4-20『二番目の核』
第四章
第二十話『二番目の核』
サンシュに抱えられての高速移動がどのくらい続いたのか、正確なところはよく判らない。
いつまでこの状態が続くんだろうって思う暇も余裕もなかったような気がするけど、不意にその移動は終わりを告げた。
走り出したときと同じくらい唐突に、ぴたりとサンシュの足が止まる。
その途端、腐臭が強く鼻の奥に突き刺さった。
高速で移動してたときには感じなかったっていうか、気付かなかった。
とにかく急激に、猛烈に鼻の奥を刺激する腐敗臭に、喉の奥が鳴る。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
心配そうなサンシュの声に、私は込み上げてきた吐き気を飲み下しながら頷いた。
前の異界だと歩きながらこの腐臭に慣れていったけど、急にこの強い匂いに晒されると結構きつい。
まあそれでも、慣れるしかない。
私よりもずっと嗅覚が優れてるサンシュが平気な顔をしてるのに、耐えられないのも情けないし。
静かに息を吸い込みながら、改めて視界に映るものを見つめる。
相変わらず白い雪と黒い影ばかりの景色だけど、それ以上に目を引くものがあった。
白黒の大樹の幹に、人の上半身を生やした何か。
言葉で表現するなら、そうとしか言えないもの。
前の異界でも見た、色のない大樹の核。
辺り一面、枯れた雪景色っていう中で、それでも白黒の違和感は大きかった。
「聞いてた話と同じだな?」
「うん」
小さく首を傾げるサンシュに、私は素直に頷く。
大きな木の幹に、下半身が丸ごと埋まったような状態で、力なく項垂れているその姿は、前の異界で出会った核とよく似ていた。
ただ、ぱっと見で明らかに違う部分もある。
前に見た西の大樹の核は随分長い髪を無造作に垂らした感じだったけど、今回は肩口くらいまでしかない。
それでも項垂れてると顔は完全に隠れてしまって、どんな表情をしてるのかは見えなかった。
細く華奢な身体には、西の大樹の核よりもはっきりと膨らんだ胸があって、この人も女性なんだな、と思う。
人、と言ってしまっていいものか判らないけど、少なくとも上半身は私の知る人間と何も変わらないと感じる。
上半身の姿形だけで言うのなら、純粋な獣人族のほうが私の常識と照らすと異質だ。
「下ろすぞ?」
「あ、うん、ありがとう」
低く呟かれて、私は反射的にお礼を告げる。
ゆっくりと地面に私を下ろしてくれるサンシュの手付きは、普段の豪快さからは想像もできないくらい優しくて慎重だった。
まるで壊れ物でも扱うような、繊細ささえ感じるその動き方を、私は知ってる気がする。
……ああ、リクもこんな風に私を扱ってくれるっけ。
彼の腕に座るような形で抱き上げられたことはないけど、何かと支えられることは多かったから判る。
逞しく鍛え上げた人たちは、そうじゃない人を扱うときに似た感じになるのかもしれない。
そんなことを頭の片隅で思いながら、私は雪の積もった地面を踏みしめる。
きゅう、と高い音をたてて足元の雪が踏み固められるんだけど、何故だか現実味が全くなかった。
作り物めいたこの感覚は、前の異界とやっぱり似てる。
「おい、そこの姉ちゃん」
唐突に、サンシュが大樹の核に声を掛けた。
仮にも西の領主が人に声を掛けるにしては、随分乱暴っていうかなんていうか、と思いはするけど、サンシュだから当たり前みたいにも感じる。
ここにもしウェルバニーさんやファービリアさんが居たら、皮肉の一つも言いそうなもんだけど。
「聞こえてっか?」
幸か不幸か、サンシュを止めるような人も咎めるような人も居ないもんだから、彼はもう一度ざっくばらんに声を掛ける。
二度目の呼び掛けで、大樹から生えた彼女は小さく身じろぎした。
