4-21『二度目の博士』
第四章
第二十一話『二度目の博士』
黒。
黒。
黒。
ただ、そればかりの世界。
大樹の核に触れた私は、あの時と同じように、瞬きの間もなくそれまで居た場所とは違うところへ移動していた。
初めてここに来たときは戸惑いばかりだったけど、二回目になれば少しは冷静になれる。
まあ、多少冷静になったところで、あの時以上の何が判るわけでもないんだけど。
なんせ周りはただ漆黒なだけの空間。
せめて何かしら景色があればヒントとして捉えられたかもしれないけど、ただただ黒く塗り潰された状態じゃ、そういうものも期待できない。
第二の異界で最後にくぐったドアの先も同じように暗闇だったけど、それと比べてもやっぱりここは異質だった。
黒という色や、自分以外は誰も居ない空間っていうものにも種類があるんだって、この場所を体験して初めて知ったと思う。
相変わらず身体の内側を食い潰してくるような冷たさを湛えた黒い空間の中で、私は一つ、深呼吸をした。
大きく吸い込んだ空気は、冷たくも暖かくもない。
一人きりの不安を、噛み締めた奥歯ですり潰して、進む。
一歩一歩、先に進むんだって意識しながら。
景色が黒いまま変わらないと、自分の足で歩いてるのに、進んでるのかどうかよく判らない。
それでも先へ、先へと足を進めてると、いつの間にか黒以外の色が見えるようになってきた。
これも、あのときと同じ。
下から何か白いものが浮き上がって、そして上から降ってくる。
文字のような、記号のような何か。
二回目だし、今度は少しくらい読めるかと思って目を凝らしてみたんだけど、やっぱりそれがなんなのかよく判らない。
例えるなら、見たこともない国の文字が、つらつらと流れていくみたいな。
王宮の図書館でこっちの文字を幾つも見たけど、それとも違う気がする。
それに、やっぱりこの景色を……いや、この場所のことを、私は知っていると、そう感じた。
前の異界の最奥でも同じだったとか、そういう話じゃない。
あの時も感じた既視感が、確かにある。
一つ溜め息を吐いて、今回もそれが何か見極めるのを諦めた。
考えれば答えが出るものなら考え続けるけど、そうじゃないなら頭を切り替えたほうが建設的だ。
何せ今は自分しか居ない。
私が一人で考えられる容量なんて、たかが知れてる。
そう割り切って、先に待ってる人とのことを考えたほうが、きっといい。
この先に、あの人が居る。
『なんでも知ってますよ』って雰囲気を出しておきながら、大したことも話してくれない、『博士』と名乗る人が、きっと居る。
そんな確信めいたことを感じながら、私は歩き続けた。
異界に行って大樹の核に触れるのが稀人に望まれる役目なんだとしたら、その先にある『博士と一対一で対面すること』もきっと役目の一つなんだろう。
なら、やっぱりちゃんと果たさないと。
それにどんな意味があるのか、私には判らなくても。
可能な限り、ここであったことを憶えて持ち帰れば、そこに意味を見出してくれる人たちが居る。
結局他力本願かよって自分でも思うけど、それぞれ役割があるってことで割り切ることにした。
一人でなんでもできるなら、人は群れる必要なんてない。
特に私なんて、周りの人たちみたいに秀でた一芸も持ってないんだから。
無理に抱え込んで結局何もできませんでした、なんてことになったら、目も当てられない。
懸かってるのは、この世界そのもの。
私の中にある記録の中の世界と比べると、随分狭い……閉じた世界でも。
それでもここは、優しい人たちが暮らす場所だ。
私にできるなら、救いたい。
少しずつ白いものが増えていく中を真っすぐに歩きながら、私は手を強く握り締めた。
ああ、そうだ。
