19、友達
「ヴィル、来るわよ!」
エディッタ・オラーフが声を張り上げると、黒い鎧が大きく後ろへと飛び退った。
帝城アダルハイト……都市型の魔道具アダルハイトの周囲を走る環状線通りの上空で光が走った。
『来たようじゃな……』
横たわったままのレナーテが、観念したような、どこか自嘲するような、そんな声を漏らす。
空に舞い上がった幻想的な幾何学模様の巨大魔法陣が、大きく光った。帝城の敷地内から光の柱が立ち上る。
「エディッタ」
「わかってるわよ。……天におわすは聖女の始祖神の、おおやまはらえのかみの姫、夜に咲く花、船着く葦の乙女の髪に」
白衣を棚引かせたエディッタ・オラーフが右腕を横に伸ばし、詠唱を始めた。
紅のEAがよろよろと立ち上がり、黒い鎧の横へ立つ。
「ヴィル様……申し訳ありません」
「目を覚ましたか、ミレナ。ケガは治ったと思うが、魔力も尽きかけてるだろ。休んでおけ」
空から下りてくる光が、倒れたレナーテの上へと降り注いでいく様を並んで見届ける。
「……これが帝城アダルハイトに仕込まれた罠、ですか」
「まあ、そうなる。聖龍捕縛のために作られた罠、大魔道具アダルハイトの効果だな。本来なら発動に時間と膨大な魔力がかかるんだが、EAを使うことで大幅に短縮し発動に必要な魔法士の数も減らした」
「……私さえしっかりと任務を果たせていれば……」
EAのまま頭を垂れるミレナの横で、ヴィート・シュタクは視線を逸らさずに、
「気にするな、と言ってやりたいところだがな。お前を失うような事態は嫌だから、気をつけてくれ」
と苦笑しながら答える。
「大佐……!」
「さて、始まったぞ」
空から下りる円柱状の光が、レナーテの周囲に魔法陣を成形し始めた。聖龍の巨躯が吸い上げられるように浮かび始める。
『ぬおおおおおおお』
二十ユルほど上空で止まり、レナーテの長い体が締め付けられるような形で硬直していった。
「さて」
黒い鎧が数歩ほど前に出た後、空に浮かぶ龍を見上げた。
「今度は弱かったな、レナーテ」
『ぬううううう、やはりこれは自力では無理か!』
「消え去れ、バカが」
ヴィート・シュタクが胸の前で黒い手を合わせる。少しずつ開いた中に、渦を巻くような闇の球形が生まれた。
腕を開く度に形を変え、最初は剣状の物が、次第に槍のように伸び始める。
手の平の上で浮かぶそれを携え、ディアブロが足を開き、レナーテへ投擲をしようとした。
「ヴィート・シュタク!」
立ち上がって声を張り上げたのは、若き聖龍クハジークだ。血をぼたぼたと零しながら、怒りの形相で男を睨んでいた。だが足腰の損傷で重心が定まらないのか、立っているのがやっとだった。
「隊長!」
何かに気づいたミレナが、慌てて声を上げて掛け出そうとした。
彼女が見つけたのは、緑色の線が入ったEA『レクター』だった。すでに胴の前面部が開き、中のソニャ・シンドレルが身を乗り出している。
両手で構える弓は、彼女の技能で練り上げられた物だ。
そこに番えた矢の胴体は同じく魔力で作られており、その先につけられた鏃は、コンラートの頭部から折れた龍の角であった。
「う゛ぃーと・しゅたあああああくううう!!!」
恨みの声を上げながら、龍角の魔矢を射る。
今のソニャに大した魔力は残っていない。今の攻撃を放つのですら、目眩を抑えるために唇を噛み切るほどだ。
しかし、ディアブロに魔力障壁はなく、避ける以外に物理攻撃を防ぐ手段はない。
それを知る副隊長ミレナは痛む体に鞭打って、無防備な彼の前へと身を投げ出した。
「させない!」
自分目がけて飛翔する龍の矢を、右の手刀でその鏃を弾き飛ばした。込められた力に彼女の腕が弾かれて装甲が砕け血だらけになる。
「影矢だ! 避けろ!」
渾身の力と思わせた龍の角の下を、魔力で作られた矢が走っていた。
剣聖とて、それに気づいていなかったわけではない。彼女は『読心』の能力がある。生身を晒したソニャの考えは読めていた。
「オラーフさん!」
