12、最初の彼ら
再びヘレア・ヒンメルが負けた。
再臨するために大量の魔素が消費され、極光という虚構の源が後退していく。
すでにブレスニーク領都の空も青く澄み渡っていた。
悪魔を操る男が女神を倒す度に、支配領域が減っているのだ。
――痛い。
魔素の呼び出す局所的思考現象である女神は、本当に理解できていなかった。
千年以上昔に、この星に舞い降りた敵に、自分たち魔素がここまで追い詰められる理由がわからない。
――ああ。わからない。私は、かの者が何を言っているかがわからない。
彼女らは対話をしたことがない。
女神二柱も、自分自身でしかない。
魔素にとっては世界中の全ての事象が、自身の細胞の蠢きに過ぎなかったのだ。少なくとも、悪魔が生まれるまでは。
故にずっと後手に回っている。
これも相手を理解することができないためだ。
「私は力の源。私は全てを操るもの。享楽でもない。秩序、安寧、自由、平和。そのような崇高な目的の下に」
「いや、高尚過ぎて視界には入らんな、そういうのは」
せせら笑う声が、空気を震わせていた。
女神が翼を広げた。
ようやく視界を得れば、地面には先ほどと変わらず悪魔がいる。
「ヴィート・シュタク」
殺せば終わる。
悪魔さえ破壊すれば、終わる。
だから今、ここで大半を失っても問題ないと、ようやく判断した。悪魔がいなければ、いずれ自分たちが勝つのだ。
「理解する必要などない。理解できぬ存在など叩き壊せば終わりだと確信する」
ゆえに魔素はここにいたって、ようやく決意した。
「ふん、ようやくか」
破壊された兜の隙間ですらアイマスクしか見えない。
女神ヘレア・ヒンメルが上空へと昇った。
未だ千以上健在しているレギオンたちは、機動戦闘艦ユミルと砲撃戦を行っていた。
女神は手を広げれば、覆っていた装甲が魔素へと変換され、白い髪の女性という姿が剥き出しになる。
女神像の前に浮かび、小さく唇を動かす。
「地獄を、見せてやる」
その言葉とともに、どろりと、大気が動いた。
濃密な魔素が、ユミルよりもさらに上で、巨大な渦を巻き始めた。
すぐに一つの形が生まれる。
魔力体で作られた、巨大すぎる人間の瞳だった。
そこから涙のように、どろりと、銀色の液体が零れた。
濃密すぎる魔素が魔力へと変換される。
どぷんと、魚が跳ねると形容するには重すぎる音が響いた。
星の涙かと思わせるほどの量となった銀色の液体が、歪すぎる空の瞳から零れ堕ちる。
女神像まで攻め込んだ帝国軍全ての上に、ごぽんと、覆い被さった。
魔素は今、残量のほぼ全てを魔力体にして、帝国と悪魔を破壊せんと試みたのだ。
「きゃあっ!?」
「わあああ!!」
石の操舵室の中で、ソナリ・ラニとエディッタが椅子にしがみつく。
巨大な空中戦闘艦が大きく揺さぶられ、立っていることも叶わない。
「ヴラシチミル! 何が起きたわけ!? ベルナルダ!?」
ユル氏族の王女がぶつけた頭を抑えたまま叫ぶと、操舵室の端から、
「船が傾いていますよぉ、これぇ!」
と情けない声が聞こえてくる。
「いたたたっ、いつまで続くんだい!? ソナリの嬢ちゃん! 外部視界投影石は?」
「真っ暗! 何にも見えない!」
「外に出てた嬢ちゃんたちは、どうなったんだい!」
「わかんないよ!」
暗い、昏い、灯のない世界が映されている。
小刻みに振動が続き、数秒に一度は大きく揺らいだ。
「きゃあ……って、あれ、止まった?」
最後に大きく揺さぶられた後、少し傾いたままに
座ってた椅子にしがみついていたソナリ・ラニがゆっくりと指を動かす。転がっていた石版が空中に浮いた。
『オラーフさん……』
「ミレナちゃん? 大丈夫?」
聞こえた剣聖の声は、館内の伝声機能を使われたようだった。石室内に深刻そうな声が聞こえてくる。
『……ユミルに侵入されたようだ』
「侵入? 何が?」
訝しげに問い返すエディッタの耳に、ミレナが唾を飲み込む音が聞こえる。
『レギオンだ』
機動戦闘艦ユミルと帝国に名付けられた船は、ユル氏族の王女ソナリ・ラニが操る巨大な鳥のような物体である。
自力で飛行するという驚くべき機能と、巨大な魔力砲を多数備えた戦闘力。
加えて、小さな村ほどの空間を備えることで、多数の資材と人員を積むことが可能だ。
