一章その2 院長
診察が終わり、一人きりになった部屋で、俺は思い切り伸びをして首を回した。凝り固まっていた筋肉と心が解れて気持ちがいい。
「お疲れ、ジーク」
俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
ちなみにジークは漢字で時幾。
生粋の日本人で、フルネームは風炉囲時幾だ。西洋人っぽいのは名前だけで外見はどこからどう見ても東アジア系。
髪も目も黒く、肌は薄い黄色。中肉中背、少し運動不足。つまり典型的な日本人男性だ。
入り口を見やると、そこに金髪美女が立っていた。長身だからだろうか、白衣がよく似合っている。ふとブラウスを押し上げる巨乳につい目を奪われそうになったが、何とか我慢する。
「お疲れ様です、ボス」
途端に美女はギリシャ彫刻の女神のような顔を歪める。
「いい加減、ボスはやめてくれないかしら。アタシ、そういう柄じゃないんだけど」
「この病院のトップなんだから、間違ってないでしょう」
「いいからやめて。それに、もう患者さんもいないんだから、敬語もよして」
美女は俺の使っていたスチール机に座って足を投げ出し、白衣のポケットから取り出した煎餅を口にくわえた。
美女の要求通りため口で訊く。
「茶淹れるか?」
「お願い」
俺は給湯室に向かい、急須に茶葉とお湯を入れた。茶の葉が開くのを待って二つの器に熱い緑茶を淹れ、お盆に乗せて診察室に戻る。
美女は「ありがとう」と言って湯飲み茶碗を手に取り、ずずっと音を立てて飲んだ。
外見とのギャップが凄まじく、俺は思わず突っ込んだ。
「もうちょいイメージを大事にしろよ。ライオンが陰で体重計に乗って落ち込んでいる姿を覗いちまった気分になる」
「何それ。他人の思い込みの責任を負う義理はアタシにはないわよ」
鼻で笑いつつ美女は白衣から包装袋に入った煎餅を取り出し、差し出してきた。
「ジークも食べる? 結構イケるわよ」
俺は肩を竦めて、それをつまむ。
「ありがたくいただくよ、ボス」
しかし美女は包装袋を放してくれない。
「ダメよ、ジーク。ちゃんと名前を呼んでくれないと」
もう一度肩を上下させて、俺は言った。
「はいはい。ロール、この煎餅を俺にくれないか?」
美女はにっこり微笑んで、包装袋から手を放した。
「ちゃんとできたわね。偉いわ、ジーク」
彼女の名前はロール。
俺と同じく日本人で、フルネームも全て漢字。
楼流経瑠真と書く。
読みにくいうえに字面が滅茶苦茶だ。だからロールは正式な書類でない限り、ヘルマ・ロールと書くようにしているようだ。
ロールは外見も西洋人っぽいから、多くの場合ヘルマ・ロールで問題なく通り、誰も疑問に思わない。それなら俺もとファミレスの順番待ちの紙にジーク・フロイと書いてみたが、店員に失笑された。
社会は不平等に満ちている。そしてその多くは出生時からの呪いであり、努力で覆せないものばかりだ。
「そうそう。さっきの診察はなかなかよかったわよ、ジーク」
俺は煎餅を一かじりして訊いた。
「それって、朽木さんの?」
「ええ。まだ一年しか経ってないのに、あそこまで成長してくれるなんて、いい意味でビックリしたわ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、まだまだだ。課題は山積みのてんこ盛り」
ロールはくすりと笑い声を立てて、俺の頭に手を乗せてくる。
「そんなことないわよ。アナタは頑張ってる。上司のアタシが保証するわ」
「だけど不安なんだ。俺達は常に、誰かの人生を左右してしまう立場にある」
「そうじゃなきゃ、心の病を治す手伝いはできないわよ」
俺は頷き、濁った緑色の水面を見やる。
「毒は薬になる、薬は毒になる。時々、自分の今口にしている言葉がどっちなのか分からなくなるんだ」
「それはアタシもよ。どんなにベテランの医師にだって、正解は分からない。そして一番恐ろしいのはね。自分の失敗で、患者さんを傷つけてしまうことよ」
ロールは俺の手に白く細い指を置いて続ける。
「だからアタシ達精神科医はそんな悩みを持ち続けなきゃいけないの。診察や治療中の発言、あるいはその時に取った行動が、患者さんのためになるかどうか。考え続けても答えなんて出ないって、分かっていても」
手に重なった指がそっと甲を撫でて離れた。
「帰りましょ、ジーク。明日も早いわ」
俺は頷き、煎餅を口に放り込んで、緑茶を飲み干そうとした。
その時、白衣に入れていたスマホが鳴った。
取り出して画面を見ると、先輩の文字が表示されていた。
すぐに緑色の受話器のアイコンを押して電話に出た。
「はい、ジークです」
『フロイ。悪いがすぐ来てくれないか』
低音の男性の声。抑揚のない話し方でどんな感情を抱いているか分かりにくいが、経験則で彼が面倒ごとに巻き込まれているのだと察しがついた。
「分かりました、すぐに行きます」
『エントランスで待っている』
電話を切り、大急ぎで荷物をまとめる。
そんな俺を見たロールが苦笑して言った。
「忙しいわね。確か明日、アナタの患者の診察は午後からだったわね?」
「ああ、午後二時から予約が入っている」
「じゃあ、出勤は午後一時半でいいわ」
その言葉に荷物をまとめる手が止まる。
「だが……」
「患者さんも、寝ぼけ眼のお医者さんじゃ不安になっちゃうでしょ?」
「……すまない、ロール」
「気にしないで。これぐらい、院長なら当然のことよ」
ロールは片目を閉じ、俺の肩を軽く叩いた。
「さあ、早く行ってあげて。片づけとか記録は、アタシがやっておくから」
「ありがとうな。この埋め合わせは必ずする」
「期待してるわ、ジーク」
ロールに白衣を預け、俺は自分の荷物を手に病院を飛び出した。