「狙いは私!?」
驚いたのはエディッタ・オラーフだ。
ソニャは、自分の攻撃がヴィート・シュタクに攻撃は届かないことぐらい理解していた。
だから、彼が大事にしていそうなものを狙った。
エディッタは即座に魔力障壁を作り、魔力の矢を防ぐ。
彼女が起点となっていた束縛の魔法具がわずかに、ほんのわずかに弱った。
『ぬううううう!』
レナーテが渾身の力で腕を開く。体は相変わらず魔力の網で拘束されたままだ。
『次代の聖龍よ! 受けとれい』
次の瞬間、死した聖龍は、自らの胸に爪を突き立てた。自らの肉を引き裂いて胸の中に手を差し込む。
「さてと」
ヴィート・シュタクが、漆黒の魔槍を投擲する。それが突き刺さる寸前に、聖龍の胸から手の平に余るぐらいの石が零れて地面へと落ちた。
『クハジーク!! そして今度こそさらばだ、世界よ。儂はレナーテ! 世界の安寧に身を尽くした者、虐げられた子竜の見た栄光よ!』
「うるせえ、さっさと死ね」
漆黒の槍がレナーテの巨体に突き刺さる。
その場所が起点となって黒い渦が回転し始め、レナーテの巨躯も巻き込まれるように圧縮されていく。
低い唸りのような音を立てた魔槍の渦は、球体へと変化していく。
数秒の間に、二十ユルほどに巨大化したが次の瞬間、一瞬で指先ほどの大きさへと変わる。最後に小さな電撃を周囲に走られせて、完全に見えなくなった。
こうしてレナーテは完全に消え去った。たった一つの石を残して。
二千年の長きを生きた古龍レナーテも元は小さな子竜、つまり魔物であった。
獣と魔物の違い。それは体内に魔力が結晶化した『魔石』があるかどうかだ。
魔石は空気に触れると、魔素へと還っていく。用途はないものとされていた。
真竜国で倒され半分の大きさになった聖龍レナーテの死体は、研究のために帝都へと持ち帰られている。その体は未だゆっくりと魔素を立ち上らせていたほどだった。
原因は何か。答えは、その肉体に埋まっていた魔石だった。死体に埋まったまま空気に触れることもなく残っていた。
コンラート・クハジークは死霊術系の魔法により、レナーテの死体を素材として、擬似的に復活した。
つまり、魔力が凝縮された魔石もそのままに。
『レナーテ、お前は最初から囮になるつもりだったってことか』
手に持った魔石を、コンラートは口の中に入れる。
喉が大きく動いた。
彼ら聖龍が持つ能力の一つに、『捕食による魔力吸収』というものがある。
今のコンラート・クハジークは、すでに竜の特徴を持つ人型へと変わっていた。体は傷つき角と爪は折れ、鱗が剥がれて血は滴り落ちている。
だが時間が巻き戻されるかのように、コンラートの体が修復されていった。
さらに彼の体が大きく痙攣する。胸が大きく膨れあがり、鱗が盛り上がった。腕の筋肉や足も同様だ。
『こうじゃない』
白い鱗がまるで装甲のように薄く広く肥大化し、コンラートの四肢を覆っていく。
『EAに勝つには、EAのように』
独り言のように呟く青年の言葉に、エディッタは息を飲んだ。
新しい聖龍が今、本当の意味で生まれようとしている。
龍人クハジークの身長が二ユルほどまで変化した。白い鎧と龍の角を生やし、手の先に伸びた爪はすでに長剣のような輝きを放っている。
『これが、本当の聖龍の力、か』
開いた両手を見ながら、小さな声が歓喜に震える。
溢れ出る魔力が魔素へと還り、周囲が発光する粒子に包まれていた。
その様子を少し離れた場所から見つめる男が、兜の中で苦笑する。
「例えるなら、龍人型の鎧か。剥がしてEAに仕立てたら強くなりそうだが、気持ち悪いから却下だな」
と兜の中から苦い顔で笑う。
「ヴィル、魔剣は?」
「魔力切れだ。レナーテを消し去るのに派手に使ったからな。お前はミレナに魔法かけて下がってろ」
「でも……」
「こっちはアダルハイトの刻印に使ったボウレⅡたちも魔力枯渇してるだろうしな。だが、いくらなんでも、向こうも打ち止めだろ?」
悪魔の鎧をまとう男が呆れたように肩を竦めた。