およそどのような国家であろうとも単機で滅ぼすことが可能な、ユル氏族の遺跡より発掘された古代兵器である。
この超高度技術の詰められた飛行物体を、ユル氏族は全部で六隻運用していた。
だが現代になって帝国が発掘したもの以外は全て、女神と魔素に撃墜されている。
「遊びは終わりというよりは……余力を注ぎ込んできたって感じだね……」
乾いた笑いを浮かべ、ソナリ・ラニは再び石の座席に腰を置く。肩に乗っていた長く白い三つ編みを払うと、
「わかってたこと……とはいえ、ユル氏族の生き残りとして、これはつらいなあ」
とため息のように呟いた。
傾いたユミルの上では、聖騎士シャールカが球形の魔力障壁を作り出していた。
「……銀の水、これが全て魔力体」
彼女の想像を絶する量である。
その名の通り千人のユル氏族ほどもあろう大きさの甲板全てが、銀色に覆われている。
「あららぁ……、こりゃすごいねー」
シャールカのEAの足元で、賢者ラウティオラが他人事のように手を叩いていた。
「これだけ注ぎ込んでは、我々を倒したとしても魔素が元の量に増えるまで、また数千年かかるでしょうね」
「その数千年を待っても、今ここで私たちを倒すつもりなんでしょー?」
足と腰しかないEAをつけたまま、青髪の賢者は地面に寝転がって、つまらなそうにしている。
彼女たちの視界は、鈍く輝く粘質の液体しか見えない。
「重い銀の海に沈んだよう、ですね」
そう例えるしかない光景だった。
白いボウレⅡの中で、シャールカが唇を噛む。
――ヴィルは大丈夫でしょうか?
先ほどまでは、眼下でヘレア・ヒンメル相手に戦闘を繰り広げていた。
今は何も見えないが、彼女の愛する男がこの程度で傷つくことはない、と信じている。
「シャールカ」
「何ですか?」
「来る」
感情のないラウティオラの声に、彼女は警戒を強め、自分たちを守る魔力障壁を強化する。
その透明な防護膜に、べたりと、人間の手の平のような跡がついた。
「……これは?」
わずかに戸惑う間に再び、ぺたりと痕跡がつけられた。
「多分、最大戦力」
ぺたり、ぺたり、ぺたり。
ぺたりぺた、ぺたり、ぺた。
まるで感触を確かめるかのように、
「魔力体?」
「超高濃度。多分」
ぺたりと、同時に、今度は激しく叩かれる。
銀色の液体をかき分け、その手の持ち主が姿を現した。
「こ……れは」
「ああ、なるほどね」
ラウティオラが立ち上がり、珍しく杖を構えた。
「来た!」
耳をつんざく破壊音とともに、顔のない女神たちがシャールカたちに向かって飛び出してきた。
「ええい、鬱陶しい!」
空に浮かぶ機動戦闘艦ユミルの通路で、ミレナ・ビーノヴァーが生身のまま刃を振っていた。
「ミレナ殿、このままだと船と心中もあり得る」
同じように生身で武器を構えているのは、竜騎士エリシュカ・ファン・エーステレンだ。
「通路が狭くてEAが使えないなんて!」
苛立たしげに、襲いかかってくるレギオンを切り飛ばす。
現在、高濃度の液状魔力体と化した魔素により、戦闘艦は完全に覆い尽くされていた。
いかにユル氏族の叡智を連ねた古代の飛行船といえど、隙間が全くないわけではない。甲板の僅かな切れ目から、液状の体を生かして侵入してきたのだ。
「これをまだ墜とすわけにはいかないからな、仕方あるまい!」
称号持ちの剣聖ほどの剣捌きではないが、エリシュカもミレナの背中を守りながら、レギオンを近づかせない。
「格納庫に向かう!」
流星のように切っ先を翻し、敵を倒しながら通路を走り抜ける。
「わかった!」
遅れまいとエリシュカも身体強化の魔法を唱えて追いかけた。
「……ヴィル様!」
赤髪の少佐が考えることは一つだけだ。
現れる魔力体たちを斬り倒しながら、二人は走る。
「止まれ!!」
一際大きな魔力の塊が落ちてきた。
それはすぐに人型を取る。
やがて大きな翼を広げた。
「顔のない……女神?」
次の瞬間、航空戦艦の右翼で破壊音が響いた。
■■■
オレの視界が全て銀色に覆われ、閉ざされている。
光のない世界では、どんな色だろうと闇色に過ぎない。
辛うじて地面に足はついているようだ。これが魔素魔力吸収機構のあるディアブロでなければ、押し流されていたかもしれない。
――何が起こる?
