さないためにも精神科医として頑張ってるんだ」

「……ジー様は、強いお方ですね」

「そんなことはない。人は弱くて脆い生き物だ。だからこそ、生きるための意味と、自分を支えてくれる人が必要なんだ」

「……生きるための意味、ですか」

「ああ。吹雪にだってあるだろ、生きる意味」

 吹雪は足元を見つめて言った。

「ええ……、あります。生きる意味……」

 信号が青に変わる。

「ほら、行くぞ」

「……はい」


 俺達は白線の並ぶ横断歩道を歩きだした。

 少し進んで、いきなり凄まじい爆音が響いた。

 クラクション――それもトラックとかの大型車の音量だ。

 それが叩きつけられるように響いた途端、頭の中がひっくり返ったようになって、体から力が抜けて芯から冷えていくような感覚が襲ってきた。悪寒はあっという間に体中の温度を奪ってしまい、全身がガタガタと休みなく震え始める。


 いつまで経ってもクラクションが頭の中で鳴り続けて、症状はますます悪化していく。

 耳障りな音を絶えず鳴らす歯の隙間から、我知らず声が漏れ出す。

「あっ、くっ、うっ……」

 意味を成さない、音の羅列。

 口から漏れるそれを止めることができず、そもそも身体のどこも自由にできない。

 何かが自分の心と身体を支配している。冷たくておぞましい、何かが。

「じ、ジー様……?」

 吹雪が何か言っているのが聞こえるが、その意味を理解することさえできない。

 視界が涙で滲み、喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。


 ふいに自分の声が聞こえてくる。

「……怖い、怖いっ、やめろ、やめろ、やめろ……」

 掠れた声で、うわごとのように繰り返していた。

 苦しい、辛い、いやだ、死にたい……。そんな言葉が胸を埋め尽くしていく。

 そしてもう耐えきれない、限界だと思ったその時。

 柔らかな温もりが、俺を包み込んだ。

「……大丈夫ですよ、ジー様」

 吹雪の静かなささやきが耳元で聞こえる。そっと頭を優しく撫でられると、俺の中を占めていたものが嘘のように消えていった。


「怖いものは、もうありません。だから、大丈夫です」

 彼女の声を聞いている内に、胸の奥が温かいものに満たされて、目頭が熱くなってきた。

 俺は彼女の体に抱き着いて柔らかなものに顔を押し付けて泣いた。

「……これが、あなた様の弱点……」

 吹雪が何かを言っているみたいたが、それは自身の嗚咽によって掻き消されてしまい、よく聞こえなかった。

「ゆっくりと、時間をかけて。また、あの頃に戻りましょうね。……時幾」


   〈了〉

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