息も絶え絶えのミレナと戸惑うエディッタを置いて、彼はゆっくりと歩き出す。
途中で足元に落ちていた長剣を拾い上げ、調子を確かめるように軽く振るった。
『……ヴィート・シュタク。レナーテのおかげで帝都の罠は使えなくなったぞ』
すでに白燐の装甲に覆われて目元しか見えないコンラートが、黒いEAを睨みつけた。しかし男は気にした様子もなく、ゆっくりと進み続ける。
「そうだな。発動のために魔力を流した右軍の兵も、魔力が枯渇しているだろうしな」
『オレたち聖龍の勝ちだな』
「どうだろうな。それで? 強くなった気持ちはどうかね、聖龍君?」
まるで今日のディナーはどうだったかとでも聞くような、気さくな口調だった。
『手に入れたぜ、守る力だ』
「ほう?」
『アンタは、オレに強さが足りないと言ったな?』
「言ったかもな」
足を止めた黒い鎧の男が足を止めた。
二人の間の距離は十ユルしかない。彼らにとっては、一足にも満たない距離だ。
『世界の……安寧を守る力だ。レナーテに託された……な』
聖龍クハジークが虚空に向けて、右腕を振う。
彼の背後にあった城門が、まるで大きな刃に斬りつけられたように切断された。そのまま地響きを立てて、スライドし倒れていく。
「いやはや、凄い力だな。さすが聖龍様だ」
『オレはようやく……』
「コンラート」
『……何だ?』
「オレはな、お前みたいな生意気な小僧が存外、嫌いじゃなかったらしい」
『……あ?』
「真っ直ぐ思うままに行動して、考えもなく行き当たりばったりで、まるでガキそのものだったなぁ」
『何が言いたい?』
「テオドアだって不真面目にも程があったし、ミレナは逆に真面目過ぎて融通が効かねえ。こんな部下を揃えて、メナリーの新型機を強奪しろとか無茶にも程があるってな、シュテファンと頭を抱えたさ」
『だから、何が言いたい!? ヴィート・シュタク!』
今の自分は、最強にも近い存在へと変わったはずだ。先ほど城門を破壊した技能も、力の一端でしかない。
聖龍の称号を持ち、先代のレナーテの魔石を食らって魔力も補充した。硬い装甲に身を包み、溢れ出る魔力が周囲を光らせる。
まさに最強の存在へと変わったはずだ。
――恐れるなコンラート。相手は世界の安寧を脅かすもの。我ら魔素の敵である。
――力は充分だ。世界からまた魔素が失われたが、ここで悪魔を倒せば、帳尻は合う。
――レナーテの亡骸が残したもの、オレ自身が持っていたもの。
――相手がいくら『悪魔』であろうとも、負けるはずがない。剣聖は戦えず、聖女もまた攻撃手段はない。
脳内で並び続ける情報により、自身の優位を再確認し、コンラートは不敵な笑みとともに口を開いた。
『いくら隊長でも、聖龍に単独で勝てるわけが』
「シュテファンとテオドアは死に、ミレナは剣聖に、お前は聖龍だ。運命のお導きというやつか。いや、女神の導きというヤツかもな」
再びコンラートの言葉を、親しげな口調で遮る。
『何を狙ってやがる?』
訝しげに警戒しながら、白い龍鱗に包まれたコンラートが問い掛けた。
「思えば都合が良かったな。帝都にまで攻め込んできてくれたおかげで、手の内を魔王たちに晒すことがなかった。終わりが良ければ、全てこともなしだ」
男は鼻で笑い飛ばす。
「さあ、実験開始だ――――称号剥奪のな」
胸部装甲が開いて、悪魔の石が剥き出しになった。赤い線が不気味に明滅する。
オレには、七人の幼馴染みがいた。
みんなの兄貴分ドゥシャン、寡黙なイゴル、お姉さんぶってたアレンカ、いつも笑顔のブラニスラフ、オシャレが大好きなリボンのリベェナ、食いしん坊のオティーリエ。そして、オレの後ろをついてきたリリアナ。
二番目に年上だったイゴルは、大きな体の男であまり喋らない。
だけど一番後ろからゆっくり歩いて、ずっとみんなを見守ってくれていた。転んだ子供がいれば、その大きな手で引っ張り起してくれていた。
彼は冒険者だった父を尊敬しており、いつか冒険者になると体を鍛えていた。その大きな体で仲間を守る盾役になるのだと、夢を語ってくれたことがある。