私はあの世界を救いたいと、そう胸を張れる。
それだけのものを、みんながくれた。
生まれはここじゃない、記憶もない、性別だってあやふやな私を、それでもみんな優しく受け入れてくれて、この手を握ってくれた。
自分の居場所だとか、他に道がないとか、そういう理由だって勿論頭の中にあるけど。
それだけじゃない。
「やあ」
あの時と同じように、唐突にはっきりと聞こえてきた声。
こればっかりは二回目でも慣れなくて、反射的にきょろきょろと辺りを見回してしまった。
そして視線を正面に戻したら、やっぱりあの時と同じように一人の人影がそこに在る。
声が聞こえたその瞬間には、確かに居なかった。
まるで前の記憶をもう一度目の前で繰り返されてるような、そんな奇妙な感覚。
これが繰り返される記憶の再生じゃないと判断できるのは、正面に現れた人の姿が、前とは少し違っていたからだ。
「ほら、僕らはまた会えるって言っただろう?」
そんなことを言いながら笑みを刻むその顔は、『二番目の異界で会った大樹の核』のものだった。
相変わらず白黒で、服も着てない姿を堂々と晒してるけど、その姿は最初に会ったときとは違っていた。
だけど、声は同じだと思う。
いや、これは少しおかしい。
目の前に現れた姿が別人なら、『姿は違うのに聞き覚えのある声がする』って感じるのが普通じゃないだろうか。
そう思いはするんだけど、今の私の正直な感想としては、『博士と名乗った人が別人の姿で目の前に居る』が正しいんだ。
それは小さな、取るに足らないちょっとした違いなのかもしれない。
だけど私は、そう感じたことを隠さずに報告しようと心に決めた。
この世界を司る、その頭脳たる人たちに。
隠さず。
偽らず。
漏らさずに伝えよう。
ああ、もしもあの人たちが私を利用できるだけ利用し尽くそうと思っているだけなら、私はどれだけ都合のいい存在だろう。
だけど、もう、それでもいい。
もしもみんながみんな、私を『稀人』という名の便利な道具としてしか認識してなかったなら、喜んで使い潰されよう。
『逃げ出したいときは教えてくれ、きっとなんとかする』と言ってくれたヒールの言葉さえ作られたものなら。
私は、その言葉を抱いて死ぬ。
「もう一度、お帰りと言おう」
余計なことを考えていて、何も応えられなかった私に、その人は……博士は、あの時と同じ言葉を告げてきた。
その言葉は、やっぱり私の神経を逆撫でする。
「前も言いましたけど」
握り締めていた手を更に強く握って、私は博士を見た。
「こんな場所が『帰る場所』だなんて、私は知らないし、認めたくない」
あの時は、ただ感情に任せて叫んだ言葉だ。
今だって、叫んでしまいたい衝動もある。
それをぐっと腹の奥に飲み下して、私は前を同じ言葉を繰り返した。
何度、此処で、貴方に『お帰り』と言われても。
それに『ただいま』と返せはしない。
「あはは! いやあ、面白い。実に面白い」
パン! と一つ手を打ち鳴らして、博士は笑みを深くした。
「君の主張はよく判ったよ」
一糸纏わぬ姿でありながら、実に堂々とした態度でそう言い切って、博士は私を見る。
「君は『ただいま』と言いたくない。その主張を僕は受け入れよう。その代わり、僕が『お帰り』と言うのも非難して欲しくはないね」
「は、あ?」
今、なんて言ったの、この人?
「僕は君に『お帰り』と言いたい。君はそれに『ただいま』と返したくない。お互いの主張を一つずつ受け入れるんだ、実に平等な話じゃないか」
「は……?」
人差し指を立ててそんなことを言われましても、すぐには飲み込めないよ?
そもそも私は『お帰り』って言われること自体が不快なわけで……って、そういえば言われること自体が不快とは言ってない、のか?
