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序章

 朦朧もうろうとした意識で眼前の光景を捉えた。

 紅焔が燃えていた。


 生命の象徴、あるいは地獄の眷属である焔。

 焔は酸素を取り込み、勢いを増していく。

 それは龍の舌のように、空気を舐め回す。


 火の粉が跳んできて、肌に触れる。熱さを通り越して痛みすら感じた。

 息が苦しい。煙が室内に蔓延し始めているのだ。


 幸いこの部屋は、こういった異常事態に備えて特殊な作りになっている。バカ高い額の金を使って造られているだけあって、この程度の焔じゃ壁や天井、床には焦げ目一つつかない。

 ただしそれは建築物の話であり、人体の安全は保障してくれない。

 今、俺が身に纏っているのは綿のワイシャツにウールのズボン、クレアシオン生地の白衣。お世辞にも耐火性に優れているとは言えない。


 いや、あと一つ。手を覆っている、黒いグローブ。生地はガンツフェルト。

 ある特殊な遮断性能を持つが、物理的に何か防いでくれるわけではない。

 焔の弾ける音が時折響くが、それは美しい音色の奔流がすぐさま飲み込んでいく。

 フレデリック・ショパン作曲『幻想即興曲』。

 部屋の隅にあるサイドテーブルの上に置かれた古いCDプレーヤーが、大音量のリピート再生で幾度も幾度も演奏を繰り返している。


「もう、もう嫌だ……!」

 幼い少女の叫びが、耳に飛び込んでくる。

 渦巻く焔の向こう、小さな黒い影。

 揺らめく焔が遮っているせいでシルエットのようにしか見えないが、少女が顔を覆いへたり込んでいることは分かった。


「死にたい……、もう死にたいよぉ」

 その一言を耳にした瞬間、たちどころに意識が回復し、俺の中で何かがプツリと切れた。


「テメェ……、今何て言った?」

 シルエットが反射的に体を震わせる。

 少女が俺の声に怯えていることは分かったが、一度動き出した口は止まらずに言葉を紡ぎ続ける。

「死にたいだと? ふざけんじゃねえ……」


 シルエットは顔を上げ、嗚咽混じりの哀れな声で叫ぶ。

「ふ、ふざけてなんかないよ!」

「だったら、どうして死にたいなんて言う?」

「もう……嫌なんだもん。わたしのことをみんな、バケモノって言うの……。この力のせいで、お父さんとお母さんはわたしのことを怖がって、お家に入れてくれなくなっちゃった。前まで一緒に遊んでくれてたお友達も、みんな離れて行っちゃった。全部全部、この力がいけないんだもん。もうこんな力を持って、生きていきたくなんかない!」


 焔の切れ間から少女の姿が見えた。

 幼いながらも整った顔立ちは悲しみに崩れており、長い黒髪が乱れ幾本か濡れた頬に張り付いていた。

 カチューシャのカチューシャの装飾のクリスタルが、眩い焔の光を受けて涙のように光る。

「確かにテメェの境遇は同情に値するさ。けどな……死にたいって言葉は許さねえ」


 少女に向かって一歩踏み出すと、彼女は顔を引きつらせて叫んだ。

「来ないでッ!」

 少女を取り巻く焔が首をもたげ、こちらを向く。

 本来焔に意志などあるはずがないが、それは間違いなく俺を見ていた。もしもあと一歩でも近寄ればどうなるかは、肌に感じる熱から容易に想像できる。


 少女は震える声で告げてくる。

「それ以上近づいてきたら……死んじゃうよ」

 とぐろを巻き、こちらの様子を窺う焔は一匹の大蛇……、住宅一軒分の広さを持つ室内の半分を占める巨体はもはや竜か。こいつに食われたら少女の言うように、瞬く間に焼死体に成り果てるだろう。


「だがそれはありえない」

 俺はさらに一歩を踏み出す。

 その瞬間、獄炎の竜は顎を開き、灼熱の口腔を覗かせて俺に迫ってきた。

 眼前が紅一色に染まり、燃焼のくぐもった音が耳朶を掻き毟る。

「イヤァアアアアアッ!」

 少女の悲鳴が室内に響き渡った。

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