第6話 隣を歩く距離
辺境伯との実務同行が決まったのは、その日の午後だった。
「明日、用水路の視察に行く。同行できるか?」
執務室でそう言われ、私は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……私が、ですか?」
「ああ。書類上の数字と、現場の差を見たい。君の魔法があれば助かる」
理由は明確で、余計な含みはない。
それでも、胸の奥が少しざわついた。
「分かりました。同行します」
そう答えると、辺境伯――アルトは軽く頷いた。
翌朝、空は澄み切っていた。
城門前で待っていると、アルトが簡素な外套姿で現れる。
鎧でも礼装でもない、現場用の装い。
「無理はしなくていい」
出発前に、そう一言だけ告げられる。
その言葉が、命令ではなく配慮だと分かるのが不思議だった。
用水路は、領の要となる設備だ。
石組みは古く、ところどころ補修の跡がある。
「記録では、五年前に大規模修繕が入っている」
アルトが言う。
「ですが……」
私は、魔力の流れに意識を向けた。
「実際は、応急的な補強だけです。基礎部分が、かなり弱っています」
淡い光が走り、石の内部構造が可視化される。
「……なるほど」
アルトは、覗き込むようにそれを見た。
「この状態で、よく持っていたな」
「持っていた、というより……見て見ぬふりをされていた、ですね」
私がそう言うと、彼は一瞬だけ口元を歪めた。
「王都式だな」
短い言葉に、皮肉が滲む。
作業は半日かかった。
私は現状を整理し、補修計画を簡潔にまとめる。
「全部は直せませんが、優先順位をつければ被害は抑えられます」
「十分だ」
アルトは即座に言った。
「君がいなければ、また先送りにしていた」
その言葉に、私は小さく首を振る。
「私一人では無理です。動く人がいなければ、意味はありませんから」
アルトは、少し驚いたように私を見た。
「……そう言うと思った」
そして、歩き出す。
帰路、並んで歩く距離は、自然と近くなっていた。
「王都では」
ふいに、彼が口を開く。
「君のような魔法は、評価されなかったと聞いた」
責める口調ではない。
確認に近い声音。
「はい。戦えない、派手じゃない、と」
「だが――」
彼は足を止め、私を見る。
「領地を守るのに必要なのは、剣だけじゃない」
その視線は、真っ直ぐだった。
「壊れかけたものに気づき、直そうとする力だ」
胸の奥が、静かに震える。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。
領館に戻った頃、夕日が空を染めていた。
「今日は、よくやってくれた」
別れ際、アルトはそう言って、ほんの少しだけ柔らかく微笑んだ。
その表情を見て、気づく。
私は、この人の前では――
無理に背伸びをしなくていい。
部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。
「……隣を歩く、か」
それは、まだ恋ではない。
けれど、確かに信頼だった。
王都では、
私は“隣に立つ価値があるか”を、常に測られていた。
けれど、ここでは違う。
同じ方向を見る者として、
同じ地面を踏みしめる者として。
その事実が、静かに胸に残った。
――この場所でなら。
私は、誰かの影ではなく、自分として歩ける。
そう確信しながら、私は明日の予定表に目を落とした。
再出発は、もう「仮の滞在」ではなかった。
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