第8話 直したのは、水路だけではない
用水路の補修が正式に決まったのは、第7話の件から三日後だった。
優先順位、予算配分、人員配置。
すべてが紙の上で整理され、ようやく現場が動き出す。
「……思ったより早いですね」
視察用の外套を羽織りながら、私はそう呟いた。
「遅らせる理由がない」
隣を歩くアルトは、いつも通り簡潔だった。
「壊れていると分かっていて放置する方が、よほど高くつく」
その言葉に、私は小さく頷く。
王都では、
「今すぐ困らない問題」は、後回しにされてきた。
けれど、ここでは違う。
現場は、思っていた以上に荒れていた。
石組みの隙間から水が漏れ、土が削られている。
放置されれば、数年で決壊してもおかしくない状態だった。
「……これを、よく今まで」
言葉を失う私に、近くにいた職人の一人が鼻を鳴らす。
「だから言っただろ。上の連中は、現場なんて見ちゃいない」
年配の職人だった。
腕は確かだが、表情は硬い。
「貴族様の机上の計算で、直せるもんじゃない」
露骨な拒絶。
空気が、張り詰める。
私は一歩前に出た。
「……仰る通りです」
職人が、怪訝そうにこちらを見る。
「紙の上だけでは、直りません。だから――」
私は、魔力を指先に集めた。
淡い光が、水路に沿って走る。
水の流れ、圧力、歪み。
目に見えないものが、可視化されていく。
「……ここです」
崩壊寸前の箇所が、はっきりと浮かび上がった。
「この部分が耐えられなくなっています。完全修復は難しいですが、ここを補強すれば、全体は持ちます」
職人たちは、黙り込んだ。
やがて、先ほどの年配の男が、低く唸る。
「……確かに、勘と合う」
それだけ言うと、仲間に指示を飛ばした。
「よし、そこからだ」
現場が、動き出す。
作業は、一日では終わらなかった。
私は何度も現場に足を運び、魔法で状態を確認する。
必要なら、計画を微調整する。
「ここ、少し水圧が上がっています」
「分かった、石を変えよう」
会話は、自然と増えていった。
誰も、私を「令嬢」とは呼ばない。
呼ばれるのは、「分かる人」「見える人」。
それが、心地よかった。
三日後。
水路に、水が戻った。
「……流れが、違う」
農民の一人が、驚いたように声を上げる。
「前より、安定してる」
用水路沿いの畑では、土が均等に潤っていた。
水の偏りがなくなり、作物の葉が生き生きとしている。
「これなら……」
別の農民が、言葉を詰まらせた。
「今年は、まともに育つかもしれん」
その一言に、胸がきゅっと締めつけられる。
“育つかもしれない”。
それは、希望だった。
数日後、変化は数字にも現れた。
作物の生育が安定し、廃棄率が下がる。
小さな差だが、確実な改善。
「……本当に、効いたな」
オルヴァンが、感心したように言う。
「数字だけじゃない」
私は、窓の外を見る。
「人の表情が、違います」
領民たちは、私に気づくと、軽く頭を下げたり、挨拶をしたりするようになった。
「お嬢さん」
「いえ……」
一瞬、訂正しようとして、やめた。
「……はい」
その呼び方に、悪意はない。
むしろ、親しみがあった。
夕方、アルトと並んで用水路を見下ろす。
「よくやった」
彼は、短くそう言った。
「私一人ではありません」
「分かっている」
だからこそ、その言葉は重かった。
「だが、気づかなければ始まらなかった」
私は、少しだけ考えてから答える。
「……直したのは、水路だけではありません」
アルトが、視線を向ける。
「見て見ぬふりをする空気も、少しだけ」
彼は、静かに息を吐いた。
「それは、厄介だな」
けれど、その声には、嫌悪ではなく――
どこか、安堵が混じっていた。
夜、部屋に戻った私は、窓を開けた。
遠くで、領民たちの話し声が聞こえる。
笑い声も、混じっている。
「……届いた」
それは、初めての実感だった。
評価でも、数字でもない。
誰かの生活に、確かに触れたという感覚。
王都では、
私は「役に立たない」と言われた。
けれど、ここでは違う。
必要とされる力は、
必ず、誰かの暮らしに繋がっている。
私は、そっと目を閉じた。
――この場所で、私は生きている。
それだけで、今は十分だった。
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