そんな彼も、ヴレヴォが陥落したあの日に死んだ。北西三カ国連合の魔法士の炎からリベェナを守ろうとし、二人とも消し炭になった。
誰かを守ろうとした寡黙な少年は、何も守れなくて死んだ。
それでも咄嗟にリベェナを守ろうとした心は、間違いなく優しい戦士のそれだった。
「さあて、大佐のお呼び出し、やっと来たぁ」
「セラ、はしゃぎすぎるなよ。私だって、あのクソトカゲに一太刀浴びせたいのを我慢し続けたんだからな」」
「そんなの知ったことじゃないわよぉ」
「お前なぁ」
二つの女性の声が城の壁から聞こえる。
一人は黒い包帯を顔に巻いた、長い青髪を靡かせた露出過多な格好の魔道士。
一人は赤と黒に塗られたレクターと呼ばれるEAであり、中には茶色い髪を短く切りそろえた長身の女性がいる。
彼女たちが、庭園を囲む壁の上に立ったのを確認した男は、背中越しにエディッタを見る。
「ミレナの代わりは? いなければ」
「手は打ってあるわよ。病人に鞭を打った、とも言うけれど」
「……わかった」
崩れ城門の隙間から、一体のEAが入ってくる。大きな盾を持ったボウレⅡだった。それは無言のまま、胸を張って立った。
中にいる人間がわかっているヴィート・シュタクは、小さく頷いてみせた。
「では聖龍君。これで帝都の長い一日も終わりだ」
太陽は落ち、夕闇から闇へと変わった空の元、仮面の男が赤い石を光らせる鎧で歩く。
『称号……剥奪?』
「そうだよ。お前たちは死んでも違う人間が称号を持って帰ってくるからな。そこのソニャ・シンドレルしかり聖龍しかり。なら帝国の考える手段は一つ。そんなもの無くしてしまえば良い」
『そんなこと、できるわけが……しかもヒトの手で』
「バカが」
『……何がだ』
「今でこそ帝国には聖女剣聖賢者と揃っているが、最初は称号持ちなどいなかった。そんな我らが強大な力を持つ相手に、ただ手をこまねているはずがなかろう? なあ、ラウティオラ!」
「はーい。では行きますよー、愛しの大佐に愛を込めて、このラウティオラ、捕縛刻印の再起動を担当しまぁす」
黒い包帯を体に巻き付けた女が、分厚い壁の上で右手を天へと向けた。その動作だけで、帝都の環状通りに埋められた魔法刻印が再起動する。
「召喚の準備に入れ」
『は? 召喚?』
「触媒はもちろん、称号持ち自身だ」
何が起きてるかわからず、その並列思考の全てが混乱をきたし始めた。
――召喚とは、何かを違う場所から持ってくる魔法を言う。触媒を元に魔法によって魔力体、もしくは本人そのものを呼び出す力だ。
コンラートはわけもわからず、力を入れて逃げようと試みた。
だが、何かが縛り付けられたように足が動かない。見れば地面から伸びた糸状の魔力が、彼の身動きを封じ込めている。
「エーステレン」
「お任せください、大佐。聖黒竜よ!」
赤と黒のEAが手を上げると、空から鎧を身につけた黒い大型の竜が舞い降りてくる。
『邪竜の眷属……?』
空を見上げたコンラートの呟きに、エーステレンと呼ばれた女がニヤリと笑う。
「わかるか、聖龍よ。これはお前に倒された邪龍ニーズヘッグの配下。そしてお前に操られて食われた子の母竜だ」
聖黒竜が大きな雄叫びを上げると、彼女を中心に空中へ巨大な魔法陣が一瞬で張られて、立体化し始める。
『くそ、何が起こるかわからねえ! 魔力が使えねえ!』
足の動かないコンラートは聖黒竜を落とそうと、自らの右腕を膂力任せに高速で振り払った。眼前の空気が弾かれて不可視の弾丸となり飛んでいく。
「シャールカ」
そこにヴィート・シュタクが、一人の女性の名を呼ぶ。
城門側にいたボウレⅡが盾の先を地面へと突き刺し、
「聖盾」
と短く唱えた。
聖黒竜を守るように巨大な魔力障壁が張られ、龍の膂力で投擲された見えない空圧を弾き返した。
『くそっ! くそぉ!』
コンラートが周囲に立つシュタク特務小隊の面々に向けて、不可視の攻撃を飛ばし続けた。だがその全てを、シャールカが張った巨大な魔力障壁が防いでいく。
