二章その2 邂逅
その日は糸のように細い雨が降っていた。
打たれても冷たい以上の感覚のない、弱い雨だ。
俺はビルとビルの狭間にある、裏路地にへたり込んでいた。
傘もささずに長時間屋外にいたせいで、全身ずぶ濡れになっていた。
手足から指先に至るまで凍り付くように冷え、息を吐くと白くもわもわと広がっていく。
確かその日は今冬最低気温とか天気予報で言われていた。
頬に触れるとそこだけ燃えるように痛み、腫れていることが分かる。
辺りは生ゴミの悪臭が漂っていたはずだが、いつの間にかその臭いは消えていた。きっと嗅覚が麻痺したのだろう。
空が雨雲に覆われているし、そろそろ暗くなり始める頃だ。帰ろうと思うのだが、体に力が入らない。
まあ、自業自得、因果応報だ。
あまりの情けなさに笑い声が漏れてきた。頬を動かすとじくじくと痛んだが、笑わずにはいられなかった。
ふと影が落ちてきて、俺は顔を上げた。
そこには目を閉じた少女が立っていた。
その少女こそが胡蝶だ。
背丈が小学生並みに低い彼女に見下ろされたのは、かなり屈辱的だった。
そんな思いから、俺は彼女にガン飛ばして威圧的に言った。
「……何だよ、じろじろ見て」
「胡蝶、見れないわ」
言葉通り、胡蝶は見れるはずがない。しかしその時の俺は彼女の事情など知っているはずがなかった。
「……どうして目を閉じている?」
「目を開く必要がないから」
「開く必要がない? ……何言ってるんだ、お前」
「言葉通りの意味。それよりあなたは、どうしてそんな所に座っているの?」
質問をはぐらかされたと俺は思い、不快感を覚え舌打ちした。
「別にどうだっていいだろ。俺の勝手だ」
「こんな所にずっといたら風邪をひくわ。それが巡り巡って、胡蝶にうつるかもしれない。他人事じゃないの」
「……お前、頭大丈夫か?」
「髪はふさふさよ」
「そういうこと言ってるんじゃなくて……。っていうか、それは禿頭のヤツに失礼だろ」
胡蝶は片手を口の前にやり、小首を傾げた。
「あなた、優しいのね」
「……今の会話で、どうしてそうなる?」
「言葉と雰囲気と……勘」
「勘って……」
「胡蝶の勘はよく当たるの。本当よ」
「へえ。じゃあ、俺の今日の昼飯も分かるのか?」
「……ちょっと待って」
胡蝶は俺に近づいてきてしゃがみこんだ。
彼女のさしていた傘が頭上を覆い、雨が遮られる。代わりにパツパツと雨粒が傘の生地を打つ音が聞こえるようになる。
こいつは一体何をするつもりなのかと思えば、いきなり接吻するんじゃないかって距離まで顔を寄せてきた。
「おっ、おい……!」
仰天する俺など気にせず、胡蝶は鼻を鳴らした後口を開いた。
「日本米のライス。ハンバーグにケチャップ多めのデミグラスソース。付け合わせはニンジンとコーン、グリンピース、あとフライドポテト。デザートにミルクジェラート。ドリンクはグレープジュース。……当たってる?」
すらすらと出てきた単語に、俺は唖然となった。
「どうしてそこまで……」
「勘……じゃなくて、匂い。それとあなたからは女の子が好きそうな香水と、汗と血の濃い臭いがする。多分、女の子絡みで男の子とケンカして、負けた後。違う?」
「……さあな」
忘れかけていた屈辱が胸の内に蘇り、惨めな思いになった。
雨はいつの間にか強くなり、ノイズのような音が響いていた。
しばらく黙っていた胡蝶は、唐突に言った。
「ねえ、胡蝶の家に来ない?」
「……何でお前の家に?」
「このままじゃ、本当に風邪ひいちゃう」
「お前みたいなガキに世話焼かれるほど、俺は腑抜けじゃない」
胡蝶は黙し、口元に拳を当ててちょっと上向き、やがて言った。
「……年、いくつ?」
「別に俺が何歳だっていいだろ」
「いいから。いくつ?」
俺は胡蝶を睨んだが、どんなに彼女にガン飛ばそうとも無意味だ。
先に根負けしたのは言うまでもなく俺だった。
「十七だ」
「そう。胡蝶は十八。あなたより一つ年上」
その返答に、俺は思わず吹き出してしまった。
「冗談だろ?」
「よく言われるわ。……ほら、これ」
胡蝶はハンドバッグから赤色の手帳のようなものを取り出し、俺に渡してきた。
「……旅行用パスポート?」
「中を見てみて」
言われるままに開いてみると、胡蝶の顔写真が載ったページがあった。
名前の欄には夢葉胡蝶と書かれていたが、その時の俺は読み方が分からなかった。
何で初対面の相手のパスポートを見せられているんだと思いつつ眺めていると、ふと生年月日の欄が目に入った。
その瞬間、衝撃が走った。
「……ま、マジで俺より一つ年上!?」
「どう? これで信じた」
「え、ええっ……!?」
俺はなお信じられない思いで写真の中と現実の胡蝶を見比べた。
「これなら、胡蝶にお世話になっても腑抜けじゃないわ」
「そうかもしれんが……って、そういう問題じゃないだろッ! おまっ、見ず知らずの年頃の男を連れ込んでも平気なのか!?」
胡蝶は首を傾げ、頬に手をやった。
「……何か問題ある?」
「問題ありまくりだ! 女好きする香水の匂いが漂う男なんて、警戒してしかるべき相手だろうが!」
「……危ない人は、胡蝶のためにそんなに必死に怒ってくれない」
今までほとんど変わらなかった胡蝶の表情が、微かに動く。その顔は見ているだけで胸を締め付けられるような、悲しいものだった。
「……ったく、分かったよ」
両手を上げて俺は多分、笑っていた。
「降参、俺の負けだ。お前の言うことに従う」
「別に勝負なんてしてなかったけど……」
「いいんだよ、そういうことにしておけ」
胡蝶は首を傾げていたが、少しして頷いた。
「……胡蝶は、夢葉胡蝶」
急な言葉に一瞬何を言っているのか分からなかったが、まだ手に持っていたパスポートのことを思い出し、それが彼女の名前だと合点がいった。
「俺は風炉井時幾。よろしくな」
胡蝶へと手を差し出したが、彼女は動かなかった。
「どうしたんだ?」
「え……?」
きょとんとしている胡蝶の様子を見て初めて俺は、もしかしたら彼女は目が見えないのではないかと考えたのだった。




