2-19『何処とも知れない草原にて』
第二章
第十九話
『何処とも知れない草原にて』
『教えておくれ』。
その言葉を聞いたのは、初めてじゃない気がした。
銀色の大樹の上で目を覚ましてからの記憶をどう思い出しても、誰にそんなことを言われたのかは判らない。
だけど、私はいつか、何処かでその言葉を聞いた。
何処で、誰からそれを聞いたのか、全く思い出せないけど。
ああ……私、なんでそんなこと、考えてるんだっけ?
「……ィ!」
誰かの声が、聞こえる……?
「アディ!!」
はっとして、目を開けた。
色が、沢山だ。
最初に思ったのはそんなことで、その感想に違和感を覚えてから、やっと現実に気付く。
背景に見えるのは、青い空。
それから私を囲んでいる、リクとファービリアさん、それとクレアさんの顔。
私の記憶にあるさっきまでと状況が違い過ぎて、混乱する。
あれ、これどうなってんの?
「アディ……!」
低くて耳朶に心地好い声が、微かに弾んで聞こえた。
「り、く……?」
ああ、リクの声だ。
そう認識するより先に、私の唇は彼の名を紡いだ。
普段からカリスやヒールと比べれば感情の振れ幅のない声だけど、私を呼んだ彼の声は嬉しそうに弾んでいたと思う。
私を見つめる顔にも、ほっと安堵した優しい表情が浮かんでる。
大きな手が私の頬を包もうと、静かに伸びてくるのをぼんやりと眺めて……。
「アディ!!」
「むぎゅう!」
眺めてたら、急に横から力強い腕が伸びてきて、羽交い絞めにされた。
誰かの肌が頬に触れて、視界が一瞬、白黒に変わる。
そんなことをちゃんと認識するより先に、あまりに唐突に、あまりに力強く抱き締められたせいで、肺から息が飛び出た。
変な形で声帯を震わせたらしい私の口から、なんとも形容しがたい声が零れるのを、他人事みたいに聞くこの感覚、前にもあったような気がする。
「よう目覚めた……よう無事であった……!」
耳元で聞こえるのは、ファービリアさんの声だ。
いまいち状況が理解できないんだけど、今は取り敢えず、ファービリアさんに羽交い絞めにされながら、頬擦りされてる状態、らしい。
視界に映るのはきめの細かい美しい肌と、纏められた金色の髪だけで、何が起きてるのかよく判らないんだけど。
「か、閣下……あまり乱暴をされては……」
控えめなリクの声が、何処か遠く感じる。
「おお、これは済まぬ」
リクの声が遠く聞こえたのは、力強く抱き締められた身体が、呼吸さえままならなかったからだ。
力が緩められて、呼吸が楽になる。
多分さっきまで意識を失ってたみたいなんだけど、また意識が飛ぶかと思った。
ファービリアさん、見た目は風にも折れそうな麗しの佳人だけど、実は男性ってのもあって、かなり力が強い。
そのことはこの異界での体験で結構身に染みてたはずなんだけど、いざファービリアさんの姿を見ると、何度でもその記憶がリセットされる気がする。
「アディ、身体は痛まぬか?」
「あ、えっと……」
優しい手が、私の頬を撫でた。
私の記憶だと手袋をしていたはずなのに、頬に触れてくれた手は素手で、優しい温度を直に感じる。
ふわりと鼻腔を満たす柔らかで甘い香りに、頭の芯がくらくらした。
「アディ?」
応えない私に不安を覚えたのか、ファービリアさんは顔を顰める。
「あ、いや、大丈夫だと思います」
私は慌てて手を振って、自分の身体を確認しようともぞもぞした。
そしてやっと、自分が何処かの草原で横になってるらしいことに気付く。
ただ地面に横たわってるっていうんじゃなく、リクが上体を支えてくれてるこの状況は、いつか何処かであったような気がした。
いや、気がしたっていうか、あったよ現実で。
なんなんだこの状況は。
「アデリシア様、お立ちになれるようでしたら、一度身体を起こされてみては?」
さ、様?
