その8
その言葉は、沁み出してくる冷たい井戸水みたいに感じられた。
「龍クン、結婚してるの。」
「うん、もう10年になるかな。」
「そうか…お子さんは?」
「二人。上がお姉ちゃんで小学生。下はまだ年少。」
「そうか…。」
苦しい現実だけど、ワタシはお腹に力をこめて何とか受け止めた。
当然じゃない。
これだけ素敵な心の持ち主だもん。
相手がいない方が不思議だよね。
そうか、龍クン、そうか。
「今さらだけど…おめでとうね。」
「マキ、ありがとう。マキのおかげだよ。」
そこまで聞き流して、ワタシはふと気づいた。
「ワタシのおかげ…って?奥さんも、感謝してるって言った?」
「うん、そうだよ。」
龍クンはそう言って、スマホを取り出した。
「俺の嫁さん、マキもよく知ってる。彼女もマキに会いたいって言うよ。」
スマホの画面に微笑む4人の姿。
パパの顔をする龍クンと、龍クンそっくりの優しい目をした2人のお子さんと、そして…。
「…いずみ。」
「そうなんだよ。」
ワタシと同じだけオバサンの顔になったいずみが、画面の中でこっちを見て笑っていた。
今度は冷や水じゃない。
まるで雷に打たれた衝撃。
ワタシはスマホから目が離せなかった。
何だか、あまりにバカバカしくて現実のこととは思えない。
いいとか悪いとか、それも分らない。
混乱。混乱してるんだ、ワタシ。
そうしよう。とりあえず、そういうことにしよう。
また流されよう。
「…ビックリした。」
「そうだよな。もっと早く伝えたかったんだけど。」
「…いつから?」
「付き合ってたかって?」
「うん…。」
彼はスマホをポケットにしまい込んだ。ちょうど例のフープピアスの子がフロアからトイレに出てきて、通りがかりにワタシの腕をポンと叩いて笑いかける。
その笑顔に救われて、ワタシは話を聞く覚悟をつけた。
「マキから連絡が取れなくなって、俺は誰に相談していいか分からなくて。で、マキの親友って言ったら、嫁さんだっただろ。」
「…そうだね。」
「彼女もあの時、すごい心配してた。自分にも連絡来なくなったって。二人でたくさん話し合ったけど、結論は出なかった。」
そう。
ワタシはいずみともあの時以来、連絡するのをやめた。
いずみが言ってくれた「決定的な思い出を作る」ってアドバイス。
ワタシはそれを、自分の勇気のなさで台無しにした。
どんな顔して報告できるっていうの?
高校を卒業して、すぐにワタシは一人暮らしをはじめ、短大に馴染み、新しい友達に馴染み、そして高校を忘れた。
忘れようとした。
無駄な努力だと分かりつつ。
いずみもワタシの前にあえて姿を見せることもなく、いつの間にか彼女のことは思い出の中に埋もれていった。
「そのまま、俺は就職して何年かは地元にはあまり縁がなかった。だけど、卒業から5年くらいして同窓会があったろ。マキ、来なかったよな。」
覚えてる。同窓会の通知、実家に届いてた。
龍クンにもいずみにも、本当はとっても会いたかったけど、そんな勇気はついに湧いてこなかったから。
ワタシはそっと通知の手紙をしまい込んだ。
今でも家のどこかにある。
「あの時、嫁さんとも久々に再会してさ。マキの話で、すごく盛り上がった。あの時の悩みの話じゃなくて、マキと過ごした日々がどれだけ楽しかったかって。お互いに感じてた青春ってやつの話だったな。」
青春。
そう。あの時、確かに青春だった。
小さな小さな充実だったけど、でもワタシにとっても青春だったんだ。
「それで、何だか楽しい話ができたからまた会おうぜって連絡先を交換して、何回か飲みに行って、何となく波長が合うような気がして。」
「それで…。」
「マキのことを考えると、複雑だったけど。でも、マキが俺たちにくれた縁だって思えたら、すごく嬉しくてさ。マキ、ホントにありがとうな。」
「…ううん、アタシは別に。」
「結婚式の時も、マキを呼びたいって言ってたんだ。それで実家に招待状を送ったんだけど、返事がなかったから。」
そうか。
10年前、まだ一人暮らしをしてた。正社員だったし、経済的に少し余裕があったし、実家にいたくなかった。
たぶん、ママンが気を使ったんだと思う。今の今まで、知らなかった話。
ママンを恨むつもりはない。招待状を見て、その時のワタシが現実を受け入れられたかは分からないもん。
「マキ。お前の親友だった子と結婚して、どのつら下げてって感じは百も承知だけど。でも、いずみにも会ってやって欲しいんだ。彼女も気にしてる。今でも気にしてる。アタシが余計なことを言ったって。」
「…えっ?」
「嫁さんがマキに“龍と思い出を作れ”って言ったんだって。それがマキにプレッシャーをかけ過ぎたんじゃないかって、ずっと後悔してるって。自分が余計なことを言わなきゃ、今ごろは俺の横には彼女じゃなくてマキがいたはずだって。バカ言うなって言ったけどな。マキはそんな弱い子じゃないって。」
どっちも間違ってる。
龍クンはワタシを買いかぶり過ぎだし、いずみが思うほどの根性もない。
たとえあの時、龍クンがワタシをフォローしてくれたとしても、ワタシ自身が解決できなかったら…いずれ、同じようなことが起きてただろうから。
そう。結局は、ワタシが悪いんだ。
最初から最後まで。
ワタシがバカだったんだ。
どうしようもないバカだったんだ。