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一章その10 火事

 金之助に続いて屋敷の中に入る。

 空調の涼しい風を受け、うだるような熱が吹っ飛び生き返った気分になる。

 玄関ホールははニスを塗った木材をベースに作られた、落ち着いた空間が広がっていた。

 仄かに香ってくる木の香りも、訪問者の緊張を緩和してくれる。

 壁にかかった絵画や天井からつるされたシャンデリアなど高価な品も見当たるが、派手すぎる装飾はなく、どこか明治風の空気が漂っている。

 大きな柱時計が立てるカッ、カッという音以外には何も聞こえない。人の気配はするから、きっと誰かいるのだろうが……。


 金之助の後をついていき、階段を上っていく途中。

「……えっ?」

 踊り場の壁にかかっていた、一枚の絵画を見た瞬間。後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。

 それは質感を感じさせる美しい油絵だった。

 ソファに座った一人の少年が、絵の外から伸びてきた二本の腕に抱かれている。油絵ゆえに一つ一つの色味が濃く、しかしパステルな配色と無の空間を意識した画面作りから柔らかな印象を受ける。


 落ち着いた玄関ホールの雰囲気にその絵は馴染んでいた。

 だがどこか違和感を感じさせる。

 一枚の絵画として完結していない、不自然極まりない構図。

 キャンバスの縦と横の長さが同じ正方形という、絵画では珍しい形。

 そしてその少年の顔……。

 じっと見ている内に、俺はぽつりと漏らしていた。

「……『愛しき君とのひととき』」


 金之助は振り返り、目を円くした。

「ほお、この絵をご存知でしたか」

 慌てて口を押さえたが、すでに金之助と仁史の目はこちらを見やっている。

 観念して俺は言った。

「ええまあ、昔見たことがありまして」

「そうでしたか。いやいや、さすがお医者様。美術方面の知識もおありなんですな」

「そんなことはないです。ただ、この作者の絵が特別好きなだけです」


 俺は金之助の顔から、絵に視線を移した。

「確かこの絵には、上部分もありましたよね? 腕の主の姿が、描かれた部分が」

「……はい、先生のおっしゃる通りです」

 暗く落ち込んだ声で金之助は言った。

「残念なことに、火事の際に一部分が焼けてしまったのです。発見された時、絵は壁から外れて床に落ちていました。今壁にかかっているのは、運良く残った部分を修復したものです」

「火事……ですか?」

「はい。七年前のことです。今思い返しても、恐怖で震えそうになります……。揺らめく赤い焔が何もかも呑み込んでいく様といったら恐ろしくて……。そのせいで以前の家はほぼ全焼してしまって、ここに越してきたんです」

 火事と『真空発火』。それ等が頭の中で焔という言葉で繋がれる。

 これは偶然なのだろうか?


 ふと視線を感じ、見やると金之助がじっとこちらを凝視していた。

「そういえば、絵の中の少年と先生はどことなく似ておりますな」

「……気のせいでしょう」

 俺は踊り場に飾られた花を見るふりをして顔を逸らした。


「……ご主人様、そろそろ診察に入ってもらわなければ、お時間が」

「おお、そぉだった、そぉだった」

 金之助は頭を掻いて言った。

「すみませんね。すっかり忘れていましたが、この後も用事がありまして」

「どこかにお出かけなさるんですか?」

「ちょっと取引先の方と約束をしてるんです。今頃社員は休んでいるんですがねえ、まったく社長はとんだブラック役職だ……って、先生も同じでしたね。なーっはっはっは!」

 わざとらしい大笑いをして、金之助は階段を上っていく。

 後ろ髪を引かれるような気分だったが、俺も彼等の後を追った。


 歩いている最中、廊下の至る所に消火器を見つけた。せっかく落ち着いた雰囲気を作っている内装が台無しになるぐらい、たくさん。

 金之助はどうやら、火事に対して相当な恐怖心を抱いたらしい。




 金之助はまず俺を客間に通した。

「お時間がないのでは?」

 メイドがテーブルに紅茶とケーキを出すのを見つつ、俺は訊いた。

「お客様にお茶の一杯も出さないのでは、失礼ですからな。それに用事まではまだ時間があります。仁史は少しせっかちなんですよ」


 金之助はケーキに早速手を伸ばし、モリモリ食べ始める。

「甘いものがお好きなのですか?」

「というよりも、食べることが趣味なんですな。多忙な身なのでね、こういうことにでも楽しみを見出さなければ無趣味街道一直線ってなわけですよ。先生は食事は好きですか?」

「まあ、それなりに」

「ほう、先生とは趣味が合いそうですな。今度一緒に、何か食べに行きますか?」

「……機会があれば」


 次に何か言われる前に、先手を打って質問を投げかける。

「そういえば芸術を鑑賞するのはご趣味ではないのですか? 絵画を飾っておいででしたし、そちらの方面もお好きなのかと」

「まあ、美しいものを見るのは好きですがな。しかしわたしぁ、この世で唯一無二の絶対の美というものをすでに知っていましてな。それに敵うものなんてありますまい」

「というと?」


 金之助はにっと笑い、スマホを取り出し画面を俺に見せつけてきた。

 そこには金之助と、一人の女性が映っていた。

 誕生会のものだろう。『ハッピーバースデー喜久子』と書かれたチョコレートプレートの乗ったケーキが二人の前の机に置かれている。

 ケーキはホール状で、大きさは四号とやや小さいサイズ。上面の中央に、派手なデザインのキャンドル型のLEDライトがささっていた。


 金之助の横にいる女性の髪は短く、少しやせている。

 年齢は手の皴や血管の浮き出具合を見るに、三十代半ばぐらいか。とはいえ注意深く観察しなければ、二十台前半といっても通用するだろう。

 老いが自ら遠慮して隠れているようにさえ感じられる。なかなか興味深い人物だ。

 整った容姿からは、どこかまほろの面影が見て取れる。


「彼女があなたの奥さんですか?」

「ええ、そうです。きれいでしょう」

 自慢げに金之助は言う。


 確かに喜久子はきれいだ。しかし魅力を感じるかというと、そうでもない。

 彼女の表情から感情が完全に抜け落ちているからだ。

 隣にいる満面の笑みを浮かべた金之助と比べると、もう死人のようにさえ見えた。

 特に喜久子の目は人間のものとは思えないぐらい無機質だ。

 人形のような空虚な眼差しが、写真の向こうから俺を見つめている。

 空調がききすぎているせいか、寒さを感じて身震いしてしまった。

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