第55話 あの日があったから
書庫の奥で、
一冊の古い記録帳を見つけた。
表紙は擦り切れ、
背表紙の文字も薄れている。
「……これ、は」
婚約に関する記録。
正式な契約書ではない。
覚書のようなものだ。
当時の私は、
これを見返すことすら、
できなかった。
椅子に腰を下ろし、
ページをめくる。
拙い文字。
理想ばかりを並べた条文。
誰かに選ばれる前提で、
未来を書いている。
「……若いですね」
思わず、苦笑がこぼれた。
間違っていたわけではない。
ただ、
未完成だった。
あの日、
婚約は破棄された。
私は、
価値を失ったと思った。
選ばれなかったから。
必要とされなかったから。
だが今なら、
分かる。
あれは、
終わりではなかった。
方向転換だったのだ。
ページを閉じ、
記録帳を棚に戻す。
燃やさない。
隠さない。
過去は、
ここにあっていい。
私を縛らない形で。
夕方。
アルトが、書庫に顔を出した。
「……何を見ていた」
「昔のものです」
それ以上は、
説明しない。
彼も、
聞かなかった。
城壁の上で、
並んで夕日を見る。
「……あの日がなければ」
私が、ぽつりと言う。
「今の私は、
ここにいなかったと思います」
アルトは、
少し考えてから答えた。
「……俺もだ」
理由は、言わない。
言わなくても、
分かる。
婚約破棄は、
祝福ではない。
苦しかった。
悔しかった。
だが、
無意味ではなかった。
あの痛みがあったから、
私は選び直した。
場所を。
生き方を。
並ぶ人を。
夜。
部屋に戻り、
灯りを落とす。
過去を否定しなくていい。
過去に戻らなくてもいい。
それで、
前を向ける。
「……あの日があったから」
心の中で、
そう呟く。
そして、
今がある。
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