一章その1 診察
エアコンの微かな送風音が沈黙を埋めている。
俺はしゃべりつかれた喉を癒すため、机上に置いていた果汁百パーセントのグレープジュースを口に含んだ。甘酸っぱい果実の味が口の中いっぱいに広がって、それが喉を通っていくと体中が潤っていく気がする。一本で二度美味しい、最高の飲料水だ。
気持ちをリフレッシュできたところでペットボトルに蓋をし、事務用回転椅子を回して患者に向き直る。
「つまりこういうことですね、朽木さん」
俺はにこやかな笑みを心掛けて、目の前の女性――朽木に話しかける。
疲れ切った表情に眼鏡の奥の覇気を失ったツリ目、皺の目立つスーツ。やや乱れている銀髪のストレートロング。
右目の下のホクロがチャーミングな美人なのに、疲弊しきった雰囲気が漂い台無しになってしまっている。
外見の情報と壁掛け時計が差している二十一時という時刻から、朽木は仕事帰りにここ――ロールメンタルクリニックに寄ったのだと推測できる。というか本人がそう言っていた。
クリニックという名の通り、ここは病院だ。
扱っているのは精神病、つまり心の病気。
俺は精神科医として、心を病んだ人達を元気づけるために日々職務に励んでいる。
「職場に入ってきた新人が昔の恋人だったのに、彼は朽木さんのことを覚えていなかったと」
端的にまとめると短く感じるが、ここに来るまで話が紆余曲折し一時間近くかかった。その半分以上は朽木が辛い心情を述べるだけというものだったが。まあ、感情を吐露することはストレス解消になるし、無駄な時間ではなかったはずだ……多分。
「……はい」
朽木は俺の言葉に弱々しく頷き、俯いた。
「……長い間お付き合いしたのに、あの方はまったく何も覚えていなかったんです」
「まったく何も、というのは?」
「わたくしのことはもちろん、一緒に過ごした時間さえも。全てです」
「……別人という可能性は?」
少しむっとした顔で朽木はきっぱりと言う。
「ありえません。昔のあの方の面影はありましたし、同姓同名でした」
「なるほど……」
面影というのはあまり当てにならないが、同姓同名というのは有力な情報だろう。
「その方の名前は、よくあるものですか?」
「いいえ、とても珍しいものです。苗字も、名前も」
朽木は肩を落とし、溜息を吐いて言った。
「きっとあの方は、記憶喪失になられたのです」
「その可能性は……なくはないですね」
ドラマでは記憶喪失なんて頻繁に見かけるが、実際はかなりのレアケースだ。しかしまったく可能性がないというわけではないので、否定はしないでおく。というかそもそも、診察では患者の話を否定しないのが基本だ。
「そう考えるとわたくし、あまりにもあの方が可哀想で可哀想で……夜も眠れないのです。記憶喪失になるほどお辛い経験をされたのかと思うと……」
話している内に悲しみがこみ上げてきたのか、朽木は目頭を押さえて鼻をすすった。
「落ち着いてください。まだそうと決まったわけじゃないんですから……」
「でも……。どうしてあの方が酷い目に合わなければならないのかと思うと……」
話が明後日の方向に行く気配を察知し、俺は軌道修正のための質問を投げかけた。
「失礼ですが、その方……仮にAさんとしましょう。Aさんについて教えてくれませんか? 性格や、雰囲気とかを」
「Aさんはとてもお優しく、紳士的なお方です。わたくしが困っていたり、危険な目にあっているといつも助けに来てくださいました。子供の頃、大きな犬に襲われていた時も、Aさんが守ってくださったんです」
子供が大型犬に立ち向かう様が、現実的に想像できない。
俺はモンスターの入ったボールを持っている少年や四次元ポケットを持つ青いロボットにすがりつく眼鏡男子を思い浮かべた。しかし実際は、そんなモンスターもロボットもいない。
「……あの、子供の頃っていくつですか?」
「わたくしが四歳で、Aさんは六歳でした」
「六歳で大型犬に……」
「大変勇敢なお方なのです」
そんな一言で済むことかと疑問は尽きなかったが、それ以上訊いたところで実のある話になるとは思えず、先に進めることにする。
「……えっと。では今はどのような感じですか?」
朽木はきょとんとした顔で首を傾げた。
「今……というと、職場で、ということでしょうか?」
「そうです。ぜひお聞かせいただければと」
しばし宙を眺めていた朽木は、ぽつぽつと言葉を置くように言った。
「……そうですね。記憶は失われてしまったようですが、とても元気にやっていらっしゃると思います。お優しい性格も、以前のままかと」
「それはよかったですね」
「ただ時折、少し暴走されてしまうようです。道端を歩いている女の子を誘惑して、その……愛ゆえの行いをなされたり」
言葉の後半になるにつれ朽木は顔を赤らめていったがそれは羞恥心から来るもののようで、嫌悪感のような感情は見られなかった。
逆に俺の方が急な衝撃情報に浮き足立ってしまった。
「え、ええと、少し女の子にだらしない、ということでしょうか?」
「はい。誘惑された女の子に聞きますと、大変激しかったと」
二度目となるとさすがに耐性ができ、徐々に驚きから醒めて平静さを取り戻せた。
「以前からそうだったんですか?」
「いえ……。以前はきちんと節操のあるお方だったのですが」
「……記憶喪失か、もしくはそれ以外の原因で人格が少し変わってしまった可能性がありますね」
朽木は両手で顔を覆い、わっと泣き声を上げる。