「エディッタ」
「わかってるわよ」
聖女が指と指を絡ませるように手を組んで、胸の前に持ってくる。その指を複雑に動かしながら、詠唱を始めた。
「全の縁、一の印、空に惹かれしは地の星より参られし、死すべき神の御前に」
黒いEAが、足の動かせない聖龍に向けて歩き出す。
『なんだこれは、何を起こそうというのだ、悪魔よ!』
「囀るなよ、魔素の塊ごときが」
『何をしようというのだ? 称号の剥奪!? そのようなこと、儂らでも私たちでも僕たちでもオレにもわからねえぞ!』
「逃げられないだろ? ラウティオラが使ってるのは魔道具『帝城アダルハイト』だ。アイツはバカみたいな魔力持ちだからな。たった一人であれを扱える」
『ずっと姿が見えんと思っていたら!』
「そりゃあ呼び戻すさ。大事な道具だからな」
『こんなところで死にはせんよ!』
「なあ、聖龍」
地面から伸びた魔力の糸が増え、完全に雁字搦めにされたクハジークが、憎々しげな顔で悪魔の石を睨む。
「今からやるのは、憂さ晴らしだ。ちょっと付き合え」
『な? ぶっ!?』
ヴィート・シュタクが拳でコンラートの顔を殴りつける。
「死ぬなよ? 面倒だからな」
『ぎっ!』
動けないままの彼に、右から左から力任せの拳が飛んできた。その度に装甲状に変わった白い鱗が飛び散った。
「オラァ!」
右の拳が、再生した竜の角を叩き折る。
すぐさま左の拳が右目を破壊した。
今度は下から振り上げられた拳が胴に突き刺さる。
『ぐがっ!? ぶっ! ぐッ!!』
「何が守るだぁ!? ふざけんなよ! ふざけてんじゃねえぞ! コンラートぉ!」
『ち、くそおお……ガゴッ』
黒い鎧は殴り続ける。
再び右から、足で地面を踏みしめて。
「守る対象すら定まらねえ! 何を守るかと聞けば、世界の安寧だ!? バカが! バカだろう、なぁ!?」
続いて左の拳が、鼻を叩き折る。
もはや悲鳴すら上げられない。
「オレたちは一人一人、名前を持って生きてるんだ! 世界とやらの一部じゃねえ! オレたちにとっちゃ手の届く範囲が全てだ! 魔素の繁栄!? 知ったことか!」
右の頬に黒い装甲が突き刺さり、肉が抉れて血が飛んでいく。
「昔なぁ! イゴルって名前の男がいた! 寡黙な大男で、冒険者になって誰かを守るために、毎日鍛えてたんだよ!」
それがある少年の幼馴染みの話だと気づく人間は、この場にはシャールカしかいない。
「でもなあ、攻めてきた敵の魔法士の火の魔法でなあ、炭になった。リベェナって子を守ろうとしてな!」
殴る。
『ごぼっ……それが……』
殴り続ける。
「アイツは優しいヤツで! 転んだオレたちを立たせてくれる優しいヤツで! リベェナを守ろうとして死んだヤツで!」
誰かの思い出を語りながら、少年だった者が殴り続ける。
『も、もう……たい、ちょ』
「お前たちのいう世界の安寧とかいう、誰でもねえヤツのために死んで良かったような男じゃねえんだよ! 生きてれば、きっと沢山の人間を助けたはずなんだよ!!」
最後に大きく拳を引いて、ヴィルは鎧の中からかつての部下に語りかける。
「だからな、コンラート――お前はそこで意思すらなく死んでいけ」
首を刈り取るような勢いで、最後の拳が突き刺さる。
目は潰れげ口はひしゃげ鼻は曲がり、角は折れ鱗も剥がれ肉も吹き飛ばされた。
身動きも思考もできずに、ただ立ち尽くす。
それを見下ろす男が短く、
「エディッタ、やれ」
と命令を下した。
「――メノア新式魔法刻印術召喚『死に腐れ、愛の結晶』」
聖女が、最後の詠唱を終えた。
最初に変化が訪れたのは、倒れていたソニャ・シンドレルの方だった。
彼女の体が大きく痙攣すると、そこから水のような魔力が、全身の穴から染み出していく。
本来の召喚とは、呼び出されるものと関連したものを触媒にして魔法を成功させる。
その手順を逆手に取った新式召喚魔法。
術式の対象者を強制的に触媒として、『称号』という概念を引きずり出す。
