その10
終電まではまだ時間があったけど、電車の中は混みあっていた。ワタシは電車でも壁際にもたれて、急行が地元の駅に着くのを待った。
駅から家までは歩いて10分。目をつぶっても間違えることはない。この街を最初に出て行った時、二度と戻って来ないと決めたはずの道。
家に到着すると、ママンはまだ起きていた。
「マキ、早かったわね。」
「うん、予定が変わったから。」
「お風呂、まだ温かいわよ。」
「うん、いま入っちゃうね。」
今夜は軽く一杯、飲んだだけ。熱いお風呂は気持ちが良く、仕事の疲れとライヴで染みついたタバコの匂いを洗い流してくれた。
髪と身体を洗うことに意識を集中した。汚れよ落ちろ、どんどん落ちろ。ぜんぶ洗って、流れてしまえ。
ワタシは湯船につかり、ギュッと両膝を伸ばした。
目の前の操作パネルの温度表示、何度になってるかな。
40度、41度。
前がにじんで、何だか見えないや。
涙があふれてくるのを感じて、ワタシはとっさに頭から湯船に潜った。
どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からない。
けど、熱いお湯の中で、ワタシは大きく目を開けて、力の限り息を吐いて叫んだ。
きっと、絶叫に近い泣き声だったに違いない。
息が続かなくなると、ワタシは湯船から顔を出した。
むせてゲホゲホと咳をしながら。
髪の毛から鼻先から、ぼたぼたとお湯を滴らせながら。
外の空気を吸うと、また涙があふれてくる。
ワタシはもう一度、お湯の中に潜った。
そうやって、ずっとずっとお風呂の中で声にならない声を張り上げ続けた。
心の中に残っていたドロドロが、ワタシの中からすべて出て行ってしまうまで。
朝は誰にでも平等にやってくる。
ワタシはいつもの時間に、家の食卓に降りてきた。
ママンはいつものように、仕事に行くワタシのために朝ごはんを用意してくれている。
それが当たり前。昨日まで、そう思っていた。
「おはよう。」
「おはよう、マキ。」
ママンはいつもと何も変わらない。ワタシが昨日、帰ってきとき、娘の雰囲気がいつもと違うことに気づいたのかな?
たぶん、気づいてるはず。
あの時だって、ちゃんと気づいていた。
でも、ママンは何も言わない。
普通にしていてくれる。それが一番の救いになる。
ワタシは席に着き、トーストをひと口かじった。
「…おいしい。」
ポツッとつぶやいたワタシのひと言に、ママンがほほ笑む。
「どうしたの、いつも食事なんて上の空なのに。」
「ううん、いいの。」
ワタシはコーヒーをすすった。
ママンはインスタントを使わない。我が家の朝は、いつもコーヒーの香りに満ちている。
「ねえ、ママン。」
「なあに?」
「ワタシ、家を出ようと思うんだ。」
そのひと言に、ママンはとっても複雑な表情を見せた。
悲しむような、喜んでいるような、でも何も変わらないような。
「なあに、好きな人でもできたの?」
「ううん、そうじゃないけど。」
ワタシはすぐに否定して、それから思い直した。
「そうだね。そうありたいとも思って。」
ママンは、その言葉に小さくうなずいた。
「マキが思うようにすればいいのよ。」
「もしワタシが出て行ったら、寂しくない?」
「それはそうだけど。」
ママンはそう言って、コーヒーのお代わりを注いでくれた。
「でも、マキが幸せになってくれることが、ママの幸せなのよ。」
言葉の意味は分かる。きっと、それが親なんだろうな。
たぶん、龍クンも感じてること。
ワタシだって知りたい。感じたい。
ワタシはいつもの時間に出勤した。
「おはようございます。」
「おはようございます、高橋さん。」
院長先生は、いつも通り笑顔で迎えてくれる。
ワタシ以外に従業員がいないので、いつもワタシより早く来ている。掃除をして、洗濯をして、いつも笑顔で。
誰にでも笑顔を絶やさない人だけど、院でも家でも一人で何でもやってるの、大変じゃないかな。
「寒くなってきましたね。」
「来るとき、寒かったです。」
そんな会話をしながら、先生は開院の準備。
ワタシは白衣に着替えて、受付の用意。
「先生、クリスマスってどうするんですか。」
ワタシは唐突に聞いてみた。
思ったよりずっと、自然に言葉が出てくる。
「クリスマス、仕事ですよ。高橋さんも、それでいいって言いましたよね。予定が変わりましたか?」
院長先生は心配そうな声を出す。いつも、自分のことは棚に上げて人の心配ばかりしてるんだ、この人。
「ううん、そうじゃなくて。」
ワタシは手を振って否定した。
「仕事が、終わってからです。」
「…別に、何もないですよ。今さら何もないですよ。」
「ワタシもです。」
そう言って、ワタシはクスッと笑う。
「だから、何もない同士。終わったら、飲みに行きません?」
ワタシの申し出に、先生は戸惑いを隠せない。
顔に書いてあるよ。
“この人、こんな性格だったっけ?”って。
「いつも、お互いに傷のなめ合いじゃないですか。夜まで延長したって、別にいいですよね?」
「まあ、そう、ですよね。そうしますか。いや、ダメだな。」
院長先生はそう言って咳ばらいをし、真顔で言った。
「クリスマス、僕と飲みに行ってくれますか?」
「はい、よろしくお願いします。」
ワタシは満面の笑顔で答えた。
あの頃から、今の今まで。
龍クンにだって見せたことのない、いちばんの、とびきりの笑顔だった。
“人生の交差点 迷っても君と走り出すよ あいた助手席に座るのは君だからね”