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二章その7 遺書

 一年後の六月十二日。

 空は一面灰色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。

 明日は胡蝶の誕生日。俺は腕によりをかけ、今の内から料理の下ごしらえをしていた。一年間毎日三食とお菓子を作り続けたこともあり、料理の腕はそこそこ上がったように思う。

 切りのいいところまで終わり、一息つく。

 一人きりの時にするべきことがなくなると、すぐに胡蝶のことを考えぼんやりしてしまう。


 いつもなら照れるなり浮かれるなりするのだが、今日は違った。

 朝の彼女のことを思い出し、心配で胸がいっぱいになってしまう。

 数週間前から、胡蝶はなぜか元気をなくしていた。

 溜息を吐いていることが多く、絵を描いている時でさえ上の空になっていることがある。


 今日も胡蝶は暗い表情をしていた。いつも無表情の彼女がだ。

 何か悩み事があるのか訊きはしたが、「何でもない」の一点張り。きっと話しにくいことなのだろう。

 だから明日は盛大に誕生日会をやって、元気づけてやりたかった。


 時計を見ると、午後四時半。

 今日は胡蝶は仕事関係の用事で出かけており、帰るのは五時ぐらいになると言っていた。

 そろそろ片付けないと彼女に見つかってしまうだろう。サプライズを仕掛ける計画なので、事前に露見するのは避けたい。

 下ごしらえした料理を冷蔵庫に仕舞い、調理器具を手早く洗う。ここら辺ももう手慣れたものだった。

 十分も経たない内に、キッチンはきれいになった。

 まだ全部は終わっていないが、残りは胡蝶が眠ってから仕上げればいい。ここまでは全て計画通り。

 そう思ったが、すぐにちょっとしたミスに気付く。

 どうせこれから夕飯を作らなくてはいけないのだから、別に調理器具を全て片付ける必要はなかったのだ。


 自分の間抜けさに苦笑が漏れる。ここら辺、俺は要領が悪い。

 エプロンを外し、食卓の椅子に腰かける。休みつつ、夕飯に何を作るか考えようとしたのだ。

 ちょうどその時、玄関のドアが開く音がした。雑居ビルだから玄関は少し違和感があるが、気分的にここはもう家同然だった。

 階段を上ってくる音が聞こえ、アトリエのガラス製のドアにゴスロリ姿の胡蝶の姿が映る。

 しかし彼女はいつものように入ってこないで、ドアの前を素通りした。

 そのまま三階へ続く階段から足音が響いてくる。


 心配が膨れ上がり、いても立ってもいられなくなる。

 椅子を蹴るように立ち上がり、アトリエのドアに突進するように飛び出し、胡蝶を追った。

 彼女は三階フロアの前のドアに立ち尽くしていた。

 俺は踊り場で立ち止まり、声をかけた。

「おい、どうしたんだよ、胡蝶」

 胡蝶はのっそりとした動作でこちらを向いた。

 彼女は無表情だったが、それは普段のものとは何かが違うように思えた。


 いくら待っても返事が返ってこないので、もう一度呼び掛けてみる。

「……胡蝶?」

 ようやく胡蝶は気怠そうに口を開き、重たげな声を出して言った。

「ねえ、時幾……。胡蝶……、もう、疲れた」

「そりゃ、普段引きこもり生活送ってるのに、仕事で外出させられたら疲れるよな」

「そうじゃなくて……」

 彼女は何か口にしかけたが、それを飲み込み俯く。


「……どうしたんだ?」

「ううん、何でもない」

 胡蝶は首を振り、ドアを開いて三階フロアに入った。

「何だったんだ……?」

 俺は突っ立ったまま、頭を掻いた。

 気になったが、夕食の時に訊けばいいだろうと思い、二階に戻った。

 夕食の時間になっても胡蝶は下りてこなかった。まあ一人になりたい時もあるよなと思い、特に深くは考えなかった。

 風呂に入ってさっぱりして、明日の誕生日会に出す料理の下ごしらえを終わらせ、歯を磨いて寝た。


   ○


 翌朝、俺は息苦しさで目が覚めた。

 すぐには起き上がることができず、横になったまま何度か間を置いて深く呼吸し、ようやく体に力が戻ってきた。

