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縫い目しか取り柄のない伯爵令嬢ですが、避難用の天幕を救ったら無口な染物師に求婚されました

作者: 冬野 しほ
掲載日:2026/08/21

「縁談より針がお好きなのね?」


 挨拶を失敗してから、まだ十秒も経っていなかった。


「はい。針は、こちらが黙っていても機嫌を損ねませんので」


 しまった。


 伯爵令嬢として正しい返答は、たぶんそれではない。奉仕婦人たちの口元が、揃って妙な形にゆがんだ。笑うべきか気遣うべきか、決めかねている顔だ。


 夜会の愛想笑いなら、とっくに糸が切れて床へ落ちている。布のほうは、まだ救えた。


 私は長机の端に置いた裁縫箱を開いた。


 教会へ寄付された外套は、右脇の縫い糸が三寸ほど切れていた。裂けてはいない。表布と裏地をずらして力を逃がし、古い針穴を拾えば、傷は増やさずに済む。


「ヴェロニカ。お返事が少し率直すぎたのではなくて?」


 母のアンリエットが、扇を閉じるより速い口調で言った。


「でも、嘘ではありません」


「嘘をつけとは言っていません。角を丸くなさいという話です。あなたは縁談の席でも、お相手の襟のほつれを見ていたでしょう。指にもまた傷が増えて。そんな手では——」


「お母様、布にも聞こえます」


「布は縁談を断りません!」


 とうとう奉仕婦人たちが吹き出した。


 私の会話は本日も見事に裂けたが、外套の脇は閉じた。こちらは上出来だ。


「表よりこっちを皆に見せたいね」


 世話役のマグダが、仕上がった外套を裏返して笑った。


「裏を見せて歩く外套は、少々寒いと思います」


「そういうところだよ、お嬢様」


 何がそうなのか尋ねる前に、教会の扉が開いた。


 巻いた防水布を肩に担いだ青年が入ってくる。濃い藍色の袖を肘までまくり、片腕で布を支えたまま、もう片方の手で扉を閉めた。荷を床へ落とさない。濡れた靴のまま寄付品へ近づかない。運び方に無駄がなかった。


「染物師さん、こちらへ。冬の避難用よ」


 マグダに呼ばれた彼は、防水布を指定された棚へ置いた。表の色を確かめるより先に、私の手元の外套を裏返して見る。


 令嬢の顔より縫い目を先に見る人は、初めてだった。


「そこ、二重ですか」


「力がかかる場所なので」


「糸は麻?」


「蝋引きです。濡れても緩みにくいですから」


 彼は一度だけうなずいた。


「ジュリアンです。染物工房を継いでいます」


「ヴェロニカです。外套を継いでいます」


 母が額を押さえた。


 ジュリアンさんは笑わなかった。ただ、もう一度だけ、縫い目を見た。


    *    *    *


「これは洗えば裂けます」


 翌週、私は寄付された敷布の端を両手で引いた。


 表から見れば、白糸で美しく閉じてある。けれど裏では裂け目の両側がそのまま突き合わされ、細い糸だけが全責任を負わされていた。夜会で私一人に会話を任せた時と同じだ。負担の配分に無理がある。