次にコンラートの体が大きく跳ねた。
「ぎぐううううがあああああああああああぁぁあぁぁ! たす、助け……あた……まがああああああああ」
それは称号持ちに根付いた魔力を無理矢理に引き剥がすようなものだ。
コンラートの方は脳内に走る痛みに目を覚まし、堪えきれないと頭を抱え始めた。
「嫌だね」
ゆっくりとコンラートの体から液体のような魔力が染み出てくる。それは空中で制止し、底面同士がずれた六面体を構成した。
苦しみ続ける聖龍の体から、白い装甲状の鱗が剥がれ落ちて行く。角も牙も爪も砕けて消えていった。
目を覚ましたソニャが、倒れたまま手を伸ばす。
「か、かえし……」
彼女には、それが今まで体の中にあった『称号』という概念だとわかっていたようだった。
「せ、聖龍が……」
未だに痛みに苦しみ続けるコンラートが、空中に浮かぶ二つの捻れた立方体を見上げた。
「――いらっしゃいませ聖龍様」
EA『テンペストⅡ・ディアブロ』がそれぞれの『称号概念』に向け両手を伸ばした。
二つの物質が、吸い寄せられるようにEAの前に集まる。
「そして、さようなら、称号たち」
ディアブロの胸にある悪魔の石にそれらは吸い込まれ、黒い装甲が閉じられて何も見えなくなった。
一度だけ赤い線が明滅し、最後に沈黙した。
こうして魔弓の射手と聖龍は、永久にこの世から失われたのだった。
EAから下りたヴィート・シュタクが少女の亡骸を見下ろす。
「ソニャ・シンドレルは?」
彼の問いに、白い顔を覗き込んでいたエディッタが首を横に振った。仮面の男はどこか忌々しげに、
「そうか……丁重に扱ってやれ」
と小さな声で命令をし、自分の部下であるルカ、ラウティオラ、エーステレンの元へと歩いていった。
一方、ミレナは倒れたコンラートの体を見下ろしている。
「コンラート」
すでに瀕死である。当たり前の話だ。
彼の体は聖龍の称号により変化させられ、皮膚は鱗へ代わり、目もトカゲのように変わっていた。それを維持していた称号が失われたのだ。
その上、顔面はヴィート・シュタクの殴打により潰されていたが、称号が剥がれたことにより、傷だらけではあるが彼本来の顔の面影が見えている。
体は端的に言えば、腹から下がすでに存在していない。
もう人体を取り戻せないところまで、変化してしまっていたのだ。
「み……れな」
仰向けに寝かされたコンラートが片目をうっすらと開けていた。それ以上開かないのだろう。
「何よ、コンラート」
「……あり……がとな」
「……どういたしまして」
それを最後に、彼の体が二度と動くことはなかった。
――もう、あの声は聞こえない。
死の間際、彼はホッと安堵のため息を吐いた。
ずっと彼の脳裏で聞こえてきた声だった。自分の意思の一つを増幅して叫び続けるような恐ろしい声だったが、すっかり聞こえなくなっていた。
『なんだ、来ちゃったの? コンラート』
その代わりに聞こえてきたのは、呆れた調子の若い男の声だ。
――悪ぃかよ。
『オレっちを殺されて、大佐に楯突いたんだって? バカだなぁ、コンラートってばぁ』
――うるせえよ……自分でも今考えれば、短絡的すぎたなって思うけどさ。
『ホント馬鹿だよねえ、コンラート。でもソニャを守ろうとしてくれて、ありがとね、コンラート』
――途中からは忘れてたよ。聖龍に飲み込まれてな……すまん。
『ソニャもこっちに来ちゃったけど、守ろうとしてくれたことは嬉しかったよ。ありがとね』
――アイツは?
『本でも読んでるんじゃないかなぁ』
――もう、終わりか。
『いつか、ミレナが数十年後にこっち来たらさぁ』
――来たら?
『今度は、何も含むことなく、ただの友達に戻れるよね』
――そうだな……また校舎裏で謝り倒してさ、アイツに補習の面倒でも見て貰おうぜ、テオドア……。
『そうだね、コンラート』
――じゃあ、またな。友達。
拘束時のコンラートの動きが分りづらかったので、少し訂正しました。




