その1
“人生の交差点 はぐれても君を見つけ出すよ あいた助手席に座るのは君だからね”
フロアに流れているのが井口一彦の“14時05分”だと気づいて、気だるい気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
ワタシは寄りかかっていた壁際を離れ、足早にDJブースの方へ向かう。
この曲がリリースされたのは、2年くらい前。だけど、井口の歌声は否応なしにワタシをあの時代に戻してくれる。
ずっとずっとライヴハウスにへばりつくようにして生きてきて、この場所で井口の歌を聴いたことなんて、今まで一度だってなかった。
今夜のDJなんて気にしてなかったけど。
どんな人なんだろう。
人ごみをすり抜けるようにライヴハウスの中を移動するワタシ。
こんな短い距離なのに、頭の中でいろんなことが駆け巡っている。
それでも、たどり着く先はたった一人のことだけ。
いわゆる“負け犬”ってやつなんだと思う。
ううん、違う。思う、じゃなくて負け犬。
煮え切らない状況とか、煮え切らない男とか、たくさんの煮え切らない“何か”のせいにしてきたけど。
結局、煮え切らなかったのはワタシだ。
責任という責任から逃げ続けて、「仕事も恋愛もどっちも大事」とか言いながら、結局どっちも中途半端にしてきた。
気がついたら、昔の彼氏はみんな目の前から消えた。
たぶん、みんな結婚して幸せな家庭ってやつを守ってるんだろうな。ワタシを通り過ぎた男たちがワタシと同じ境遇だって想像は、少なくともワタシには無理。
ちょっと前までは、ライヴハウスの中でも外でも男から声をかけられることもあった。
最後にそんな経験をしたのがいつだったか、思い出せない。
言っちゃえば、もうオバサンだもん。
仕事だって似たようなもの。輝かしいキャリアとか華やかな未来とか、思うだけじゃ実現しない。
出口だけを探して捨てた正社員の末路は、この年になっても親に頼らないと生きていけないアルバイト生活。
ママンはパパが亡くなってからすっかり弱気になっちゃって、ワタシが一緒に暮らしているのを拠り所にしてるっぽいけど。
でも、こんな娘の未来を悲観してるようにも見えちゃう。
なんとかしなきゃ、とは、思ってるんだけど。
せめてもの救いは、今のバイト先の、整骨院の院長先生がワタシと同じ適齢期を逃した独身ってこと。何の解決にもならないけど、傷をなめ合うことはできる。お店が暇なとき、よく二人でそんな話をする。
「もう先生に拾ってもらってもいいや」って冗談で言おうかと思う時もあるけど、冗談が冗談じゃなくなっても困るし。
先生のこと、嫌いなわけじゃないけど…好きかって言われたら分からないし、相手に失礼だと思うし、だいたいそんな程度のノリで結婚できるなら、とっくに結婚してる。
結局、ワタシの居場所はこんなライヴハウスしかないってこと。週末になると電車に乗って西東京に足を運んで、地下の薄暗いハコでタバコの匂いを嗅ぎながら、壁にもたれてバンドの姿を目で追っている。
若い頃みたいに最前列で腕を振り上げることなんて、もうほとんどない。カッコも昔ほど気を使わなくなった。
それでも、ここはワタシを受け入れてくれる。長い間にメンバーは少しずつ変わっているけど、ホントに最初の頃からの知り合いも少なくない。バンドの人もお客も、いちど虜になったらロックって、なかなか離してくれないから。
離れたいとも思わないし。
バンドを組んだことは一度もない。ずっと、ただのお客のまま。
バンドマンと付き合ったこともない。存在は素敵だけど、みんな正直言って不安定だし。
そんな考えが頭に浮かぶたび、自分のことが嫌いになる。
ライヴハウスの片隅で、ワタシは少しずつ年老いていく。いつか死んでここに来られなくなっても、誰にも気にされないのかな。
そんな現実から目をそらしたくて、ますますこの場所から離れられない。
井口の歌がフロアを満たした瞬間に、そんなワタシの心から消えかかっていた火が、フワッと灯りそうになったんだ。