そういえば初めて名前を呼ばれた気がするけど、よりにもよって様付け?
クレアさんから様付けなんて違和感しかなくて驚いたけど、今ここで何か言うのも、なんか変な気がする。
「え、えっと、あ、はい、そうですね」
ちょっとどもりながら、取り敢えず頷いてみる。
そうだ、とにかく立ってみよう。
ごそごそと動こうとすれば、リクが物凄く自然に、そして完璧にエスコートしてくれた。
大きな手を借りながら立ち上がってみれば、身体の何処かが痛いってこともないし、立ち眩みもない。
なんの問題もないことにほっとしながら、改めて辺りを見回してみた。
なんかあのドアをくぐってからこっち、辺りを見回してばっかりな気がするな……。
「アディ、大丈夫か?」
「え? あ、大丈夫だよ」
心配そうに顔を覗き込んでくるリクに、私は愛想笑いに近いものを浮かべた。
余計なことを考えてる場合でもない。
慌てて色々身体を動かしてみたけど、特に支障はなかった。
「うん、大丈夫」
きちんと確かめてからもう一度そう答えたら、リクも納得してくれたらしく、優しい笑顔で頷いてくれる。
穏やかな笑顔は、見てるこっちの心をふわんと温めてくれる気がした。
そんな笑顔の向こうに見える景色は、今までに見たこともないもの……だと、思う。
「ねえ……ここ、何処?」
思わずそんな言葉が口から零れた。
いやだって、こんなとこ見たことない。
何処までも続く草原と、降り注ぐ柔らかな陽光。
暖かくて穏やかなこの場所を、私は知らない。
「答える言葉を持っていなくて、済まない」
私の顔を覗き込んだまま、リクは申し訳なさそうに目を伏せる。
「いやいやいや、リクがなんでもかんでも答えられるとは思ってないし、そうじゃなきゃいけないとも思ってないから!」
反射的にぶんぶんと両手を振ってみせれば、リクは苦笑を浮かべた。
そりゃリクは私の護衛だろうけど、だからって護衛対象の疑問に全部正確な答えを出さなきゃいけないなんて法はないだろう。
大体、『ここが何処か判らない』っていうのも、立派に正確な答えだ。
あのドアをくぐってからこっち、わけの判らないことばかりだし。
王宮の地下にある大樹の幹に、ででん、とかいう勢いで現れたドアをくぐったら、唐突に砂漠の真ん中だったり、その先を進んだら滅びたはずの蟲人の村だったり。
そんな意味不明な状況で、更に意味不明な場所に放り出されて、ここが何処だかはっきり答えられる人が居たら、逆に見てみたいくらいだ。
「っていうか、いつの間にみんな揃ったの?」
はたと気付いて、首を傾げる。
私の記憶だと、まず最初にリクやクレアさんと離されて、急に漆黒の空間にファービリアさんと二人になった。
それからまた別の空間に、私は一人で飛ばされた。
そこで『博士』と名乗る人に会って、そうして今、何故かみんなと同じ場所に居る。
「自分たちは、カイゼルを倒したあと、急に白いだけの空間に飛ばされた」
そう言ったリクの言葉に、クレアさんは一度頷いた。
「左右どころか上下も怪しい場所でな。お前もファービリア閣下の姿もないとなって相当慌てた」
「あ、あはは……」
白と黒で差はあるけど、同じような場所に放り出された身としては、なんとなく想像できるとういうか、なんというか。
リクはともかく、ファービリアさんの傍に居られなかったクレアさんは、私の想像よりずっと取り乱してただろう。
……私の想像の中のクレアさん、かなりアレなことになってるけど、それはそれで可愛い気がする。
美人って何しても得だななんて、そんな余計なことを思えるのは、きっと無事に全員揃えたからだろう。
「探すにしてもなんの手掛かりもない、空白の場所で二人はぐれるわけにもいかない。八方塞がりのところに、突然ファービリア閣下が現れた」
「はい?」
リクの説明に、私はただ変な声を上げることしかできなかった。
「余も気付けば二人が傍らに居ってな。どのような理屈か、流石の余も、よう判らぬ」
ファービリアさんはそう言って、軽く肩を竦める。
「大樹の核と思しきものに会うたのは、はっきりと憶えておる。恐らく、そなたの記憶と相違はない」