 その日は強い雨が降っていた。時折吹く風も凶暴で、二つが合わさると窓に散弾銃が打ち込まれたような音が響いた。


 怠い体を引きずりキッチンに行き、誕生日会の料理の仕上げに取り掛かる。

 いくら本調子でないとはいえ、すっかり体に馴染んだ作業は苦にならなかった。

 心を込めつつも機械的な動作で最終工程を終え、食卓にはごちそうが並ぶ。


 それから二時間ほど待ち、午前十時半。

 雨はそのままで風の勢いだけ弱まっていた。代わりにどこかで雷が落ちる轟きが聞こえる。

 料理はすっかり冷めてしまい、二回ほど温め直していた。

 いくら待っても下りてこない胡蝶を呼ぶため、三階に向かうことにした。

 階段を上っている最中、ポケットの膨らみを押さえた。中には胡蝶を驚かすためのある小道具を忍ばせている。


 三階フロアに続くドアには珍しく鍵がかかっていた。

 どうするかと思案したが、ふと二階のスペアキーで開くのではないかと思い、試してみた。

 予感通り鍵はしっかり穴に入り、捻ると錠の開く手応えがした。

 俺は少し呆れてしまった。恋人とはいえ、自分のプライベートルームに通ずる鍵を普通は渡したりしないだろう。

 だがそこまで信頼されていたのはもちろん嬉しかった。


 少し浮かれ気分で三階フロアの敷居をまたいだ。

 フロアに入った途端、俺は違和感を覚えた。

 人気が感じられないのだ。静謐で温かみに欠けた空気が広がっている。

 不可解な感覚に戸惑いつつも、きっとそれは胡蝶が寝ているからだろうと思い、足を進めていく。


 鍵をポケットに突っ込み、代わりに忍ばせておいた小道具を手に取る。

 きっと胡蝶は驚くだろうと、期待に胸が膨らむ。

 ここの角を曲がれば胡蝶の自室だ。厳密にはドアが無いため部屋では無いが、彼女はそのように利用していた。

 壁に背中を預け、呼吸を整える。

 明日に遠足を控えた小学生のようにドキドキしていた。

 手にした小道具をぎゅっとつかみ、逸る気持ちに踊る胸を押さえる。


 十カウントしたら行こうと決め、心の中で数える。

 十、九……。

 肩を微かに上下さえ、意識的に体の力を抜いていく。

 ……七、六。

 手汗を綿のズボンで拭った。

 四……えっと、五?

 頭の中のカウントが滅茶苦茶になってくる。

 もういいやと、小道具を構え、覚悟を決める。

 ゼロ!

 俺は体を反転させ、胡蝶の部屋に踏み込みつつ、小道具を発動させた。

「胡蝶、ハッピーバース――!?」

 パーンという景気のいい破裂音が手に持っていたクラッカーから響く。

 底面の部分からカラフルなテープと紙吹雪が飛び出す。

 それ等は上向きに放たれて天井を彩り、落下していく。


 その天井から、一本の白い紐が伸びていた。

 いや、いく本もの紐をより合わせてあり、それなりの太さがある。

 ロープだと遅れて気付いた。

 天井から伸びたロープは、大きなものを吊っていた。

 それが何なのか。

 分からない。知らない。

 そうだ、顔が見えないから誰か分からないのだ。まさか胡蝶がそんなことをするわけないしでもここには彼女しかいないはずで。

 そんなことを考えた時点で、俺は目の前の光景を理解してしまっていた……。


 突然視界が明るくなり、雷鳴が轟いた。

 その瞬間、眼前の光景が確かな現実として突きつけられた。

 白く太いロープに首を絞めつけられ宙に吊るされた、蒼白な顔の胡蝶の見るに堪えない無残な姿を……。

 二つの目玉は血管ごと眼窩から零れ落ち、舌は口からだらんとはみ出している。涎がとめどなく口の端から垂れ、スカートの中から漏れ落ちている尿と共に床に水たまりを作っていた。細い首は折れ曲がって顔が九十度傾き、体は糸の切れた操り人形のように垂れさがっている。


 今日彼女が身に纏っているのはゴシックロリータではあったが、色も装飾もまるでいつもと違っていた。

 黒と赤のそれは製作者の精神を疑うぐらいに毒々しかった。まるで血管が飛び出したような赤く細いリボンが結いつけられており、随所随所の布を取っ払っていて露出も激しかった。

