終章その2 放火虚偽事件
仕事が終わり、クリニックを出る。
時刻は午後九時。
いつもなら真っ直ぐ帰宅して適当に夕食を済ませて寝るのだが、今日は家路から外れて駅前の方へ向かった。
少し歩いて、実験棟での治療前に来たカフェの前で立ち止まる。
ドアには『貸し切り』と書かれたプレートがかかっていた。
円い真鍮のノブを捻って、ドアを開く。ドアベルから鈴の転がるような音が鳴った。
店内にはほとんど人がいない。入り口から見えるのはマスター一人。彼はカウンターの中でカップを拭いている。
俺に気付き、マスターは軽く頭を下げて言った。
「ようこそいらっしゃいました」
「連れは?」
「もう店内におられます」
「分かった」
奥にある、前に座った席に向かう。
パーテーションに囲まれたそこにはマスターの言葉通り、吹雪がすでにいた。
「待たせたな」
声をかけると、彼女は馴染みの無表情で返してくる。
「いえ、わたくしも来たばかりですので」
俺は吹雪の向かい側のソファに座った。
彼女はいつものメイド姿とは違い、普段着だった。踊り狂ったアルファベットがプリントされた白いTシャツと、紺のフレアスカート。長い銀髪は肩の辺りで黒いクリップでまとめられている。お洒落かどうか、微妙なラインだ。
吹雪の前には黒っぽい赤ワインの入ったグラスがあった。
「酒を飲んでるのか」
「仕事上がりなので。夜限定のメニューらしいですよ」
「いいね。俺も頼もうかな」
俺が言うやいなや、マスターがゆっくりとした歩みでやってきた。
一通り食べ物と飲み物を注文し、彼が立ち去るのを待って俺は吹雪に訊いた。
「それで治療後のまほろの様子は?」
「お陰様でお父様とは仲直りされました。今はご一緒に住むかどうか、お話しされているようです」
「すぐに一緒に住むものだと思ってたんだが」
「どうやらお嬢様は、疑似的な一人暮らしにすっかり慣れてしまったようで。お父様は娘が親離れしたと悲しんでおられました」
仲直りしたと思ったら、いきなり娘が家を出て行きたいと言ってくる。子供がいないから想像するしかないが、それでもその辛さは十分に分かるような気がした。
「……俺は何があっても絶対に嫁と娘にだけは嫌われないようにしよう」
「お相手がいらっしゃるんですか?」
「いや、いないけど……」
「さようでございますか」
「地味にカチンと来るな、その言い方……」
吹雪は気にした様子もなく、ワインを口に含んだ。
「それにしても、まほろが通院やめるのを認めてよかったのかな。火に対して心的外傷を負ってたみたいだし……」
「お気遣いいただけてありがたいですが、その必要はないかと」
「えっ、何で?」
吹雪は隣に置いていたハンドバッグからスマホを取り出し、少しの間操作した後テーブルの上に置いた。
スマホの画面にはまほろと金之助が仲良く花火をしている姿が写っていた。その様子を喜久子が微笑まし気に眺めている。
「……そっか。二人とも、火を克服したのか」
「はい。ジー様の治療や実験棟での事件で、何か心に変化が起きたようです」
「そうか。それならよかった」
タイミングを見計らったようにマスターがやってきて、俺の分のグラスを置き、ワインを注いでくれた。
マスターがいなくなると、俺と吹雪の間にしばらく沈黙が流れた。
やがて俺の方から沈黙を破った。
「結局、あの事件……『実験棟放火虚偽事件』は何だったんだろうな」
「そう世間では呼ばれているんですね」
『実験棟放火虚偽事件』。
まほろの治療が終わった直後、実験棟では奇妙な事件が起きていたのだ。
「午後五時十分。突如火災警報が鳴り、建物内のあちこちから煙が上がり始めた。実験棟にいた人々は慌てて避難したが、地下施設の扉はどうしても開かず、その中にいた俺達は放置されてしまった」
「でもいくら経っても、火災が起きている様子はなかったんですよね」
「ああ。後から調べて分かったことだが、実験棟のどこにも出火の跡はなく、建物内からは煙の排出量が多い時限式の発煙筒が多数発見されたんだ」