「ああ、やっぱりお記憶を失われて……!」
「わっ、な、泣かないでください。あくまでも可能性の話です」
「す、すみません……つい」
朽木はハンカチで頬を伝う涙を押さえるように拭いた。
それが済むのを待ち、俺はかんで含めるように言い聞かせた。
「……いくら同姓同名といっても、別人の可能性もあります。まずは本当にAさんが同一人物か、そして記憶を失っているのか確かめた方がいいでしょう」
「……どうすればいいのでしょうか?」
俺は薬指、中指、人差し指の真ん中三本を立てて、わざと声を小さくして言った。
「わたしの思いつく限りですと、三つ方法があります」
「三つも……! ぜひご教授ください」
朽木は目を光らせてこちらの話に食いついてきた。
俺は笑みを作って大きく頷く。
「もちろんです。一つ目の方法はさり気なく昔の話を振ってみるというものです。それが以前と同じ話だったとしても、繰り返し話すことで相手の大脳皮質が刺激されて昔のエピソードが蘇ることがあります」
「なるほど、参考になります」
朽木はスマホを取り出し、凄まじい速さでフリック入力しだした。俺の話をメモしているのだろう。
「二つ目は少々手間とお金がかかりますが、探偵を雇うという方法もあります。彼等にAさんの過去を調べてもらえば、短時間で真相を明らかにしてくれるかもしれません。ですが、信頼できる探偵会社を探すのはなかなか難しいので、あまりお勧めはしませんが」
「……ですよね」
見ているこちらが切なくなるぐらい、しょんぼりと落ち込む朽木。つい立場を忘れて同情しそうになってしまうが、ぐっと堪える。
「気を落とさないでください。人間関係の修復というのは本来、地道なものです。気長に行きましょう」
「はい、そういたします」
「三つめは、相手のことを観察してみることです」
朽木は眉間に皺を寄せ、僅かに視線を彷徨わせる。言葉の意味を考えているのだろう。
「それは……お付き合いしていた頃と同じ点を探すということでしょうか?」
俺は頷き、徐々に声のトーンを上げて話す。
「はい。ですがもう一つ狙いがあります。異なる角度から観察してみると、面白い発見があるかもしれません」
「異なる角度……面白い発見、ですか」
「そうです。仮にAさんが記憶喪失になったのなら、その原因があるはずです。それがもしも精神的に強いショックを受けた類のものなら、彼には心的外傷後ストレス障害(PTSD)、つまりトラウマがあるはずです」
「辛い経験をされた、ということですね」
「おっしゃる通りです。もしも辛い経験があるなら、必然的にAさんには大多数の方と比べて大きな弱点があります。それが見つかったなら、彼が記憶喪失になっている可能性は少し高くなります」
続けて肯定された朽木はいよいよ勢いづき、饒舌になっていく。
「つまりあの方を観察して、昔と同じ点と、弱点を探すのですね。その弱点というのは、どういうものでしょうか?」
ここで俺は声のトーンを絞り、内緒話でもするような感じで問いかけた。
「……ここまで話しておいてなんですが、あまり気持ちのいい話では無いですよ。お聞きになりたいですか?」
朽木は唾を飲みこみ、こちらの声のトーンに合わせて言った。
「それがあの方を知ることに繋がるなら、ぜひ」
一拍置いて俺は語りだす。
「……例えば、高い所から落ちたことがあるなら高所恐怖症。閉じ込められた状況で何かあったなら、閉所恐怖症。暴行なら特定の性……男性や女性に対する恐怖症や、大音響や人との接触などが苦手な感覚過敏になっている可能性もあります。虐めなどのショックで記憶を失ったなら、人づきあいが極度に苦手になっているかもしれません」
「結構多いのですね」
「人は弱く脆く、傷つきやすいのです。ですから記憶喪失でなくとも、こういった症状に悩まされている方は少なくありません」
「では弱点を見つけても、記憶喪失とは限らないのですか?」
「いえ、今回の場合はすでに記憶喪失の疑いがあるのですから、一般的な例とは異なると思います。無論確信してはいけません。他の方法も併せて行い、ゆっくりと時間をかけて見定めていくのが最善かと思われます」
朽木は二度頷いた後、両手を膝の上に揃えて深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。先生の教えてくださった通りにいたします」
ようやく話に決着がつき、俺は内心でほっと安堵の息を吐いた。
「心療内科ってどういう所か分からなくて怖かったんです。でも先生が優しくて、落ち着いて話すことができました」
「いえいえ。お役に立ててよかったです」
ぶっちゃけ内容的には心療内科の診察ではなかったけどな、とは口に出さないでおく。
これで診察は終了。後はカウンターに回って診断書を渡せば終わりだ。
……だが、目の前で感謝してくれている朽木を見ると、最後まできちんと助言を与えてやらなければ。中途半端なまま帰してはならない。そんな思いが湧いた。
俺は緩んだ気を引き締め直し、居住まいを正して言った。
「朽木さん、人の記憶とは不確かなものです」
俺の声音に真剣なものを感じたのか、朽木も同様の表情になり真面目に聞いてくれる。
「Aさんの記憶が失われた可能性ももちろんあります。しかし同時に、あなたの記憶が間違っている可能性があるということも、どうか忘れないでください」
「……分かりました」
朽木は神妙な表情で頷き、もう一度頭を下げてくれた。