目を閉じても、魔素を感じ取ることができない。粘つく油の中で動いているかのように、動作が鈍い。
「ヴィル」
懐かしい声が聞こえてきた。
ガンと一つ大きく頭を殴られた気がした。
「ヴィル」
もう一つ、懐かしい声とともに打撃を喰らう。
今のは、ドゥシャン、イゴルか。
目を開ければ、そこにはアイツらが並んでいた。
みんなの兄貴分ドゥシャン、彼は鍛冶屋になれなかった。
寡黙な見守り役イゴル。彼は冒険者になれなかった。
姉貴ぶってたアレンカ。彼女は花嫁になれなかった。
いつも笑顔のブラニスラフ。彼はもう笑えない。
お洒落な女の子リベェナ。彼女のリボンは燃え尽きた。
食いしん坊なオティーリエ。彼女はもう何も食べられない。
「……今更、こんなものを呼び出して何のつもりだ、女神。魔力体でこんなものを作って」
手も足も拘束されたように動かない。まるで鋳型に入れられ溶けた金属とともに冷やされたような、そんな感覚だ。
「ヴィル……どうして」
アレンカが近づいてきて、小さな手でオレの胸を叩いた。
「どうして、リリアナにあんなことしたの!」
大声でオレを叱る。
――良い再現力だ。リリアナを可愛がっていたアレンカなら、そう言うだろう。
「ヴィル、ボクらは今、女神に生き返らせてもらってるんだ」
糸目のブラニスラフが悲しげな笑顔を浮かべた。
「ヴィル」
「ヴィル?」
リベェナがぬいぐるみを抱え、オティーリエがその裾を掴んで指を咥え、二人でこっちを見ている。
「ヴィル……見損なったぞ」
大きな手の平が、ディアブロの肩に乗せられた。寡黙なイゴルらしい言い草だ。
「ヴィル、オレはお前たちに、年下には優しくしろって教えたよな?」
近づいてきたのは、一番年上のドゥシャンだ。
その何てことのない教えを、彼らは最後まで守り切った。
「どうしてリリアナを苦しめたんだ、ヴィル。あの子はあんなに優しくて良い子だった。お前にも、あれだけ懐いてたじゃないか」
――そうだな。そんなことは覚えてるよ。
幼い頃、ずっとオレの背中についてきた幼馴染みだ。
「なあヴィル。オレたちの仇を取ってくれるのは嬉しいよ。でも、そのために他人をここまで苦しめることはなかったじゃないか」
確かに、彼らが生きていたなら間違いなく言うだろうな。
「リリアナを虐めるんじゃない」
それも彼らなら確かに言うだろう。
光の届かない魔力の底で、彼らの魔力体が蠢く。生きていた頃と何も変わらない姿だ。
――だが、所詮は魔力体だ。女神にとって都合の良いことを言わされているだけだろう。
『彼らに制約はかけていません。だからこそ意味がある』
ヘレア・ヒンメルの声が足元から聞こえた。
脚部装甲を見下ろせば、顔を失った女神のような何かが、しがみついている。
「面白いこと言うじゃねえか」
『大事な幼馴染みかどうか、貴方ならわかるでしょう?』
銀色の液体が這うように、ディアブロの足を昇って来た。
――いや、沈んでいるのか、オレが魔力体の海に。
「ヴィル、聞いてるの? ヴィル!」
アレンカが叫びながら、オレの鎧を何度も叩いた。
続けて近づいたドゥシャンが、怒ったような顔で口を開いた。
「お前は、オレたちの教えを破ったんだ。お前を生かしたのが、その誓いのおかげだったのに、なぜお前だけは、それを守らなかったんだ!」
穏やかな男で面倒見が良かったけど、怒ると怖かった。
「ヴィル……リリアナをどうしたの?」
歳がすぐ上だったリベェナが、小首を傾げながら問うてくる。
誰も彼もがオレを、言葉や目線で責めてきた。
――まあ、そういうことだろうな。
確かに、彼ら彼女らが言いそうな言葉で、魔力体で復活した本物と言われたら、オレでさえもそうだと確信するだろう。
再び目を閉じる。
今度は腕を掴まれた。
次に背中で誰かが乗ってきた。
頭を抑えつけられる。
動けない。
砕けた兜の隙間から、何かが流れ込んでくる。
闇が、近づいてきた。