いやいやそれでも普通は察するだろ。
「一対一の等価交換だ。問題はないね」
さらっと完結させて、うんうんと頷く博士を見ながら、私は言葉の一つも出せずにいた。
なんていうか、常識が違うっていうか、ものの見方の尺度と角度が違うっていうか、理系の学者と文系の学者が専門的な話をしたらこうなるのかもしれないっていうか。
なんだかよく判らないけど、毒気を抜かれたような気分になる。
まあ、毒気の一つくらい、抜かれたほうがいいのかもしれないな。
肩に力が入ったままじゃ、相手が博士じゃなくたって巧く会話ができない。
意識して静かに深呼吸をする。
強く、強く握りしめていた手を、ゆっくりと開く。
思ってたよりも力が入ってたらしい手は指先が巧く動かなかったけど、意識して力を抜こうとすれば少しだけ開いてくれた。
「さて、今回も君に訊きたいことがあるんだけどね」
私が深呼吸し終わるのを待ってたみたいなタイミングで、博士はそう声を掛けてきた。
反射で身構えてしまった私に、博士は静かな笑みを浮かべる。
「圧倒的多数からはぐれて、己が血を残せない命は、どうしたらいいと思う?」
博士の問い掛けは実に淡々としていて、一定の個人を連想させるようなものじゃなかった。
実際に問い掛けられた私も、この異界で会うことになった三つの物語をそれぞれ思い出すことになったんだけど。
けど、それよりも強く脳裏に浮かんだのは、サンシュの姿だった。
獣人族は短命である代わりと言わんばかりに、子沢山が普通の種族らしい。
その長として立つ立場でありながら、サンシュは『種の根絶』なんて『呪い』に侵されてるせいで、実子を授かることがない。
博士の『圧倒的多数からはぐれて、己が血を残せない命』そのものだ。
「君は見て来ただろう? あらゆる意味で、自分の血を残せない命を。それらが縋ったものを」
博士の言葉が、半分くらい耳と脳を素通りする。
富める夫人も、貴族の男も、貧しい夫妻も。
もしも彼と……サンシュと同じだけの強さを持てたなら、きっと結末は違っていた。
「……たった一人の血が、それほど高貴ですか?」
『別に、『俺』の血を残さなきゃならねえわけじゃねえだろうが』
あの時と同じ。
想像の中のファービリアさんの言葉を借りたのと同じように。
私は、想像の中のサンシュの言葉を、自分の言葉に置き換えていく。
もしもこの場にサンシュが居て、同じ問い掛けをされたら、きっと彼ならこう言うだろうって思う言葉。
それは何処まで行っても私の想像でしかなくて、結局は自分の言葉なんだって判ってるけど。
それでも。
ただの妄想でも。
貴方の手を借りたいと言う私に、きっと彼は笑って頷いてくれるから。
結局は私の心の言葉だって判った上で、『言ってやれ!』って背中を叩いてくれると思うから。
だから、言葉を続ける。
「自分の血は、過去の多くの人たちが生きてくれた、作ってくれた結果だと思います。それは確かに尊いものでしょう。だけど、それを持つのは自分だけじゃない」
『ご先祖様にゃ感謝もしてるし、俺は自分が産まれたことに、生きてることにも感謝するさ。だけどな、同じ血が弟妹にも流れてんだよ。俺ら以外の奴らだって、過去を受け継いできたってのは同じだろ?』
私の想像の中で、サンシュは笑みを浮かべて胸を張る。
「どうしても血を絶やせない人たちは、それを理解して幾つも選択肢を残してた」
生き方を血統でしか証明できない人なら、いつだって幾つも『代替品』を用意してきた。
言い方が悪いって自分だって思うけど、兄が残せないなら弟、息子が残せないなら遡って叔父や叔母に戻るっていう選択肢がある。
多くの選択肢があればあるだけ、『次代の長』を選ぶときの禍根になることも、充分よく判ってるけど。
それでも『この血を残すこと』に重きを置くなら、多くの『候補』を持つのは当然の保険だ。
「自分に遺す力がないなら、遺すだけの何もないなら、早々に諦めるべきだった」
『できねえならしょうがねえだろ。他の奴らに任せるわ』
一族の長でありながら、一族が普通にしていることができないサンシュは、どんな気持ちなんだろう。
そう思うことは今までもあったけど、私の想像の中の彼は、朗らかに笑う。
『俺は俺だ。子供ができねえ、血を繋げねえって部分も含めて、俺だ』
獣人族としての常識も、四方領主の長としての常識も、きっと私に感じさせることなく、サンシュはそう言って笑うんだ。
豪快に、朗らかに。
私が何も言えなくなるくらい、当たり前みたいな顔をして。
本当はできたはずのことを、羨む表情の欠片すら見せずに。
「我が子を売ることでしか生きていけない世界なんて、有り得ない。もしあるなら、早々に離脱したほうがいい」
最後に告げたこの言葉は、想像のサンシュの言葉じゃない。
これはきっと、ヒールが言いそうな言葉だ。
『子供を売ることに味を占めるような統治、間違ってるわ』
もしもそうすることでしか生きていけない村ならば。
あの村は、数十年ももたずに廃れたはずだ。
あの細い獣道も、枯れた畑もない。
誰もが子を産んで売り、次を繋ぐ者もないままに廃れていく、村とも言えないものだったはずだ。
だけどあそこは確かに村だった。
許されざる道を選んだのは、あの貧しい夫妻だけだ。
どんな悲壮な声で叫ぼうと、彼らが選択したことは。
過ちだと、私は思う。
続




