春風にしのぶれど
4月の始まり頃に書き留めていた感情を思い起こしてみました。
『かへるやま ありとはきけど はるかすみ たちわかれなば こひしかるべし』
春暁、下宿のベランダから霧の立ち込める街を見ていた。都会に出てはや三年、それなりに愛着もわいてきた景色を眺めつつ、ふと口遊んだ古今和歌集の一首。
春は嫌いだ。春のぬくもりに紛れて別れを告げるそよ風が嫌いだ。
送り出せる別れもあれば、知らぬ間に過ぎていた別れもある。もちろんそれは仕方のないこと、全ての縁を手に取ったまま生きているなんてできやしないのは百も承知だし、時が進み続ける限り浮世に生きる限りどこかで別れは訪れる。
家族や友人、か細いつながりの友人や知人、出会いと別れを生まれた時から繰り返し、やがて大人になるにつれ何十何百果てに慣れていく。
私とて数えきれないほどの別れを繰り返してきた。小学校の頃仲良かった友人は遠方に引っ越していま何をしているのかさえ分からないし私も引っ越しをした。大好きだった先輩たちがいま何をしているのか私は知らないし、いつも遊んでいた同級生だって連絡を取ることはできても気軽に遊びには行けない。大学の先輩は全国各地に散らばって社会の荒波に呑まれて連絡を取ることさえ一苦労。私をかわいがってくれた親戚や祖父も、気がつけばひとり、またひとりとお天道様のもとへ旅立っていく。
こどものころ、小さな別れのたびに涙していた私も今では涙を頬の裏に隠せるよう成長した。
それでも……どれだけ別れを重ねても、悲しみはなくなってくれない。黒板をチョークでなぞったような嫌な音を立てて私の心にかすり傷を付けていく。
ふと気がつけば別れが訪れたことにさえ気づかなくなっている。傷だらけの私の心には、たくさんの人とのつながりで複雑怪奇に絡み合った真綿の糸が一本切れても分からなくなっているんだ。
何かを手繰り寄せようとすれば代わりに何かが切れていく。春の霞に隠した棘をチクリと刺して、別れを厭う私を神様は残酷にあざ笑っていた。
悲しむことさえ、ひとつひとつを大事にすることさえ許されぬままに時は流れ、また新しい出会いを春風は運んでくる。そんなこといちどだって望んでいやしないのに!
別れがあるくらいなら出会いなんていらない。悲しくなるくらいなら新たな喜びなんていらない。確かに分かれた先にまた道が交わることもあるのかもしれない。けれど、だとしてもそうだとしても、寂しいものは寂しいし悲しいものは悲しい。
だから私は春が嫌いだ。別れを運ぶ春が、出会いを否応なく押し付けてくる春が、穏やかな暖かさと肌寒い朝の霞でうやむやに隠してしまう春が嫌いだ。
けれどそれでもどうしても春を憎むことはできなかった。新しい縁を喜ぶ私も確かにいた。大小さまざまで果てしない寂寥の中に彩りをもたらす新たな出会いが、記憶の奥底に沈んでいく大好きな人とのかかわりの思い出と愛しさを思い起こさせてくれる別れが、悔しいほど。
別れがなければ朽ちていく。
朽ちた果てには何も残らない。白い靄につつまれたまま降り積もっていくだけ。
別れてこそ気がつける愛おしさもきっとある。断たれてこそ気付く大切さ、存在の大きさも間違いなくそこにあった。
当たり前は永遠ならねばこそ、そのありがたみを心に刻めた。
そうは思ってみるけれどなかなかうまく呑み込めない、諦めきれない22回目の春の朝のことだった。
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冒頭の和歌は万葉集に収録されている紀貞利さんの和歌です。
『かへる山 ありとは聞けど 春霞 立ち別れなば 恋しかるべし』
帰ってくるとは言え、別れが恋しいというニュアンスの和歌で、むかし別れの和歌を調べていた時に出会った作品です。当時はどちらかと言えば恋の別れに興味があった(たぶん)のでうろ覚えで、実際には本文中に書いたように諳んじていたわけではなく、「こんな感じの気持ちをうたった和歌があったな~」で唯一しっかり覚えていた春霞を頼りに調べて口遊み、記録していたようです。
和歌は歴史が深いだけにふと浮かんだおぼろげな感情を代弁するような一種がたいていどこかに眠っているので、掘り起こして重ね合わせてみるのが私のひそかな楽しみです。
ご覧いただきありがとうございます。
無理のない範囲でゆるゆると続けていけたらいいなと思っています。