「まあ、こんなにきれいなのに?」


「きれいに破れ直します」


 奉仕婦人の一人が敷布を引き、ぷつ、と糸を一本切った。


「お嬢様の予言が早い」


「布は人より素直ですから」


「また縁談に刺さりそうなことを」


 私は聞かなかったことにして、二度目の裁縫箱を開いた。


 残り糸を指にかけ、敷布の布目と太さを比べる。補強布は同じ麻でも、少しだけ薄いものがいい。厚すぎれば境目へ力が集まり、そこから新しく裂ける。


 傷の両側へ橋を渡す幅で布を当て、角を丸く切った。まず裏から粗く留める。次に裂け目と平行ではなく、斜めへ針を運ぶ。引かれる力を一列に集めないためだ。


 ひと区画を縫い終え、両端をマグダに持ってもらった。


「遠慮なく引いてください」


「令嬢に言われる台詞とは思えないね」


「私も令嬢に言う台詞とは思っていません」


 二人で引いても、布は平らなままだった。


「乾かした後の縮みまで見ていますね」


 いつからいたのか、ジュリアンさんが私の斜め後ろに立っていた。驚いて針を落としかける。会話は落としても拾わないが、針は拾う。危ないので。


「補強布の縦糸を、敷布と同じ向きに揃えてある。水を吸った後、別々の方向へ縮まない。縫い幅も、麻糸が膨らむ分だけ空けています」


 褒められたのは私ではない。縫い目だ。


 では、どうして耳まで熱いのだろう。縫い目に聞いても返事はなかった。


「濡れたまま縫えば、だめですか」


 奉仕婦人が尋ねた。


「乾いた時に布が縮みます」


 ジュリアンさんが短く答え、補強した部分をもう一度引いた。


「糸だけ縮み方が違えば、縁から裂け直す。この縫い方なら持ちます」


 短い評価が、胸の奥へ妙に深く刺さった。針なら抜き方を知っているのに、これはわからない。


「残りも同じように直せますか」


「はい。一人なら今日中に十二枚」


「一人で?」


 彼の眉間に、細いしわが寄った。


「針は機嫌を損ねませんので」


「手は損ねます」


 会話なのに、正面から返事が来た。


 困る。非常に困る。嬉しいではない。たぶん。おそらく。裁定は保留にして、私は新しい糸を針へ通した。


    *    *    *


 それから数週間、私は教会へ通った。


 寄付された毛布の端をかがり、外套の留め具を付け直し、避難用の天幕四張りへ補強布を当てた。ジュリアンさんは染め上がった布の乾燥を終えると教会へ来て、織り方向を確かめ、私が選んだ糸へ遠慮なく異論を述べた。


「その糸は水を吸いすぎます」


「では、こちらは?」


「細い」


「二本取りなら?」


「針穴が大きくなる」


「蝋を薄く引きます」


「それなら」


 彼との会話には、私が苦手とする美しい余白がなかった。布、糸、針、用途。必要なことを言えば返事が来る。夜会なら三曲分かけても到着しない理解へ、私たちは十秒で着いた。


 奉仕婦人たちは、いつしか私を見ると敷布を裏返すようになった。


「お嬢様、裏を見てください」


「ここは持ちますか」


「これは洗ったら離婚しますか」


「その縫い合わせは婚姻関係ではありません」


「でも別れそうでしょう?」


「別れますね」


 作業中だけ、皆から遠慮が消えた。たいへん居心地がいい。社交界にも全員で針を持って参加すればよいのではないか。危険物の持ち込みで入口から断られそうだが。


 暴風が来たのは、冬支度が終わる三日前だった。


 昼を過ぎた頃から教会の窓が鳴り、夕刻には鐘楼の鐘まで風に引かれて勝手に鳴った。街道沿いで荷馬車が立ち往生し、避難者がこちらへ向かっていると知らせが来た直後、外から何かが裂ける音がした。


