二章その4 赤面
その日から胡蝶の家に住むようになった。
盲目の胡蝶を一人きりにすることが、どうしてもできなかったのだ。
特に料理で包丁や火を扱うのが危なっかしく思えた。
実際、致命的に至らないまでも彼女は料理下手だった。
「だから、勝手に料理するなって言っただろ」
「でも、時幾が来るまでは胡蝶、普通に料理してたわ」
「だったらこの塩辛いパンケーキは何だよ……」
「……お好み焼き風?」
「お好み焼きだって、こんな海水みたいな味はしないぞ」
といった具合に、胡蝶はよく調味料の量や種類を間違えた。
これは俺がしっかりしなければならないと、最初は使命感に燃えたものだ。
時間が経つにつれ、それは不要な心配なのかもしれないと思うようになった。
胡蝶は本当に目が見えないようだったが、掃除や洗濯など料理以外の家事は目が見える俺よりも手際よくこなすことができた。
ただ絵に没頭すると胡蝶はそういったことを全て忘れてしまうため、俺が洗濯機や掃除機と悪戦苦闘する日はかなり多かったように思う。
そもそも胡蝶は盲目であるにもかかわらず、静物画や風景画を描いていた。
「何も見えないのに、どうやったらそんな絵が描けるんだ?」
胡蝶は指を組み、そっと胸の前にやった。
「風と光が教えてくれるの。胡蝶の前に、どんな光景があるのかを」
「風と光?」
「そう。胡蝶は彼等が教えてくれた景色を、ただキャンバスに再現しているだけ」
「妖精みたいなものか?」
「あるいは小人さんかも」
よく分からなかったが、とりあえず俺は胡蝶は常人とは異なる特殊な目を持っているのだと解釈することにした。
また彼女は普段は自宅である雑居ビルにこもりきりだったが、時折画廊などに呼ばれて外出した。
その際の服装を見て、俺はあんぐりと口を開けた。
「お前……その恰好で出かけるのか?」
「何か変?」
目の前にいる胡蝶は、淡い紫色のゴシックロリータを着ていた。
ピンクのリボンや白いフリルがたくさんついており、ファンシー感満載だ。着こなすのは難しいというよりほぼ不可能に思えるが、胡蝶には不思議とよく似合っていた。
にわかに信じられないだろうが、これが胡蝶の外出着だった。
「……変じゃないが、独創的だな」
「画廊の人もそう褒めてくれるわ」
胡蝶は両頬を押さえて小首を傾げた。
日本の芸術界では彼女の名前は技術的にも、またある種の方面でもそれなりに知られていたらしく、画家の仕事だけで悠々自適な生活ができるほど稼いでいた。
俺がいることで、確かに胡蝶の生活におけるいくつかの面は多少円滑にできているのかもしれない。しかしそれが果たして必要なことなのかと考えると、途端に自信がなくなる。
俺は彼女にただおせっかいを焼いているだけなのではないか……。
ほぼ同年代ながら高尚な分野で活躍している胡蝶を見ていると、そういう思いを抱かざるを得なかった。
嫉妬とは違う、何だかよく分からない感情。
今の俺ならそれを劣等感とでも呼ぶだろう。
けれども俺はいくら劣等感を抱こうとも、胡蝶から離れることができなかった。
精神分析するに、最初は保護欲で俺は胡蝶の傍にいた。
ところが時間の流れと共にその感情は別の、もっと激しいものに変わっていったのだ。
ある時から俺は、胡蝶の姿を目で追うようになっていた。
彼女は絵を描いている時は周囲に全く注意を払わないので、好きに眺めるだけの時間は前からあった。
だが以前なら同じ部屋にいても読書をしたりゲームをしていた。それ等を全部やめ、俺は胡蝶をただじっと見ることだけに時間を費やすようになった。
また胡蝶も俺のことを必要以上に見てくるようになった気がした。
胡蝶が絵を描いている時以外、俺はずっと彼女の視線を感じていたように思う。
そんな観察あるいは監視合戦が続くと、お互いに変化が起きた。物思いにふけることが多くなり、また長時間相手を見つめると、顔が熱くなっていくのだ。
それは多分、胡蝶も同じだったと思う。
「……胡蝶、顔赤いぞ」
「時幾だって、赤いんじゃない?」
「……お前、見えないだろ?」
「なんとなく、分かるもん」
「……………………」
精神科医をしていると、現代の人間は意外と理性を大事にする生き物なのだということが分かる。
恋愛の万有引力は存在しない。
年頃の男女が一緒に住んだだけで、恋に落ちたりはしない。
だから俺と胡蝶がお互いを想い合ったのは、運命でも必然でもなく。
偶然……いや、もしかしたら奇跡なのだろうか。
その年の夏は冷夏だったらしいが、俺にとっては猛暑同然だった。
胡蝶と一緒の空間にいるだけで体温が上がってしまう。特に顔の辺りが熱かった。
春頃にはもう胡蝶の裸エプロンには慣れていたはずだが、夏になると出会ったばかりの頃以上に、彼女が絵を描く時の姿に心臓を高鳴らせていた。
また胡蝶もエプロンの下にTシャツを身に着けるようになった。
上を着ただけじゃ後ろ姿の時に肝心の部分を隠せていないのだが、自分の背中側が見えるわけもなく。おかげで俺は胡蝶の臀部が視界に入る度、急いで目を離す苦労をさせられる羽目になった。
「どうせなら下も穿いたらどうだ?」
「下着を?」
「どうしてそう中途半端なんだよ」
「……恥ずかしいなら、胡蝶を見なければいいのよ」
胡蝶自身も恥ずかしがっていることは、赤くなった顔を見れば一目瞭然だった。
しかし彼女は一度たりとも俺をアトリエから追い出そうとはしなかった。