続けられた言葉に、私はなんだか安堵した。
少なくともファービリアさんと一緒に居た時間は、夢でも幻でもないんだ。
だとしたら、そのあとに体験したことも、きっと本当にあったことなんだろう。
あのあと、私だけが夢を見た、なんてことも、考えられないわけじゃないけど。
「そなたが大樹の核に触れた時、余の目にはそなたらが消えたように見えた」
続けられたファービリアさんの言葉が、ただの夢なんかじゃなかったんだって証明してくれてるような気がした。
「大樹の核に、触れられたのですか?」
少しだけ戸惑いの滲んだ声で言って、クレアさんが首を傾げる。
そりゃそうだろう、わけの判らない場所や状況が続いたけど、そもそも『稀人が大樹の核に触れる為』に、あの正体不明のドアをくぐったんだ。
クレアさんからしてみれば、いつの間にか自分の知らないところで目的が達成されていたって言われたんだから、戸惑いもするだろう。
っていうか、ファービリアさんがそれを説明する間もなく私が戻ってきて、しかも転がってたんだろうか。
「アディ、本当に大丈夫か?」
他の誰かが口を開く前に、リクが軽く眉を寄せながらそう言った。
私が本当に大樹の核に触れられたのか。
そうすることで何があったのか。
それはこの世界を存続させる為に必要且つ重要なことで、誰だって気にならないわけがない。
なのに、リクはそれを詳しく訊きもせず、まず私の身体を気遣ってくれた。
「……うん、大丈夫だよ」
心の奥のほうがふわりと温かくなるのを感じながら、何度か頷く。
口の端が自然と綻んで、きっと締まりのない笑顔になってるんだろうなって思うけど、やっぱり『個』を尊重されてるのが嬉しい。
「私が見たこと、聞いたこと、話したいんだけど……」
自分が体験したことを話そうとして、口籠る。
あの場であったことを思い出せなくなってるとか、言っちゃいけないような気がしたとか、そういうんじゃなくて。
なんていうか……あそこであったことって、実のある話じゃなくない?
自称博士と会って、よく判んない質問されて、しかもその答えはなんでも良かったって感じで。
博士は私のことを知ってたみたいだけど、結局最後まで大したことも訊けずに終わった気がする。
「アディ?」
心配そうなリクの声で、はっと顔を上げた。
改めて見れば、リクだけじゃなく、ファービリアさんやクレアさんも気遣わし気な目を向けてくれてる。
ああ、私って、本当に恵まれた場所にやって来たんだなあ。
胸倉掴んで話を聞き出そうとする人が居たってなんの不思議もないことだと思うのに、誰もそんなことしないし、それよりも私を気遣ってくれる。
「大丈夫だよ。ちょっと、なんて話したらいいのか判らなくて、止まっちゃっただけだから」
そう言って笑って見せたけど、多分、苦笑にしか見えなかっただろう。
もっと『出来た人』が『稀人』だったら、みんなもこんな気遣い、しなくて良かったんだろうな。
「……アディ」
静かなリクの声が聞こえて、大きな手が頭に載った。
リクも手袋をしていなくて、一瞬、視界が白黒に染まる。
「もう、大丈夫だ」
色を取り戻した視界に映るのは、少しだけ困ったような、だけど何処までも優しい、穏やかな笑みを浮かべるリクの顔だけ。
「一人にして済まない。だが、もう大丈夫だ」
静かに撫でてくれる手の温度が、ただただ優しくて、何故だか涙が滲みそうになる。
ああ、そうだ。
不安、だったんだ。
誰も頼る人の居ない妙な空間で、心の根っこを鷲掴みにしてたような不安を、みんなに会えて忘れていた。
「ありがとう」
ただその言葉しか言えないまま、リクを見上げる。
ふわりと微笑んでくれる翡翠色の目が優しくて、余計に泣きそうになった。
「アディ、余も此処に居るぞ!」
「へ? う、うわっ!?」
急にファービリアさんの声が聞こえたかと思ったら、思い切り腕を引っ張られた。
そのままぎゅむっと抱き締められて、何度も頭を撫でられる。
見た目を裏切る力強さにも、少し慣れたような、全然慣れないような。
っていうか、これってどういう状況?
