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一章その11 名前

 喜久子の部屋に向かう途中、仁史の機敏な動作が軍人のイメージそのものだったので、もしやと思い訊いてみた。

「どこか軍のような組織にいらっしゃったことがあるんですか?」

「はい。おっしゃる通り、わたしは実際に軍で兵として生活していたことがあります。その時に叩き込まれた動きや習慣が、今でも抜けないのです」

「軍というと……、日本の?」

「申し訳ありませんが、答えは控えさせていただきます。……あまり愉快な記憶ではございませんので」


 一瞬、仁史の顔に影が落ちたように見えた。

「……失礼しました。配慮の足りない、不躾な質問でした」

「いえ、お気になさらず」

「それじゃあ、失礼ついでにもう一つ。仁史さん以外の使用人も、何か武術や護身術を身に着けていたりするんですか?」


 先を歩いていた金之助が肩越しに振り向いて言った。

「昔は警備会社に結構な人数の警備員を派遣してもらっていたのですが、あっさり強盗にやられましてな。それ以来わたしぁ、外部委託というものが信用できなくなってしまいましてね。今は屋敷の使用人が実践的な近接戦闘術を身に着けられるよう、講師を雇って鍛えてもらっているんです」

 言われてみれば、警備員の姿は今のところ見かけていない。話を聞く限り不用心というわけでもないのだろう。


「それじゃあ、仁史さんも?」

「いえいえ、違います。仁史はその前からうちに勤めていて、強盗退治の時も役に立ってくれたんです」

 それを聞いた仁史は、僅かな間唇をかんだ。

「……強盗の侵入を許してしまった時点で、許されざる失態です。軍ならば軍事裁判にかけられて刑に処されていたでしょう」

「そんなことはない。君はよくやってくれてるよ」

「……勿体なきお言葉」


 ふいに金之助が足を止め、体ごと振り返った。

「つきましたよ。ここが家内の部屋です」

 彼は指したドアの前から俺の傍に寄ってきて、声を潜めて言った。

「診察の前に、一つだけ先生にお願いしたいことがあるんです」

「何でしょうか?」

「家内の前では、まほろの名前は出さないようにしていただきたい」

 胸の奥でモヤモヤしたものが広がる。

「……それは、奥さんの心のために?」

「それほど、家内にとってまほろの存在はデリケートなものなのですよ」


 金之助の表情は極めて真剣なもので、嘘を言っているようには感じられない。

 しかしそれでも、俺はどこか納得できないでいた。

「奥さんは統合失調症の陰性症状、つまり感情を失っている状態だと聞きました。だったらまほろちゃんの話は感情を取り戻す薬になりはすれども、精神に悪い影響を及ぼすとは考えにくいと思うのですが」

 金之助は眉間に皺を寄せて言った。

「先生がどう思われようとも構いませんが、約束は守っていただきたい。わたしぁ、あなたにお金を払っているお客様なのですからな」

「……分かりました。まほろちゃんの名前は出さないようにします」

 俺が不承不承頷くと、金之助は出来の悪い作り笑いを浮かべた。

「では、中へどうぞ」

 金之助が言うなり、仁史が扉を開いた。


 喜久子の部屋は一般的な小、中学校の教室の四倍は広く、資産家らしい上質な品々が配されてゴージャス感に溢れていた。

 天井には宝石をふんだんに使ったシャンデリアが吊るされ、壁には分厚い書物やレコード盤が収められた大きな棚が並び、空いた壁には著名な画家の絵画が掛けられている。


 中央には巨大な天蓋ベッドがあり、そこにきれいな女性が腰かけていた。

 写真に写っていた人物と同じだ。ということはこの女性がまほろの母、喜久子だろう。

 彼女は虚空を見てぼうっとしており、長い間放置された公園の砂場のように表情から一切の感情が抜け落ちていた。

 喜久子は写真で受けた印象通り、三十の半ばぐらいに見えた。少しやせ気味で、病人じみた空気を纏っている。

 髪は散髪したばかりのように短くきれいに切り揃えられている。

 服は背中にジッパーのある空色のワンピース。この精神状態の人間は自分で着替えることができない。おそらくメイドが喜久子の着替えを担当していて、簡単に着脱できるこの服を着せたのだろう。


