第3話 辺境の風は、冷たくて優しい
馬車が止まったのは、王都から三日ほど離れた場所だった。
「こちらが、リュード辺境伯領です」
御者の声に促され、私は外へ出る。
最初に感じたのは、風の匂いだった。石と土、そして微かに草の香りが混じった、王都では嗅いだことのない空気。
街――というより、要塞と集落が一体化したような場所だ。
城壁は質実剛健で装飾がなく、人々の服装も実用性を重視している。
視線を集めることは、なかった。
それだけで、胸の奥が少し緩む。
「……静かな場所ね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
迎えに来ていたのは、年若い騎士だった。
豪奢な礼装ではなく、動きやすそうな装備。
「ご到着、お疲れさまです。私は辺境伯代理の補佐官、ユリウスと申します」
形式的ではあるが、そこに含まれる感情は王都の貴族とは違っていた。
値踏みするような視線が、ない。
「長旅でお疲れでしょう。まずは領館へ」
そう言われ、私は素直に頷いた。
領館は、思ったよりも簡素だった。
だが手入れが行き届いており、生活の匂いがある。
「辺境伯は現在、領内視察に出ております。数日後には戻られる予定です」
「……分かりました」
“ご挨拶できず残念だ”
そういう社交辞令がないことが、妙に心地よかった。
案内された部屋は、必要なものだけが揃った客室だった。
豪華さはないが、清潔で、窓からは草原が見える。
荷を下ろし、ベッドに腰を下ろした瞬間――
力が抜けた。
「……本当に、来てしまったのね」
王都を出た実感が、ようやく胸に落ちる。
その日の夕方、簡単な顔合わせの場が設けられた。
集まったのは、領館で働く数名の文官と技術者。
私は、自然と背筋を伸ばしていた。
ここでもまた、「元・王太子婚約者」として見られるのではないか――そんな警戒が、抜けきらない。
「こちらが、しばらく滞在されるご令嬢です」
ユリウスの紹介に、数人が軽く会釈する。
それだけだった。
誰も、家名を尋ねない。
誰も、噂話を持ち出さない。
代わりに、白髪交じりの文官が口を開いた。
「……失礼。ひとつ、お聞きしても?」
胸が、きゅっと縮む。
「はい」
「こちらでは人手が足りておらず、書類整理や記録魔法が滞っておりまして。もし可能なら、ご協力いただけると助かるのですが」
一瞬、言葉を失った。
それは――
私の“地味で価値がない”と言われた魔法の分野だった。
「……私で、よろしければ」
そう答えると、文官はほっとしたように微笑んだ。
「助かります。では明日から、少しずつお願いできますか」
それだけ。
期待も、失望も、過剰な評価もない。
役割として、必要とされた。
部屋に戻ったあと、私は窓辺に立った。
草原を渡る風が、カーテンを揺らす。
「……ここでは、役に立ってもいいのね」
王都では、「意味がない」と切り捨てられた力。
それが、ここでは不足を補うものとして求められている。
胸の奥に、ほんの小さな温かさが灯る。
それはまだ、希望と呼ぶには弱すぎる光。
けれど確かに、消えていなかった。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、私はそう呟いた。
ここでなら、
“婚約者を失った令嬢”ではなく、
“一人の働き手”として、息ができる。
その事実だけで、今は十分だった。
夜の帳が下りる。
辺境の空は、王都よりも星が近い。
私はその光を見上げながら、静かに思った。
――この場所が、私の再出発の地になる。
まだ恋も、未来も、形は見えない。
それでも、歩き出す理由は、もう胸の中にあった。
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