第5話 辺境伯は、名前を呼ばなかった
辺境伯が戻ったのは、私が領館に来てから四日目の朝だった。
城壁の方が騒がしくなり、兵士たちの動きが慌ただしくなる。
窓から外を覗くと、埃を上げて一団が帰還するのが見えた。
「……お戻りに?」
そう呟いた直後、廊下を足早に進む足音が近づく。
「失礼します」
扉を叩いたのは、補佐官のユリウスだった。
「本日、辺境伯がお戻りになりました。昼前に、簡単な顔合わせの場を設けたいとのことです」
“呼び出し”ではなく、“顔合わせ”。
その言葉に、私は小さく息を整えた。
「分かりました」
指定された応接室は、質素ながらも整えられていた。
過度な装飾はなく、地図や資料が壁に掛けられている。
ほどなくして、扉が開いた。
「――失礼する」
低く、落ち着いた声。
入ってきたのは、想像していた“辺境伯”の姿とは少し違っていた。
豪奢な服でも、威圧的な態度でもない。
実務向きの上着に、風に晒されたような短髪。
年は、私より少し上だろうか。
「リュード辺境伯、アルト=リュードだ」
そう名乗ったあと、彼は一礼した。
――私に。
一瞬、反応が遅れる。
「……はじめまして。しばらくお世話になります」
私は慌てて礼を返した。
彼は席に着きながら、私をじっと観察する。
けれど、その視線に、値踏みや好奇心はなかった。
「聞いている。記録魔法で、領地の帳簿を整えてくれたそうだな」
「……はい。微力ですが」
「“微力”で済む仕事量ではない」
即答だった。
私は、言葉を失う。
「正直に言う。うちは慢性的に人手不足だ。特に、魔法と実務を両立できる者がいない」
彼は淡々と続けた。
「だから――感謝している」
その言葉は、軽くも、重くもなかった。
事実として、告げられただけ。
それが、こんなにも胸に響くとは思わなかった。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ震えた。
辺境伯は、それを指摘しない。
代わりに、話題を変える。
「王都での立場や事情について、詳しく聞くつもりはない」
その一言に、背中の緊張が抜けた。
「だが、ここにいる以上、君は“客”ではない。能力を持つ一員だ」
“元・婚約者”でも、“追放された令嬢”でもない。
一員。
「無理をする必要はない。だが、やれることがあるなら、遠慮せず使ってほしい」
彼は、そう言って立ち上がった。
「それと――」
扉に向かいかけて、振り返る。
「こちらでは、家名よりも役割を重んじる。だから――」
一瞬、言葉を選ぶように間を置き、
「名前で呼ばせてもらうが、構わないか?」
心臓が、強く跳ねた。
王都では、
家名、立場、称号。
それらが先に来て、私自身は後回しだった。
「……はい」
私は、はっきりと答えた。
「構いません」
辺境伯は、ほんの少しだけ目を細めた。
「なら、これからよろしく」
それだけ言って、部屋を出ていく。
残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
名前で呼ばれる。
役割を与えられる。
感謝される。
どれも、特別なことではないはずなのに――
胸の奥が、じんと温かい。
「……ここに来て、よかった」
それは、初めて自分から出た、迷いのない言葉だった。
まだ、恋ではない。
けれど確かに、この人は――
私を“壊れた駒”としては見ていない。
その事実が、何よりも大切だった。
私は窓の外を見た。
辺境の空は、今日も高く澄んでいる。
この場所で、
私はもう一度、自分の名を取り戻していく。
――静かに、確実に。
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