 布の悲鳴を、私は聞き違えない。


「天幕!」


 マグダが扉を開けた。風が雪混じりの雨を投げ込み、燭台の火が一斉に伏せる。


 教会裏へ駆けると、四張りのうち二張りが倒れ、残る二張りも風下側が大きく裂けていた。杭は抜けていない。濡れた幕だけが綱に引かれ、補強箇所の外側から裂けている。


 私は裾をたくし上げ、泥へ膝をついた。


「お嬢様、縫える?」


 奉仕婦人の声が風にちぎれた。


「今は無理です!」


 濡れた布は重い。針を通しても穴が広がる。しかも、この風の中で幕を起こしたまま直せば、縫ったそばから裂ける。


 避難者は街道から二十七人。教会内の空きは、詰めても十五人分。残り十二人を入れるには、少なくとも二張り。できれば四張りすべて必要だ。


 頭の中で数字が整列した。こういう時だけは、私の思考は夜会へ迷い込まない。


「綱を外します。先に風上、次に風下! 幕を地面へ下ろして、四隅を押さえてください!」


「この重さをどうするの!」


「持ち上げません。端から巻きます。水を外へ押しながら!」


 私が風上の綱を外し、マグダが柱を支えた。三人が幕の端を踏み、一人が泥を払う。濡れた布を腕力で抱えれば腰を傷める。半幅ずつ折り、丸太のように転がす。


 だが教会の中で広げれば、床も毛布も濡れる。暖炉の前へ置けば表だけが急に乾き、布目がゆがむ。


「工房へ運びます」


 背後からジュリアンさんの声がした。


 荷車を引いてきた彼は、泥へ降りるなり裂け目ではなく幕全体へ目を走らせた。


「乾燥架が空いている。幅は足ります」


「四張りです」


「二往復する。最初に傷の浅い二張りを」


「いいえ。深い二張りからです。浅いほうは、教会の回廊へ仮張りできます」


 彼が私を見る。


 異論が来る。私は待った。


「運搬中に裂け目が広がります」


「裂け目の両端を巻き込んでください。綱を芯にして三周。引きずらなければ持ちます」


「わかりました」


 それだけで彼は動いた。


 私たちは破れの大きい幕を長辺から巻き、裂け目が外へ露出しないよう内側へ折った。ジュリアンさんが中央を肩へ担ぎ、私と奉仕婦人二人が両端を持つ。持ち上げるのは一度。荷車まで七歩。声を揃え、泥に足を取られた人が出たら即座に下ろす。


「一、二、三!」


 布の重さが腕へ食い込んだ。七歩目で荷台へ滑らせ、綱を対角にかける。もう一張りも同じ手順で載せた。


「マグダ、こちらはお願いできますか」


「誰に物を言ってるんだい。十二人、全員使うよ!」


 彼女が鐘楼の綱を三度引いた。


 散っていた奉仕婦人たちが集まる。顔ぶれを数え、私は作業台の中央へ三度目の裁縫箱を置いた。


「必要なのは、乾燥に四人、補強布の裁断に二人、仮留めに二人、本縫いに四人です。最初の一か所だけ私が縫います。残りは皆さんにお願いします」


 口にしてから、自分で驚いた。


 お願いします。人へ渡す言葉だ。


「指示を!」


 十二人の声が重なった。


「四人はジュリアンさんと工房へ。布を乾燥架へ広げて、表面の水を布目に沿って押し出してください。火へ近づけすぎないで。二人は補強布を取りに倉庫へ。麻の厚手、腕二本分の幅。二人は回廊へ縄を張って、傷の浅い幕を干す。残る四人は針へ蝋引き糸を通して待機!」


 三度目には、誰も聞き返さなかった。


 十二人が別々の持ち場へ走った。


「もう裏側だけじゃない。働いた十二人ごと自慢したいよ!」


 マグダが私の肩を一度叩き、自分も回廊へ駆けた。


 私はジュリアンさんの荷車へ飛び乗った。


「お嬢様を荷台へ乗せてよかったんですか!」


 誰かが叫ぶ。


「今は針仕事の者です!」


「その身分、便利!」


 荷車が動いた。車輪が泥を跳ね上げ、教会の壁が後ろへ流れる。私は荷台で幕を押さえた。ジュリアンさんは前を向いたまま、片手だけを後ろへ伸ばし、私の腰帯をつかんだ。


「落ちません」


「確認できません」


「見ていないからでしょう!」


「だからつかんでいます」


 反論が強い。物理的にも強い。私は荷台から落ちなかったが、心臓の位置は少しおかしくなった。


 工房の乾燥場では、天井近くに太い横木が三列通り、滑車付きの架が吊られていた。染め布を広げて乾かすための設備だ。火床から距離を取り、風の通り道だけを使える。


「南側の架を下ろします」


 ジュリアンさんが滑車の綱を引く。私たちは巻いた幕を床でほどき、裂け目を支えながら架へ載せた。


「水を押します! こすらないで、手のひらで布目に沿って!」


 四人が二人ずつ交代し、中央から端へ水を送る。床へ落ちた水は、待機する二人が布で吸う。片面を終えたら架を半回転させ、裏面も同じように押した。


「火床を一段下げます」


「乾きませんよ?」


「急げば縮む」


 ジュリアンさんの一言で、薪を足そうとしていた手が止まる。


 裂け目の縦糸は伸び、横糸は詰まっていた。私は指の腹で触れ、湿り気を比べる。表だけ温かくても中が冷たいなら、針を入れてはいけない。


「次の幕を運んできます」


「私も」


「あなたは布目を見て」


「運ぶ人が足りません」


「マグダさんが増やします」


 言い終える前に扉が開いた。


「増やしたよ! 教会の男手を六人、荷車をもう一台!」


 マグダは暴風まで叱りつけそうな顔で入ってきた。


「お嬢様はそこ。染物師さんは荷車。ほら、分業ってのは口だけじゃないよ」


 私は反射的に「でも」と言いかけた。


 乾燥架の周りで、奉仕婦人たちが私を見ていた。指示を待っている。私が幕を運びに行けば、この場の判断が止まる。


「……お願いします」


「はいよ!」


 マグダとジュリアンさんが出ていく。


 私は残った二人に補強布を広げてもらった。裂け目より上下左右に一掌ずつ大きく取る。角は丸く。布目は幕と同じ方向。四張り分を一度に切るが、裂け方が違うので寸法は揃えない。