「喜久子、今日は新しい先生が来てくれたぞ」

 金之助は喜久子に優しく声をかけて、俺の方を振り向いた。

「では先生、お願いします」

 俺は頷き、部屋に足を踏み入れた。

 敷かれていた葡萄色の絨毯は毛足が長く、歩いた際の感触や音を全て吸収してしまう。まるで雲の上を歩いているかのようで、少し落ち着かない。


 近づいていっても喜久子の様子に変化はなく、身じろぎ一つしない。

 俺は彼女の傍で、顔を覗き込むようにして話しかけた。

「こんにちは、喜久子さん。わたしは精神科医の風炉井時幾です」

 話しかけても、喜久子は変わらず虚空を見つめている。俺という存在をまったく認識していないのだ。


 こういう状態の患者の治療法は、ほとんどないと言っていい。

 できることといえば外部から刺激を与えて反応を見る程度の、原始的なものだ。

 それを金之助に伝えると、彼はがっくりと肩を落とした。

「……つまり家内は、ずっとこのままなのですか?」

「いえ、そうと決まったわけではありません。放心状態の患者がある日突然、感情を取り戻すまでに回復するというケースはいくつもあります」


「ただ待つしかないのですか?」

「先ほど言ったように、できることはあります。喜久子さんの今までの人生で得た記憶に関するものを見せたり聞かせたりして、あるいはそれに類する匂いを嗅がせてあげることで、停止している精神に働きかけて感情を呼び起こす、といった方法があります」

「懐かしいものや、好きなものを見せたり聞かせるということですか?」


 肯定しかけたが、ふと閃くものがあって思いとどまる。

 僅かな時間で思案し考えをまとめ、ゆっくりと語った。

「そうとは限りません。人生とは楽と苦の両方があるものです。記憶とは楽しいものばかりではなく、苦しかったり嫌な経験も含まれます」

 金之助は困惑した表情で首を傾げる。

「嫌な経験……。しかし虫を見せたり、リンバーガー・チーズの臭いを嗅がせたところで感情が戻るとは思えないのですが」

「そうですね。しかしあえて苦しい記憶に訴えかけるのは、あながち的外れな治療法ではないのです。好ましい出来事よりも、辛かったりショックだった出来事の方が意外と記憶に残っているものですから」

「まあ、言われてみればそんな気もしますが……。例えば、具体的にどんなものでしょう」


 固い唾を飲みこみ、俺は喜久子に聞こえないよう小声で言った。

「喜久子さんなら……そうですね、例えばまほろちゃんのこととか」

 金之助の表情がたちまち強張り、声を抑えて訊き返してきた。

「……まほろの、こと」

「はい。もしも喜久子さんがまほろちゃんのことで心の傷を負っているなら、それは感情を起こす呼び水になり得ます。そもそもまほろちゃんの存在が心的外傷となっているなら、それ自体も治療すべきです」


「ううむ……」

 金之助は腕を組み、唸り始めた。

 そんな彼の前に仁史は立ち、目を合わせるようにして言った。

「ご主人様。わたしも風炉井様のおっしゃる通りにすべきだと思います」

「……仁史」

「無礼を申しているということは重々承知しております。ですがこのまま一生、奥様からお嬢様を遠ざけ続けるのはあまりに酷ではないでしょうか」

「……そう、だな」


 金之助はしばしの沈黙の後、重々しく口を開いた。

「……分かりました。まほろのことを、伝えてみてください」

「よろしいんですね?」

「はい。先生にお任せします」

 俺はしっかりと頷き、喜久子に向き直った。

 彼女は俺達がすぐ近くで話していたにもかかわらず、さっきと変わらぬ方向をぼうっと見ていた。

 俺は喜久子の目を見て話しかけた。

「……喜久子さん、聞こえていますか?」


 予想通り、反応はない。

 だが構わず、俺は続ける。

「一つ、お尋ねしたいことがあるんです」

 そこで言葉を切り、一度深く呼吸して訊いた。

「……あなたには、まほろちゃんというお子さんがいますよね?」


 しんと部屋が静まり返る。

 俺達はじっと喜久子の様子を凝視していた。

 一見、変化はないように思えた。

 しかし彼女の目は次第に淡い光を取り戻し、唇が微かに震え始めた。

「……きく、こ?」

 金之助が恐る恐る妻の名を呼ぶ。

 だが呼びかけには反応せず、喜久子は水を掻き分けるように交互に手を伸ばした。

「……まほろ」

 喜久子は娘の名前を確かに呼んだ。


 一度声が出れば、後は水が湧き出るように、彼女の口から言葉が紡ぎ出された。

「まほろ、まほろ……どこ。まほろ……わたし、わたし」

 彼女の目から、一滴の涙が溢れだす。

「わたし、あなたに謝らなければいけないのに……」

 そう言うなり喜久子はその場にへたり込み、顔を覆いむせび泣きだした。

「喜久子……喜久子!」

 金之助も涙を流して、喜久子の傍に駆け寄り、彼女をぎゅっと抱きしめる。

「よかった、本当によかった……!」


 しばし喜久子はされるがままになっていたが、やがて彼女は辺りを見回し、夫に問うた。

「あなた……。ねえ、あなた、まほろは?」

 しかし金之助は答えず、ただ「よかったよかった」と繰り返すだけだった。

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