外伝 第三話 『怖いままで』
決裁欄の空白が、やけに白く見えた。
ペンを持つ手が、止まる。
「……どう思う?」
隣の席の同僚が、小声で聞く。
「分からない」
正直に答える。
分からないから、怖い。
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担当になって、三か月。
判断していい、と言われた。
前任者は、もっと経験があった。
その前は、あの人がいた。
今は、いない。
正確には、いる。
だが、前に立たない。
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「相談してみるか?」
「……」
その言葉が、喉に引っかかる。
相談すれば、楽だ。
答えをもらえる。
だが――
「……いや」
首を振る。
「まず、自分で考える」
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書類の内容は、単純だ。
橋の補修予算を前倒しするかどうか。
急げば安全だが、他の事業が遅れる。
中央に決定者はいない。
だから、ここで決める。
遅い、と言われることもある。
迷う時間があるから。
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会議室。
数人で机を囲む。
「どう思う?」
視線が集まる。
胃がきしむ。
怖い。
間違えたらどうなる。
誰かが困る。
だが、誰も口を挟まない。
――怖いままで、決めてください。
あの言葉を思い出す。
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「前倒しは、半分に」
声が震えないようにする。
「危険度の高い箇所だけ先行します。他は予定通り」
沈黙。
反対は、出ない。
「……理由は?」
「全額だと、冬の備蓄予算が削られる。そこまでの緊急性はないと判断しました」
言い切る。
怖いまま。
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数日後、工事は始まった。
最小限だが、確実に。
問題は起きなかった。
だが、それが正解だった証明にはならない。
ただ、続いている。
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夕方、廊下であの人とすれ違う。
「……決めたそうですね」
穏やかな声。
「はい」
それ以上の言葉はない。
褒められない。
評価もされない。
だが、否定もされない。
それでいいのだと、少し分かる。
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夜、机に向かう。
次の案件が積まれている。
怖さは消えない。
だが、前よりも逃げたいとは思わない。
中央に立つ英雄はいない。
代わりに、判断が分散している。
だから、自分の番が回ってくる。
怖いままで、いい。
修正できるから。
ペンを取り、署名を書く。
白かった空白が、少しだけ埋まった。
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