「こちらは長く。そちらは二枚へ分けてください」


「一枚ではだめ?」


「裂け目が曲がっています。一枚で覆うと、曲がり角に力が集まります」


「夜会の会話みたいに?」


「無理につなげると、どこかが破れます」


 婦人たちが笑った。


 笑いながら、手は止めない。ありがたい。私の会話の失敗が、とうとう作業指示として役に立った。人生は何を補強布にしてくるかわからない。


 二張り目が届く頃、一張り目の表面から冷たさが消えた。


 私は一番長い裂け目の前へ座った。裏へ補強布を当て、中心から外へ仮留めする。最初から端を固定すれば、余った布が最後に波打つ。


「針の間隔は指一本。糸を引き切らず、布が平らになったところで止めてください。きつく締めると——」


「令嬢の愛想笑いになる!」


 四人が合唱した。


「そこまで教えていません!」


「でも切れるんでしょう?」


「切れます!」


 最初の一か所を縫い終え、私は針を隣の婦人へ渡した。


 手が空いた。


 落ち着かない。自分の仕事を誰かへ預けると、胸の前が無防備になる。針を握っていなければ、私は何をすればいいのだろう。


「次を見てください」


 戻ってきたジュリアンさんが、二張り目を私の前へ広げた。


「あなたにしか決められない順序があります」


 私は裂け目へ触れた。


 そうだ。全部を縫うことだけが仕事ではない。どこから直せば十二人の手が無駄にならないか、それを決める人間が要る。


「こちらを先に。横糸が切れています。補強を二枚、十字に重ねます」


「乾燥は?」


「あと四半刻。北側の架へ移して、風だけ当ててください」


 ジュリアンさんが架を動かす。私は三張り目、四張り目の状態を確認した。乾いたものから仮留めへ渡し、本縫いの列を増やす。針の不足は交代制で補った。糸の残量を一張りごとに分け、途中で足りなくならないよう短い裂け目には細い糸を回す。


