二章その5 誕生日
各地の夏祭りが終わり涼しい風が吹くようになると、胡蝶を見て起こる胸の高鳴りが少しずつ収まってきた。
しかし胡蝶に対する想いが落ち着いたわけではなく、二人でいる時の高揚が穏やかになるにつれ、今度は寝る前など一人でいる時にしわ寄せが来た。
もう一日中、胡蝶のことばかり考えていた。
夢の中にも胡蝶が出てきて、彼女とキスしたり、ハグしたり。口にするのもはばかられるような内容のものまであった。
朝起きて慌てて洗濯機を動かす羽目になったのも、一度や二度じゃ済まない。
もう限界だ、当たって玉砕するかここから逃げるかするしかない、というところまで追いつめられていた。
そんな悶絶した日々を過ごしていた俺は、大事なことをすっかり忘れていた。
ある朝目覚めて台所に行くと、そこに置き手紙があった。
『出かけてくるわ。昼食は用意しないでいいわよ。夕飯までには帰るから。胡蝶』
用件だけのさっぱりした文章は、胡蝶がしゃべった言葉を一言一句そのまま書き写したかのようだった。
掠れたように薄く丸い線のみで構成された文字。不自然なぐらい広い字間。胡蝶が書いたのだと一目で分かる。
彼女はスマホを持っておらず、急な用事が入るとこうして手紙を残していった。
久しぶりに朝から一人になった俺はいつもより少量の材料で朝食を作り、食事を済ませた。その後、洗濯や掃除をできるだけ時間をかけてゆっくりとやった。
それでも昼前には全て終わってしまい、手持ち無沙汰になった。
最近は胡蝶を眺めている内にいつの間にか一日が終わっていたという毎日だったので、何をするかすぐに思い浮かばなかった。
どうやって午後の時間を潰すか考えていると、ふとアトリエの外の廊下にある、三階へ続く階段を思い出した。
最上階である三階には、胡蝶の部屋がある。
彼女は食事や入浴は二階のフロアで済ませるが、就寝時は三階の自分の部屋に戻った。
俺は胡蝶と半年一緒に過ごしてきたが、彼女の部屋に行ったことは一度もなかった。
興味がなかったわけじゃない。ただ、付き合いが浅い男が女性の部屋に行きたいなんて言ったら気持ち悪がられるんじゃないかって、躊躇していたのだ。
しかし今日は胡蝶は夕方ぐらいまで帰ってこず、俺もすることがない。
一年の内、学生の犯罪がもっとも増加するのは夏休みだという。人間は暇になると得てして悪しき感情に支配される生き物なのかもしれない。
悪魔が俺の耳元で『ちょっと覗いてみたらどうだ?』と囁く。
別に、何かしようと企んでいるわけじゃない。ただちょっと好奇心で、胡蝶の部屋を覗いてみようというだけだ。それぐらいならいいじゃないか……。
冷静な視点で見れば、「ダメに決まってる」の一言に尽きる。
世間的に他人のプライベート領域に勝手に踏み入る行為は当然、厳禁とされている。下手すれば犯罪者として通報される。
だがダメだと分かっているのに、そう思おうとすればするほど、やりたくなってしまう。
カリギュラ効果のような状態に陥っていたのだろう。
俺は結局、欲求に負けて胡蝶の部屋に行ってみることにした。
階段を上っている時、胸の内が震えるようなゾクゾクとした高揚感が湧き上がってきた。
けれどもどうせ、自室なら鍵ぐらいかかっているだろうとも思っていた。
三階に辿り着き、ドアの前に立つ。
さほど期待せずに、ノブに手をかけて押した。
ラッチボルトの外れる音と確かな手応え。
予想に反し、呆気なくドアが開いた。
しばらく俺は放心状態でその場に立ちすくんだ。
道は二つに一つだった。
進むか、戻るか。
思案した後、俺の足はドアの敷居をまたいだ。何もしない、という条件で自分の罪悪感を丸め込んだのだ。
心臓の鼓動が耳元で聞こえるほどやかましく鳴り響いていた。それは一歩進むごとにますます激しくなっていく。
入ってすぐは何もない空間だった。
雑居ビルのまるまるワンフロアは自室にするには広すぎたのだろう。おそらく階下の食堂辺りの部分が自室になっているに違いない。
そう推測した俺は、奥に足を進めた。
フロア内は薄暗く、窓から差し込む光は宙を漂う埃ばかりを照らしていた。
床の上にはうっすらと埃が積もり、所々胡蝶の小さな足跡が残っている。これでは俺の足跡も残って、遅かれ早かれここを訪れたことが分かってしまうだろう。後で素直に白状して謝罪しなくてはと苦笑しながら思った。
予想通り、二階の食堂に当たる部分に胡蝶の私物が集まっていた。
ぱっと見た感じ、自室というよりは避難所という印象を受けた。
床の上にはリュックサックと寝袋が置かれ、壁際には不織布がついた袋に入れられた私服がシンプルなハンガーラックに掛けられている。
キッチン付近には何もなく、流しの所にもコップと歯ブラシだけしかなかった。バスタオルとドライヤーは二階に置かれている。
隅に座布団と文机を見つけた。
文机っていうのは明治の作家が使っているような、低い机だ。
普段は油絵具とかイーゼルを使って西洋かぶれしているくせにと、思わずちょっと笑ってしまった。
ふと文机の上にあるものに目が留まった。
それは見覚えのある、小さなカードだった。
手に取って見てみると、それはやっぱり俺の学生証だった。
なぜ彼女の部屋にこれがあるのかと考えていたが、生年月日が目に入った瞬間、そんな疑問は吹き飛んだ。
九月二十三日――それは今日の日付であり、俺の誕生日だった。
年齢の所に十七歳と書いてあるから、今日で十八歳になる。
何で忘れていたんだろうと自問したが、すぐにその答えは出た。
胡蝶と一緒に過ごす時間があまりにも穏やかで楽しくて、そんなこと気にも留めなくなっていたのだ。
そしてさっきの置き手紙とこの学生証が繋がり、胡蝶が今日出かけた用件を察した。
きっと彼女は俺の誕生日プレゼントを買いに行ったのだ。
その時の俺はそう確信して疑わなかった。他の可能性など何一つ考えなかった。
純粋で盲目的な恋に落ちていたのだ。
それから俺は二階に戻り、退屈など忘れてそわそわしながら胡蝶の帰りを待った。