「結局警察がいくら調べても何も分からず、負傷した被害者もいなかったから捜査は打ち切りになったんでしたっけ」
俺は頷き、ワインで唇を湿らせて再び口を開いた。
「……だがあの事件には一つ、大きな疑問がある」
「疑問、ですか?」
「火災警報が鳴りだしたのが午後五時十分。しかしそれよりも前に、俺達の部屋に火災が起きたっていう内線電話が実験棟を有する病院に勤めている医者から来たんだ」
「……それは不思議ですね」
「おまけに、電話先の医者は俺のことを風炉井さんって呼んだ」
「別に、それはおかしくないのでは……?」
「なぜ、おかしくないんだ?」
問い返されるとは思わなかったのだろう、吹雪は戸惑った様子で少し悩んで答えた。
「だって、ジー様は病院の許可を得て実験室を使っていらっしゃったのでしょう? だったら電話先の方が名前をご存知でも、おかしくないかと」
「いや、おかしい。俺はうちのボス、楼流経留真の名前で実験室を借りていた。こんな無茶苦茶な名前じゃ、性別なんて分かりっこない。普通なら、俺の本名だと信じて疑わないだろう。だから面識がない電話先の医者は、俺のことを楼流さんって呼ばなくちゃいけなかったんだ。事実、バイタル検査のカルテを届けに来た男は俺のことを楼流さんって呼んだしな」
「ということはつまり……どういうことでしょう?」
俺は机に肘をつき、手を顔の前に出した。
「俺が実験棟の地下三号室にいると知っている人間が電話をかけてきたことになる。そしてそいつはその後、実験棟で火災が起きることも知っていたんだ」
「ジー様が、実験室にいることを知っている方……?」
俺は頷き、続けた。
「まほろの治療を許可したお前、福津吹雪。実験棟の許可を取ってくれたうちのボス、楼流経留真。患者の賀集まほろ。俺がメールで知らせた藍染こころ」
俺は名前を挙げる度に、顔先の手の指を一本ずつ伸ばしていった。
「この四人だけが、俺があの日実験棟の地下三号室にいることを知っていた」
吹雪は無言で頷く。
「その内、まほろとこころは電話がかかってきた観察室にいたから除外できる。となると残るはロールとお前の二人、どちらかが事件を起こした犯人だってことになる」
そこで一旦言葉を切った後、調子明るめに吹雪に訊いた。
「ところで吹雪、俺のボス、ロールの職業が何か知ってるか?」
「……何で急に?」
吹雪の頭上に疑問符が旋回し始める。
俺は困惑している彼女に答えを促した。
「まあ、いいからいいから。ほら、言ってみろって」
「それはお医者様……」
「もっとこう、絞った感じで。スポーツ選手じゃなくて、サッカー選手みたいにさ」
「何なんですか、そのノリ……」
吹雪は鬱陶しそうに眉をひそめながら言った。
「心療内科医、ですよね」
「そうだな。ロールメンタルクリニックは心療内科も、やっている。でもな」
俺はゆっくりと首を横に振った。
「ロールは心療内科医じゃないんだよ」
「えっ……?」
眉間に皺を寄せ、頬を引きつらせる吹雪。
そんな彼女に、俺は真実を説いてみせる。
「心療内科をやっている医者が心療内科医とは限らない。確かに心療内科と精神科は全然違う分野なんだ。心療内科は『心が原因で体に症状が出た』場合に対応する。精神科は『心そのものの病気』を治療する。だからそれぞれの分野を専門とする心療内科医と精神科医が存在するわけだ。でも心療内科は別の医者が担当することがある」
「別の……医者?」
俺は頷き、自分を指差して言った。
「内科医と、ロールや俺のような精神科医だ」
「……そんな」
瞠目した吹雪の体から力が抜けていく。
「心療内科は身体にかかわることだから内科医が担当することもあるし、無論、心に関することだから精神科医が担当することもある。うちでは専門の心療内科医と、精神科医の俺やロールが担当している」
俺は腕を持ち上げ、
「だからロールが自分のことを心療内科医なんて呼ぶはずがない」
指を突きつけた。
「『実験棟放火虚偽事件』の犯人、それはお前だ――福津吹雪!」