 やがて、一張り目の本縫いが終わった。


「持ちますか」


 婦人たちが息を詰める。


「まだです。張って確かめます」


 外は暗くなり、風は弱まるどころか工房の戸を叩き続けていた。私たちは完成した幕を乾いた布で包み、荷車へ載せた。


 教会裏で、柱を二本ずつ起こす。幕の四隅を仮留めし、風上側の綱から張る。一気に引かない。右を一尺、左を一尺。布のしわを中央から外へ逃がす。


「右、もう半尺!」


「こちらは?」


「待って! 先に奥を張ります!」


 柱が立ち、幕が風を受けた。


 裂け目の跡へ力が走る。私は補強部分に手を当てた。布が震え、その震えが掌から腕へ上がってくる。縫い糸は沈み込んだが、切れない。補強布の縁も浮いていない。


「持っています!」


 誰かが叫んだ。


「まだ二張り目!」


 喜ぶのは後だ。私は次の綱へ走った。


 二張り目。三張り目。四張り目。


 最後の幕を起こす時、右手の人差し指が滑った。濡れた綱が、針で裂けていた皮膚をこすった。


 熱い。


 手袋の内側へ血がにじむ。


 私は手袋を握り込み、反対の手で綱をつかんだ。


「右を張ってください。あと半尺」


「ヴェロニカさん」


「半尺です!」


 ジュリアンさんが私の手首をつかんだ。


「手を見せて」


「これが終わってから」


「私が張ります」


「張力を見なければ」


「口で言ってください」


 私は振りほどこうとした。彼の手は強かったが、痛む指へは触れなかった。


「私がやらないと」


「もう、あなたがやっています」


 背後からマグダが私の腰を抱え、綱から引きはがした。


「お嬢様は見る。あたしたちが引く。染物師さんが柱。ほら、残りは一尺かい、半尺かい?」


 奉仕婦人たちがそれぞれの綱を握っている。


 誰も私の針を奪っていない。仕事を受け取って、続きをしている。


「……右、半尺。左はそのまま。奥の綱を指二本分だけ緩めてください」


「右、半尺!」


「左、そのまま!」


「奥、指二本!」


 指示が合唱になり、四張り目のしわが消えた。


 風が幕を膨らませる。


 縫い目は持った。


 街道から到着した人々が、一張りずつ天幕へ入っていく。濡れた外套の子ども、足を痛めた老人、荷を抱えた夫婦。二十七人全員が、風の外へ収まった。


 奉仕婦人の一人が、補強箇所の裏側を避難者へ見せていた。


「ここ、お嬢様が考えたんですよ。私たちが縫ったんですけどね!」


「そこは両方言ってください!」


「だから両方言いました!」


 笑い声が幕の内側へ広がった。


 私は返事をしようとして、歯が鳴った。


 寒さだけではないらしい。立っている地面が、急に頼りなくなった。ジュリアンさんが肩を支え、私を教会の作業室へ連れていく。


「座ってください」


「片づけが」


「十二人います」


「糸の残りを」


「マグダさんが数えています」


「私は——」


「手を」


 低い声だった。


 私は手袋の留め具へ指をかけた。うまく外せない。ジュリアンさんが私の前に膝をつき、片方ずつ解いた。


 布が裂けた時なら、傷の長さも深さも見られる。自分の指だけは、どうしても見たくなかった。


 それでも私は、握り込まずに差し出した。


 人差し指の腹が割れ、親指の付け根も赤く擦れている。中指には針傷が重なっていた。


 ジュリアンさんの眉間が狭くなる。


「縁談に不利な手でしょう」


 母に言われた言葉を、なぜ今ここで使ってしまったのだろう。


 彼は返事をせず、ぬるい湯で汚れを落とした。清潔な布を細く裂き、指先へ薬を塗る。染め布を扱う人の手は大きく、節が硬い。その手が、私の傷へ触れる時だけ震えていた。


「痛みますか」


「少し」


「嘘ですね」


「角を丸くしました」


「丸くなっていません」


 包帯が一周、二周と巻かれる。


 作業室の外では、まだ人の足音が続いている。けれど誰も扉を開けなかった。


「あなたの仕事を尊敬しています」


 ジュリアンさんは私の手を支えたまま言った。


「布の裏を見て、裂ける前に力の行き先を見つける。今日も、四張りを自分で縫ったから救えたのではありません。十二人へ正しく仕事を渡したから間に合った」


 胸の奥へ、一本ずつ糸を通されているようだった。


「でも、今は縫えません」


「はい」


 否定してくれない。


 包帯に包まれた指は、針を持てない。糸も結べない。明日になっても、おそらく無理だ。


「縫えない私は、ここにいる理由がありません」


 声に出した途端、それはあまりにも小さく、みじめな形をしていた。二十二年かけて隠してきたものが、たった一文だった。


「夜会では話せません。人が笑った時に一緒に笑うのも遅れます。誰かの妻になっても、客を楽しませることも、気の利いた返事をすることもできない。縫える時だけです。私が役に立てるのは」


 ジュリアンさんが顔を上げた。


「私は、工房の働き手を探しているのではありません」


「では、何を」


「妻です」


 聞き間違えたのかと思った。


 だが彼は目をそらさなかった。私の手を握る指だけが、包帯より細かく震えている。


「工房には職人がいます。注文を管理する者も、染料を買い付ける者もいる。住居は二階です。南の部屋を空け、作業台を窓際へ置けるよう床も見てもらいました。あなたが来ると決まる前から、そうしたかった」


 いつから、と尋ねそうになった。


 彼は確認できないことを言わない人だ。だから私は、尋ねずに聞いた。


「なぜ、私ですか」


「失敗した挨拶の後、何も言えなくなって外套を縫っていたあなたを見ました。敷布を褒められて、耳を赤くしながら針へ糸を通し直したのも。自分の指が傷んでも、役に立てないと言われるほうを怖がるのも知っています」


 包帯の端を留め、彼は私の両手を掌へ載せた。


「補修の腕を尊敬しています。それとは別に、私はあなたを愛しています。縫い目が整っている日だけではありません。挨拶を失敗して黙り込む日も、何も縫えずに休む日も、あなたに隣にいてほしい」


