二章その3 油彩
オフィスなどあるビル街から離れ、煌びやかな夜の街を横目に歩き、どんどん人気がない場所へと向かう。
今、俺達がいるのは光の失われたもう一つのビル街。言うなればゴーストシティだ。
ここら辺はバブル時代に地上げで土地が買い取られ、次々にビルが建てられた場所だと聞いたことがある。しかしそういったビルに入っていた会社は、バブルが崩壊してすぐに倒産してしまった。
今眼前に並んでいる巨大な墓石の群れの正体が、その抜け殻となったビルだ。
辺りはすっかり暗くなったが、無人のビルには依然として明かりがつかず静謐な闇を湛えている。
光源といえば街灯ぐらいのものだ。
慣れない暗さに心細くなってきた頃、胡蝶は立ち止まった。
「……ここよ」
彼女が指差したのは、看板が一枚たりとも見当たらない雑居ビル。
窓は割れていないし、蔦が壁を這ってもいない。
しかしやはり禍々しい何かを感じてしまうのは周囲の環境のせいか。
「このビルが、胡蝶の家よ」
「……え、マジで?」
胡蝶は頷いて、すたすたとアルミフロントサッシのドアの方へ近づいていく。
呆気に取られていた俺は、雨に濡れたことで我に返り、胡蝶の後を追った。
ドアの前で胡蝶はポケットから鍵を取り出し、慣れた様子で開錠して取っ手を押した。ドアは難なく開き、俺達は雨空から逃れビルの中に入った。
「……ここって、住居用?」
「胡蝶にはよく分からない。住むのにちょうどよかったから、買っただけ」
雑居ビルは入ってすぐ前方に一階フロアのドアがあり、左には二階へ続く階段があった。
胡蝶は迷わず二階への階段を上っていくので、俺も続いた。
階段を上るにつれ、どこかで嗅いだような匂いが漂ってきた。
確かこれは学校の美術室で嗅いだような……。
考えている内に階段を上り切り、胡蝶が二階フロアのドアを開けた。
部屋に入ってすぐ、俺は思い出した。
油彩絵具の匂いだ。
確か高校の美術の時間に嗅いだ覚えがある。特に油壷から漂う匂いがすごかった。
でも不思議と嫌いじゃなくて、週に一回の美術の時間が地味に待ち遠しかった。ただ選択芸術の時間は高二の前期までしかなく、久しく嗅いでいなかった。だからこの部屋に漂う油彩絵具の匂いに懐かしさを感じた。
「時幾も絵、好き?」
「……絵?」
胡蝶の質問を聞いてから少しして、俺はこの部屋にたくさんの絵が飾られていることに気付いた。
辺りが薄暗いせいで、周囲がよく見えていなかったのだ。
「電気つけていいか?」
「ええ」
許可をもらい、入り口にあった照明のスイッチを押した。
部屋が明るくなると、室内に飾られていた絵がよく見えるようになった。
そのほとんどが油絵で、写実的な風景画や静物画が多かった。
「……ここにある絵はどう?」
「どれもすごい上手いっていうか、プロが描いたみたいだ。絵を集めるのが趣味なのか?」
「ううん。全部、胡蝶が描いたの」
「……そうか」
「疑わないの?」
「何か、そんな気にならないんだ」
おそらく飾られた絵から、胡蝶らしさが見て取れたからだ。
絵具を地層のように塗り重ねて描いていく油絵は、生で見るとどっしりとした印象を受けるものだがここにある絵は違う。重ねれば重ねるほどいつか消えてしまう、桜の絨毯のような儚さを感じた。
「この部屋にある絵は、みんな胡蝶みたいだって感じを受けるんだ。……って、何言ってるんだろうろな、俺」
俺は気恥ずかしさからわざと笑い声を上げ、頭を掻いた。
その笑い声の中、胡蝶の澄んだ声が混じった。
「……ありがとう」
見やると、心なしか胡蝶の唇の端が少しだけ持ち上がっていたような気がした。
「タオル、持ってくるね。お風呂も沸かさないと」
そう言って、胡蝶はアトリエの奥に引っ込んでいった。
俺はびしょ濡れのまま椅子に座るのも気が引け、立ったまま彼女が戻ってくるのを待った。
ただ突っ立っているのも暇なので、飾ってある絵を眺めていた。
しばらくして、足音と共に「お待たせ」の声が聞こえた。
この時、俺は何ら警戒心も抱かず彼女の方を向いてしまった。というかこんな状況で何を警戒しろというのだと思うかもしれないが、それは男の家につれこまれた女に同じことを言えるかと反論させてもらおう。
しかるに。
俺が目撃したのは狼だったと言っても、過言ではないだろう。
「……おまっ、その恰好はッ……!?」
続く言葉は出てこなかった、出てくるはずがなかった。
胡蝶はロング丈のエプロンを身に着けていた。というかそれしか身に着けていなかった。
肩や鎖骨、膝下おまけに足まで、白い肌が露わになっていた。もしも彼女が振り返ったら背中とあそこが……という妄想が膨らみかけ、慌てて掻き消す。待て待て、彼女は胸すら満足に出ていないロリ体系だ。
でもそんな考えが浮かんでも仕方ないだろう、初対面の女の子がいきなり裸エプロンで現れたんだから。例えそいつがロリ体系だったとしても。
絶賛裸エプロン中のロリ体系、胡蝶は不思議そうに首を傾げる。
「何か変?」
「服はどうした、服は!」
「胡蝶、絵を描く時はいつもこの格好だから」
室内は暖房が効いていて温かい。だから胡蝶は寒そうにしていない。
なら別にいいじゃないかと、彼女のあまりにも平然とした様子に思いかけた。
しかし自分の心臓が高鳴っていることに気付き、その考えは撤回される。
何で俺はこんなちんちくりんにドキマギしているんだ。
これはマズい、何か色々とマズい気がする……!
「いや、着ろよ服。というか来てください、お願いします」
「……時幾。ここ、胡蝶の家。どんな格好しても、胡蝶の勝手」
家主の正論を前に、俺の懇願は呆気なく退けられた。
仕方なく胡蝶の姿をなるべく視界に入れないようにし、風呂に入って勧められたソファの中で丸まって寝た。
目を閉じるとロリ体系の胡蝶の裸エプロン姿が浮かんできて、何度も唸りながら身もだえることになった。




