外伝 第一話 『可』
評価欄に書かれた文字は、たった一文字だった。
――可。
優れているわけでもなく、劣っているわけでもない。
ただ、任せられるという意味。
その紙を前にして、彼はしばらく動かなかった。
王都にいた頃、評価とは階段だった。
上がるか、落ちるか。
価値を測るための刃物のようなもの。
だが今、地方監査局の粗末な机の上に置かれたその報告書は、刃ではなかった。
重みも、痛みもない。
ただ、事実だった。
可。
「……悪くはないな」
小さく呟く。
自分に言い聞かせるでもなく、誰かに聞かせるでもなく。
この一年、彼は地方都市を回っていた。
帳簿の不備を見つけ、税の計算を正し、道路補修の遅れを報告する。
華やかさはない。
決定権もない。
だが、責任はある。
最初の頃、彼は失敗した。
小さな村の補助金申請を、形式不備で差し戻した。
規則通りだった。
だが、その遅れで春の種まきが遅れた。
村長は怒らなかった。
ただ言った。
「……書き直せば済む話だが、季節は戻らない」
その言葉が、妙に刺さった。
王都では、規則は武器だった。
正しい者が振るえばいい。
だがここでは、規則は生活に触れている。
遅れは、そのまま畑に出る。
彼は、次から形式だけでなく事情も聞くようになった。
裁量の範囲内で修正できるものは修正した。
できないものは、理由を書き添えた。
派手な改善ではない。
誰も拍手しない。
だが、書類の端に書かれた小さな「了承済み」の印が増えていった。
可。
それは、完璧ではないという意味だ。
だが、不要でもないという意味でもある。
夕暮れ、監査局の窓から赤い光が差し込む。
彼は椅子にもたれ、天井を見上げた。
もし、あの日がなければ。
考えないわけではない。
王都に残っていれば、今も中央で働いていたかもしれない。
もっと上を目指していたかもしれない。
だが同時に思う。
あの場所で、自分は何をしていただろうか。
選ばれ続けるために、誰かの決定を奪っていたかもしれない。
自分が正しいと信じるために、声を押しつぶしていたかもしれない。
地方の帳簿をめくる今の方が、ずっと地味だ。
だが、判断の重さが自分の手にある。
それは、逃げではない。
扉を叩く音がした。
「監査官、こちらの書類を……」
若い職員が、不安げに立っている。
彼は手招きした。
「見せてくれ」
書類を受け取り、目を通す。
不備はある。
だが、修正可能だ。
「ここを直せば通る。理由も添えておけ」
「はい!」
職員の顔が少し明るくなる。
その表情を見て、彼は気づく。
誰かの判断が、誰かの不安を減らしている。
王都では気づかなかった種類の手応えだ。
夜、机を片付ける。
評価欄の紙を、引き出しにしまう。
誇らしげに飾ることはない。
だが、破り捨てもしない。
可。
それでいい。
優秀である必要はない。
英雄である必要もない。
自分の範囲で、責任を果たす。
窓の外に、地方都市の灯りが点る。
静かで、落ち着いた光。
彼は外套を羽織り、建物を出た。
選ばれなかった未来は、もう遠い。
だが否定もしない。
あれがあったから、今がある。
評価は、可。
そして明日もまた、帳簿をめくる。
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