 目の前がにじんだ。


 うつむくと、包帯の上へ雫が落ちた。一つで止まるつもりだったのに、次が落ち、その次は彼の指へ落ちた。


「何もできない日は、怖いです」


「怖いと言ってください」


「何度も言うかもしれません」


「何度でも聞きます」


「面倒では」


「確認が必要です」


 ジュリアンさんは、そこで一度息を止めた。


「ヴェロニカさん。爵位を離れる手続きも、教区への登録も、あなたの家の同意が要ることも調べました。工房と住居は私の名義で、借財はありません。あなたに無理をさせず暮らせるだけの蓄えもあります」


 求婚に生活基盤の説明が付いてくる。私には、どんな詩より効いた。


「それでも、今の立場を捨てさせることになります。私が望むだけでは決められない。あなたが選んでください」


 彼の手が震えている。


「私の妻になってくれますか」


 天幕はもう立っている。避難者は守られた。私の仕事は終わった。


 それなのにこの人は、仕事を終えた私を帰そうとしない。


 どうしよう。何も縫えない手なのに、人生でいちばん欲しかったものを受け取れてしまう。


「私も」


 喉が詰まり、最初の言葉がほどけた。


 ジュリアンさんは急かさなかった。


「私も、あなたと暮らしたいです。妻にしてください。縫える日も、縫えない日も」


「はい」


 彼の返事が崩れた。


 次の瞬間、肩を抱かれた。傷ついた手を挟まないよう、背と後頭部だけを支える、不器用で慎重な抱擁だった。


 私は彼の胸元へ額を押しつけた。声を隠そうとしても、息が何度も引っかかる。彼の服をつかめない代わりに、包帯の手を胸へ置いた。


 その下で、彼の鼓動が暴風より騒がしかった。


「ジュリアンさんも、怖いのですか」


「非常に」


「無口な人は、もっと落ち着いて求婚するものだと思っていました」


「確認できないことを言わなかっただけです」


「今は確認できましたか」


 腕が少しだけ強くなる。


「できました。もう離しません」


 無口な人の求婚は、最後だけたいへん物騒だった。


    *    *    *


 母は私たちの話を聞く間、三度口を開き、三度とも閉じた。


 四度目に尋ねたのは、私の指でも縁談でもなかった。


「工房と住居はあなたの所有ですね?」


「はい」


「借財は?」


「ありません」


「教区への婚姻登録には保証人が二名必要です。伯爵家から一名出します。娘の身分離脱の届出は、受理まで二十日ほどかかりますが」


「待ちます」


「そう。では、ヴェロニカ」


 母は早口を止めた。


「あなたが決めたのね?」


「はい」


「なら、書類を整えましょう」


 それだけだった。


 爵位上の進路を閉じる届出、伯爵家の同意、教区への登録。二十日と署名四つと受領印二つ。人生の大変更は、紙の上では驚くほど場所を取らなかった。


 代わりに場所を取ったのは、奉仕婦人たちである。


「結婚衣装を一人で縫ったら承知しませんよ!」


「十二人で分担です!」


「お嬢様は最初の一か所だけ!」


「それでは誰の衣装かわかりません」


「皆の友情が裏にびっしりですよ」


「重そうですね」


 工房の作業台を囲んだ十二人が、一斉に笑った。


 窓際には私の席がある。今日は糸の仕分けをする予定だった。ところが椅子へ座って三秒後、向かいにいた婚約者が私の右手を見た。


「赤いですね」


「どこがですか」


「人差し指」


「昨日、紙で少し切っただけです」


「今日は休んでください」


「糸を色別に分けるだけです」


「触らないで」


「この程度で仕事を止めていたら——」


 ジュリアンさんは糸籠を抱え、私の手が届かない棚の上へ置いた。


 高い。非常に高い。背伸びをしても無理だ。婚約者の身長を利用した職権濫用である。


「座っていてください」


「座って何をすれば?」


「隣にいてください」


 奉仕婦人たちから、十二人分の含み笑いが聞こえた。


 私は包帯の取れた指を膝へ置いた。何もしない手は、まだ少し落ち着かない。


 けれど、隣の席は空けられたままだ。


「では、見ています」


「はい」


「布ではなく、あなたを」


 ジュリアンさんの耳が赤くなった。


 これはなかなか楽しい。縫い目を褒められた時の仕返しとしては、上出来だろう。


 婚約者は私の指先を三秒見ただけで作業台から追い出す。無口な人の過保護は、たいへん手際がよかった。

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