そんなところも、前と同じだ。
ゆっくりと、ゆっくりと。
酷く緩慢な動きで、大樹から生えた彼女が顔を上げる。
顔立ちは西の大樹の核と違うけど、何処か似た雰囲気を感じるような気がした。
なんていうか、姉妹って言われたらそうだろうな、って思う感じ。
こっちを見たその目はやっぱり、前と同じ。
輪郭だけが黒い、そしてそれ以外は無色透明なビー玉みたいな目が、私たちを捉える。
「よう」
軽く手を挙げて、サンシュはにい、と笑った。
「俺はサンシュクリット・フォートレイト。こっちはアディだ。アンタは?」
言葉遣いの差はあるけど、ファービリアさんと同じことを言って首を傾げるサンシュを、透明な瞳が瞬きもせずに見つめる。
何度か喘ぐように唇を震わせる彼女のことを、私たちはただ黙って見つめ返した。
『……た、は……』
高く、掠れた声。
『わたし、は』
確かに唇が動いて、音として耳に届いてるはずのその声は、前と同じように夢の中から語り掛けられてるような不確かさだ。
『私は、北に、在るもの』
そうして告げられた言葉は、前と同じように雲を掴むようなものだった。
だから、『北に在るもの』ってなんだよ。
「……成る程な」
それ以外、何も告げようとしない彼女を見ながら、サンシュが小さく溜め息を吐いた。
それから緩く私を振り返って、苦笑を浮かべる。
「なんでかな。コイツがお目当ての奴だって、俺には直感で判るんだわ」
それはきっと、ファービリアさんが『そうだ』と判ったのと同じもの。
言葉で言い表すことのできない、肌で感じる直感。
他の種族と比べても、その『直感』ってものに抜きんでてる獣人族の長、サンシュの言葉は、言語化できる裏付けがなくても信頼できるものだと思う。
「うん」
前のときもそうだったから、きっとこれが大樹の核だ。
そう言おうと思った言葉は、喉の奥に留まった。
その代わりに、目の前のサンシュを全面的に信頼した、たったひと言だけが口から零れる。
大樹の核に会うなんてこと、今を生きてる人の誰も体験したことのないことだ。
前と状況が似てるからって、目の前の彼女が間違いなく目当ての存在だとは言い切れない。
だけど、サンシュが『そう』だと思ったなら、きっと間違ってない。
「行くね」
私がここに来た理由は、大樹の核に触れることだ。
そのあと、きっと自分一人だけで博士と会うことになるって判ってるけど、ここで尻込みしてても始まらない。
「いい度胸だ」
迷いもなく言った私に、サンシュは穏やかに微笑んで、そっと手を差し出してくれた。
ファービリアさんは、『済まない』と何度か言ってくれた。
悪いけど。
申し訳ないと思ってるけど。
だけど役目を果たして欲しい。
高貴な方が私にそう言ってくれることを、ある種の特権みたいに感じてたんだと、この瞬間に理解した。
サンシュの手を取って、私は北の大樹の核を見る。
ファービリアさんの言葉に不服があるわけじゃ勿論ない。
ただひと言の謝罪を告げることすら政治的な諸々がある人からの気遣いに、私自身が甘えてたんだと理解しただけだ。
そんなつもり、欠片ほども自覚はなかったけど。
だけど、きっと、心の何処かで甘えてたんだろう。
私はこの世界に喚ばれて来た身で、ただのお客様だって。
それで『みんなほど強くなれなくても、せめて稀人と呼ばれることに誇りを持ちたい』とか、よく言えたもんだ。
「行ってくるね」
サンシュを見上げて、私はもう一度そう言って微笑む。
前と同じなら、白黒の彼女に触れたら、私は博士が待つ空間に飛ばされるだろう。
誰一人私を護ってくれる人の居ない、自分以外に頼れる相手の居ないあの空間に。
今こうして手を取ってくれてるサンシュも、そこには行けない。
「おう」