「!? わ、我が君……!」
珍しく慌てたクレアさんの声が聞こえて、え? と思う。
クレアさんのほうに顔を向ければ、彼女の視線はこっちに向いてなかった。
釣られるように視線を追ってみると、何処までも広がる草原の中に、ぽつんとドアが立っている。
変な言い方だけど、そう表現する以外にないんだよ。
「は……?」
思わず口から零れたのは、なんともいえない、間の抜けた声。
だって、あまりにも唐突過ぎるし、違和感が酷い。
「あれは、中央の大樹に現れたものと同じだな」
意味のあることなんて何も言えなかった私と比べて、リクは随分冷静だった。
ただ、声に戸惑いが滲んでるから、驚いてることは変わらないと思う。
「ふむ……」
小さく呟きながら、ファービリアさんは私から身体を離した。
白く整った指先を顎に当てて、細めた目でドアを見るその一挙手一投足が、とにかく絵になる。
今回の一件でファービリアさんのこういう姿を何度も見てきたけど、毎回新鮮に『綺麗だなあ』って思うこと自体が凄い。
「アディの話は気になるが、先にあれをくぐっておくべきじゃろうな」
そう言って、ファービリアさんは小さく息を吐き出した。
「また別の場所に出るのでしょうか?」
「いや、恐らく元の場に戻るじゃろう」
微かに眉を寄せたクレアさんに、ファービリアさんは首を振る。
「元の場所って……みんなの所、ですか?」
「恐らくな」
戸惑うばかりの私に、ファービリアさんは穏やかに微笑んだ。
「また別の場所に繋がっている、ということは有り得ませんか?」
冷静なリクの言葉通り、その可能性もあると思うんだけど。
「有り得はするじゃろうが、稀人は見事大樹の核に触れてみせた。なれば、これ以上異界を彷徨わせる道理もない」
そう言ってから、ファービリアさんは小さな苦笑を浮かべた。
「何れにせよ、このような場に留まっても意味はなかろう。あの扉がいつまでもああして在る保証もない」
要は、『あれが何処に繋がってるかは判らないけど、先に進めるタイミングで進んでおかなきゃ、この何もない草原に取り残されるかもしれない』ってことか。
そう言われればその通りだし、私の話ならあのドアを抜けた先ですることもできるだろう。
「参るぞ」
そう言って真っすぐに立つファービリアさんの格好いいことといったら。
そりゃリクもクレアさんも、大人しく頭を垂れるしかないよね。
わけの判らないこの異界で、この決断の早さと先導力は凄い。
なんかもう、語彙力がないけど、凄い。
博士に会った時、『ファービリアさんが言いそうなこと』っていう想像をしたけど、やっぱり現実には到底敵わないよなあ。
「どうした、アディ?」
「え!?」
呼び掛けられて、変な声が出た。
「参るぞ」
差し出される手と、尊大なようでいて優しい微笑みに、なんだか目が眩む。
「はい……」
自然と頷いて、伸ばされた手を取ってしまうこの感覚は、彼女のカリスマ性にやられてるのか、それともただ私が流されやすいのか。
なんとなくぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、足を踏み出した。
続




