その2
“あとどれくらい走れば君にたどり着くのだろう どこまで行ったら君にキスができるのだろう”
ワタシはその場に立ち尽くした。
あの人だった。
まさか、とも思ったけど。
でも、確信めいたものもあった。
だって、井口一彦を知ってる人で、この曲をDJに使う人って考えた時、彼以外には思いつかない。
ワタシが知ってる彼よりもだいぶ年を重ねている、目の前の彼。
当然だよね、ワタシも同じだけ年を重ねたんだから。
覚えているよりも少し痩せて、髪も薄くなったみたい。明るいところで見たら、白髪とかシワとか目立つんだろうな。
でも、その顔つき、そのたたずまいはワタシがよく知ってる彼そのままで、まるであの日、最後に別れた時から数日しか経っていないようで。
あまりに現実味がなさ過ぎて、逆に助かったかもしれない。
もしそうじゃなかったら、ワタシは泣いているだろうから。
曲の終わりにバンドが出すギターの音がかぶさるのを茫然と聞き流しながら、ワタシはただ道化みたいに突っ立っていた。
「高橋。お前、ハート好きなの?」
お昼休み。申し訳程度の小さなお弁当を「ダイエット」と称して食べた後、大きなスナック菓子の袋を開けようとした時に、彼がそう話しかけてきた。
それまで話したことはなかった。バンド好きなのは知ってたけど、あの頃は誰も彼もバンドが好きだった。ワタシたちはロックと共に育ち、アイドルなんかがメインストリームに戻ってくるのはもっとずっと先の話。
でも、ザ・ハートが好きだって人は少数派で、ワタシがこの高校に入学してからは他に誰もいなかった。
「なんで知ってんの。」
「細野から聞いた。」
「…いずみのおしゃべり。」
いずみはワタシの大親友だった。人懐っこくていつも前向きで、誰とでも仲良くなれるし裏表がない。だから何でも相談できるけど、口が軽いのが唯一の欠点。ま、ザ・ハートが好きなことを秘密にしてたわけじゃないけど。
ワタシはその逆で、感情を表に出すのが苦手で、ネガティブで、対人関係で壁を作る。その分、いちど仲良くなったら心から信頼しちゃうんだけど。
「栗田君も、ハート好きなの?」
「うん。」
「尾崎も好き?」
「好きだけど、尾崎と井口は違うよ。」
そのひと言で、ワタシは彼を一気に信頼した。
ワタシも全く同じことを思っていたから。
ザ・ハートを知ってる人たちの中で、尾崎と井口の共通点を指摘する人は多い。ていうか、口の悪い人は井口が尾崎のフォロワーみたいなことをよく言う。
ワタシには全然ピンとこなかった。井口は井口で、唯一無二の存在だと思う。中学の時にハートのファンだった子と、その話ですごい議論になった。
だから、ここで初めて知り合ったハートファンがワタシと同じ考えだってことに、とてつもなくシンパシーを感じたんだ。
「ハートのライヴ、行ったことある?」
「ない。高橋は?」
「ウチもない。」
一緒に行こうよ、とはまだ言えなかった。たぶん一生言えないと思う。きっと、いずみなら言えるんだろうな。
それまで彼…栗田君を意識したことは、無いことはない。
ときどき遠くを見つめるような目つきをしてて、その表情が妙に気になることがあった。
ワタシより頭ひとつ背が高くて、すらりとした体型で、校則に引っかからないくらいの長さの髪をジェルで固めている。その当時に流行ったサイドバック。バンド好きの子ならみんなやってたヘアスタイル。
キツネ顔だけど、近くで見ると目が優しい。口元も優しい。ぜんぶが優しそう。
そんな風に感じながら、ワタシは彼に惹かれ始めている自分に気づいていた。
やだ、ワタシらしくない。落ち着かないと。ただ、同じバンドが好きってだけじゃん。
ワタシたちは、ザ・ハートや井口一彦の話で昼休みいっぱいをしゃべり倒した。スナック菓子の袋が封を開けられずに、机の上に置きっ放しになっていた。