それでも行くんだと微笑う私に、サンシュは惚れ惚れするほど穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「強い女ってのは好みだぜ?」
「はは、ありがと」
茶化すような言葉に、私は心からのお礼を返す。
気を紛らわせてくれようとしてる、その優しさが素直に嬉しかったから。
私はサンシュに手を引かれるようにして、北の大樹の核にゆっくりと近付いていく。
意識してゆっくり歩いてるわけじゃない。
足首くらいまで積もった雪に慣れなくて、滑って転ばないように慎重に歩くとそんな風になっちゃうだけ。
ううん、私って元の世界でも雪国生まれってわけじゃないんだろうなあ。
きゅう、きゅうと新雪を踏みしめる音を一歩一歩聞きながら進みつつ、心底どうでもいいことを考える。
……いや、本当はどうでもよくはない。
記憶がないせいか郷愁ってものと縁遠い私だけど、本来はこの歳まで生きてきた場所があるはずなんだ。
帰りたいと願うか、もう帰りたくないと嘆くはずの場所が。
だけど私には、その場所の記憶がない。
両親も、友人も、存在したのかすら定かじゃない。
だから、思い描くべきその場所が、白く輝くものなのか、それとも黒く塗り潰したいものなのかも判らない。
深く考えてしまったら、きっと歩くことができなくなるから。
そこに帰りたいと思う私も、この世界に縋りたいと思う私も、きっとただ泣き喚くだけだから。
だから、今はこのままでいい。
『稀人』としてこの世界で望まれることを果たすまで、曖昧な存在でいい。
戻りたいと望む自分も、還りたいと望む自分も、必要ないから。
「……あの」
少しずつ近付く大樹の核に、私は呼び掛けた。
近付く毎に強くなる腐敗臭は、西の大樹の核に感じたものによく似てる。
血でできた大粒のブドウみたいな、甘くて嫌悪感のある、独特の腐敗臭。
「触れても、いいですか?」
前は訊けなかった。
そんな余裕なんてなかった。
だけど二回目ともなれば、少しは口が動く。
『……』
黒い線で縁どられたガラス玉みたいな目が、じっと私を見つめる。
薄い唇は、微かにも動かない。
私じゃまともな会話は無理か、と思った矢先。
『……せい、を』
ただひと言。
整った薄い唇が、そう吐き出した。
せい。
生?
性?
聖?
精?
正?
同じ音で、違う意味が脳裏を駆け巡る。
この時ばかりは、私の知る『日本語』がこの世界の共用言語であることを恨んだ。
同じ音で別の意味を持つ単語の多さでいえば、他の言語と比べて圧倒的だと思う。
『くだ、さい』
戸惑う私に、彼女は静かな口調で続けた。
何を望まれてるのか、正確なところは判らない。
だけど、彼女は私が触れることを望んでる。
それだけは判った。
「はい」
こくりと頷いて、私は更に足を踏み出す。
いつの間にか、手を取って歩いてくれてたサンシュを追い抜いて、その手を離すことになってたことに気付いたのはその時だ。
ああ、前もそうだっけ。
絶対に護る。
そう言って優しく微笑んでくれたファービリアさんの手を、私は最後に離していた。
今、この時も。
態度で『必ず護る』と示してくれてたサンシュの手を、最後には離してる。
それは私が先に進み過ぎたからなのか。
それとも、彼が『これ以上先に進めない』と感じた一線があるからなのか。
それは、判らない。
ただ、判るのは。
白黒の細い手が持ち上がって、私に伸ばされてるこの光景が同じだっていうこと。
あの時は、私に触れようとするその手を、身じろぎもせずに受け入れた。
だけど今の私は、その手に触れようと自分から手を伸ばす。
黒い輪郭で作られた白い指に、自分の手が絡んだ。
イイイイイインン───!
高い、高い耳鳴り。
あの時と同じだ、と思う暇があったかどうか。
視界が急に変わった。
続