 それに色とりどりのクラッカーのテープが絡みつき、肩や頭に紙きれが乗っていた。


「あ……ああ……」

 俺はおかしな声を発しながら、勝手に動く足によって胡蝶の元に近づけられていく。

 ロープによる圧迫のためか、胡蝶の肌には赤と青の血管が浮き出ていた。肌が白いせいでその二色は皮肉にも鮮やかで、美しくさえあった。


 今更ながらアンモニア臭が鼻をついた。しかし別段、それに対する感情は湧かなかった。

 胡蝶の体に近づいていくにつれ、彼女の死がよりはっきりとしてくる。

 俺はそれから目を逸らしたかったが、できなかった。

 自分の意志とは関係なく、胡蝶の顔を見た。

 蒼白の顔面には生前のように何の表情も浮かんでいなかった。


 そこから先の記憶は、すっぽり抜けている。


   ○


 胡蝶が死んで二週間経った。

 その間に彼女の葬儀が行われていたらしいが、俺は出席しなかった。

 いくら葬儀のためにきれいに整えられていたとしても、胡蝶の死体を目にしたらあの朝の記憶が蘇ってしまうだろう。……そうなったら、自分がどうなってしまうか分からない。

 俺は胡蝶が死んでからしばらく、そこら辺をうろついている女性の家を転々としていた。

 ショックで自失の状態だったが、それでも拾って世話してくれるヤツは案外いるものだ。

 三日四日経つと、女性とたわむれる元気も出てきた。

 しかし本調子になったと思っても、眠りにつくと決まって夢の中に胡蝶が出てきた。


 幸せだった頃から、あの悪夢の朝までを走馬灯のように何度も繰り返し繰り返し見た。

 決まって最後には叫び声をあげて跳び起きて、赤子のように激しく泣いた。

 結局俺は、胡蝶が死んでも彼女を忘れることができなかった。


 そして二週間経ったその日、俺は胡蝶の墓を訪れていた。

 墓といっても、そこには土地は無い。

 見渡す限りどこまでも、水の世界が広がっているだけだ。


 胡蝶は墓地に入らず、母なる海に帰ることを望んだ。

 俺は岬からぼんやりと穏やかな海を眺めながら、リュックから封筒を取り出した。

 それは胡蝶が俺に宛てた遺書だった。


 遺書は二枚あったが、今日はその内の一枚だけを持ってきていた。

 厚い紙質の封筒から便箋を取り出す。

 薄っぺらい紙、世にもチープな雰囲気漂う遺書。何度も読んだせいでくたびれて、それには新品の紙特有の張りがなくなっていた。

 眩しい太陽の下で遺書を開き、俺はそこに書かれた胡蝶の文字をゆっくり目で追った。


『大好きな時幾へ


 遺書なんて初めてだから、型式なんて分からないわ。

 だから自由に書かせてちょうだい。

 こうしてあなたがこれを読んでいるということは、胡蝶はきちんと死ねたのね。

 自殺もやっぱり初めてだから心配だったけど、上手くできてよかった。


 時幾に伝えたいことはたくさんあるけれど、そうすると時間が足りなくなっちゃうから大事なことだけ伝えておくわ。

 胡蝶は時幾のことを世界で一番愛していました。

 これは胡蝶の描いた全ての作品に誓って言えます。


 もしもあなたがいなかったら、胡蝶はどうなっていたか分からない。胡蝶が胡蝶でなくなっていたかも。それは死ぬよりももっと辛いこと。

 だから感謝しています。ありがとうね。

 胡蝶にとって人生は描くか描かないかのどちらかだったけど、あなたにはきちんと生きてほしいわ。身勝手なお願いだけど、どうか胡蝶の分まで人生を楽しんで。

 辛いこともあるかもしれないけど、あなたならきっと乗り越えられるはず。この一年半、誰よりもあなたの近くで、誰よりもあなたを愛していた胡蝶が保証するわ。


 もうそろそろ朝ね。

 最後ぐらい、お天道様を拝みたかったけど、無理みたい。

 でも雨も嫌いじゃなかった。時幾と世界で二人きりになれたみたいな気がして。

 時幾の風邪、一度ぐらいうつっておきたかった。そしてあなたに看病してほしかったわ。


 愛を込めて 胡蝶』


 読んでいる内に視界が滲んできた。

「……バカ。死んだら、もう会えないろうが……」

 気が付いたら膝をついて、空を仰いでいた。

 手の届かないほど遠く、白い入道雲が天高く伸びている。

「……何でだよ。何で……俺に何も言ってくれなかったんだ」

 その声は誰にも届かず、ただ沈黙を波の音が埋めた。

「気付いてやれなかった……お前が苦しんでいるのを。守ってやるって、言ったのに……」

 後はもう言葉にならず。

 歪み揺れる視界の中、自分の嗚咽をいつまでも聞き続けた。

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