第49話 もう、振り返らない
朝、鏡の前に立ち、
ふと手が止まった。
「……」
映る自分の表情に、
一瞬、違和感を覚える。
穏やかだ。
張りつめたところがない。
以前の私は、
常にどこかで身構えていた。
評価されるか。
外されるか。
必要とされているか。
今は――
考えていない。
執務棟へ向かう廊下で、
古い書類箱を整理するよう頼まれた。
「……これは」
中にあったのは、
王都時代の資料。
改革初期の走り書き。
婚約破棄後、
眠れない夜にまとめた案。
紙の端が、
少しだけ擦り切れている。
「……必死でしたね」
思わず、苦笑が漏れた。
あの頃の私は、
証明したかった。
間違っていなかったと。
捨てられたわけではないと。
アルトが、箱を覗き込む。
「……残すか?」
「いいえ」
私は、首を振った。
「必要ありません」
燃やすわけでも、
誇らしげに保存するわけでもない。
ただ、
役目を終えた。
それだけだ。
昼、
若い文官が相談に来た。
「……判断が、怖いです」
正直な言葉。
私は、少し考えて答える。
「怖いままで、
決めてください」
彼は、驚いた顔をする。
「間違えたら?」
「修正すればいい」
それを、
当たり前のように言える自分に、
少しだけ驚く。
かつては、
間違えること自体が怖かった。
午後、
領内を一人で歩く。
誰にも声をかけられない。
それが、心地いい。
必要とされていないわけではない。
依存されていない。
それが、
私の望んだ距離だった。
夕方、
城の裏手で、
風に揺れる草を見た。
芽吹いたばかりの、
小さな葉。
踏まれても、
また伸びるだろう。
「……もう、振り返らない」
声に出して、確かめる。
過去は、
消えない。
だが、
足を引っ張るものでもない。
夜。
アルトと、
短い会話を交わす。
「……昔の書類を、処分した」
「そうか」
それだけ。
確認も、
詮索もない。
それでいい。
寝台に横になり、
目を閉じる。
婚約破棄の夜、
私は立ち止まった。
だが今、
私は歩いている。
早くも、
遅くもない。
自分の速度で。
もう、
振り返らない。
振り返る必要が、
ないからだ。
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