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二章その1 恋人

 その夜、夢を見た。

 自分の経験した過去を回想する夢。

 亡き恋人、夢葉胡蝶(ゆめはこちょう)の夢を。

 昔は眠る度に胡蝶と過ごした毎日を夢に見たものだ。しかしいつからか起きている時も眠っている時も、彼女のことを思い出さなくなった。

 おそらく今夜夢に胡蝶が出てきたのは、まほろに何度もあったり、昼間に彼女の絵――『愛しき君とのひととき』を見たりしたからだ。


 賀集家に飾られていたあの絵は、胡蝶が描いたものだ。

 その絵に描かれた人物が俺そっくりなのは、偶然ではない。

 なぜなら俺がその絵のモデルだからだ。

 そして焼けてなくなった部分には胡蝶が描かれていた。




 今、目の前に蘇ってきているのは、胡蝶が『愛しき君とのひととき』を描いている光景だ。

 絵具がこびりついた床、たくさんの絵がかけられた壁、夕日が差し込む窓。

 景色がはっきりしてくると、高校の美術室で嗅ぐような、油彩絵具特有の独特な匂いが香ってくる。

 イーゼルに置かれたキャンバスの向こうでは今まさに、胡蝶が筆を振るっていた。

「おい、胡蝶」

 呼びかけても返事はない。

 絵を描いている時に話しかけても、集中している胡蝶の耳には届かない。

 だから俺は特に気にせず、キャンバスの向こうに回り込んだ。

 ふわりとしたラベンダーの香りが空気に混じる。


 キャンバスの前には、小学生並みに小さな女の子が座って絵を描いていた。

 彼女が胡蝶だ。

 こう見えても年は俺より一つ上。学校には通っておらず、中卒で画家になったらしい。理由は特に話さないが、なんとなく俺は察している。

 胡蝶の後頭部には、二つの三つ編みのシニヨンがある。団子みたいだと思った途端、腹の虫が鳴った。無論、彼女は気付かない。きっと耳元で銃声が鳴っても平然と絵を描き続けることだろう。


 胡蝶の肩越しに見えた絵は、すでにほぼ出来上がっていた。

 ソファに座っている俺の首に、胡蝶が腕を回している。自分自身が描かれているのを見るだけでもかなり恥ずかしいのに、それが意中の人と絡んでいる絵となったら、もう……。

 しかし胡蝶は今まさに仕事をしている最中だ、邪魔することはできない。


 俺は顔を覆う羞恥心の熱をどうにか抑え、キッチンに向かった。

 手にしていたスーパーの袋からカレールーと野菜、豚肉を取り出し、料理器具を準備する。

 まだ慣れない手つきでレシピ通りにカレーを作っていき、ちょうどルーを入れた時、アトリエからカタッと筆を置く音が聞こえた。

 もう後は待つだけなので、胡蝶の様子を見に行くことにする。


 俺がアトリエに入ると、キャンバスの前に座っていた胡蝶が振り向いた。

 年齢より幼い外見通り、顔の輪郭や鼻も丸みを帯びている。

 彼女の顔の作りは、まほろに酷似している。身を纏う雰囲気もほぼ同じだ。弱々しさのようなものを感じる。

 他人の空似だと分かっていても俺は無意識の内に、まほろを通して胡蝶を見ていたのかもしれない。……こうして彼女を夢見ているのだから。


 胡蝶は目をつむっていた。

 彼女はいつもこうだ、目を開けている時の方が珍しい。

「あら、時幾」

 晩夏の夕暮れに吹く涼やかな風のような声。

 胡蝶が口を開くと、まほろと似た空気は一変する。風のようにそこに存在するのに触れられない、不確かな存在のように思えてくる。


 首を傾げて胡蝶は訊いてきた。

「ご飯はカレー?」

 胡蝶のしゃべり方は少しユニークだ。どこかしら大事な要素が抜けていることが多い。聞く者はそれを補わなければ理解できない。

「ああ、夕飯はお前の好きなカレーだ。もうそろそろできる」

「まぁ、楽しみ」

 胡蝶は両手を重ね、頬にやった。彼女は表情よりも、身振りや手振りで感情を表すことが多かった。


「もうテーブルに行けるか?」

「行けるわ。ちょうど描き終わったから」

 立ち上がろうとする胡蝶の傍に、俺は慌てて駆け寄った。

「待て、俺が連れてってやるから」

「大丈夫。ここは胡蝶の家だから」

「……でもお前、目が……」

 言いかけた俺の口を胡蝶は背伸びして、人差し指でつつくように塞いだ。

「見えなくても、分かるわ。時幾の唇の場所は」

 胡蝶は俺の唇から指を放し、両手を首に絡めてきた。その手に誘われ、彼女の顔に近づいていく。

 幼い顔の中、薄く開かれた唇に、妙な色っぽさを感じる。


「目、閉じてる?」

 問われて俺は慌てて目を閉じた。視界が黒く染まる。

 顔を下げていくにつれ、胡蝶の体温を肌に感じる。

 湿った柔らかい吐息がかかった。俺の心臓がやかましく鳴り始める。


 すんすんと、胡蝶が鼻を鳴らすのが聞こえた。

「……チョコアイスの匂い」

「ちょ、ちょっと待て。百歩譲ってチョコは匂うかもしれないが、何でアイスってことまで分かったんだ?」

 すぐさま胡蝶は答えた。

「卵黄と生クリームの匂いがする」

「……そんなバカな」

「一人だけそんな美味しいもの食べるなんて、ズルい」

 言うやいなや、胡蝶は俺の口を塞いできた。

 さらに彼女はそれだけで飽き足らず、俺の唇を舌でつついて開き、口腔内に侵入してくる。

 口の中をざらりとした生温かいものが這いまわり、粘着質な水音が頭の中に響いてくる。体中の血が沸騰したようになり、胡蝶の体も同様に熱くなっていく。


 やがて息が苦しくなる頃、ようやく胡蝶は解放してくれた。

 目を開くと、頬が紅潮した胡蝶の顔が間近にあった。

「……美味しかった」

 胡蝶はそう言って、俺の頬に口づけした。




 俺と胡蝶の日常は、多少の違いはあれど大体こんな感じだった。

 腕力で勝り、その他の面においても恵まれているはずの俺は、なぜか彼女に逆らうことができなかった。

 おそらく出会いの時点で、俺達の関係性は決定づけられたのだろう。

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